きみはかっこいい   作:まなぶおじさん

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ホシノはかっこいい

「どこだろう、ここ」

 

セミの音が飛び交う爽やかな青空の下で、黄池悟(おいけさとる)は半泣きになりながら、はじめての大洗町南住宅地をあてもなくさまよっていた。

 

 見渡してみたが、人らしい人が見受けれない。今頃はみんな、土曜日だからと家族旅行にでも出かけているのだろうか。交番ももぬけの殻だったし。

 羨ましいな、と思う。

 もう帰れないのかな、と思う。

 少し歩いただけで、こうもあっさりと道に迷ってしまうだなんて考えてもみなかった。この小学校生活のなか、ずっと家で勉強ばかりしていたんだなと痛感せざるを得ない。

 歩き疲れて、その場にしゃがみこむ。力なくうつむいてみれば、蒸し暑いアスファルトだけが目に入った。

 

 なんで、勢いだけで家出なんかしちゃったんだろう。

 まだ十二歳なのに、ここで死んじゃうのかな。

 後悔ばかりが、脳裏で渦を巻き始めて、

 

「あれ」

 

 軽やかなベルの音が、先ず耳に届いた。

 次に、声が聞こえてきた。

 どこかで、聞き覚えのあるような。

 

「……黄池か?」

 

 おそるおそる、見上げてみせる。

 まず、黄色い自転車が目に入った。

 つぎに、顔と顔とが合った。

 タンクトップと短パンを着た女の子が――同じ6-Bクラスのホシノが、自転車にまたがったままで「やっぱりだ」と笑う。

 

「私だよ私、同じクラスのホシノ。あんま話したことないけど、顔ぐらいはわかるだろ?」

 

 黙って、頷く。

 ホシノはクラスの中でも一番の人気者だ。日陰者の自分ですらすぐに思い出せる程には。

 同じクラスメートからはもちろん、隣のクラスからも遊びに誘われることもしょっちゅう。足が速いのか、男女問わずに短距離走で勝負を仕掛けられることも多い。

 一方の自分は、机にかじりついて一人で勉強ばかりだ。自分で選んだ道とはいえど、そんなホシノのことを時おり羨ましく思っていた。

 ――ホシノが、よいせと自転車から降りてくる。

 

「えと、ホシノは何を?」

「サイクリング。晴れたらいつも走ってるんだ」

「……そう、なんだ」

 

 そうそうと、ホシノが二度ほど頷いたあとで、

 

「で、黄池は何してたの。こんなところで」

「え、と」

「散歩か?」

 

 それはさっきまで行っていた。

 ――今は、

 

「……笑わないで、ほしいんだけれど」

「ん? ああ」

 

 口元を緩ませたままのホシノが、二度三度ほど瞬きする。

 そして黄池は、息を吸い、もう一度吸って、藁にもすがる気持ちで、

 

「……道に、迷ってた」

「ほんとか」

 

 言った。

 みじめな事実を知ったホシノは、どこまでも真顔のままで、小さく首を縦に振る。

 

「っかー……そうか。大変だったんだな」

 

 頷く。

 本当に心配してくれているのだろう。ホシノの目は、どこか暗い。

 

「――でも、もう大丈夫だ」

 

 その時、ホシノはにこりと笑った。

 風が、ホシノの髪を揺らしていた。

 

「ここいらのことはよく知ってるから、案内ぐらいは出来る。よし、私らの学校まで送ってくよ」

 

 日光を背に、ホシノが親指を立ててみせた。

 ――わかった気がする。ホシノの周りに、人が集まってくる理由が。

 

「あ」

 

 安心、したからだろう。

 涙が、たくさん溢れでてくる。不安だけでは流れなかったそれが、目から次々とこぼれ落ちてきた。

 体が震え始める、情けない声が止まらない。

 

「あ、お、おいっ。ぐずるなよぉ」

 

 頷いた、何度も何度も。

 見知っていたはずの街なんて、少し歩けばまるで知らない国へと早変わりだ。馴染みのない家に囲まれ、見慣れない店と出くわすたびに、自分は道に迷ったのだと実感していった。

 そして当然、こう考えてしまったのだ。二度と家には戻れない、ここでのたれ死ぬ――

 だからこそ、ホシノと出会えて心の底から安堵した。ホシノと出会わなければ、たぶん一生このままだっただろうから。

 ――安心のあまり、涙がまだ止まらない。ホシノは「わわ」と焦り始めて、めそめそと泣く黄池めがけ歩み寄ってきて、

 

「だから、もう大丈夫だって! ここらはチャリで何度も走ってるからさ! だから信じてくれよ! なっ?」

 

 肩を軽く叩かれながら、うん、うん、と唸る。

 同じ十二歳であるはずなのに、ホシノの方が年上のように思う。実際にそうだとしても、自分はその事実を受け入れられるだろう。

 

 ――数分も経って、ようやく涙が止まってくれた。

 ホシノは、あくまで笑いながら「平気か?」と声をかけてくれる。黄池は、うん、と言った。

 

「――よし」

 

 そうしてホシノは、黄池の肩を軽く叩いて、

 

「じゃ、あんたの家まで送るよ。どこだ?」

 

 けれど。

 その言葉に対して、黄池は口ごもってしまう。ホシノは「んあ?」と首をかしげる。

 

「どした」

 

 まこと情けないことに、黄池はロクな言葉を口にできずにいる。

 本心本音を言葉にするのが恥ずかしいから、ホシノを面倒に巻き込みたくはないから。帰るのが嫌だったから。

 うつむき、歯を食いしばってばかりの自分の事を、ホシノはただただ様子見している。そうしてやがて、「んー」と顎に手を当てて、

 

「家出か?」

 

 変な声が出たと思う。

 

「――っか、そうかそうか」

 

 晴天の下で、ホシノはからからと笑った。

 見透かされた黄池は、そんなホシノのことを意味もなく見つめることしかできない。

 

「そっか、真面目なあんたがなあ。意外だなー」

 

 黄池の方こそ意外だと思った。教室の隅っこで勉強してばかりの自分の事を、ホシノはちゃんと見てくれていたのだから。

 

「あんたも、色々と大変なんだな」

「……まあね」

「そっか、そか」

 

 そして唐突に、ホシノは自転車のベルを軽やかに鳴らした。

 音に体がびくりと動いてしまったが、ホシノは構わずに、歯を見せてにこりとしながら、

 

「なあ、自転車、乗れるか?」

「え? うん、まあ」

「っし」

 

 良いことを聞いたとばかりに、ホシノの口元がにたりと曲がる。

 

「なあ。いっちょ気分転換してみないか?」

「え?」

 

 ホシノは、己が自転車のハンドルを軽く叩いて、

 

「一緒に、かっとばそうよ!」

 

 屈託のない笑顔とともに、その手を差し出される。

 僕は何も考えられないまま、けれども確かに、ホシノの手を掴み取っていた。

 

 □

 

 一旦ホシノの家へ出向けば、まだ新しめの物置から二台目の自転車が引っ張り出された。そうしてホシノは、まるで慣れた手つきで「ん」とサドルを指差し、黄池は「ええ」と躊躇ってみせるも、ホシノはニカッと笑いながら「いいからいいから、姉ちゃんのだし」と譲らない。

 たぶん、逃げても首根っこ掴まれるだろう。なんとなくそんな予感がする。

 なので、観念してサドルへ跨ることにした。心の中でホシノの姉に謝りつつ。

 ――そうして、ホシノの家から歩道まで自転車を引っ張っていく。

 ――ハンドルを握りしめて、深呼吸する。

 騒がしかったはずの空気が、急にして静かになる。セミの鳴き声が、左右からよく響いてくる。空はまだ青い、いまだに暑い。

 隣を見る。

 ホシノは自転車に乗っかっていて、今か今かとブレーキを引いたりしている。その顔はやっぱり明るい。

 そして、目が合った。

 何も言わないまま、ただただ笑いながら、人差し指を前へ向けた。

 なんだか、すごいことになってしまったな。

 

 ああ、なるようになれ。

 だから黄池は、自転車を走らせた。

 

 最初は本当に、ほんとうにゆっくりと自転車を走らせていたのだ。後ろからついてくるホシノに遠慮して、迷っているくせに迷わないように配慮して、誰もいない歩道を警戒して、

 

「右に曲がってくれ」

 

 ホシノから声をかけられ、それに従って、

 

「ここ、サイクリングロードな」

 

 どこまでも真っ直ぐに広がっている、一本のアスファルトを前にして、

 

「どだ」

 

 振り向いて、

 

「いい場所だろ?」

 

 ホシノの、どこまでもどこまでもうれしそうな顔。

 

「よし。走ってみろ! 黄池ッ!」

 

 ああ、それがいい。

 

 気付けば自分は、無我夢中にペダルをぶん回していた。 

 たぶん、ホシノの期待に応えたかったからだと思う。ホシノにいい格好を見せたかったのだと思う。

 だから黄池は、全力こいて自転車を走らせる。夏空の下でチェーン音がけたたましく鳴り響いて、思わずペダルの上で立ち上がってしまって、前から吹きすさぶ風が鼓膜を震わせて、ホシノと自分以外に誰もいないサイクリングロードがとてつもなく広くて遠くて、

 

「っほぉ――ッ! いいスピード出せんじゃん!」

 

 そのホシノの一声で、自分の中のなにかがぷっつり切れたと思う。

 

「そうか!?」

「ああ! なんだあんた、意外とやるじゃんこのー!」

「ホシノだって、いい速度、じゃないのッ!」

「スピードなら誰にも負けないつもりさ!」

「おっ」

 

 男の子とは、競争とか勝負といった二文字には例外なく反応してしまうものだ。

 もちろん黄池も、そうだった。

 

「じゃあ、やってみる? この大洗で、一番速いのは誰なのかを!」

「おっ、いいじゃーんッ! んじゃあ止まれ、いちにのさんで走るぞ!」

 

 ブレーキをかけ、足をアスファルトの上に着地させる。

 ホシノが、黄池の横に並ぶ。

 音が、消える。

 

「へっへー、まさかあんたがこんなにホネのある男だなんてな……」

「ホシノこそ。あれが本気ってわけじゃないんでしょ?」

「まーな。……遠慮する必要は?」

「ない」

 

 ホシノが、歯を見せ獰猛に笑う。

 

「上等ッ! んじゃあ行くぞぉ」

「わかった。……いち」

「に」

 

 真正面を見据える。

 

「――さんッ!」

 

 アスファルトを蹴り上げ、無秩序に自転車をかっ飛ばす。ホシノと、同じ顔になりながら。

 

 □

 

 負けた。

 けれど黄池は、上機嫌顔で疲れ果てていた。慣れない体力勝負をしてしまったせいで、すっかり息も絶え絶えだ。

 だからいまは、サイクリングロードにある草むらの上で仰向けに寝転がっている。ホシノの方も疲労困憊らしく、派手な大の字をお披露目していた。

 

「……どうだ」

「さいこー」

「だろ? いいだろ走るってのは」

「うん」

 

 理屈なんてどうでもよかった。走るという事は、とにもかくにも気持ちが良い。

 だから今は、この余韻に浸ろうと思った。

 言葉らしい言葉を交わさないままで、しばらくが過ぎていった。

 先ほどまで無機質に見えていたはずの青空も、今となってはかけがえのない風景と思う。この空の下で走れたことを、幸運に思う。

 ――風の音と、セミの声だけを耳にして、ずいぶんの時が経った。

 

「でさ」

「ん?」

 

 視線は、空に向けたまま。

 

「なんで、家出なんかしてたんだ?」

 

 どうして、とは思わなかった。

 元はと言えば、ぐずっていたところでホシノに助けてもらったのだ。ホシノの性格からして、自分のことをこのまま放っておくはずがない。

 

「――聞いてくれる?」

「もち」

 

 今なら、すべてを話せるだろう。

 とてもとても、気分が良いから。

 

 □

 

 いい? 子供の頃から勉強しておくとね、良い友達や良い将来と巡り会えるの。現に私がそう、医者にもなれたしお父さんとも巡り会えた。

 だからあなたも、そうなれるように頑張って欲しいの。いまは勉強ばかりで辛いかもしれないけれど、勉強する人は必ず報われるわ。

 だから、ね? いまは勉強に専念して。遊びたい時期だろうけれど、ここで努力すれば立派な大人に、良い人とも知り合えるから。大丈夫、私が保証するわ。

 塾通いも勉強も楽じゃないのはわかっているけれど、これもすべてはあなたの為なの。華やかな人生へ歩むための準備期間なのよ。

 お母さんもそうやって生きてきて、幸せを掴めたから。だからあなたもできる、だってあなたは私とお父さんの息子なんだから。

 

「――ひえー」

 

 ホシノの口から、力の抜けた声が漏れていく。

 家庭の事情を話し終えた黄池は、ホシノの反応に対して何も言えない。

 

「なるほどなあ、あんたが真面目なわけだよ」

 

 青空と雲が、外界を他人事のように見下している。

 羨ましいなと、漠然と思う。

 

「……イヤになった理由も、よくわかる」

 

 小さく、うなずく。

 母は息子のためを思って、あくまでも善意を口にしているに過ぎないのだろう。一見無茶と思える正論も、黄池家の長男(黄池悟)なら実現できると断言している。

 なぜなら母は、そんなふうに生きてこられたから。そんな母の血を、他でもない自分が受け継いでいるから。

 

「私だったら、もうまっさきに逃げ出してる。まったくすごいよなあんたは、何年耐えてきたんだ?」

「……六年」

「六年!? ってことは小学校に入学してずっとか。……そりゃあ、いくら真面目でも爆発しちゃうよな」

「……うん」

「っかー……で? それだけ勉強して、何になるつもりだったんだ?」

「両親のような、立派な医者」

 

 即答。

 

「……偉いな」

「ありがとう。夢に、将来に、迷いはないんだ。――ないんだけれど」

 

 父と母は、まちがいなく生真面目な医者だった。そうなるために、青春を投げ捨てることすらできた。

 ――その血を、継いでいるはずなのに、

 

「みんなと遊びたかった」

「うん」

「休みになったら、みんなとプールなり山なり公園なり行きたかった」

「だよな」

「――それなのに勉強勉強って、もう嫌だよ」

 

 父と母のような人間には、なれなかった。

 

「ほんとう、嫌だった」

 

 目を、閉じる。

 何も見えなくなる。

 このまま土の中に消えてもいい、そうとすら思う。

 

「――じゃあ、さ」

 

 ホシノの声。

 

「今日のサイクリングは、どうだった? スカっと、できたか?」

 

 ホシノの、不安そうな声。

 それに対して、黄池はすぐにでもホシノへ視線を向け、

 

 寝転がったままのホシノと、目が合った。

 息が、止まりそうになった。

 

 不意な状況に、言葉も出ない。焦りが生じる。

 けれどもホシノの問いに対しては、何としてでも応えないと。

 そう思いに思い、黄池は小さな咳を鳴らして、

 

「できた」

 

 ホシノの目と口が、丸くなった。

 

「最高だった。ここ数年で、いちばん楽しかった」

 

 本心を口にした瞬間、ホシノの顔が明るさでいっぱいになった。

 それを間近で目にした黄池は、今日まで生きていて良かったと心の底から思う。

 

「そうか」

 

 ホシノが、歯を見せてにこりとしたまま、

 

「そうかそうか! それはよかった!」

「うん。ほんとうにありがとう、楽しかった!」

 

 上半身を起き上がらせる。背中にこびりついた草を払いながら。

 

「うん。……今日は、何から何まで助けてもらったね。ホシノには頭が上がらないよ」

「やめなよそんな言い方するの。友達だろ?」

 

 予想外の言葉が飛んできて、黄池の何もかもが硬直する。

 黄池の心境などさておいて、ホシノはただただ無邪気に笑ったまま。

 

「え、なに? どしたの?」

「あ、いや、友達って……」

「ん? そうだろ?」

 

 黄池の疑問に対して、ホシノは当たり前のように肯定する。

 

「一緒に走ったんだ。あんたとはもうダチだ!」

 

 夏を彩る涼しい風が、草むらを、たんぽぽを、ホシノの髪を、音もなく揺らした。

 ホシノが口にしてくれた言葉に対して、黄池は何も考えたりはしない。ただただその響きに向かって、気恥ずかしそうに笑うだけだ。

 

 ――そうしてホシノと友達になって、クラスメート達との他愛のないエピソードを耳にしていって、いつしか沈黙が訪れる。楽しい時間とは、長続きしないものだ。

 空気の一区切りがついたところで、黄池は静かに咳を鳴らす。誰もいないサイクリングロードを右往左往して、もう一度だけホシノと目を合わせて、なんとか笑ってみせる。

 

「じゃあ、そろそろ帰るよ」

「ああ、そうか」

 

 そのときホシノが、空めがけ首を傾かせては「んー」と唸り、

 

「なあ」

「うん?」

「よかったら、家まで送ってくよ」

「え」

 

 良いことを思いついたとばかりに、にっこりと笑った。

 ――表情に気を取られ、数秒後、

 

「あ、いやいや、学校まで送ってくれたら大丈夫だから!」

「いいっていいって! 私からも説明するから!」

「そ、それは、ホシノも巻き込んじゃうよ」

 

 母は息子思いだ。それ故に怒りもするし、叱りもする。

 そして母は、正義感が強い医者だ。だから、黄池を遊びに誘ったホシノのことを放っておくはずがない。

 

「ホシノが怒られるかもしれない。だから途中まででいいから、」

「いーや、私も行く。こんな時間まで付き合わせたのは、私だから」

「いやいや僕が自主的に付き合っただけで」

「誘ったのは私だ! だから、けじめをつけなきゃだめなんだ!」

 

 それは、有無を言わさぬ物言いだった。

 それは、有無を言わさぬ無表情だった。

 ――納得せざるを得ない。どうしてホシノが、6-Bの中心なのか。

 だから黄池は、無言で頷くしかなかった。

 そんな黄池の肩を、ホシノが軽く叩いてくれた。

 

 □

 

 そうしてホシノは、ほんとうに黄池の家にまで同行してくれた。

 改めて「ここまでで良いから」と告げるが、ホシノは「いいからいいから」と苦笑い。教育ママの居城を前にしてしまえば、さしもののホシノも腰が引けるのだろう。

 見慣れた茶色のドアを前にして、心臓が嘘みたいに動き出す。緊張のせいか、暑さのせいか、気分まで悪くなってきた。

 背がそう変わらないホシノは、今やすっかり真顔だ。おそらくは自分と似たような気分に陥っているのだろうが、逃げ出そうという気はさらさら無いらしい。

 ――覚悟を決めよう。

 チャイムを押す。死刑宣告を告げるピンポン音が、夏空に反響する。

 家の向こう側から、物音がする。それだけで、体のすべてが強張った。

 

『――はい』

「え、と」

 

 ホシノを見て、

 

「悟だよ。帰ってきた、よ」

『……待っていなさい』

 

 改めて、ホシノへささやく。帰ってもいいんだよ。

 ホシノは、首を横に振った。

 鍵の開く音が、聞こえた。

 ドアが、ゆっくりと、ゆっくりと開いて、

 

「帰ってきたのね、さと、」

 

 無表情の母が、そこでぴくりと固まった。

 見知らぬ女の子と、目が合ったから。

 

「え、と……あなたは?」

「わ、私はホシノです、黄池の友達です!」

「え」

 

 本当なのか。そう問いかけるように、母が視線を投げかけてくる。

 対して黄池は、こくりと頷く。母は「そう」と小さく返して、眼鏡の鼻を軽く押した。

 

「はじめまして、黄池の母です。……悟とは、いつも遊んでくれているのですか?」

「え……まあ、はい」

「そうですか。――ごめんなさいね、いまは悟とお話があるから、また今度にしてくれないかしら」

 

 そして、母は黄池を強く睨んだ。表情ひとつも変えずに。

 

「勉強をさぼって、無断で家から飛び出して……どれだけの迷惑がかかるか、あなたなら分かるでしょう?」

「……はい」

「お父さんも警察の方々も、あなたを必死に探してくれています。ほんとう、心配したんだから」

 

 うなずく。

 それが本心からの言葉であるということは、息子である自分が一番よくわかっている。だって母は医者で、「家族思い」だから。

 

「勉強が辛いのはわかるけれど、これもあなたのためなの」

 

 うなずく。

 

「いまは大変かもしれないけれど、でも、壁を乗り越えた先には必ず幸せが待ってる。私が何よりの証拠よ」

 

 うなずく。

 

「勉強したおかげで医者にもなれたし、お父さんとも巡り会えたわ」

 

 うなずく。

 父が、母がここまで頑張ってくれたからこそ、自分は立派な一軒家に住めて、塾にも通えている。そして、そんな親のことを心から尊敬できている。

 だから、反論なんてできなかった。

 

「とりあえず、話の続きは家の中でするわ。……ごめんねホシノさん、また今度、ね?」

 

 母が、自分へ手を伸ばそうとして、

 

「――ちがうんです!」

 

 ホシノの、絶叫。

 そして、左手に熱い何かがこみあがった。

 

「きょ、今日……そう! 私が黄池のことを誘ったんです! 遊ぼう遊ぼうってむりやり誘ったんです! だから黄池はなんにも悪くないんです!」

 

 ホシノが、僕の手を握りしめていたんだ。

 

 ホシノは訴えかけていた。言葉で、形相で。

 それを浴びせられた母は、ただただうろたえるほかない。

 ――だって、

 

「わたし、ずっと黄池が気になってたんです! 勉強ができてすごいなあって、どんな人なのかなあって……だから、だからっ、遊ぼうって誘ってみたんです! それで秘密の計画を立てて、家から引っ張り出したんです!」

 

 だって黄池悟は、ひとりぼっちの男の子だったから。

 家にクラスメートなんて、来るはずがなかったから。

 

「だから……だから、そ、その、わたしが悪いんです! ほんとうなんです!」

 

 ――ちがう。

 

「お、おせっきょうとかは……ぜんぶ私がうけます!」

 

 ――ちがう。

 

「だから黄池のことは、怒らないでください!」

「ちがうッ!」

 

 ホシノの前に立つ。

 

「ぜんぶ僕が悪いんだ!」

「お、黄池!?」

 ホシノが僕を見て、

「勉強ばかりの毎日が嫌になって、それで家出をしたんだ! それでたまたまホシノと出会って……僕が、僕が! 遊ぼうって提案したんだ!」

「!? なに言ってるんだよ! わ、私が持ちかけたんだろ!?」

 気まずそうにホシノを見返して、

「いやそれは……とにかく! ホシノは巻き込まれただけ、ぜんぶ僕が悪い!」

「いやぜんぶ私が悪いんだよ! こんな時間まで遊びに付き合わせた私が!」

「それに乗った僕が悪い!」

 黄池とホシノが、歯をむき出しににらみ合う。

「私だ!」

「僕だ!」

 

 冷静に、思う。

 どうしてここまで、生まれて初めてムキになってしまっているのだろう。巻き込みたくないという配慮か、遊んでくれたことに対する義侠心か。

 

「僕が全部悪いんだよ! 家出をしたんだよ!?」

「したくもなるよ! だから私は、気分転換にレースへ誘ったんだし! だから私が悪いんだよ!」

「君は悪くない! 僕が悪い!」

「悪くない! 黄池は正しいことをしたんだ! 私はそう思うッ!」

 

 ――そうか、わかった。

 

「そうだとしても、君は何も悪くない! これは僕だけの問題だ!」

 

 こんなにもかっこいい友達を、傷つけたくなどなかったからだ。

 

「……友達、だろ。そんなこと、言うなよ……」

「……友達だから、君を巻き込みたくないんだ……」

 

 暑い中、さんざん叫びあったからだろう。黄池もホシノも、体で呼吸をするほど疲れ果てていた。

 ホシノは怒ったような目つきで、黄池のことを睨みつけている。黄池も、負けまいとばかりに見つめ返す。

 この討論だけは、今までのように流されてはいけない。自分の意思を貫いたままで、ホシノ(友達)の無罪を主張し続けなければならない。

 

「――あの」

 

 何!?

 黄池とホシノが声の主を睨みつけて、

 

「あ、え、えと……ちょっといい、かしら?」

 

 母が視界に映り込んで――とっさにごめんなさいを連呼する。ホシノの方も、「あ、いや、その、あの」と焦りまくっていた。

 

「怒らないから、この命に誓っても怒らないから。……悟、教えて欲しいことがあるの」

 

 命に誓っても――母と父が、時おり口にする宣言だ。今の今まで、このフレーズに背いたケースは無い。

 

「……今まで、とてもつらかったのね?」

 

 母が、そっと姿勢を屈ませる。

 目と目が、重なった。

 

「つらかった、のね?」

 

 ――うなずけない。

 

「お友達と、ホシノさんと、もっと遊びたい?」

 

 怖がらないで――母は、慣れない笑みをつくる。

 

「休みの日くらい、みんなとお出かけしたい?」

 

 ホシノを見る。

 ホシノと目が合う。

 ホシノが、にこりと笑ってくれた。

 

「……遊びたい」

 

 目頭が、どうしようもなく熱くなっていく。

 声を、喉から必死に引っ張り出す。

 

「勉強はする、絶対にするからッ。だから、友達とたくさん遊びたい! ホシノと自転車でレースがしたい!」

「友達と、自転車レース……うん、いいと思う」

 

 母が、ホシノへ微笑む。ホシノは、気恥ずかしそうに頷いた。

 

「悟」

「うん」

 

 母の目が、弱々しく閉じる。

 

「いままで、本当にごめんなさい。あなたは私と違って、今この瞬間を楽しめるような、そんな素敵な息子になっていたのね」

 

 母の両手が、黄池へ伸びて、

 

「……将来のことばっかり言って、本当にごめんなさい。お母さんがそうだったからあなたもできる、なんて押し付けてしまって、ほんとうにごめんなさい」

 

 そっと、手を引っ込める。息子に触れる資格などないと、自覚するように。

 

「ホシノさん、ありがとうございます。私の愚かさに、気づかせてくれて」

「そ、そんな、そんなこと、」

「そうだよ、そんなことない! お母さんは愚かじゃない!」

 

 黄池の口から、反論が勝手に飛び出す。

 母の両目が、音もなく見開かれる。

 

「その、結局は我慢できなかったけれど……お母さんはたくさん、僕に勉強を教えてくれたじゃないか! 立派な医者をしてて忙しいはずなのに!」

「悟」

「先生も、よく勉強ができるねって褒めてくれた、お母さんのような医者になれるって言ってくれた! すごくうれしかった!」

「あ、」

 

 ホシノの手を、強く握りしめる。

 

「僕は医者になる。お母さんのような、お父さんのような立派な医者になる! これだけは曲げない!」

 

 言えることは、すべて口に出来たのだと思う。伝えるべき事実は、ぜんぶ届いたのだと想う。

 だから母は、僕のことを抱きしめてくれた。その身を震わせて、泣きじゃくって、何度も何度もありがとうと呟いて――

 

 □

 

「……ごめんなさい、ホシノさん。こんなことに巻き込んでしまって」

「いえ。その、あの、ほんとうによかったです」

 

 それを聞けてほっとしたのか、母が眉をハの字に曲げながらで笑う。それを目にした黄池も、力なく安堵が漏れた。

 

「悟」

「うん」

「塾と勉強の時間、減らすからね」

「……いいの?」

 

 母は、「うん」とうなずく。

 

「あなたはもう十分に、賢くまじめに育ってくれた。だから少しくらい勉強時間を減らしても、大丈夫よ」

「……そう、かな」

「ええ。この命に誓ってもいい、あなたは必ず立派な医者になれるわ」

 

 母からそう言われて、苦笑が漏れる。

 

「私もそう思う。だってあんた、いつもテストで満点取ってるじゃん、すごいよなー」

 

 ホシノからそう告げられて、照れくさく頭を掻いてしまう。

 母は、じつに嬉しそうに微笑みながら、

 

「ホシノさん」

「は、はいっ」

「そうかしこまらないで。――これからも悟と、一緒に遊んでやってください」

「もちろんです!」

 

 即答だった。

 ――そうして母は、何かを見つけたのか、二度三度ほどまばたきを繰り返しながら、

 

「ふたりとも、とても仲がいいのね。お母さん、すごくうれしいわ」

 

 これまでに見せたことのない笑顔を浮かばせながら、母は黄池とホシノの「間」をじっと見つめている。

 なんだろうと、黄池とホシノが母の視線を追って――自分はずっと、ホシノの手を繋ぎ止めていた。

 思わずホシノの顔へ目線を飛ばす、ホシノも、そうしていた。

 ――それがなんだか嬉しくって、黄池とホシノは笑いあう。

 

 この人と友達になれて、本当によかった。

 

―――

 

 きりつ! れい! さようならー!

 

 放課後のホームルームも終わって、黄池は机の中にある教科書をランドセルへしまいこんでいく。ホシノ含め、机の中身をそのままにしておくクラスメートも多いが、黄池からすれば「しまっておけるものはしまう」をしておかないと、どうしても落ち着かない。一生こんな感じなんだろうなと、十二歳にしてなんとなく思うのだった。

 さて、

 ランドセルを背負い、さて帰ろうかなと席から立ち上がり、

 

「黄池ー」

 

 名前を呼ばれ、黄池は「んー?」と振り向く。背後にはにんまりと笑うホシノと、その友人であるナカジマがいた。

 

「一緒に帰らないか?」

「え、いいの?」

「もちもち、友達だろ?」

 

 ナカジマも、「そうそう」と二度頷く。その表情は実に明るい。

 だからか、黄池も素直に笑えた。

 

「いいよ、帰ろう」

「っし! ――で、このあと少し時間あるか?」

「うん、あるよ」

 

 宿題はあれど、塾はない。母が勉強時間を減らしてくれたおかげだ。

 黄池の返事を聞くや、ナカジマが上機嫌そうに微笑み、

 

「あのさ、一緒に車屋さんに行かない? 新車を見に行こうかなと」

「ナカジマさん、ほんとうに車が好きだねえ」

「あれ、知ってた? あとナカジマでいいよ」

「そう? ……ナカジマはさ、ホシノとよく車の話をしてるじゃない。それを聞いてたから」

 

 ナカジマが「そっかー」とうなずき、

 

「いやあ、一日に一回は車を見ないとさー、こう物足りなくて……いまのうちに、何に乗るのかも考えておかないと」

「本当に好きなんだねえ」

「なー、ナカジマの車好きはほんとすごいよ。熱く語ってくれるから、私も車が好きになったし」

「ああ――ホシノはバイクに乗りたいんだっけ?」

 

 ホシノの目が丸くなって、間もなく「そうそう」と大笑い。

 

「よく知ってるな」

「よく聞こえてるからね」

「そっかー、そかそか。……だからさ、私さ、高校生になったら学園艦限定のバイク免許を取得するつもり」

「さすが」

「で、プロのライダーにもなりたいなー、なんて」

「なれるなれる」

 

 黄池が、嬉しそうにうんうんとうなずく。

 バイクとホシノ、実にそれらしいと思う。もともと速く走ることが好きなのだから、ライダーを目指しても何ら不思議な話ではない。

 ――想像する。

 轟音を撒き散らしながら、風を切るバイクの様を。前に走るものを、ことごとく追い越していくホシノの姿を。フルフェイスメットごしから、不敵に笑いさえする彼女のことを。

 できてしまうんだろうな、と思う。

 かっこいいな、と思う。

 

「……へへ、そっかそっか。あんがと黄池、あんたに言われると自信がついてくるよ」

「ええー? なんで?」

「クラス一の秀才だろ?」

 

 気楽そうに、ホシノが笑う。そう言われて、気恥ずかしそうに苦笑する黄池。

 ――そしてナカジマが、口と目を線にしながら微笑んで、

 

「黄池くーん」

「うん?」

「車とかどう? 好き?」

「え、うーん? ……どうかな」

「そかーそかそか。うし、今日は色んな車を見ようじゃないか!」

 

 どうやら遠慮なく、自動車道へ引きずり込むつもりであるらしい。今日は帰るのが遅くなりそうだ。

 ――医者を目指す気でいるから、運転免許を得る予定はある。この際、見ておくのもアリだろう。

 

「わかった。見てみるよ」

「待ってました!」

「よし、それじゃあ行、」

 

 その瞬間だった。

 立て付けの悪い教室の引き戸がぎこちなく開かると同時に、坊主頭の男の子が勢いよく6-Bへと転がり込んできたのは。

 ――対してクラスメートは、それほど驚きなどしていない。黄池もナカジマもそうだ。

 

「なんだ。もしかして、挑戦者か?」

 

 そしてホシノの口元は、実にじつに嬉しそうに曲がり切っていた。

 ――坊主頭の挑戦者は、「おうよ」と返事して、

 

「今日こそ、お前に足で勝つ! この大洗小学校で一番速いのは、俺だ!」

「おーおー、いいじゃん、いいねえ」

 

 ホシノが、手と手を勢いよく叩く。

 クラスメートも盛り上がってきたのか、やんややんやが好き放題に飛び交い始める。

 

「……黄池、ナカジマ、悪い。先に帰ってもいいぞ」

「いやいや。友人として、見届けるよ」

「僕もそうする」

「そっか」

 

 ホシノが、屈託なく笑い返してくれた。

 

「待たせたな。んじゃ、やろうか」

「おーし」

 

 教室から出て、揃ってグラウンドへ向かう。こいつは見ものだと、複数のクラスメートも着いてくる。

 頂点を決める勝負が、いま始まろうとしていた。

 

 

 「位置について」の合図を送るために、ナカジマはいつものように白線が直線に敷かれたコース前へ立つ。ナカジマの隣についてきた黄池は、真剣な顔つきでホシノと坊主頭を観察していた。

 

「前は負けたけど、今日こそ勝つ!」

「おーいいねー、燃えるねー」

「俺が頂点になるんだ!」

「いいねー! こりゃうかうかしてられないわー」

 

 ホシノは、この大洗小学校で一番足が速い。その確固たる事実は、小学生にとっては何よりも価値があるものだ。

 小学生という人種は、とにかく足が速ければ速いほど教室じゅうで人気者になれる。学校全体から注目もされやすくなる。俊足という単純明快さは、それだけ多くの人を惹き寄せる力があるのだ。

 誰がこの「伝統」を定めたのかは不明であるが、大洗小学校とて例外ではない。だからか、こうしてホシノへ短距離走を挑む挑戦者が男女問わずに後を絶たないのだ。

 

 ホシノと坊主頭が、白線が直線に敷かれたコースの前で軽く体操をする。どちらも顔は気楽そうだが、決して互いをナメあったりはしていない。

 両者を見比べていた黄池は、ううんと唸って、

 

「ホシノって、すごく足が速いよね。運動会でもアンカー常連だし」

「うん。大洗小学校一速い女、と呼ばれるくらいにはね」

「あ、聞いたことある。……だよね、自転車レースでもすごかったし」

 

 ナカジマが、くすりと笑う。

 

「へえ、ホシノとチャリで勝負したんだ。……すごかったでしょ?」

「うん。あそこまで速いと、なんだかもう、なんだかもうって感じ」

 

 認めるしかないとばかりに、黄池が肩をすくめる。ランドセルも揺れた。

 ナカジマも同意するように、ひとつうなずいて、

 

「どちらかといえば自転車のほうが得意だって、本人は言ってたよ。スピードが出るほうがノリやすいんだって」

「……すごいね」

「ねー。――あ、そうそう。挑戦は随時募集中だから、君もホシノと走ってみるのはどう?」

「ムリムリ、どんくさいもん」

「えー? 頭がいいし、コツさえつかめばイケそうな気がするんだけどなー」

「そうかな?」

「そうさ」

 

 ナカジマと黄池が、他愛もなく笑う。

 そしてホシノと坊主頭が、スタート地点で姿勢を整える。

 ――グラウンドから、虫の音だけが残った。

 

「……では、位置について」

 

 ナカジマの一言で、ホシノと挑戦者の表情が消える。

 

「よーい」

 

 黄池が、深呼吸する。

 ギャラリーが、固唾を飲んで見守る。

 ナカジマの腕が、空へ掲げられる。

 

「――どんッ!」

 

 ナカジマの右腕が振り下ろされた瞬間、ホシノと坊主頭が音もなくコースを踏み込む。スタート地点にはもう誰もいない。

 目で追う――もうホシノが先を切っている、既に互角ですらない。挑戦者も必死に追いすがっているが、ホシノは無表情でゴールだけを捉えていた。

 黄池が、はやいとつぶやく。ギャラリーが、すげえすげえと湧く。ナカジマは、さすがだと笑ってしまう。

 この流れもいったい何度目になるのか。しかしそれでも、やっぱり見飽きない。何度も何度も、すごいなあと破顔してしまう。

 

 ――ちらりと、黄池へ視線を流してみる。

 ――黄池はぽかんと口を開けて、けれども目を輝かせながら、ただただホシノのことを見つめていた。

 

「あっ!」

 

 だから、ホシノの声に一瞬だけ気付けなかった。

 ナカジマは反射的に、ホシノへ視線を戻し、

 

 ホシノが、大きな音を立てて転倒した。

 

 そして続けざまに、コース上で二度三度ほど転がりまわる。そんな勢いがついてしまうほど、ホシノは速く走っていた。

 ホシノの後を追っていた坊主頭が、ホシノの前でゆっくりと、呆然と立ち止まる。ナカジマは、ギャラリーは、何も語れない。

 ――やがてホシノは、その身を、緩慢に、起き上がらせた。擦りむいた足を抑えながら、涙を流しながら。

 あ。どうしよう。

 ナカジマが、そう思考した瞬間、

 

 黄池が、ホシノめがけまっすぐに駆けつけていた。

 

「ホシノッ!」

 

 黄池の声に、ナカジマの目が覚める。半ば本能的に、ナカジマもホシノめがけ突っ走る。

 

「大丈夫か? ホシノ!」

「あ……っつ……ごめん、コケた……」

 黄池はその場で屈み、何のためらいもなくホシノの膝を見て、

「……うん、これは擦りむいてるね」

「そっか……」

「けどもう大丈夫。この命に誓って、君を助ける」

 間髪入れず黄池は坊主頭めがけ顔を上げ、

「君は保健室の先生を呼んで! いなかったら誰でもいいから先生を!」

「わ、わかった!」

 坊主頭が学校へ走っていく。ギャラリーたちも、ホシノを囲んでは「大丈夫?」「歩けるか?」「こらひでーなー」。

 ――そうして黄池は、自らの肩をホシノへ貸した。

 

「歩けそう?」

「う、うん」

「よし。じゃあ水飲み場まで行って、傷を洗おう。大丈夫、母さんと父さんに教えられたから」

 

 ――よし。

 ナカジマが、頭を左右に振るう。そうして己が両頬を思い切りはたき、ホシノのもう片方の肩を支える。

 

「ありがとう、ふたりとも」

「いいって。……よし、ゆっくり歩こう。だいじょうぶ、水飲み場なんてすぐそこだよ」

「うん」

「私と黄池が、すぐなんとかするからね」

「うん」

「ナカジマの言う通りだ。さあ、行こう」

 

 そのときの黄池の顔は、とても自信に溢れた笑みを浮かばせていた。

 それはきっと、ホシノを安心させるため、なんだと思う。

 ――ナカジマも、ホシノに対してにこりと微笑んだ。

 

「その、任せたぞ、黄池」

「うん」

 

 ギャラリーの一人が、心配そうに声をかけられる。対して黄池は、やはり顔つきがブレない。

 

「今日も速かったね、ホシノ」

「はは。まあ、ドジっちゃったけど」

「そういうこともあるよ。ま、今日は不戦勝ということで」

「い、いいのかなあ?」

「いいっていいって」

「いいっていいって」

 

 ハモった。ナカジマと黄池は、互いに見やり二人して笑ってしまった。

 ホシノも、鼻水をすすりながらもけらけらしている。後ろから着いてきているギャラリーも、「まあなあ」と同意した。

 ――そうしてナカジマが声をかけ続けていれば、あっという間に校門前の水飲み場へ到着していた。

 まずは水飲み場の前でホシノを腰掛けさせ、黄池が蛇口のハンドルを握りしめ、

 

「じゃあまずは、水で傷口を洗おう」

「う、うん、頼む」

 

 ハンドルを捻り、黄池が指先で冷水かどうかを触れて確認する。「よし」と小声でつぶやいたあと、ホシノの膝にできた擦り傷めがけ水を浴びせ始めた。

 染みるのだろう、ホシノが唸り声を上げる。けれどもホシノは、黄池の処置を拒んだりはしなかった。

 

「――よし、これぐらいでいいかな。じゃああとは、絆創膏を貼るだけ」

 

 そうして黄池は、背負っていたランドセルを下ろしてはカバーをひっくり返し、中から迷彩柄の箱を取り出す。「リアクティブパッド」と書かれたそれを、黄池は慣れた手付きで開封し、一枚の絆創膏を取り出して、ホシノの膝めがけゆっくりと着実に処置していった。

 ナカジマの口から、「すごー」という感想が漏れた。ギャラリーも「おおー」と感嘆している。

 

「すごいな、黄池。道具まで、持ってるなんて」

「……母さんと父さんが、持たせてくれたんだ」

 

 まだ目が赤いホシノが、「え?」とまばたきする。

 

「遊んでいる時に友達が、自分が怪我をしたら、これを使って治してあげなさいって、そう言って渡してくれたんだ。外に出る時は、念の為に水も持っていくつもりだけどね」

 

 まるでなんでもないことを語るように、黄池は微笑する。

 そんな黄池のことを、ホシノはじっと見つめていた。目をきらきらさせながら。

 

「……黄池」

「うん?」

 

 そうしてホシノは、目をそらして――黄池悟の目を、たしかに真っ直ぐに見据えて、笑いかけ、

 

「ありがとう。ほんとうに、助かった」

 

 そう言われた黄池は、ほんのちょっとだけ呆然としていた。

 けれどもすぐに、ホシノとおんなじくらいに笑って、

 

「どういたしまして」

 

 そんな二人を見て、ナカジマの口元がそっと緩みきる。このふたりはきっと、いい友達でいられるだろう。

 ギャラリーも、一段落がついたからか安堵しきっていた。

 ――そうして学校から、挑戦者と保健室の先生が大慌てで駆けつけてくる。腰かけたままのホシノが、苦笑い。

 

 私達はこれから先も、いい友達でいられる。そんな確信があった。

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