BOOTHで販売している短編集「翌/風星群」に収録されています。
少女のような
隣の友達が海の方を見ながら笑った。
「青いね、水平線」
どうみてもグレーじゃん、とは言わないでおいた。
高校3年、受験期。第一志望は全く余裕ってわけでもないけど、第二志望はまあ通ったかな、という具合。夢も何もない惰性の航路を征く私と違って、
受験先は私と同じ私立文系だけど、この子にとってはもう一歩先、図書館の司書という夢の通過点として決めた大学だった。ぼんやりと思う。いつも少し言葉足らずな声は不思議なハスキーさがあって綺麗だから、読み聞かせなんてしたら美しく響くに違いない。紙束の詰まった部屋にも、誰かの心にも。だって、こんな海辺の通学路でさえ玲瓏に浮かび上がるのだから……なんて。
「……大丈夫? 返事できる?」
「気にしないでいい」
「そっか」
声を返すだけで精一杯だし、足にも結構キてるけど。でも、意地すら張れないような姿を見せるのは嫌だった。
思わずぶっきらぼうな返事をしてしまった私に、彼女はこれといって気分を害した様子はなかった。映が誰かの態度に腹を立てているところを、私は一度も見ていない。
「
こうやって、なんでも好意的に解釈するから。短い付き合いでもわかる、この子はそういうお人好しだ。肯定しても否定してもむず痒くなることを言われるだけだろうから、黙ってペースを上げた。
……実際のところの私は、ただ我武者羅になるのが嫌いなだけなんだけど。
そんな内心を知ってか知らずか、映は笑顔を一層光らせると一歩先んじた。いつの間にか折り返しだったらしい。意識しなくても走れていたあたり、コースはちゃんと覚えられたみたいだ。明日のマラソン大会でも、まあ、大丈夫だと思う。
受験生の気分転換にしては随分ヘビーな行事だけど、決まっているからにはやらないといけない。元陸上部らしい映に付き合ってもらって、コース確認と体力作りのためにこうして走っている。毎日やること一ヶ月、ようやく少しだけ成果が出てきたところだった。
「折り返しても死ななくなったね」
「うっさい」
「感謝してねー?」
「……うっさい」
涼し気な笑顔が後頭部にも見える気がした。彼女の背を追う私を急かすような細波の声。
随分な言われようだけど、始めたときは走り切ることすらままならなかったから反論できない。帰りにジュースは奢るけど、ちゃんとしたお礼は明日、全部終わってからにするつもりだった。ちょっと、ほんのちょっとだけど、癪だし。
「さ、帰ろ。学校まで」
「……うん」
走る。走って、走って、足音だけになっていく。動いているというより、足を回すほど景色の方が滑っていくような錯覚がしてくる。
冬の風が一息吹いた。
ふと、映と出会った日を思い出した。
生来あまり人付き合いが得意じゃなく、クラスメイトのことだってよく知らない。第一印象を抱いた瞬間を初対面とするなら、彼女に対するそれは先々月の末になる。
曇り空に冷える窓際の最後尾。頬杖を突いて、今度マラソン大会があるので体調を崩さないように、という先生からの注意をぼんやり聞き流していた。前日に体調を崩さないようにとは言うけど、当日無理に走って熱を出すのは構わないのかな。そう皮肉りたい衝動を飲み下して、誤魔化すように目を逸らした先に彼女の横顔があった。
顔立ちはずば抜けて美人というわけではないけど、よく見ると鼻が高くて色白で、ボブカットの黒髪は柔らかそうで、おっとりと細めた目は睫毛が長くて……綺麗なそれを、どれくらい見ていただろう。
名も知らない美術品を眺めるような気分でいたから、映と目が合ったときは心底驚いて、向こうは間抜けな顔の私を見てクスクス笑った。それが妙に無邪気な様子だから、恥ずかしくはあっても嫌な気持ちにはならなかった。
ホームルームが終わった瞬間、彼女は楽しげに声を掛けてきた。
「
「……第一声がそれ?」
「へ? じゃあ、えっと……髪めっちゃ長いね」
「ひょっとして喧嘩売ってたりするの?」
思い返せばすっとぼけたやり取りだった。映はどうも真面目そうな容姿と爽やかな振る舞いと間抜けな言動のマーブル模様になっているらしく、いちいち考えながら受け答えをするのは無駄なんだけど、このときの私には知る由もなかった。
なので。
「えー? うーん……あ、なんか憂鬱そう。どうしたの?」
「……マラソン大会が面倒なの。私、あんまり体力無いから」
「そうなんだ。……練習でもする? 一緒に」
「練習?」
「うん。一ヶ月あるしさ、ちょっとは効果ありそうでしょ」
「……考えとく」
「わかった、考えといて」
これが社交辞令でもなんでもなく大真面目だったなんて、翌朝に教室で待ち伏せされるまで気付かなかった。
「ポニテかっくいー」
翌放課後、ジャージ姿の私を見た第一声は謝罪どころか挨拶ですらなかった。
おっとりと柔らかい表情。色白な肌。前下がりのボブカットはゆるく巻かれていて、ほんのり外ハネ気味。あと、ちょっぴり意外なことに右耳だけピアスを付けているみたいだった。それもアウターコンク*1。校則のほとんどない女子校とはいえ、随分ロックな位置だと思う。
「そんなの付けてたっけ」
「隠れてたんじゃない? ほら、左はインダス*2」
「うぎゃ」
右耳だけじゃなかった。
昨日は髪で見えなかったところ、耳輪上部の内側をピンが貫いていた。その橋の真ん中から細い鎖が伸びて、外側の丸いピン止めに繋がっている。痛くないのかな、とげんなりする私を見て、昨日みたいにくすくす笑う。
「反町さん、意外と素直だよね」
「
「そう? そっかー」
私と同じはずのジャージ姿ですら爽やかに見えるんだから、なんともずるい。ずるいので、肩をべしべし叩いてやる。もっと笑いよる。おのれ。
「もー、私なんか笑わせてないで行こうよ」
「笑わせてるんじゃなくて怒ってんの私は」
「いいからいいから、ゴー!」
息も乱れっぱなしで彼女は走り出した。
「…………」
一瞬、このままこっそり帰っちゃっても良いような気がしたけど、まあ、ほとんど押し売りみたいなものとはいえ、一応、一応だけど助けてもらってるわけで。
「……」
「おっ、早くもデッドヒート」
「……別に、軽く付き合う、だけ……っ」
「軽く、ねー」
「……何?」
「ううん、なんでも。とりあえず、しばらくは外周だけにしよっか」
「…………わかっ、た……」
「あとさー」
「…………なー、に」
「名前で呼んでいいー?」
「…………好きに、して」
「おっけ、好きにするね」
寒空の下、それきり黙って走った。
少し意外だったのが、いざ走り始めたら彼女が一言も発さなかったことだ。頭空っぽでとりあえず湧いた言葉がそのまま漏れ出ている印象を持っていた私としては、外周を終えて瀕死になりながらもそれが気になった。
こちらがほぼ一方的に連れ出されただけとはいえ、彼女は気まずくなかっただろうか。私が横で息絶え絶えになっていたせいで我慢を強いたのだろうか。そこまで考えてそうには見えないけど、そもそも、上辺から見えるものなんてたかが知れているし。
そんな私の思想を裏切るように「そんな気にすることないよ」と声をかけられた。
「観宇ってさ、結構気にしい?」
「……いや、無神経な方だと思うけど」
「指摘もされない内から無神経な言い方しちゃったかもなぁ、みたいなことで悩む人は無神経じゃないよ」
「……」
それは、まあ、そうだろうけども。
早生は走った後とは思えない穏やかさでくすくす笑った。
「喋りたかったら気にせず喋ってるよ。だーいじょーぶ」
「……それならよかったけど。いや、それ以外もだけどさ。一ヶ月も付き合ってもらっていいの?」
「いいよいいよ。受験勉強の息抜きと思えば」
「……そう」
どこ受けるの、とは聞かなかった。私なら聞かれたくない。
早生も話を打ち切って「じゃあ、今日はおしまい。おつかれー」と言いながら、さっきまでと同じようなペースで教室まで走っていった。
「……結構、考えてるタイプなのかな」
私がわかりやすいだけなのかもしれないけど、少なくとも気を使えるタイプなのは確かだ。穏やかな振る舞いのまま側についていてくれたのは正直とてもありがたかった。頑張るのは得意じゃないし、ひとりだとモチベーションも保てない。余裕たっぷりなまま見守ってくれるのがちょうどいい。
そこまで見通していたとしたら、結構どころじゃなく考えてるタイプになるけど。なんか手のひらの上みたいで癪だ。
……そこまで考えて、少しだけ、疑問が湧いた。
興味と言ってもいい。
外周程度じゃ顔色ひとつ変えない。初めて話したクラスメイトと二人きりで走っても気まずそうにすらしない。笑顔もどこか半透明で、飄々とした食えない女の子。
彼女は、どんなときに表情を変えるのだろうか。
その瞬間を見たいな、なんて思った。
そう、そんなことを考えてたっけ。
「観宇、ペース大丈夫?」
「大、丈夫」
「ほんとー?」
この女は単に距離の詰め方が独特なだけだった。
この涼しい顔が崩れるところを拝むチャンスはないかと翌日からとりあえず絡みに行ってみたら、普通に喋り、普通に笑い、なんならちょっとうざいくらいにからかってきたりする。テンションはずっとニュートラルなのが余裕の現れのようで悔しい。
すっかり振り回されるうちに、いつの間にか彼女のことを名前で呼んでいた。
映はそんな余裕綽々の顔で併走しながらぴょんぴょんジャンプし、一歩先んじては踊るように振り返る。
「じゃあ、ちょっと寄り道していい? 近くに公園あるでしょ。あそこで飲み物買おう」
「……公園?」
そういえば、このまま海沿いに走っていったら芝生の公園があった気がする。マラソンのコースからは少し外れたところだし、普段そこに立ち寄ることもないから思い出すのに手間取った。
……実は、ちょっとバテている。でも置いて行かれたりするのも癪だし、ゴールまでこのまま行くよりはまだ公園の方が近かったと思うから、付いて行ってやろう。
私は表情を繕った。
「別に、いいよ」
「おっけー。じゃちょっとペース上げよっか」
……もうひとつ気付いたことがある。
隣を走っているときはいつもギリギリなんだけど、それは体力が多少は付いた今も、走り始めた頃も同じだ。彼女は完全に上から私を見下ろしている。
見下すのではない。
ただ見下ろしている。
それが悔しい。
ひょっとしたらそんなことはないのかもしれない。私がただ勝手に劣等感を抱いているだけで、私にない夢を持ち、私に見えない美しさを見て、爽やかな笑顔と耳元のお洒落を飄々と見せつける彼女に、そんな気持ちは無いのかもしれない。
でも、そう思ってしまうことが悔しい。
自分の方が下なのだと認めるようで。
彼女の表情が崩れるところを見たい。
喜びだろうと、驚きだろうと、苦しみだろうと。
なんでもいい。私の手で崩せたら、それは、どんなに――
「……あ」
映の声が聞こえて、俯き気味だった顔を上げた。
彼女はゆっくり立ち止まり空を見上げた。
「今、ぽつって……」
その先は聞こえなかった。
雨がぶちまけられた。
ざあざあ、どわどわと、海を空にしたような雨。これどうするの、このまま公園まで行くわけ、と叫ぶ声までかき消される。腹が立って適当に吠えながら周りを見回す。
あの子はどこだ。
さっきまですぐ近くにいたのに、なんでいないの。
なんで、手の届くところにいないの。
思わず噛んでいた唇を拭う。逆さまの海で息継ぎをするように、私は大きく吸い込んだ。
「――映! 待って!」
……声は返らない。
ただ、跳ねる音が聞こえた。
冬時雨の隙間でスパークする音色。
ひと波過ぎて少し和らいだノイズの奥に彼女は姿を表した。
雫。
ひかり。
ほほえみ。
踊り子。
柔らかそうな髪はすっかり潤んで、彼女がステップを踏むたび、ひらりと回るたび、弾けた水滴は雨にぶつかり輝く。
真冬の雨の中でジャージの上を脱いで羽衣のように振るう。時折、ぴしゃりと風を切るような音がして、彼女の足音と手を取り合いリズムになる。
振り返った彼女の顔が不思議なくらいはっきり見えた。鈴のように楽しげな目が私を捉えて、花ゆらな唇がするりと割れて、玲瓏と声がした。
「観宇、今日はおしまい」
「はぁ……!?」
「雨、気持ちいいよ。薄明光線も眩しいよっ。浴びなきゃもったいない!」
――映は、私といて初めて、満面の笑みを浮かべていた。
彼女の見る世界の美しさが垣間見えた気がした。人の形をした花園が舞っている光景は、幻想的で、グロテスクで、鮮やかで、儚くて。
私はそこに、泥塗れのスニーカーで飛び込んだ。
「……わかった、付き合ってあげる!」
彼女の差し出した手を掴む。絡めた指が燃えるように熱くて、私は笑った。
マラソン大会の当日。
当然といえば当然だけれど、私は風邪をひいて寝込んでいた。
あんな雨の中、薄着で踊り、踊り、踊り……最後には倒れ込んで二人で笑っていた。その晩は自慢の髪が泥でめちゃくちゃになって洗うのに苦労して、長いこと裸のまま格闘していたから、そのせいでもあるだろう。朝、ベッドから起き上がろうとして倒れた私は母に登校を止められた。先生への連絡を母に任せている間に、映には「風邪。ごめん」とだけ送った。結構能天気だし、先に謝って私の責任にしておけば彼女も気に病まないと思う。
二階の自室で、私は左腕で目を覆うようにして横たわっていた。
「……バカなことしたなぁ」
手伝ってくれたのに。
あの子だけなら、別に練習なんて必要なかったはずだ。それでも付き合ってくれたのは、単にあの子が良い子だからで。
それでも、あの雨に踊る笑顔が見られただけで、私には一片の後悔も無い。
心からそう思える自分は、本当にバカだ。
……あーあ。
初めて出来た友達失くしちゃったなぁ。
綺麗な思い出の対価としては良い方かもしれないけれど。
あぁー。
「……ほんと、バカなことしたなぁ」
呟くと同時に、玄関の方で物音がした。
母だろうか。ゴミ捨てでもしていたのか。
階段を上がってくる音は心なしか普段より小さい。聞き慣れたスリッパの音じゃなかった。
その主に思い至るより早く、玲瓏な声がした。
「……観宇、大丈夫?」
隙間から遠慮がちに覗くのは、柔らかそうなボブカットの黒髪。セットはされてなく、耳にはピアスが無いけれど、それだけで忘れられるものか。
優しい困り顔の少女、
彼女は普段の飄々とした態度はどこへやら、なんだか妙に幼い仕草でおろおろして、ドアの前で顔を出したり引っ込めたりしている。わかりやすく不安そうだった。
「……とりあえず、こっち来なよ。咳とか出そうになったら、私、枕に顔埋めるから」
長めに五秒数えた頃、申し訳なさそうな顔の彼女が入ってきた。制服姿ではあるものの鞄の中は見るからに空っぽ。まさかとは思うけど、お見舞いのために格好だけ整えてきたのだろうか。だとすると少し申し訳なくなる。
彼女は一瞬だけ私のベッドに目をやり、それから手近なクッションを見つけ、最後にわざわざそれを退けて床に正座した。
こんなにわかりやすい子だったかな。もっと食えない感じがしてたけど。
……いや。距離の詰め方が下手なだけだったのかな。
私は努めて優しい声で尋ねた。
「さっき送ったメッセ、見た?」
「え……? み、見たけど……」
「ごめん、って書いてあるでしょ。風邪ひいたのは私の管理不足。映のせいじゃない」
「そんなわけないっ」
映は身を乗り出した。
「私が、あんなときに踊ろうなんて言ったせいだよ。私がいつもみたいにバカなことするだけならよかった。でも、あのときの観宇は、目標があって頑張ってたのに……っ」
「……学校行事で恥かきたくない、なんて目標でもなんでもないよ」
本心だった。
私はただ、彼女の社交辞令のような本気の言葉に乗せられて、勝手に見下された気になって、勝手に対抗心を燃やして、そして勝手に不完全燃焼に陥っているだけの、ただの間抜けだ。
「私が頑張ったのは、ただ、映が綺麗だったからだ」
そう、それだけ。
グレーの水平線が青く見える彼女の世界に、少しでも相応しく在りたかった。
あるいは、彼女をグレーに濁したかった。
「映に並びたかっただけだ」
ふと、顔を覆っていた手を握られた。
彼女の爪は綺麗だった。短く丁寧に整えられて、小さなささくれがあって、少しだけ指先が固い。勉強することに慣れた、努力の染み込んだ手。
諦め癖のついた私とは違う手だ。
「ごめんね、映。私の意地に付き合わせて」
「……うぅん。いいの。いいよ。だって……私だって、そうだよ」
映は嗚咽を堪えながら、もう片方の手を自分のピアスホールに添えた。
「……私さ、人と話すの、あんまり得意じゃないんだ。それで、オシャレしたら会話のきっかけになるかなって、ピアス開けたり」
「度胸あるなぁ」
「いきなりインダスはやりすぎ、って引かれたけど……うん、友達はできたよ。でも、そんな無理しないで、ありのままの私が作れた友達はいなかった」
言われてみれば納得した。
あの教室での話題選びの雑さや、飄々としながらも距離の詰め方が急な感じは、人間関係への不慣れさから来ていたのだろう。
「一緒に走ってくれて嬉しかった。ひょっとしたら無理に付き合わせてるんじゃないかって怖かった。踊ったのは最後の確認のつもりだったんだ。雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいいって……そんな
「人の自由でしょ、そんなの」
「……うん。自由だ。観宇だけが認めてくれた自由で……観宇のそれを邪魔した自由」
彼女は掴んだままの私の手をピアスホールに触れさせて、ぽつり、ぽつりと零した。
「……ごめん。ごめんなさい。私は、あなたの努力を、邪魔しただけだった……!」
そんなことはない。違う。気にしなくていい。
いくつもの言葉が喉元までせり上がって、そして悍ましい壁にぶつかり沈んでいく。
――彼女は、どんなときに表情を変えるのだろうか。
――その瞬間を見たいな、なんて思った。
彼女の頬から伝う雨に、私の心は踊っていた。
美しい青の世界に泥を擦り付けた。
その事実によって。
少女のような
隣の友達が海の方を見ながら笑った。
「青いね、水平線」
そうだね、と小さく笑い返して、左耳のピアスと、右手の温度に指を絡めた。