夏を跨いで冬が訪れようとも、黄池とホシノ、ナカジマのやることはまるで変わらない。
ナカジマはいつものように黄池宅の白色ソファを堪能し、ホシノと黄池はバイクのカタログをガラステーブルに広げてはあれ欲しいこれすげーと言いあっている。あと数分もすれば、三人でゲームなりレーシング系のDVDを見て盛り上がったりするはずだ。
ほんとう、いつもの光景だった。
「……そういえばさ」
黄池とホシノが、ナカジマの一声に反応する。
ナカジマは、天井で回っているシーリングファンをぼうっと眺めながら、
「学園艦まで、あともー少しなんだねえ」
いつもと違うことを、ぽつりと。
あと少し。その発言に対して、黄池とホシノは「だな」と返す。
もう、12月だった。
もう、小学六年生だった。
あと少し経てば、親元から離れて海の向こう側へと旅立つ予定だ。大洗学園艦という、次なる学校へと通うために。
住む場所も、家から寮へと移り変わる。もちろん、ホシノ達もそうだ。
――ため息。
「実感が沸かないな」
「だな」
「早いよね」
ナカジマの言い分に対し、黄池とホシノは「だな」と同意する。
大洗学園艦についてはといえば、「穏やかな校風、そしてメシが美味い」という評判がまず目につく。食べ物は生きる上での糧となるのだから、これは極めて重要な問題といえよう。
そして学校についてだが、学園艦では「ありきたり」の女子高、男子校の分校制度となっている。特に血の気が多そうな噂などは立っていないから、普通に通学できるはずだ。
――あとは、特に語ることは無い。何かの強豪校だとか、そういったステータスは特に持ち合わせてはいないのだった。
そのとき、母がにこやかに黄池へ近づいてきた。三人分のジュースをトレイに乗せながら。
「ああ、ありがとうございます、おばさん」
「いえ。いつも悟と遊んでくれて、こちらこそ感謝しています」
「そ、そんな。黄池君は勉強を教えてくれて、ボクも……いえ、わたしもほんとうに助かってます」
ナカジマが、珍しくあわあわしている。それを横目で眺めて、黄池の口元が緩く曲がった。
――ナカジマは、感情が高ぶると一人称が「ボク」になるのだ。たぶん、それが素なのだろうと黄池は思っている。
「そう、そうなの。偉いわねぇ悟」
「母さんが勉強を教えてくれたおかげだよ」
「……そう」
何を思ったのだろう。母はほんの少しだけうつむいて――また、いつものように笑いかけてくれた。
「逞しくなったわね、悟」
「そ、そんなことないよ」
「ううん、母さんにはわかるわ。……これなら、何の心配もなく学園艦へ送れるわね」
「そうかな」
親からそう言われて、黄池は照れくさく頭を掻いてしまう。感情のやり場に困って、オレンジジュースをちびちび飲み始める。
「おばさん」
「うん?」
「あっちに行っても、黄池とはずっと友達です! な?」
「うんうん」
ホシノが強く主張し、ナカジマが躊躇なく頷く。
それを見て心の底から安心したのだろう。母は、「そう」と感慨深そうに言葉を漏らして、
「……これからも息子のことを、よろしくお願いします」
「はい!」
ホシノとナカジマが、にっこりと笑う。それで十分だったのか、母は満足げな様子で「どうぞ」とジュースを二人へ差し出してくれた。
「それじゃあ、ゆっくりしてね」
母がリビングから立ち去っていく。その背中は、とても弾んでいた。
ホシノとナカジマが、そっとオレンジジュースを手に取る。ほぼ同時に、中身をすっと飲み干していく。
「……いい母さんだな」
「うん」
「学園艦へ行っても、一緒に遊ぼうな」
「うん。……でもどうなんだろうな、生徒会って忙しいのかな」
ホシノとナカジマが、真顔で「え」と声を漏らす。
黄池の口から、「え?」が出る。
「お、黄池は、生徒会に入るつもりなのか?」
「え、うん」
「自転車部に入らないのか!?」
「えっ」
「えー? 入ろうよー、楽しいよー」
初耳だった。ナカジマとホシノが、自転車部に入ろうとしているだなんて。
引き続き、ナカジマが「本当に生徒会に?」と聞いてきて、黄池はひとつ頷いて、
「生徒会は選抜式だから、なれるかどうかはわからないけれど……でも僕は、生徒会になりたいんだよね」
「どして?」
「人の安全を守れる権限が、かなり与えられるだろうから。あとはそう、組織というものを今のうちに体験しておきたいかなって」
それを聞いて、ナカジマとホシノが目と口を丸くしている。「へー」と感想を発していた。
「……黄池」
「うん?」
「なんというか、ほんとうしっかりしているんだな」
「いやいや、生徒会が一番向いていると思っただけだよ。部活にしても、運動センスは並だしね」
ナカジマが、苦笑いする。
「黄池クン、君まだ若いでしょ? いくらなんでも判断が早すぎるんじゃないかなあ」
「いやでも、将来は医者になりたいしさ。それに近いのが、生徒会だったって話なだけで」
ホシノが、「そっかー」と納得して、
「チャリで勝負したかったんだけどなぁ」
「まあまあ、休みの時とかでも出来るでしょ」
「まあそうだけどさ。……まあでも確かに、生徒会ではうまくやっていけそうな気がするよ、黄池なら」
「ありがとう。――それにしても、二人は最初から自転車部って決めてたんだね。なんだか、らしいというか」
ホシノが、「まあね」とからっと笑う。
――そのときナカジマが、姿勢を前のめりにしながら黄池へ視線を向けてきた。
「聞いてよ黄池。実はホシノね、自転車部と陸上部からスカウトを受けてたんだよ」
「えっほんとか?」
「あー言うなよー」
気恥ずかしいのか、ホシノがナカジマの足をべしべし叩き始める。その表情は明るい。
「ホシノは大洗小学校で一番速いからね、チャリでも足でも。そりゃあ部活からすれば見逃せない人材でしょ」
「うんうん」
「で、手紙が二通同時に届いたんだって。ぜひ陸上部に、自転車部はいかがですか? って」
悪い気分ではないのだろう、ホシノがソファへ背を預けた。ナカジマも上機嫌そうに、ホシノの身の上を語っている。
対して自分は、そんなホシノのことをかっこいいと思っていた。
「――ま」
ホシノが、頭の後ろに手を回しながら、
「体を動かすことは好きだし、こうして歓迎されたのは凄く嬉しい。んまあ、陸上部もいいっちゃいいんだけどさ」
「そこはほら、しょうがないよ。バイクが好きなんだからさ」
ホシノが、眉をへこませながらで苦笑する。バイクのカタログへ、手を添えながら。
「免許を取得できるのは高校からだから、それまでは自転車を楽しむつもり。高校に進級したら自動車部に入るよ」
「うん」
「私もせっかくだから、中学までは自転車道を走ってみるつもり。自転車は元々好きだしね」
いいんじゃないかなと、黄池の首が縦に動く。
自動車部とは、高校生から入部できる部活動の一つだ。主に車の整備やレースを行うのだが、驚くべきは「車ならなんでももってこい」というスタンスだ。
エンジンで走るものなら、車だろうがバイクだろうがトラックだろうがドラッグカーだろうがとにかく何でもバッチコイ、必ず直すと力説しきっている。
この姿勢は、女子自動車部も男子自動車部も全く変わらない。この技術者集団は常日頃からレースで競い合い、時には整備に関しての意見交換を行ったりと、性別を越えた関係を築き上げているとか。
以上、自動車部公式ページより。
「黄池」
「うん?」
「自転車部じゃないのはちょっと残念だけど、あんたは医者になるんだもんな。生徒会ってのは、いい選択だと思う」
「ありがとう。まあ、なれるかわからないけどね」
「なれるよ。だって成績トップだし、まじめだし、誰かを助けられるしな」
そうしてホシノが、己が右膝を軽く叩いた。
今はもう、跡もなにもない。
「……ありがとう。ホシノもナカジマも、楽しんでね」
「ああ」
「うん」
「ああでも、ホシノはちゃんとまじめに勉強するんだよ? 宿題の手伝いは大変なんだからね」
「うへー善処するー」
まったく反省していないようなホシノの笑顔を目にして、黄池もなんだか笑いがこぼれ出てしまう。ナカジマも「だめだよー」と苦笑いしてくれた。
このままの関係が、いつまでも続いて欲しい。心からそう思う。
―――
大洗学園中等部に入って、もう半年が過ぎた。
ホシノとナカジマとの交流経験が活きたのか、自然とクラスメートと会話できていたし、そうして友達にも恵まれた。時にはつるみあい、時にはテスト対策をせがまれ、そのお礼に何かをおごられるような、そんな仲をずっと保てている。
そして勉強の成果もあって、無事に生徒会員にも選ばれた。同僚からは「いつも助かる」と言われて、健全なやりがいを感じられている。
毎日が楽しい。大袈裟でもなんでもなく、普通にそう思う。
そういうふうになれたのも、ホシノと出会えたからだ。
ほんとう、ホシノには頭が上がらない。
6月の放課後――
掃除当番を済ませ、部活に走る友人を見送りながら、黄池は学生カバンを手にして校門まで歩んでいく。ふとグラウンドの方を見てみれば、陸上部が短距離で記録を測っていた。
口元が曲がる。ホシノより速いのかな、と思う。
――ホシノは結局、小学校を卒業するその日まで、大洗小学校一の速さを維持し続けた。クラスメートからは男女問わずに称賛され、ナカジマも「やったね」とホシノの肩を叩いたものだ。もちろん自分も、ホシノとハイタッチを交わしあった。
ここまで讃えられたのは、殿堂入りしたから、というのもあるだろう。
けれどクラスメートのみんながあそこまで大はしゃぎだったのは、きっと、ホシノのことが好きだったからだと思う。
自分も、そうだ。
視線をグラウンドから校門へ移して、さあ帰ろうかと気を取り直す。絶え間のない生徒同士の雑談を耳にしながら、外まであと数歩、
「おーいけ」
校門の陰から、その人がひらりと現れた。いつも以上の笑顔を浮かばせながら。
その表情を目の当たりにして、黄池は小声で唸ってしまう。何かあったのかなと少しだけ思考して――
「や、お疲れ様。今日は特に用事はない?」
「うん、ないかな」
校門をくぐり抜けてみれば、ナカジマも塀を背にして待っていた。ナカジマは気楽そうな笑みで、「よ」と手で挨拶をする。
「……でさ」
「うん?」
「そのさ、その、時間はとれるかな? 今日」
ホシノが、消極的な上目遣いで黄池のことを見つめてくる。
それに対して、黄池は冷静に鼻息をついてみせて、
「期末テストの対策ぐらい、自分でしなさい」
「黄池様――――――ッ!!!!」
ホシノの絶叫が、大海の上で反響した。むなしく。
もろに耳にしたせいか、鼓膜がずいぶんと痛い。下校途中の男子生徒達からは、何事だと注目された。ナカジマに関してはといえば、何とも言いがたい苦笑とともに両耳を手で塞いでいる。
そしてホシノは、すかさず黄池の両腕を掴み取ってきた。
「頼むよー! 赤点取ったら小遣い減らされるんだよーッ!」
「じゃあ勉強すればいいでしょ」
「黄池がいないと勉強に集中できないんだよーッ!」
「はあ? なんで」
そこでホシノは、気まずそうに、実に気まずそうに目を逸らして、
「……バイク整備の勉強を、しちゃうの。つい」
「整備」
「資格を取ろうと思って、うん」
「資格」
そして黄池が、「なんで」と質問する。ホシノは、気まずそうに頭をかいて、
「いやね、きっかけはナカジマのつぶやきだったんだよ。自動車の改造とかしてみたいから、整備の資格も取ったほうがいいかなって」
ナカジマの方へ目を向ける。どうやらその通りらしく、ナカジマがこくりと頷いている。
「で、私も考えてみたわけね。整備できたほうが、バイクのメンテもしやすいだろうなーって」
「うん」
「で、バイクの整備も出来たらさ、たくさんのライダーから整備を依頼されるかもしれないじゃん?」
「うん」
「そうして巡り会えて、誰かのバイクも直せて、それでいつかは競い合う仲にまでなれるかもしれない」
「うん」
そして、ホシノは、
「それって、すごく楽しいでしょ?」
照れくさそうに笑うホシノを前に、黄池は思う。心の底から思う。
他人の力になれることが楽しいと、そう言い切れるホシノは――とても、かっこよかった。
両肩で、息をする。
「……そうだね、たしかにそう思う」
「でしょ?」
「すごく、素敵だと思う」
「え……そ、そうかな?」
うなずく。
「応援するよ、ホシノのバイク道を」
「あ――」
ほんの少しだけの間、わずかながらの沈黙を置いて、
「ありがとう、黄池!」
ホシノは笑ってくれた。いつものように。
それで黄池は満足していた。ホシノと同じような顔ができていた。
だから、
「そうなれるように、勉強もしっかりね」
「付き合ってぇ―――――ッ!!!」
ホシノの大声が大洗学園艦じゅうに響き渡り、下校中だった男子生徒からなんだなんだと注目される。
腕なんてしっかりと掴まれていたし、ホシノの顔も困り果てていて、ナカジマからも苦笑い混じりで両手を合わされた。ちなみにナカジマは、普通に成績が良い。
――あんな志を聞かされたら、放っておくことなんてできないよな。
観念したようにため息をつかせ、「わかったわかった」とホシノを手で退かせる。
「今日は、いい話を聞かせてもらった。だから、今回は、手伝ってやる」
「ホントか!?」
「ああ。ただし今回だけだからな、次回からはちゃんと勉強もするんだぞ」
「わかったわかった! 黄池愛してる―――ッ!」
「わわっ、やめてやめて誤解されるっ!」
ここは男子たちが集う大洗学園前だ。それ故に、女子がいるだけでけっこう目立つ。
更には愛の告白まで受けて、その上ハグもされては、七十五日ほどは話題のタネになること間違いなしだ。
黄池とホシノは、それはもうしったかめっちゃだった。
ナカジマは頭の後ろに手を回しながら、実に実に楽しそうに笑っていた。
―――
中学二年生になって、もう7月。大洗学園艦は、今日も日光に照らされている。
変わらず生徒会員として活動したり、ホシノから期末テスト対策をせがまれたりしたが、今日も今日とて黄池一同は元気である。後は夏休みを待つばかり。
――そうして放課後がやってきて、レーシング誌目当てに三人で商店街を歩いている最中、
「お、いい自転車だな」
ホシノとナカジマが、自分たちを追い越していくマウンテンバイクを目で追っている。乗っているのは、スクールシャツを露わにした男子生徒だ。
すっかり蒸し暑くなったからか、制服を脱いでいる生徒は多い。かくいう自分達もそうだ。
「――そういえば」
そんな男子の後ろ姿を見て、黄池がなんとなく自転車部のことを思い起こす。
「どうだ、部活の方は」
「ん? ああ」
ホシノは、特になんでもなさそうに微笑しながら、
「うまくやってるよ、うまく」
「へえ」
「それどころか、エース候補だよホシノは」
「あ、おい」
ナカジマの横槍に対し、ホシノがくすぐったそうな顔をする。それを聞き逃すはずがない黄池は、ナカジマへ目を向けた。
ナカジマは、心得たとばかりににっこりと笑う。
「ホシノね、すっごく速いんだよ。何人かの先輩がたよりもね」
「お、すごいな」
ホシノが「やめろよー」とナカジマの背中をばしばし叩くが、ナカジマは力なく笑い続けている。
「もう間違いなくトップランカーだよ。大洗女子自転車部のスピードスターって、みんなから期待されてる」
「さすが」
「やめろ! そんなきらきらした目で私を見るなっ」
「なんで。普通にすごいことじゃないか」
「いやまあ……うん……まあ」
ホシノはきっと、日々部活に励んでいるのだろう。全身の日焼けが、何よりの証拠だ。
――思う。
やはりホシノという女の子は、どこへ行ってもかっこいい人になってしまうのだろう。
そして相変わらずの速さを維持し続けていることに、黄池はどこか安心感を覚えていた。
「ホシノ」
「あに」
「学園艦でも速いんだな。さすがだ」
「……どうも」
「まあ、怪我はしないようにね」
「……うん」
黄池の言葉に、ホシノは素直に頷いてくれた。
それに安心して、黄池の口元から笑みがこぼれる。改めてホシノと目が合って、いつものような笑顔を浮かばせてくれて、
「で、黄池の方こそ何かあったんだろ? 話せよ」
「えっ」
「私ばっかりあれやこれや話すなんてズルいじゃないか、話せ!」
「えー」
唸り声を上げながら、黄池は晴天へ目を逸らしはじめた。
ふう。
生徒会へ入って、もう一年半ほどが過ぎようとしている。ここまで来るのに、何だかんだで色々あったものだ。
思い起こす。先週の暑かった日に、確か――
「なにもないよ」
「はぁ?」
「面白い話なんて特に無いよ。ホシノと違ってハデさがない」
「うっそだー。面白エピソードの一つやふたつ、あるに決まってんだろ」
「ないない、マジメなことしかしてないよ」
「またまたー」
ホシノが肘で小突いてくる、それを黄池は受け流す。ナカジマは、楽しそうな顔をして事の成り行きを見守っていた。
――そうして話しているうちに、いつの間にやら本屋の前。
「お、着いた」
ナカジマが本屋の引き戸を開けてみれば、来客を知らせるチャイムが鳴り響く。個人経営店ならではの、広すぎず狭すぎない、ちょっと薄暗い雰囲気が黄池達を出迎えてくれた。本の匂いが、自分の鼻腔をくすぐりはじめる。
真正面に見えるカウンターで腰かけていた、中年の店主から「いらっしゃい」と挨拶される。こんにちはーと、ホシノが返礼した。
そしてそのまま、一同が新刊コーナーへ足を運ぼうとして、
「あっ」
本を五冊ほど手にした、エプロン姿の女の子の店員と目が合った。
ホシノとナカジマが、「ん?」とハモる。黄池はといえば、「ああ」と声が漏れた。
「君は確か」
「はいっ。先週、あなたに助けていただきました、サキュバ子です」
サキュバ子が、手に持っていた本を新刊コーナーに重ねる。
「ああ、そうだったね。……それで、今はもう大丈夫かい? 日射病は完治したかい?」
「はい、この通り」
「薄着は……心掛けているみたいだね。よかった」
「はい。……あの時はご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
サキュバ子が、頭を大いに下げた。
サキュバ子は大洗女子学園に所属している同い年の生徒会員で、とにかく生真面目な性格をしている。それこそ、猛暑であろうと制服を着込む程度には。
――黄池は、まあまあと声をかける。
「無事ならそれでいいんだ。そう気を遣わないで」
「ですが」
「いいんだ。気負いすぎはよくない」
「……わかりました」
そしてようやく、サキュバ子が顔を上げてくれた。まだ不安そうに、表情を曇らせながら。
――黄池は、なるだけ笑ってみせる。
「サキュバ子さん、ここでバイトしてたんだね」
「あ、はい。週に三度ほどですが」
「ああ。サキュバ子さんは清掃係だし、何かと忙しそうだもんね」
「そうでもないですよ」
「さすが。……よし。これも何かの縁だし、何か買っていくよ」
「本当ですか? ありがとうございますっ」
ようやく、サキュバ子が笑顔になってくれた。
それを目にすることができて、心の底からほっとする。
「ああ、時間をとらせてしまって申し訳ない。店の手伝い、がんばって」
「はいっ。ありがとうございます、黄池さん」
そうしてサキュバ子は、店の仕事に戻っていった。
どうやら何事もなかったようで、黄池は改めて安堵する。
「――黄池クン」
そのとき、ホシノの声が背筋を張った。
まずい――そう思った瞬間からもう遅い。振り向けば、ホシノとナカジマが喜色満面の笑みを浮かばせていた。
「なんでそんな凄いことをしたのに、私達に話してくれなかったんだよ」
「えっあっ……べつにいいでしょ、話すことじゃない」
「そうかなー? そんなことはないと思うよ」
ナカジマが、黄池の肩を軽く叩いた。
「君はやっぱり、今日もどこかで誰かを助けているんだね」
真正面からそうも言われてしまえば、嬉しいやら恥ずかしいやらの感情が湧いて出てきてしまう。
ナカジマ、特にホシノとは目を合わせられない。
「詳しく聞かせてくれよ。日射病――とか言ってたよな?」
「……はいはい、話すよ」
観念して、すべてを話すことにした。
――あれは最高気温が襲いかかってきた、とある一日のことだった。下校中に、建物へ寄りかかっていたサキュバ子をたまたま目にして、ぴんと嫌な予感がしてサキュバ子のもとへと駆け寄ったんだ。
こんな猛暑の中で、サキュバ子は生真面目にも制服を着込んでいて、トングを片手にゴミ拾いを行っていた。自分はもちろん中止を訴え、そのまま応急処置を施したんだ――
ナカジマは、まるで自分の事のように喜んで聞いてくれていた。
ホシノも、最初は笑顔だった。けれども話が進むにつれて、次第に真顔になっていって、ふと、こう呟いたんだ。
――やっぱりあんたさ、すごいよね。
その一言は、いまでも忘れられない。
□
学園艦に入って、三年目の春頃。
年月を重ねられたからか、いち生徒会員としてだいぶ頼られるようになってきた。教室内でもテスト対策に関して頼られたりして、ずいぶんと賑やかな毎日を過ごしている。
そんな中でホシノは、ナカジマは、今日も自転車部員として放課後の大洗学園艦を突っ走っている。コースは「走り屋専」と呼ばれる峠で、自動車部とは日々交代しあいながら利用することが多い。
スピード制限なし、カーブ容赦なし、遠慮なしのコースっぷりは、まさに学園艦ならではの立地といえよう。これにはクルマ好きの校長の協力も大きい。
――今日は時間があるし、見てみるか
そんな思いつきから、黄池は峠のゴール付近、ガードレールの向こう側でホシノとナカジマのゴールインを待つ。自転車部の走りっぷりは、特設モニターから確認できる。
小規模ながらもギャラリーが湧いているが、そのほとんどはホシノがお目当てだ。ある男子生徒は「はえー」と驚嘆し、ある女子は「ウチの友達すっごいしょ!」と歓喜している。近所のおばさんに至っては、「若いわねえ」とうっとり。
それもそうなるはずだ。
だって、ホシノは、
「来た! タイムは――新記録ッ! 大洗新記録ッ! またホシノがやったッ!」
こんなことを、やってのけてしまえるから。
――ホシノがあっという間に横切っていって、そして怪鳥めいた甲高い音がコース全体に響き渡る。ホシノが足で、無理やりブレーキをかけていた。
そうしてホシノがコースから退避してみれば、自転車部員たちが続々とゴールラインを踏み越えていく。ナカジマが今、ゴールインした。三着だった。
「よー」
今やスピードスターとなったホシノは、自転車を手で押しながらで黄池へ挨拶をする。その顔は、どこまでも明るい。
黄池は、手で挨拶を返し、
「見てた。また新記録を出したんだって?」
「らしいな」
――かっこいいんだよな、こういうところが。
「間違いなく、レギュラーとして選ばれるだろうな」
「だな。ま、大会に出るまでは毎日頑張るよ、みんな仲間でみんなライバルだからさ」
妥協を知らない言葉に、ギャラリーがまたしても湧く。男子も女子もおばさんも、それぞれの言葉でホシノを称賛しつくしていた。
「いやー、もう笑っちゃうぐらい速いよね、ホシノは」
ナカジマも、ガードレールを越えて近づいてくる。ホシノは「そだろー」と笑い、ナカジマは「そだねー」と微笑んでいる。
そして黄池は、ナカジマの言葉に対して唸り声を漏らす。これはもしかしたら、
「……できるかもしれない」
「お?」
「大洗自転車部の――いや、大洗学園艦にとっての、久々の優勝を勝ち取れるかもしれない」
ホシノとナカジマが、顔を見合わせる。まずは己を指差し、次に互いを示し、「へ?」と黄池を見た。
「ここ近年、大洗学園艦は目立った業績を残せていなくてね」
ホシノとナカジマが、うんうんと頷く。
「生徒会としては、ちょっとは寂しいと思ってたんだ。……けれどそこに、ホシノとナカジマという期待の流星がやってきてくれた」
「えー?」
ホシノとナカジマが、気恥ずかしそうに苦笑い。
「自転車部として優勝を飾ることができれば、学園艦にとっての大きな業績に繋がる。自転車部に入ろうと、入学してくる人も多くなるかもしれない」
「確かに」
「っかー、そうか。こりゃあ頑張らないといけないな、大洗の未来は私らにかかっているみたいだし!」
「大袈裟だなあ」
ナカジマが、そしてギャラリーがやんややんやと囃し立てる。
ホシノもやる気満々らしく、腕を曲げて力こぶを見せつけてみせた。相変わらず日焼けの跡が眩しい。
――そんな友達の姿を見られて、黄池はたまらず、
「ホシノ、ナカジマ」
「うん?」
「僕も、心の底から応援する。友達が優勝するなんて、これ以上に嬉しいことはないよ」
心の底から、言えたと思う。
春風が、ふわりと吹いた。ギャラリーの盛り上がる声が、何だか遠くに聞こえる。ホシノとナカジマは、無言で三回ほどまばたきをして、小さく小さく「そ、そうか?」の一声。ホシノのものだった。
――黄池は、心臓に手を当てる。
「この命に誓うよ」
それだけで、もう十分だった。
ホシノは「っしゃーやるかー!」と雄叫びを上げていて、ナカジマは任せなさいとサムズアップ。ギャラリーはやっぱり、ホシノとナカジマへ声援を贈り続けている。
ホシノとナカジマと、自転車レースをやらなくなってはや数年が経つ。自分は生徒会の仕事が、ホシノとナカジマは部活動と、それぞれやるべきことがあるから。
それでもホシノとナカジマとは、気づけば一緒に居る。分校になろうとも、それだけは変わらない。
ほんとうに、いい友達と出会えた。
―――
気づけば、中学最後の夏が訪れていた。
入学当初は、親元から離れるという不安感でいっぱいだった。母曰く「すぐ慣れるわよ」とのことだが、何だかんだで親にべったりだった自分は、その言葉にいまいち同意出来なかったものだ。
そして実際、寮に入りたての頃は、得体のしれない孤独感が全身にのしかかってきたものだ。これから先のこと、高校含め六年間も海の上、友達はできるんだろうか――そういった不安が、心の奥底までいちいち突き刺さってくる。
最初はほんとう、うまく笑えなかった。
けれど、
――よー黄池! なんだか久々に思えるなー、三日ぐらいだけど。で、どだ? 元気してるか? よかったらどこか食っていかないか?
けれどそんなときは、ホシノとナカジマが校門にまで迎えに来てくれたんだ。
そのあとは、いつも通りによもやまを話し合って、宿題についてあれやこれやと聞かれて、「またな」と笑ってくれて――ほんとう、ホシノとナカジマがいてくれたからこそ、今日ここまで生き延びられたのだと思う。
だから自分は、ホシノとナカジマのことを生涯の友達だと心に決めている。口にするのは、さすがにちょっと恥ずかしいけれど。
――そんな学生生活を送ってこられたからこそ、いま、自分は、
『池田選手とホシノ選手が並んでいます! 今大会を制するはまたしても知波単学園中等部か、或いは番狂わせの大洗女子学園中等部かッ!?』
生徒会の仕事を休んで、中学自転車部女子部門全国大会の会場へ足を運んでいた。これで名誉ある生徒会皆勤賞はナシになったが、どうでもいい。
『知波単の突撃隊長、池田選手がリード……いや! 大洗のスピードスター、ホシノ選手が追い抜いた!』
女性実況者の声が、会場内で高らかに響き渡る。
――ルールはシンプルなもので、各校から選ばれた部員六名が町中のコースを一周することになっている。我らが大洗から選抜されたのは、大洗一速い女ことホシノに、その女房役ことナカジマ、ほか精鋭四名だ。
当日は晴天に恵まれ、とてつもなく暑い。日差しが強すぎて、何もかもが黄色く見える。しかしそれでも観客の数は多く、一枚の安全柵を通じて出来る限りの応援を表現していた。かく言う自分も、ゴール付近で状況を見守っている。
最初はナカジマもホシノも横並びに走っていたのだが、ラストが近くになるにつれて徐々に差が。ナカジマがライバルに追い越されるたび、安全柵を人差し指で叩いてしまったものだ。
ナカジマは七位を維持し続けているが、参加者数を鑑みるに上等な結果に食らいついていると思う。一見マイペースなナカジマだが、タイヤが絡むとなると途端に熱くなるのもナカジマならではだ。
「きた」
そしてホシノは、強豪知波単学園の池田は、自分が傍に立っているゴールめがけ死にものぐるいでトップ争いをほとばしらせている。メットとゴーグルで顔を覆った両者は、白い歯を怪物のように食いしばっている。
観客たちがそれぞれの学校の名前を、生徒の名前を、あだ名を、突撃を、がんばれを叫び続ける。
かくいう自分も、ホシノの名前をひたすらに連呼し続けている。ありったけの声量を、とにかくホシノめがけ浴びせ続ける。
しかし勝負とはリアルなもので、形勢がぴくりとも変わらない。ホシノも池田も、同じような顔を互角の動きを同等の熱意をむき出しにして、ひたすらなまでにゴールへ飛びかかってきている。
――そう、見えていた。
『ッ! 池田選手が一歩リードッ!』
そのとき、思った。
いやだ。
ホシノは三年間頑張ってきたんだ。
だから、ホシノに勝ってほしかった。
安全柵に手をかける。身を乗り出したくなるような衝動をこらえ、僕は、
「がんばれ―――ッ! ホシノ――ッ!」
誰よりも本性を露わに、何者よりも叫べたと思う。
「君は大洗一ッ! 世界一速いんだ――――ッ!!」
そのとき、僕は確かに見えた。
ホシノが、また速くなった瞬間を。
『……ゴール! 優勝は、優勝はッ!』
僕はきっと、正しく声を上げられたのだと思う。
『優勝は、知波単学園中等部、池田選手ッ!』
知波単学園の生徒たちが、ありとあらゆる歓声を上げる。
『二位は大洗女子学園中等部、ホシノ選手ッ!』
大洗学園のみんなが、拍手と口笛を上げる。
――僕はきっと、正しく声を上げられたのだと思う。
「――ホシノ」
ホシノが僕のほうへ、いつものように笑いかけてくれたから。
すごく、かっこよかった
とても、楽しかった。
―――
それから数日が経って、大洗学園艦に土曜日が訪れてきた。
普通なら休みに入るのだが、黄池ときたら休日返上という形で学園艦の清掃活動をきびきび行っていた。真っ黄色い日差しを背に受けつつ。
それもこれも、生徒会欠席の借りを返すためだ。
「あつくなったねー」
「俺死ぬかもしれんわ」
「!? だ、だめだって死んだら!」
私服姿の男女――同じくらいか――が、歩道の向こう側からやってくる。不穏な言葉を耳にして一目確認してみたが、両者とも特に異常は見当たらない。
改めて付近を見回してみると、交差点付近に丸まったティッシュが落ちていた。それに眉をしかめつつ、トングでティッシュを拾ってはそのままビニール袋へ投げ捨てる。
「あー、何か飲みてえ……」
「じゃあ私が何か買ってきてあげるから! ……ああもうっ、信号に引っかかったッはやくはやくっ」
仲がいいなあ。
夏となると、生徒会もまた随分と忙しくなる。それは分かっていたが、やっぱりホシノとナカジマの応援には代えられなくて、無理を言って休日を申請してみた。すると会長は、なんでもないように笑いながらでこう言ってくれたんだ。
――行ってあげなさい、友達なんだろう。
そのときの会長の顔は、声は、
――後ろめたく思う必要はない。この前はサキュバ子さんを助けてくれた、君はじゅうぶんに頑張ってくれている。
今でも、はっきり覚えている。
「そこまで焦らなくてもいいから」
「で、でも、このままじゃアンタ死んじゃうんでしょ!?」
微笑ましいなあ。
そうして応援から戻ってきた時、会長は最初にこう言ってくれたんだ。素晴らしい結果だったね、と。
――自分は改めて知った。生徒会長という人を。
だからこそ自分は、穴埋めをしたいからと休日出勤を申請したんだ。会長は、そこまでしなくても良いのに、と言ってはくれたけれど。
「いいや死なねえから……ほんとお前、相変わらず純真だな。まぶしいわ」
「え? そ、そお? えへへー」
「かわいいやつ」
「えへへ……へ?」
うお。
なんだか恥ずかしい気持ちが生じて、ついカップル候補から目を逸らす。
べつにカップルの存在は珍しくもないし、なんだったら知り合いの中にもそういう奴はいる。不純さえ行わなければ、別にいいんじゃないかなというのが自分のスタンスだ。
何事もなかったかのように、ゴミ拾いを再開する。
思わず、ため息が出た。
自分にはそういうの、縁がなさそうだか、
「お、黄池じゃーん」
聞き慣れた自転車のベルと、馴染み深い声が、黄池めがけ真っ直ぐに届いた。
ホシノかなと思い、その場で振り向いてみればやっぱりホシノその人だった。
「や。サイクリングかい?」
「そーそ。いやー、好きな服着て好きなように走るってのはいいもんだ」
ホシノがにっかりと笑う、黄池はだなあと頷く。
ホシノが言う好きな服はといえば、白のタンクトップにジーンズと相場で決まっている。今もそんなコーデだ。
本人曰く、「動きやすいし、ほどほどにかっくいいし、風も感じられるから好き」なのだそうな。
「で。あんたは生徒会のお仕事中かい?」
「まあね」
「っかそうか。いやーこの前は来てくれてありがとな、忙しいはずなのに」
黄池は、肩をすくめてみせる。
「絶対行くよ、友達の晴れ舞台には」
「だとしても、だ。本当にありがとな」
そう言うホシノは、笑っていた。とても穏やかそうに。
それを間近で見て、黄池も同じような顔をした。
「ホシノもお疲れ様。最高に速かったよ」
「あんがとー。いやー知波単マジで速かったわ、さすが突撃の知波単」
知波単学園といえば、自転車と乗馬と陸上の強豪とよく知られている。どれも走力が関わってくるからか、周辺からは「突撃の知波単」と呼ばれるようになった経歴がある。
知波単学園の方もそのフレーズは否定しておらず、むしろノリノリで突撃突撃と応援することが多々見られる。知波単は金持ちが数多く通っているらしいが、結構ノリが良いのかもしれない。
「確かに知波単は速かったね」
「うん」
「でもホシノは、二位にまで食らいついた。これはすごいことだ」
ホシノが照れくさく笑い、
「そうかな?」
「そうさ」
黄池も、小さく首を振った。
――今でも思い出せる。あのときの会場の熱を、ホシノの顔を、自分が叫んだことを、ほぼ同着だった事実を、ホシノが自分へ笑いかけてくれた瞬間を。
「そっか」
そしてホシノは、微笑んだまま、ハンドルめがけ顔をうつむかせて、
「これで悔いなく、自転車部を引退できるな」
これからのことを、ぽつりと口にした。
驚きはしない。だってホシノは、学園艦へ乗る前から自動車部を目指していたのだから。自転車部は、速さと風と青春を感じるためのステップに過ぎない。
けれどそのステップを通じて、ホシノはありとあらゆる青春をくぐり抜けていった。だからホシノは、どこか遠い目をしているのだと思う。
――そんなホシノを見てしまって、沈黙を貫けるはずがなかったんだ。
「ホシノ」
「うん?」
「ほんとうに、お疲れ様」
この言葉で一区切りをつけて、良かったのだと思う。
「ありがとう」
ホシノが、こうやって返してくれたから。
しばらくはそのまま、互いに互いを見つめ合う時間が過ぎていって、
「――さて」
ホシノが、軽やかに自転車から降り、
「手伝うよ、生徒会のお仕事」
「……え?」
「だから、手伝ってやるよ。ほら、ゴミ袋とトング貸して」
「あ、いや、これは僕の仕事で、」
「かーせ」
ホシノが、手のひらをくいくい動かす。
「応援してくれた借りを返すよ」
「いやいや、いいって。好きでやったことだし」
「んだよ友達がいのない奴だなー。いいからかせっ、疲れてるだろー暑いし」
ホシノがじりじり寄ってくる。黄池がよろよろと後ろへ下がる。
「せ、清掃活動も好きでやっているからっ」
「好きでもなんでもいいから貸せっ」
「好きだから貸せないっ」
「ずるいぞー自分だけ好きなことしてー」
「い、いいじゃないか好きなことをしても!」
『好きですッ! 大好きですッ! 心の底から好きですッ!』
「うわびっくりした。あんた、そんなに掃除のことが、」
そのとき、黄池とホシノが沈黙した。まばたきだって繰り返した。
二人して首を左右に動かす。
いまの声は、勢いづいた男の声は誰のものなんだ――
「サキュバ子さん! ずっと、ずっと、君のことが好きでした。女性として、好きでした!」
よくある路地裏から、聞き慣れない言葉が反響して伝わってくる。
好き。
その二文字に否応なく釣られた黄池とホシノは、音を立てないように路地裏をこっそり覗き見る。
「え……えと……会長……ほんとう、なんですか?」
サキュバ子と会長が、路地裏の真ん中で、ひたすら真っすぐに見つめ合っていた。
――あいつだれ。
ホシノのささやきに対して、生徒会会長と答える。ホシノが「マジで?」と黄池へ視線を向けてきたが、黄池は無言で頷くのみだ。
「本当だ。君の高潔な性格に、俺は惹かれていた」
「い、いつ?」
「……一年の、頃から」
おおおお……。
本当に関心を抱いているのだろう。ホシノが、感嘆を長く長く漏らしていく。
スピードスターのホシノもまた、十五歳の女の子だった。
――そして黄池の頭の中は、日頃の会長についていっぱいになっていた。
本名は杉本、性格はいたって穏やかで成績優秀、趣味は園芸と、とてものんびりとした人柄だったのに。それなのにまさか、こんな本心をずっと隠し持っていただなんて。
「そう、だったんですか」
「う、うん」
「それで、その……この瞬間のために、お誘いを?」
「……ふ、不純、かな? だよね」
黄池は、血眼になってまでサキュバ子の反応を待ち続けた。ホシノに至っては、うわあうわあとつぶやいている。
――数十秒も、経過したと思う。
サキュバ子の上半身が、ゆっくりと、上下に動く。まるで泣いているかのように。
「か、会長」
「う、うん」
「……ずるいです、よ。あなたのような人に、そんなことを言われたら、言われたら、」
サキュバ子は、会長のことをまっすぐに見つめ、
「――好きになっちゃうに、決まってるじゃないですかぁ……」
サキュバ子は、その身を会長の胸元へ預けていた。
それが、僕たちが目にした最後の光景だった。
――黄池とホシノは、ほぼ同時に覗き見ることを止めていた。建物を背に、乱れた呼吸をひたすらに整えている。
「ま、ま、まさか、そんな」
「その、まさか、だった」
ホシノの不安定な発音に対して、黄池が声になっていない返事をする。
そうなってしまうくらい、ひどく動揺してしまっていた。心臓から、音がはっきりと伝わってくるほどに。
これ以上のことは、黄池もホシノも口にしようとはしない。だって無意味だから、いち中学生としてあまりにも理解してしまえているから。
はあ。
しばらくは、長らくは、呆然とした顔で、ホシノの隣で、ひたすら道路を眺めていた。走り去っていく車を流し見していた。
そうしてなんとなく、ホシノの方へ目線を向けてみた。ホシノも同じ事を考えていたようで、目と目がぴったりと合う。そう離れていない位置で。
そう、離れていない位置で。
「あれ」を見た直後で。
だから、黄池とホシノはそのまま硬直した。互いの目が見開かれ、口はぽかんとして、頬を赤くしながら。
黄池が最初に注目したのは、ホシノの口だった。褐色に混ざる肌色の唇は、黄池の感情を静かに高ぶらせてしまう。いつも目にしているはずなのに。
次に目に入ってしまったのは、ホシノの髪だった。こんなにも滑らかだったのかと、黄池は今さら実感してしまう。いつも目にしているはずなのに。
更に意識してしまったのは、ホシノの瞳だった。どこか鋭くて、緑の水晶みたいで、見据えられることに緊張する。いつも目にしているはずなのに。
そして最後に、ホシノのタンクトップから覗える肌を見た。小学生の頃から、家出をしたあの日からずっと変わらない褐色の身。それは目に馴染んでいるはずなのに、今は艷やかにすら見える。
もう、だめだった。
数センチ程度しか離れていない友達のことを、かっこいい女の子としてしか見られなくなっていた。
だから黄池はおじけついて、ホシノから少し身を引いた。ホシノも同じことをしていた。
深呼吸、
深呼吸。
「ほ、ホシノ」
「う、うん」
「そ、その……もうすこし掃除をしたら、帰るよ」
「あ、いや、手伝うよ。いいだろ? な?」
「……でもさ」
「いいから、ほら」
ビニール袋をふんだくられ、次にトングを奪われそうになった時、
「あ」
「あ」
手と手が触れ合った。
黄池は、ホシノは、小さな悲鳴を上げながらで脱兎のごとく後ろへ跳ねる。
「……黄池っ」
そしてホシノは、ムキになった顔を露わにしながらで黄池からトングを奪い取ってしまった。
「こんなにも暑いんだから、ちょっとは休んでもいいだろっ、なっ?」
このときの黄池は、力という力が抜けきっていた。
だから、もはや反論もできないままで、うんと頷いてしまう。
「ったく。借りも返さないといけないんだからさ」
そうしてホシノは、生真面目な姿勢でゴミを拾い始めた。対して黄池は、ホシノの自転車を手で支えている。
日差しは未だに色濃い。ホシノだってずいぶんと暑いはずなのに、弱音を漏らすことなくゴミを回収し続けている。途中でホシノの友達らしき女子から「ちゃーす、えらいねー」と挨拶されて、ホシノは「えらいしょー」と返事した。
会話らしい会話は、それだけだった。
気まずいような、そうでないような、そんな沈黙が過ぎ去っていって、
「なあ」
びくりとした。
「あ、あのさ」
ホシノが身を屈ませて、風に煽られていたレジ袋を難なくキャッチしながら、
「あんたのこと」
「う、うん」
レジ袋を、ゴミ袋の中へ投げ捨てる。
――間。
緩慢な動きでホシノが直立していく、互いに見つめ合う形となる。その顔は未だに赤くて、視線は地面めがけ泳ぎがちだ。
ホシノが軽く己が両頬を叩いて、
「――さ、悟って、呼んでもいいか?」
今度は僕の心が、ホシノに捕まってしまった。
確かな恥じらいを抱きながら、ほんのちょっとの躊躇に足元を掬われつつ、ホシノの自転車をぐっと握り締める。
「もちろん。好き……ああいや、好きなように呼んでくれていい」
その言葉を、黄池は笑いながらで伝えることができた。
「うんっ。これからもよろしくな、悟」
だからいつものように、ホシノも笑ってくれた。
今の自分にとっては、これまで以上の表情にしか見えなかったのだけれども。
――そして、帰り際。
「ホシノ、今日はありがとう」
「大したこと、してないよ」
「いや、そんなことない」
ホシノから、ゴミ袋とトングを受け取る。
気づけばもう、13時だ。
「じゃあ、その、車に気をつけて」
ホシノが自転車を支えたまま、黄池の方をじっと見つめる。それだけの時間が、ほんの少しだけ経ったあと、
「うん、わかった」
ホシノは笑った。とても穏やかに。
―――
午後十時。良い子はもう眠る時間帯だ。
黄池はパジャマに着替えて、朝の七時に目覚ましをセットし終え、そのまま部屋の電気を消す。明日は休日だが、別に夜ふかしをする理由はない。
布団の上に寝転がり、「はあ」と息をつく。
何も見えなくなって、聞こえなくなって、そうして頭の中が旺盛に働き出す。今夜のテーマはもちろん、今日好きになったあの子のことだ。
あの子と出会って、もう何年が経つだろう。だいたい四年くらいか。
あの子とは、共に色々な体験を積み重ねてきたと思う。笑うことはもちろん、時には遊んでくれたり、時には勉強の手助けをした、意外にもケンカらしいケンカをしでかした事は皆無だったような。
こんなふうに過ごしてきたから、あの子とはずっと友達であり続けるものだと考えていた。
――そのはず、だったのに。
どうしてあの子のことを、突然好きになってしまったのだろう。
どうして、今の関係では満たされなくなってしまったのだろう。
きっかけはわかる。今日の午前11時に見た、サキュバ子と会長の逢引だ。
あの男女的な瞬間はあまりにも刺激的で、余韻なんて当然のように引きずってしまった。そうして一番距離の近い異性――あの子のことを見てしまえば、「あの子は女の子」という当たり前の認識を改めて実感せざるを得ない。
あの子とは、ずっと友達でいたいと思っていた。それだけ、あの子のことが「好き」だったから。
だからこそ、あの子のことを「好き」になるのは必然だったのだと思う。今にして考えてみれば、遅かれ早かれこうなっていたのだと思う。
だって僕は、もう十五歳だから。
――はあ。
好きになってしまったのなら、告白すればいい。答えはとても簡単だ。
けれどあの子が相手となると、途端に難しい問題となる。
理由は一つ、あの子は「僕よりもかっこいい」からだ。
クソ真面目と笑えばいい、気にしすぎと指を差すがいい。けれど自分は、あの子の隣に立てるような男になれていないとつくづく思う。
あの子は大洗一速くて、整備の勉強をひたすらに頑張って、どこまでも飾らないで、そして僕を救ってくれたヒーローなんだ。かっこいいのカタマリすぎて、告白なんて恐れ多くてできやしない。
このビビリが、ちったぁ考えろ。
うるさい、わかってる。
そもそもどうして自分は、あの子のことを「上」に見てしまうんだ。人間誰しも、何かしらのかっこよさは持ち合わせているはずだというのに――
そのとき、脈絡もなく思い出した。すごくかっこよくて、すごく楽しかった夏の大会のことを。
それだ。
あの子は大洗「一」速い女だ。その確固たる事実は、大洗の人間ならば何よりも価値があるものだ。
あの子は、そのことを誇りに思っている、周りの人間も、あの子をそう認めている。恋する自分ときたら、意識しているからこそ畏怖してしまう。
首を振るう。
だからといって、諦めるつもりはない。その証拠に、胸は今も高鳴っている。
もっと考えろ。
期末三位のアタマを振り絞れ。
あの子のようにかっこよくなるには、どうすればいい。
――これで悔いなく、自転車部を引退できるな
瞬間、
嵐のように布団から起き上がり、部屋の電気を急いで点け、就寝時間だというのに机の上の携帯を操作し始める。生徒会員の黄池からすれば、まさに暴挙にも等しい流れだ。
そしてその黄池は、迷うことなくバイクの通販サイトへアクセスしていた。画面上に羅列しているバイク郡をじっと眺めたのち、幼い頃にあの子と眺めたバイクカタログのことを思い出しながら、これじゃないあれじゃないと検索し続け――
あった。
口元が、面白いぐらいに釣り上がった。
改めて相棒(仮)の車体を確認し、けして安くない値段を脳に刻んで、お気に入りスタンプを追加してから画面をいったん閉じる。
そしてそのまま部屋の電気を消して、品性方正な足取りで布団についた。
自分のやるべきこと、
―――
月曜の朝日が、カーテン越しから訪れてきた。
鳴る前の目覚ましを止め、朝のニュースを耳にしつつ制服に着替え、朝飯を食べて、学生鞄を片手にいざ外へ。何の変哲もない登校の流れだ。
部屋を出ては鍵の開け締めを二度三度確認し、「二階なのが少し不便なんだよな」と思いつつ階段を小走りで超える。そうして男子寮から出てみれば、どこまでも広がる青い晴天が黄池を出迎えてくれた。
そうして寮へ歩んでいきながら、いつものように頭の中で予定を確認する。朝は生徒会の仕事として身体検査を行って、、昼は友人とほどほどに遊んで、放課後は月イチの報告をしないと、帰ったら秋の期末対策に向けて猛勉強だ。あ、ホシノ、
日常が空中分解した。
「よ、よお」
男子寮を囲む塀の陰から、ホシノの顔だけがこっそりと伸びていた。
「ほ、ホシノ?」
「あ、ああ、うん」
そしてゆっくりと、ホシノが塀から姿を現す。
黄池の両手両足なんて、すっかり止まってしまっていた。
「い、いま一人か?」
「え? ま、まあ一人だな、うん」
「そ、そうか」
会話になっていない会話をして、沈黙。
内股気味のホシノが、視線を逸らしたり合わせたりを繰り返している。黄池は何とかホシノのことを見つめているが、それだけだ。
言うべきことなんて、決まっているのに。
けれどもホシノが相手だから、気恥ずかしさが高ぶってしまう。
そうやってたじたじしている間にも、ホシノは「えっと」とか「その」とか「うんと」とか。
――己が心臓を、ひと掴みする。
目の前の
「ホシノ」
「あっ! な、なんだ?」
呼吸、
「一緒に、学校まで行くか?」
言えることなんて、たったそれだけだった。
「――いいのか?」
「ああ」
「そうか、そっか……よし、一緒に行こう! そのために来たんだしな!」
「ありがとう。友達として、心から嬉しいよ」
たったそれだけで、ホシノがいつもの顔をしてくれた。
言えて良かったと、心から思う。「友達」という単語に、ほんの少しだけ寂しさを覚えながら。
「じゃ、行くか。……にしてもアレだな、悟ってこんなにも朝早くから行くのか?」
「うん。生徒会としての仕事もあるしね」
「うわー偉いなー、マネできないわ」
「そういうホシノこそ、どうして?」
「え? あー、今日は朝早くからパッチリ起きちゃってさ……たはは」
「あー、そういうこともあるよね」
「そうそうあるあるあるよな」
まだ人気の少ない通学路で、黄池とホシノの声が虫の音と重なって響き渡っている。
傍からすれば、仲の良い友達同士に見えるだろう。
いまはまだ、そうだ。
―――
そろそろ雪が降りだしそうな秋頃、ナカジマとホシノは冷風を浴びながらで大洗女子学園中等部へと登校していた。
空はすっかり真っ白だし、近くで歩いている同じクラスメートも「寒い寒い」と愚痴っている。対してナカジマとホシノはといえば、とにかく景気の良い表情をお披露目中だった。
「いやー、整備の試験が受かってよかったなぁー」
「ねー、ほんとね」
「問題も知っているものばかりで、楽勝も楽勝だった」
「そりゃあ勉強したからねえ」
「ああ、勉強バンザイだ!」
ホシノの言葉に、ナカジマも首を縦に振るう。
寒い風が吹いてきたが、ホシノは「いー風だなあ」と言いのける。この時点でホシノの機嫌は最高潮なのだが、
「修理も出来るなんて、ドライバーとしては理想だよねえ」
「ねー、だよね奥様ぁー」
ねー。
ナカジマとホシノが、同時に免許証を見せ合う。ホシノが歯を見せながらにやついているが、自分も同じような顔をしてしまっているに違いない。
ほんとう、嬉しかったんだ。
「――ま、」
人差し指と中指で挟んでいた免許証を、ホシノが懐へしまう。
「高校生まで、ドライブはお預けだけどなー」
「規則に引っかかっちゃうもんね」
「なー」
ホシノが、つまらなさそうな顔して空を見上げる。ナカジマもホシノの視線を追ってみたが、なにもない。
「……にしてもさ」
「うん?」
「ちょっとびっくりしちゃったよな。まさかあいつが、免許を取得しようとしてたなんて」
「――ああ、うん」
思い起こす。
運転免許を得ようとセンターへ通っている最中に、ナカジマとホシノはあいつ――黄池とばったり出くわした。
最初は、指まで差して驚いてしまったものだ。当の本人は「せ、生徒会は迅速さも大切だから」と苦笑いしていたが。
それを聞いて、ホシノは「えらいなー」とコメントした。ナカジマは「まじめだねぇ」と微笑んだ。そうしてホシノは、すかさず「バイク? クルマ?」と質問したのだが、
黄池は、すこし遠慮がちに「バイク」とつぶやいた。
ホシノは、「ば、バイク? マジか? 本当か!?」と大はしゃぎ。
ホシノの声が大きかったから、周囲の生徒からは注目を浴びてしまった。そこは三人揃っての「なんでもないです」連呼で事なきことを得たが。
まあ、それはいい。
ただ気になったのは、あの時に見せたホシノのうれしそうな顔。
「ほんとう、生徒会に尽くすつもりなんだな」
「そだねえ」
「足があれば誰かも助けられるだろうしな。ほんとすごいよ、あいつは」
ホシノの横顔を、ちらりと覗う。
何もない秋空を眺めているホシノの表情は、少しも笑ってなどいない。その目は、どこか寂しそうに見える。
――そんなホシノを間近にして、ナカジマはいてもたってもいられず、
「ホーシノッ」
「うん?」
「私からすれば、ホシノもおなじくらい凄いから大丈夫大丈夫」
「な、なんだよぉ」
「置いてかれてなんかいないってことさ」
「……なに言ってんだか!」
ホシノが、くすぐったそうに笑い始めた。
ホシノは、とにかく表情をころころと変える。時には笑ったり、時にはむっとしたり、時には笑ったり、時には脱力したり、時には笑ったり、ほとんど笑ってばかりだ。
だからこそ、ホシノの周りにはよく人が集まってくる。だからナカジマもホシノと友達になれたし、黄池ともうまく付き合えている。
「ま、あれだあれ。私はホシノの味方だから、寂しくなったらいつでも相談に乗るよ」
「うへえ、あんたは私のママかよぉ」
「そうかもねー」
ナカジマとホシノがけらっけらと笑う。
いつもの交差点を越えて、何事もなく大洗女子学園の近くにまで到着し、ホシノの友人から挨拶をされ、
「12月号でーす! 期末テスト王者インタビューも掲載してまーす!」
「うげ」
校門前で、放送部の腕章を巻いた女子達が道行く生徒に新聞を配っていた。
期末テストと聞いただけで、ホシノが露骨に顔を歪ませる。
ナカジマは、そんなホシノのことを肘で小突いてやった。
「んもー、ちゃんと勉強しないと」
「し、しただろ!? 黄池と一緒に!」
「黄池がいない時は?」
何も答えてはくれなかった。
知ってた。
――放送部員である王大河と、偶然目が合う。自転車部インタビューを受けた仲だからか、大河はにこにこしながら近づいてきて、
「あ、おはようございます! ホシノ先輩! ナカジマ先輩!」
「おはよー王ちゃーん、いいネタとれたー?」
「はい!」
「おはよう王さん。二部ちょうだい」
「どぞどぞ!」
そうして大河から、新聞を二部受け取る。そのまま「ほい」と、ホシノに一部手渡す。
まだ仕事は終わらないのか、王は新聞を配ろうと別の生徒のもとへ駆けつけていった。
――「11月期末テスト、女子部門最優秀成績者!」と、でかでか書かれた一面に目を通し、
「へー、あの角谷さんがねえ」
「なんというか、ほんとにとらえどころがない人だよね」
ナカジマが、「ねー」と同意する。
同じクラスメートの角谷杏についてだが、とにもかくにも意外性のカタマリだとナカジマは思う。いつでもひょうひょうとしていて、愚痴とか弱音を吐いている面をまるで見たことがない。休み時間になれば、杏の周囲に人が集まっていることもしょっちゅう。あと運が凄いのか、じゃんけんに強い。
では遊び好きかと言われれば、実はれっきとした生徒会員だったりする。曰く「大洗学園艦で目立った事件は起きないのは、干し芋を片手に争い事をやんわり収めているから」というウワサが立つほどの敏腕っぷりを発揮しているらしい。挨拶をする際は、干し芋を持っていくと良いようだ。
あと運が凄いのか、じゃんけんに強い。
「すごいもんだ」
「まあでも、あの人ならトップをとっても、何ら不思議じゃないって感はあるよね」
「なー」
「なんでもできそうだよね、あの人なら」
ホシノが、「んむ」と頷く。
杏とはあまり話したことはないが、「よく笑い、よくうまいことを言う人」という印象をナカジマは抱いている。
そうしてナカジマは、ホシノは、ほぼ同じタイミングで新聞をめくってみせた。
「あっ!?」
「おっ!?」
そしてナカジマは、ホシノは、ほぼ同時に吠えた。
周囲から多少の注目を浴びて、ナカジマは「あはは」と何とか苦笑いを振りまく。一方のホシノはといえば、外部の事情など気にもせず新聞を凝視したまま。
そうなるのも、当たり前だった。
だって、
「さ、さ、悟……!?」
よく知っている男の名前が、最優秀成績者に選ばれていたから。
――黄池は成績優秀者だ、それは友人であるナカジマも知っている。けれども「最」という一文字がついてしまえば、大声の一つや二つは上がってしまう。
確かか、新聞をよく見る。
11月期末テスト、男子部門最優秀生成者 黄池悟。間違いなくこう書かれていた。
内容は、こうだ。
生徒会に所属している黄池悟は、7月の期末テストにおいては成績三位だった。この頃からトップの兆しがあったが、今回になってついに一位にまで返り咲いてみせたのだ。
本人の生真面目な性格が、この結果にまで導いたのだろう――曰く「いつも通りに、勉強しただけです」。
そしてその内容を読んで、ナカジマとホシノは互いに向き合った。驚きが抜けきれていないからか、目なんて見開きっぱなしだ。
校門前で立ち尽くして、かれこれ数分が経つ。あと少しで授業が始まろうとする中、ホシノは「そっかあ」と肩をすくめて、もう一度記事を眺めて、
「……すごいなあ、ほんと」
ホシノは、どこか寂しそうに笑っていた。
どうして、そんな顔をするんだろう。少し考えてみて――ああ、
「うん、私もそう思う」
友達だった人が、いきなりスターになってしまったのだ。そりゃあ、こんな顔だってしたくもなるか。
「でもホシノだって、十分凄い人だよ」
「えー? ないない、赤点ギリギリだよわたしゃ」
「スピードスターが何言ってるんだか」
「す、好きな事だからあそこまでやれたんだよ。黄池は、勉強っていう大変なことをしているわけだし……比べモノになってない」
「そうかなー、整備の試験に合格したばっかりじゃない」
「あ、あれだって趣味のようなもので」
チャイムが鳴る。新聞を読んでいた生徒が、ホシノとナカジマが大慌てで教室めがけ突っ走っていく。
あとでメールなり何なりで黄池のことを祝ってやろう。ホシノのことも、励ましてあげよう。
―――
春が訪れて、無事何事もなく大洗女子学園高等部へ進級することができた。
新しい教室を訪れて、見慣れない生徒と挨拶をしあって、教師からの説明を聞いて、進級定番の自己紹介タイムが始まった。
「――角谷杏です。好きなことは遊ぶことと干し芋でーす。干し芋くれたらなんでもしちゃうので、よろしくっ」
クラス全体が晴れやかな笑いに包まれる。対してスズキはといえば、顔は快晴、内心は曇っていた。
高校生に進級して、ぼっちに陥ったわけではない。早々から「普通の」女子グループに混ざっては挨拶を交わしあったし、メールアドレスだってゲットした。グループ内の主なテーマであるスイーツ関連も、好きな部類には入る。
――けれど、スズキが最も求めているものには程遠かった。
「芝崎涼子です。趣味は体を動かすこと、特にテニスが好きです。こんな私ですが、よろしくお願いします」
柴崎が頭を下げる、拍手に混ざる「私もテニス部入るんだー」の声。
柴崎が微笑む、スズキも顔は明るくしながらで「へえ」と思う。スポーツ、という点はいいセンを突いていたのだが、
「草村香苗です! よく自転車で走ってます! 自転車部ですので、これから入部する人は仲良くしてくださいッ!」
草村のことを知っているクラスメートが居たのか、「いいぞー」と応える声が教室内で反響した。鳴る拍手、後ろ手に頭を掻く草加。
自転車部も、レースといえばレース関連か。惜しい、とスズキは思う。
――自己紹介は、いまも席順から行われ続けている。けれどどの紹介も、スズキの血に火を点けるまでには至らない。
誰か、自分の「好き」とベストマッチする人はいないのだろうか。
「……好きなものは熱帯魚です。見るのも育てるのも大好きです」
贅沢は言わない。
このクラスの中で、フォーミュラトラックが好きな人はいないだろうか。
むしろ、モータースポーツなら何でもいい。
「……好きなことは観光や散歩です、よろしくお願いします」
あれは、小学校に入りたての頃だった。
何気なく見ていた世界報道バラエティ番組で、個性バリバリのトラック郡がレースしている様子をほんの数分だけ映していたのだ。その数分間だけ、スズキが持つ箸の動きはぴったりと止まってしまっていた。
スズキはあっという間に大型車両へ釘付けとなり、もちろんフォーミュラトラックの世界に引きずり込まれ、レースというレースを漁るうちにモータースポーツの虜と化してしまっていた。
「……忍者に憧れています。これからも仲良くしてください」
――が、
モータースポーツ好きの女子は、そうそう見つかるものではない。自動車部という共通の場はともかく、いちクラスに同じモタスポ好きが割り振られるかどうかは運次第だ。
車に乗る、こと自体は別に不自然ではない。学園艦限定運転免許持ちはグループ内にも見受けられた。ただ車のことを「交通手段」と割り切っているフシが見られたので、スズキはあえてモタスポ好きである事を口にはしなかったのだ。
話の流れで趣味を公言できたとしても、「へえー、そうなんだ」以上は進展しないだろう。何度かそういう経験もしたし、そもそもモタスポは一目惚れしてナンボの世界だ。
あの、どう反応していいかわからない顔はもう見たくはない。
この不満も、放課後になって自動車部に入部すればぜんぶ解決する。今はそう思え。
「それでは次は、ホシノさん。お願いします」
「はい」
前の席に座っていた生徒が、ゆっくりと立ち上がる。
そして、瞬間的に教室内がざわめき出した。
「お、ホシノかー」
「何か面白いこと言ってよねー」
「しっ、みんな静かに。ホシノがこれから凄いことをやるから」
「やめろやめろ」
人気者らしいホシノの顔を見て――「あ」とスズキは声を漏らす。
そういえばこの人は、自転車部のスピードスターと呼ばれていた人か。学級新聞ででかでかと扱われていたから、割と覚えていた。
そうしてホシノが、教壇の前に立つ。あーげほんと、小さく咳。
「えーっと。私は、ホシノといいます。好きなものは、」
思えば、次は自分の番か。
何と言えばいいだろう。ドライブが好き、と言ってみようか――真っ先にこの発想とは、ずいぶんと未練がましい。
「――バイクです! というか、レースが好きです!」
スズキの考え事が、ぶっつりと断ち切られた。
いま何と言った。
もう一度、聞かせてくれ。
「去年は自転車部でいろいろやりましたが、今年は自動車部のライダーとして、そして整備士として色々頑張りたいと思います! よければ、一緒に走りましょうッ!」
ホシノが親指を立てる。どっと拍手が湧き上がる。
クラスメイトは「いいぞー」とか、「わかった走るー!」とか、「さすが大洗一早い女!」と囃し立てていた。あくまで学生生活の範疇であるので、教師もにっこりしたまま。
スズキはといえば、体の中がすっかり蒸血しきっていた。まさかこの教室で、それも目と鼻の先に座っているクラスメートが、ライダーで自動車部でモタスポ好きだなんて。
――拍手を背に、ホシノが席へ戻ってくる。呆然とホシノを見つめていたスズキに対して、ホシノがにこりと笑った。
たぶんそれは、挨拶みたいなものだったのだろう。
けれどスズキは、あえて「フリ」として受け取った。
「次はスズキさん、自己紹介をお願いします」
はい。淡々と返事をして、無機質に席から立ち上がる。
クラスメートから注目される中、スズキは無表情のままで教壇の前に立つ。
「――スズキといいます」
妥協するな。
「趣味はモータースポーツ全般です、見るのも自分でやるのも大好きです。ホシノさんと同じく自動車部のレーサーとして、そして整備士として頑張りたいと思います」
怯えるな。
「車のことで困ったら、いつでも私に相談してください。バイクもトラックも何でも直してみせます。……それでは、これからもよろしくお願いします!」
突っ走れ。
――次の瞬間、ホシノが前のめりに私の方を見つめてきた。凝視といっても良いくらいだと思う。
よくよくクラス全体を見渡してみると、窓際に座っているショートヘアのクラスメートも、自分のことをめちゃくちゃ注目していた。
先ほどと同じように、拍手が降って湧いてくる。友達からは「マイカー頼むねー」とピースされた。
はあ。
実にあっさりと、自己紹介が終わってしまった。
まあ、こんなものかもしれないとも思う。顔は笑ったまま、内心はぐるんぐるんに高揚しつつも、自分の席へ戻り、
すぐさま、ホシノから振り向かれた。
それはとても、それはもう良い顔で。
――そして数分後、ナカジマという生徒も自分と同じようなことを語っていた。
今年からは、いいことがありそうだ。
□
休み時間――
「なんというかさ」
スズキの言葉に、ナカジマとホシノが「うん」と小さく頷く。
「私は幸せものだよ。まさか、モタスポ好きと巡り会えるなんて」
「私もだよ」
「んむ」
ナカジマが微笑む、ホシノは腕を組みながらで頷く。
こうして語り合っているのは、何も自分たちだけではない。周囲を見てみれば、アクアリウムに同調しあった二人組、テニスのあれこれを話し合う三人、指を立てて互いに向き合っている忍者好きと、あらゆるところで新たな人間関係が広がっている。
自己紹介さまさまだった。
「で、君たちも自動車部に?」
「当然」
「それしかないよねえ」
「整備士の資格は?」
ホシノが、黙って親指を立てる。ナカジマは「あるよー」と微笑む。
「流石っしょ。これなら、レースで車をやっちゃっても問題ないね」
そうして己が懐から、免許証を取り出す。「学園艦内のみ有効」の文字列がとてもまぶしい。
「いいねえ」
ホシノが、胸ポケットから免許証を引っ張り出す。新品だからか、傷一つ無い。
「負けないよ」
ナカジマが、財布から免許証を抜き取る。写真映りが良いのか、ナカジマの笑顔がよく目立つ。
――スズキはたまらなく嬉しくなって、ホシノとナカジマめがけ自然と手を差し出す。
「これからもよろしくね。ホシノさん、ナカジマさん」
「待った」
そんなスズキに対して、ホシノが手のひらを前に出す。
「……私らは友達だろ?」
ナカジマも、ホシノの言葉に頷いてみせた。
――スズキは、すぐにでも真意を理解する。だから、心の底から笑えてみせた。
「一緒に走ろう。ホシノ、ナカジマ」
賑やかな教室のひとかどで、三人の手が一つに重なった。
――その時、ホシノとナカジマから携帯のバイブレーション音が響き渡る。ふたりとも、なんだろうという顔でポケットから携帯を取り出し、
「悟からメールだ」
「さとる?」
「黄池悟、男友達だよ。彼も免許を持ってる」
ナカジマが、バイクのハンドルを掴むジェスチャーをする。
なるほど、ライダーなのか。
「――ん? 黄池悟って、この前の期末で一位だった?」
「お、そうそうその黄池悟。いやー、あん時はびっくりしたよ」
ホシノがからからと笑いながら、メールを確認する。
黄池悟という名前に関しては、割とよく記憶に留まっていた。成績一位とは、それだけのインパクトがある。
「――お」
「ん?」
「ん」
ホシノが、携帯の液晶画面を堂々と見せてきた。
『見せたいものがあるから、放課後、学園艦公園前まで来て欲しい』。
「スズキ」
「うん?」
「よかったら、一緒に見に行かないか? 自動車部の入部を済ませた後で」
その問いに対して、スズキは、
「もちろん」
迷うこと無く、快くそう応えた。
そしてホシノは、返信メールを手早く完了させる。あとは放課後を待つだけだ。
□
あとはもう、とんとん拍子に物事が進んだ。
放課後になって、モタスポ好き一同が渡り廊下を歩んでいるところで喜色満面の先輩がたと鉢合わせし、そしてそのまま部活動の勧誘にもみくちゃ。これをほうほうの体で抜け出しては学校の外にまで脱出し、グラウンドを多少歩いたところで、「あ、あったよ!」とナカジマが自動車部所有のガレージを大発見。
モタスポ好き一同はいてもたっても居られずに猛ダッシュ、それを見ていたらしい陸上部からラブコールと追跡を受けながらも何とか無事にガレージ内へ滑り込むことに成功した。
車の整備中だった部員六名が――部長らしい人から、「車、好きなのかい?」と真顔で質問されて、スズキとナカジマ、ホシノは同時に「はい!」と答えてみせた。
すると部長は、手を動かしていた部員の顔がみるみるうちに明るくなって、「ようこそ! 自動車部へ!」――そう、歓迎してくれた。
その直後に整備士の免許を、運転免許を取得している事実を報告してみたところ、部員達からは菓子とかジュースを、更にはミニカーだって配られた。
そして、部長からは、
――これが、私たち大洗女学園自動車部の魂だよ
オレンジ色の整備服を、自分たちに手渡してくれたんだ。
入部届けを提出し終えたスズキ一同は、黄池悟と会うために学園艦公園まで足を動かしていた。スズキのことは、ホシノが前もってメールで知らせてくれた。
気の利く友人だ。
「……あのさ」
歩いて数分ほどが経過した頃だろうか。ぽつぽつと雑談を口にしていたところで、ホシノの顔つきが急に真面目なものとなる。
ナカジマも、ただ事ではないと察したのだろう。疑問顔で「なに?」とつぶやく。
「私たちさ、もう気が合いまくりでしょ?」
うん。
「モタスポ好きでしょ?」
うんうん。
「好きな時に語りあいたいしょ?」
うんうんうん。
「だからさ、シェアハウスに住んでみない?」
うんうんうんう、
「は?」
「だから、シェアハウス。この学園艦には、そういうのがあったと思うんだけれど」
「いきなりだねーホシノ。まあ、気持ちはわからないでもないし、あるけどさ」
「でしょ? というか、一人でぽつねーんと暮らすのは暇なんだよー」
「あーわかるわかる」
ナカジマが頷く、スズキも「だよねえ」と同意する。
「だからさ、ぜひとも三人でシェアハウスに暮らそうよー、いいでしょいいでしょー」
「わかったわかった、ちょっと待って」
ナカジマがその場で立ち止まり、携帯のロックを解除。ホシノが「そんなん設定してるのか」とコメントする、していないのか。
そして画面一面に、「大洗学園艦 シェアハウス紹介サイト」が表示された。スズキは「へえ」と声を漏らし、ナカジマが「いい物件ないかなあ」とワード検索して、
「いいじゃん」
ナカジマが、にんまりと笑う。
「いいねえ」
ホシノが、歯を見せてにやつく。
「最高っしょ」
『車好きのあなたにお勧め! 四人ぐらしに最適のガレージつきシェアハウスです!』
スズキの目と口は、それはもう幸せそうに緩んでいた。
――モタスポ好きの行動は早い。ナカジマは大急ぎでシェアハウス管理部の電話番号を捜し当て、
「あった」
アクセルな指さばきで番号をタップ、
「かかった」
そしてそのまま携帯に耳を当て、
『はい、こちら大洗学園艦シェアハウス管理部です』
「こんにちは、大洗女子学園高校一年のナカジマといいます。自動車が好きなのですが、」
物件ナンバーをチラ見し、
「555番の物件はいま空いていますか? 自動車が好きなのでぜひとも住みたいのですが」
『どれくらい好きですか?』
「大好きです」
『わかりました。後日、管理部まで来てください』
電話が切れる。
スズキとナカジマとホシノは無言で、最高にしてやったりな顔でハイタッチしあった。通りがかりの生徒から「何事ぞな!?」とコメントされた。
そうして一同は、引き続き公園へ向かいながらでシェアハウスについてあれこれ語り合う。
どんな住心地なんだろう、これでマイカーの整備が楽になる、どんなモノを置こうかなあ、一緒にDVD見るか――それぞれがやりたい事を口々にしていると、いつの間にか公園まであと少し。
「どうして公園で待ち合わせなんだろうなー」とホシノが口にして、交差点を渡って、
「お、来た来た」
黄池悟は、公園前の歩道で手を降っていた。
――そして、モタスポ好き一同の足取りがぴたりと止まった。
――むしろ、モタスポ好きだからこそ、こうなってしまった。
「……どうかな? バイク、買ってみたんだけれど」
銀ギラギンなエキゾーストパイプ、白ツヤツヤなガソリンタンク、デカデカなタイヤが眩しいクラシックバイクを目の当たりにしてしまえば、言葉なんて失ってしまうに決まっていた。
公園には誰もいない、道路にくろがね社製の赤い車が通っていく、黄池が頭を掻きながらで照れ笑い。
「――君が、黄池君かな?」
そして最初に、沈黙を破ったのはスズキだった。
「あ、ああ、うん。君がスズキさん、だよね?」
「うん。ホシノとナカジマとは、クルマ友達だよ」
「ああ、メールにも書いてあったね」
黄池が、ちらりとナカジマとホシノを見渡し、
「ホシノとナカジマは凄くいい人で、車が好きだから、絶対に楽しく付き合えると思う」
「知ってる知ってる」
スズキは、にっかりと笑ってみせる。
その表情にどこか安心感を覚えてくれたのだろう、黄池が手を差し出してきた。
「改めて自己紹介を。僕は黄池悟、生徒会員だ。困ったことがあったら何でも言って欲しい」
「うん、そうさせてもらうよ。あと堅苦しいのはナシねナシ」
「そっか。わかったよ、スズキ。僕も好きなように呼んで欲しい」
「おっけー黄池ー」
スズキの手が、がっしりと握られた。
――男の手って、大きいんだなあ。
「スズキー」
「うん?」
にっこり顔のナカジマが、人差し指を立てて、
「彼は医者志望でね、これまで沢山の人を救ってきたんだよ。だから病気とかで困ったら、彼に頼りなさい」
「それは凄いっしょ!」
「あ、こら、デタラメ言うな」
「でも助けたことはあるっしょ?」
「……うん、まあ」
頭に手のひらを当てながら、黄池が気恥ずかしそうに苦笑いする。
なるほど、ナカジマの言っていることは本当らしい。期末テストの件もあるから、なおのこと信じられる。
「そ、それよりも。バイク買ってみたんだけれど、どう? センスとかそういうの」
「え、いけるいけるかっこいいよ! どうしたのこれー!」
「いやあ、それは」
「これ、凄く高かったっしょ? いいクラシックバイクだね……」
「あ、まあ、うん」
「そうだよ、こりゃあ高くて良いバイクだって。高校生が乗っていいものじゃない」
黄池は、「んー、まあ、その」と頭を掻く。
「バイト……はしてないか。もしかして買ってもらったとか?」
ナカジマの推理に、黄池は小さく頷いた。
スズキの口から、たまらず驚きの声が漏れる。
「あ、ああいや、貯金額と親のお金をプラスしただけだから」
「それでも高いものは高いっしょ!」
「まあほら、期末テストでいい成績を取れたから、それで、ね?」
ナカジマとスズキが、真顔になって向き合う。そしてそのまま、無言で黄池を見つめる。
「も、もしかして、これを買うために一位取ったの?」
「えー……ま、まあ、うん」
「すごいっしょ! 何者なの!?」
「お、黄池悟です」
それもそうだ。
「じゃ、じゃあ」
ナカジマがずかずかとバイクへ接近する。そうして、それを指差しながら、
「どうしていきなりバイクに目覚めたの?」
「え、あー……まあ、」
本当に言いづらいのか、黄池の視線が地面へ泳いでいる。
ここはあえて何も言うまい。スズキとナカジマは、黄池の出方を待った。
「……元々、免許を取るつもりではいた。生徒会の足にもなりたかったしね」
嘘、ではないようだった。
黄池の目は、自分たちと向き合っていたから。
「でも、一番の理由は、」
覚悟を、決めたのだろう。
黄池が、両肩を上下に動かした。
「――ホシノと、走りたかったからなんだ」
思わず、ナカジマに顔を向ける。ナカジマも、自分のことを真顔で見つめていた。
「小さい頃は、ホシノと自転車で競ってた。ぜんぜん勝てなかったけどね」
「へえ……」
「それから進級していって、生徒会の都合とかもあって、いつの間にか自転車レースはやらなくなってしまったんだ」
ありそうな話だ、スズキはそう思う。
「それはそれで仕方がないって、そう思ってた。思ってたんだけれど」
ちらりと、バイクへ目配せして、
「やっぱりホシノの走りっぷりを見ていると、心がどうしても刺激されてしまうんだ」
スズキと、ナカジマと、視線が重なった。
そして黄池は、力強く頷いた。
「だから僕は、ライダーになるって決めた」
黄池が、バイクのシートにそっと手を置いて、
「ホシノ」
空気が震えた、と思う。
「自転車レースでは全く勝てなかったけれど、今度こそは君を追い抜きたい。これは、医者になる事と同じくらい大事な目標でもあるんだ」
「……どうして、そこまで?」
ナカジマが、ぽつりと質問した。
「どこまでも、誰よりも速いホシノは、ずっと前から僕の憧れなんだ」
スズキから、ナカジマから、言葉がふたたび失われた。
そして黄池は、胸に手を当てて、
「だからこそ、このバイクでホシノに勝つ。ホシノみたく、速くなりたいんだ」
きわめて、真剣な顔つきになって、
「嘘は言っていない。この命に誓う」
そう、宣言してみせた。
――予感めいたものを抱いたスズキは、隣に居るホシノへ視線を向け、
ホシノは、黄池のことだけを見つめていた。太陽のような眼差しで。
あまりにも眩しくて、声が出そうになる。
いまのホシノの顔は、フォーミュラトラックへ思いを馳せるスズキとほぼ同格だ。
そしてホシノは、音も立てずに黄池へ歩み寄り、
「ほ、本当、なのか?」
「うん。いま言ったことは、全部本当だ」
「わ、私と走りたくて、勉強して、こんなイカしたバイクを買ったのか?」
「う、うん」
スズキが、首を伸ばしてホシノの表情を覗ってみる。
――自分の目と口が、まん丸になった。
「……そうなんだ……」
まるで大人のように、心穏やかそうに微笑んでいたから。
――思う。高校一年生として思う。
「な、なあ悟!」
「うん?」
「これ、どこで整備するつもりなんだ!?」
「あ、あー、やっぱりバイク屋さんか、あるいは男子自動車部にお願いしてみるつもり」
そうして視線を、ホシノと黄池へ移す。
「もしかして、まだ確定はしていないのか? 整備先」
「そうだね」
「そっか……わかった! じゃあ私に任せろ!」
「え、どういう?」
「実はガレージつきのシェアハウスへ住み込むことになってな。そこでなら、悟のバイクを整備できる」
「え、ええ!? いやいいよそんな、悪いよ」
「いいからいいから。こんな立派なクラシックバイクを整備できるなんて、腕が躍るよ!」
「……そ、そう? ホシノに整備されるなら、いい、かな」
「本当か!?」
「あ、うんうんうん。ホシノだもん、信頼できる」
「っかあ……そっか……」
黄池とホシノは、どこまでも笑いあっている。会話のエンジンも、これまで以上に回っていると思う。
ナカジマが、純真な顔で「なになに?」と聞いてくる。
「ああ、でも、タダで整備させてもらうのは悪いな……」
「いやいやいいって、相変わらずまじめだなあ」
「そういうわけにはいかないよ。頑張って勉強して身につけたスキルを、無償で奮ってもらうなんてよくないことだ」
「あ……う、うん」
「といってもお金は……学生同士だしな……」
「……! じゃあさ、一回整備してもらうごとにさ、私とレースをするってのは?」
「え、いいの?」
「もちろん! あ、あー、さすがに自分本位すぎるかなー?」
「いや、いい! それで是非頼むよ、僕もホシノと走りたいからね」
「そ……そか! そっかぁ……」
黄池とホシノは、いつまでもどこまでも笑い合っている。会話のエンジンも、これまで以上に回っているとしか思えない。
――スズキは、二人の世界からそそくさと離脱する。うれし顔で場を見守ってたナカジマへ、「ねえ」と声をかける。
「ん、何?」
「あのさ、勘違いだったら申し訳ないんだけれど」
だからスズキは、いち高校生として察したのだ。
「……あの二人ってさ」
「うん」
「――お付き合い、してるの?」
瞬間、ナカジマがめっちゃ咳き込んだ。
何事かとホシノと黄池が振り向いてきたが、スズキとナカジマは苦笑いで何とか場をごまかしきった。
――引き続き、ホシノと黄池の会話が再開される。
「……す、スズキちゃん。いまのは、どういう?」
「え、そう見えたんだけれど……違った?」
心底動揺したのだろう。普段は母のような微笑みを絶やさないナカジマだが、今となっては急斜面を登りきったような顔を露わにしていた。
「い、いやあ、ふたりは友達だよ、友達」
「あ、そうなの? じゃあ間違いか……ご、ごめんね?」
「い、いや、べつに、」
そうしてナカジマは、二人へ視線を向ける。
「――それにしてもシェアハウスって、もしかしてナカジマとスズキと三人で暮らすのかい?」
「うん、一応四人まで暮らせるんだけれどね」
「そっか……なんというか、良かったな。楽しそうで何よりだ」
「暇ならいつでも遊びにおいでよ、何なら整備してくついでにさ。歓迎するよ」
「い、いやほら、女子寮扱いになるから……」
「あ、そっか……だめか……」
ホシノと黄池が、ふたりしてため息をつく。
ナカジマは、にっこりと二人を見守っている。
「……ちょっと待ってろ、ルールの穴を探してくる」
「えっ」
ホシノが、猛烈な勢いで生徒手帳を取り出す。黄池が、すごい困った顔をさらけ出す。スズキは、勢いに圧されるがまま唸る。
――モタスポ好きは、レギュレーションのスキを突けてようやく一人前になれるのだ。
一方のナカジマは、にっこりと二人を見守っている。
「よし」
チェックし終えたホシノが、ご満悦といった顔で生徒手帳を閉じる。
「学校に公認された活動の範囲内であれば、男女とも寮の敷地内に入っても良い。ただし、常識は厳守すること」
「……つまり?」
「シェアハウスを第二の部室にして、整備をフリーで受け付ける。これで生徒会も許してくれるだろ!」
「ええ……」
ホシノが「いいよな?」とナカジマに視線を向ける。
一方のナカジマは、にっこりと二人を見守っている。
「てなわけだから、だから暇ならガレージへ遊びに来いよ、な?」
黄池は、納得がいってなさそうな顔で唸り声を上げ、
「……わかった。お言葉に甘えさせてもらうよ」
了承した、生徒会員なのに。
その答えに対し、ホシノはめちゃくちゃご機嫌そうに笑顔を咲かせ、
「よし! 放課後でも、休みの日でも、いつでも来いよ?」
「わかった」
ホシノと黄池が、共に楽しそうに微笑みあう。
一方のナカジマは、にっこりと二人を見守っている。
「……それにしてもほんとう、いいバイクだなあ」
「あ、あー、触ってみる?」
「い、いいのか!?」
「もちろん。ホシノに整備してもらうんだし、ね」
「そ、そか……そか……」
まるで宝石を扱うかのような手つきで、黄池のバイクにそっと触れていく。
「綺麗だ」
「そうかな?」
「うん。白ってのもいいな」
「好きな色なんだ」
「ああ。だよな、人を救う色だもんな」
「うん」
純白のガソリンタンクに指を這わせていたホシノが、ふわりと、黄池へ視線を移す。
「……このクラシックバイクは、間違いなく悟のものだよ。そんな感じがする」
「そうかな」
「そうさ」
「そっか。……そういえばホシノは、まだバイクは持っていないのかい?」
「うん。今度の休日に買うつもり」
「へえー……あ、じゃあさ、その、僕も一緒に付き合ってもいいかな?」
「えっ? い、いいのか? 忙しくないか?」
「時間は作っておくから」
「そ、そっか……き、気を遣わせて悪いな」
「い、いや、どんなバイクを選ぶのかなって、興味があるし……」
「……あるのか? 興味」
「あ、ある。ホシノを追い越すのが、僕の目標だし」
「ふ、ふーん……」
……、
「スズキ」
微笑したままのナカジマの首が、呪い人形のようなぎこちない動きでスズキに向いてくる。
スズキは笑顔を張り付かせたままで、「なに?」と一言。
「――ホシノさ、かわいい顔してる」
その言葉に、スズキは同意するように「うん」と応えた。
ナカジマとホシノと黄池は、これまでに長い長い付き合いを経てきたはずだ。ずっと友達でいよう、そう誓いあったに違いない。
ナカジマは特に、そう思っていたのではないだろうか。
――けれども黄池は男で、ホシノは女の子だ。何らかの拍子で恋に引っかかっても、何ら不思議ではない。スズキの友達の中にも、いつの間にやらカップルになっている者もいたし。
改めて、顔を向き合わせているホシノと黄池を見る。
恋とは、目と目が合うたびにひっそりと芽生えてくる感情だ。あとはほんのちょっとの刺激があれば、その花は否応なく咲いてしまう。
漫画にしろ、ドラマにしろ、自分の友達にしろ、男女がある限り「それ」からは逃れられない。レースばかりの自分だけれど、これぐらいはいつの間にやら知っていたんだ。
まだ、自分は恋したことないけどね。
「……ナカジマ」
スズキの呼びかけに、ナカジマがこくりと頷く。
「あとで聞いてみるよ。彼に抱いている気持ちを」
ナカジマが、重く重く首を振った。
――ホシノのあんな顔を見せられたら、このまま放っておけるはずがないっしょ。
□
ホシノにあれこれ質問した結果についてだが――
やっぱりホシノは、恋する十五歳の女の子になっていた。