きみはかっこいい   作:まなぶおじさん

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自動車部はちゃんとねて

 あっという間だった。

 七月に入って、大洗学園艦の命運がかかった高校戦車道全国大会が遂に始まってしまった。

 

 第一回戦目の相手は、金持ち高校にして戦車道の強豪サンダース大学付属。この組み合わせを知った時は、それはもう生徒会の面々はうなだれてしまったものだ。

 サンダース戦車道といえば、まずは戦車の数が多いこと。そして、戦車の持ち腐れなんか無いんじゃないかというぐらい戦車道履修者が潤沢という点に尽きる。

 対して大洗の戦力はといえば、わずか七両。大会のルールによると、基本は十両までの出撃が認められているらしい。

 戦いは数という基本を踏まえると、これはもう泣ける。生徒会の面々もため息をついたものだ。

 

 あとはもう練度による一発逆転を狙うしかないが、サンダース戦車道は一軍から三軍までのレギュラー制を敷いている。つまるところ、戦車道に関してはこれっぽっちも妥協していないワケだ。

 大洗戦車道はといえば、西住みほ以外は初心者ばかり。今の今まで戦車道は廃止していたから、当然の流れではあるのだが。

 ――リアリストである生徒会の面々は、神棚に向かってひたすらに祈りを捧げていた。もちろん黄池悟も。

 

「まーま、最後までやってみますから。応援よろしくお願いしまーす!」

 

 大洗女子学園の生徒会長である角谷杏だけは、相変わらずの笑顔をつくり、ピースサインまで主張していたが。

 

 □

 

 今や忌々しく見える晴天の下、遂にサンダースとの一回戦目が始まった。観客席で沸く大洗側のギャラリーをよそに、黄池は特設モニターに映し出されるポルシェティーガーめがけ祈願し続ける。

 そして、ついに、

 

「――サンダ-ス、フラッグ車大破! 勝者、大洗女子学園ッ!」

 

 変な声が出た。

 誤審ではないかと耳を疑った。

 おそるおそる特設モニターを再確認してみると、あんこうチームがフラッグ車を撃ちぬいていた。ホシノ達が乗るポルシェティーガーは、一台のシャーマンと相打ち。

 つまるところ、勝ったんだよな。

 ギャラリーを覗う。おじさんやおばさんは大いに拍手し、試合を見に来た梅宮や竹原も、派手な言葉遣いで自動車部を祝っていた。

 そうか、勝ったんだ。

 心から安心して、心から驚いた。

 

「やったな! ホシノの奴、やっぱり大洗一の砲手に……あっ悟が死んでる」

 

―――

 

「先週はすごかったな」

「え、何が?」

 

 平日の朝を迎え、黄池とホシノはいつも通りの通学路を歩んでいる。ただ違うのは、ホシノの機嫌と体調だ。

 清々しく見える晴天の下で、話を振られたホシノは喜色満面の笑みを浮かばせている。これから何を言われるのか、わかりきっているのだろう。

 

「あのサンダースに、よくあそこまで立ち向かえたな。相手は強豪なのに」

「やー、みんな頑張ってくれたからさ。チームワークの勝利だよ」

 

 ホシノがあくび交じりに、嬉しそうに応える。

 

「チームワークか……確かに、みんなの動きが以前よりも良くなってた気がする。いや、良くなったんだろうな、サンダースと渡り合えたんだから」

「えへへ。まーコッチには西住さんがいるからね。常に冷静沈着、最適な攻め方を教えてくれるから、危ないコーナーを曲がりきれたんだ」

 

 黄池は、そうなんだと頷いた。

 

 西住みほのことはよく知っている。元は強豪黒森峰女学園の生徒で、日本戦車道を引っ張っている流派「西住流」の後継者でもあり――本人は、戦車道に蔓延する勝利至上主義を嫌っているとも。

 だからみほは、戦車道が廃止されていた大洗学園艦へ転入した。

 今となってはこうだが、杏曰く「すごいやる気だよ」とのことで、心身の心配は無いらしい。医者の息子としては、みほの現状にはほっとするばかりだ。

 

「そうか……それは、ほんとうに、よかった」

「だねー。やー、みほさんには本当に頭が上がらないよ」

「うん」

「……あ、でも」

 

 そこでホシノが、手にしていた学生鞄を開ける。そうして取り出してみせたのは、一枚の透明なファイルで、

 

「! そ、それ、まだとってたの?」

「え、当たり前じゃん。これのお陰で、『レオポンさん』が目指すべき道筋が見えたわけだし」

 

 しわや汚れが目立ってきた、自作のレオポンさん改善レポートだった。

 それを見て、なんだか恥じらいめいた感情が芽生えてくる。立派な経験者になったホシノに対して、ど素人が今更なアドバイスをかましているようなものだからだろうか。

 

「それはもう、いいよ。欠点とか、改善されていると思うし……」

「いやいや。行き詰った時とか、初心に還りたい時には、こういったマニュアルが必要になるんだよ」

「西住さんのほうが的確なアドバイスをしてくれると思う」

「そうかもしれないけど。でもわたし、私たちのクセをよく知っているのは悟の方だろ?」

「……まあ、一応ね」

 

 これ以上、反論はしなかった。

 こうなったホシノは、姿勢も意見も決して譲りはしないのだ。こと「お手柄」においては、よく厳選する。

 

「だから、このレポートは永久保存しておく。捨てろって言われても聞かないからね」

「わかったわかった」

 

 黄池は苦笑いする、ホシノはあくびを漏らす。

 みんなしてレポートを読み込んでくれているのか、レポートはすっかり汚くなってしまっている。それでもホシノはレポートを手放そうとはしないし、こうしてファイルにまで入れて保管してくれている。

 レポートを書いたかいが、あったというものだ。

 心から、そう思う。

 

「大切にしてくれて、ありがとう。ホシノ」

 

 だから、言わなければならなかった。

 黄池の一言を耳にしたホシノは、面食らったかのように口を丸く開けて、ほんの少しそのままでいて、

 

「……この勝利は、大洗戦車道のみんなと、悟のものだよ」

 

 そうか。

 無言で、うなずいた。

 ――そうして、気まずくはない沈黙を数分ほど抱える。いつもの横断歩道を通って、犬を連れた老婆とまた会釈を交わしあい、ようやく大洗女子学園が見えてきて、

 

「……ふぁーあ」

 

 ホシノが、あくびとともに背筋を伸ばす。

 そんなホシノを見て、黄池は「なあ」と呼びかける。無表情な声が出た。

 

「え、なに?」

「その……今日はずいぶんと、あくびが多いなと」

「あ、あー……」

「夜更かしでもしたのか?」

「え? あ、いやー、その」

 

 ホシノが、露骨に目を逸らし始める。

 あまり詮索はしたくはないが、体調に関してはやはりどうしても見逃せない。ホシノが相手ならなおのこと。

 

「ホシノ」

「……まあ、その、整備に熱中になりすぎて、つい、ね?」

 

 てへ。ホシノが、おどけるように小さく舌を出す。

 正直めっちゃめんこかったが、意地でも真顔を貫き通す。

 

「ホシノ」

「な、なに?」

「ホシノ達の整備のおかげで、大洗の戦車群は今日もばっちりなんだろう。それはよくわかる」

 

 ホシノが、気まずそうに口元を緩める。

 戦車は機械だ、それも戦闘用の。それ故に、常日頃の整備が欠かせないものであるという事も素人ながら理解しているつもりだ。

 だが、やはり体調面に関しては口を出さざるを得ない。それが黄池悟の義務だ。

 

「ただ、絶対に無理はしないでほしい。そもそも大型車両の整備なんて、本来は一日で済むようなモノじゃないだろ?」

「ま、まあねー」

「だから無理しないで、熱中しすぎないで、よく休みよく寝て。じゃないと体を壊して、レースができなくなっちゃうよ」

「わ、それは勘弁勘弁」

 

 そしてホシノが、そそくさと校門へ早歩きする。

 

「気を付けるから、何も心配しないでね」

「あ、ああ」

「あと、今日はレースに出るつもりだから。時間があったら一緒に走ろうね!」

「わかった」

 

 大変だな、と思う。

 レースは出る、戦車道も歩む、しかも大型車両(戦車)を七両も整備する。とてもでないが、自動車部のバイタリティは凄まじいものがあると思う。

 だから自分は、生徒会として、せめて、

 

「ホシノ」

「うん?」

「戦車道、楽しんでくれ」

「――あいよ!」

 

 なけなしの言葉に対して、ホシノはまっすぐ応えてくれた。弾けるような笑顔で。

 

 ホシノが大洗女子学園の世界へ消えていく。登校中の女子生徒達が、黄池の横を何でもなく通り過ぎていく。

 ひとまず呼吸をおいて、黄池も大洗学園へ足を進めた。

 

 □

 

「やあやあ皆の衆」

「お、ホシノじゃん。元気してたー?」

「元気元気ちょお元気」

 

 放課後、走り屋専峠にホシノがやってきた、もちろん愛車込みで。

 それを見たライダー達は、我先にとホシノを取り囲む。

 

「大会見てたぜー、ホント何でもできるなお前は」

「私らライダー達の星……いえ、スピードスターね」

「こりゃ大洗一の砲手も夢じゃないんじゃね?」

 

 矢継ぎ早にあれこれ言われながら、ホシノもまんざらじゃない顔で質問に応えていく。

 まるで記者会見のようだったが、あながち間違いでもない気がする。何といったってホシノは、強豪相手を打ち負かした大洗戦車隊のエースであり、学園艦のすべてを背負わされた女の子なのだ。

 

「そーいやナカジマたちは?」

「ああ、今も戦車の整備をやってるよ。当番制ってやつで、今日は私が『お楽しみ』をする日なの。まあこの後で整備の手伝いはするんだけど」

「おー! すげえ体力してんなお前。何食ってんの?」

「カツカレー」

 

 整備という言葉を耳にして、黄池の眉がぴくりと動く。まさか今日も徹夜というわけじゃないだろうな。

 ――そこで、ホシノと目が合った。黄池が何かを言う前に、ホシノはにこにこと歩み寄ってくる。

 思わず、目を逸らしそうになる。

 なんて、かっこわるい。

 

「よ、悟」

「やあ」

 

 何とか、平然と挨拶はできたと思う。

 

「……? どしたー、何か浮かない顔してるぞー?」

「そ、そんなこと。それよりホシノ、今日は大丈夫なのか?」

 

 内心を見抜かれたようで、思わずたどたどしくなってしまった。

 それでも黄池は、なんとか平常心を保つ。早朝に見たホシノの不調を、改めて問いただしてみる。

 するとホシノは、これまた嬉しそうに笑って、

 

「昼寝して復活した!」

「ほ、ほんとかぁ?」

「ああ。自動車部のみんなも、そうやって復活したよ」

 

 ということは、ホシノ以外のメンバーも眠気がかっていたというのか。

 黄池は、ため息をつく。

 

「……今夜はちゃんと寝るように」

「わーってるってー。それよりもホラ、レースしようよレース」

「う、うん」

 

 半ばごり押しされる形で、ホシノとのタイマンを行うことになった。

 結果はもちろん引き分け、特にこれといったトラブルはなし。

 

 今日も、大洗学園艦は平穏だ。

 

―――

 

 それから、数日が過ぎた。

 

 あと少し経てば、いよいよ二回戦目。相手はアンツィオ高校となっているのだが、強豪という情報は一切入ってきていない。

 それもそのはずで、アンツィオ戦車道は三年前からスタートしたばかりの出来たてらしかった。それ故に、戦車道に関する実績はほぼ皆無に近い。

 そう、戦車道は。

 アンツィオ学園艦はとにかく美術面に優れていて、絵や歌は強豪レベル、特に料理に関してはプロといっても差し支えがなく、審査員も一口でブラーヴォとハジけるほどだとか。

 それ故に、廃艦となる心配はまったく無いのだそうだ。

 うらやましい。

 しかし大洗の方も、指をくわえて二回戦目を待ち続けるわけじゃない。相手に戦車がある限り、決して油断などはできないのだ。

 大洗戦車隊は今日も戦車道を学び、やがて模擬戦に臨み、そして次の日も明後日も試合を模擬戦を繰り返していく。お陰で大洗戦車隊は、めきめきと実力を身に着けていった。

 

 が、

 

 ここで黄池は、やはりというか当然の疑問を抱く。

 なぜ整備員も雇っていない大洗が、こうも毎日のように戦車を動かせているのか。

 答えは、すぐにわかった。

 

「おはよぉ、悟ぅ」

「おはよう。……こら、そんな調子で学校は大丈夫なのか?」

「ヘーキヘーキぃ」

 

 わかってしまった。

 

「なあ、ホシノ」

「ん~?」

「昨日、何時に寝た?」

「ん~、十二時」

「じゅっ」

 

 そこでホシノは、やべっという顔を露骨に晒して、

 

「い、いや、ちゃんと寝たから! 寝たから!」

「……なあ」

 

 黄池は、人差し指で己が額を支える。

 

「大会に向けて、頑張っていることはわかっている。でもさすがに、徹夜はやめるべきだよ」

「き、厳しいですなあ」

「厳しくもなるよ。なあホシノ、戦車道はあくまで教育の一環であって、体を痛めてまで行うものじゃない。自分のペースで行ってもいいんだ」

 

 嘘つき。

 

「い、いやー……その、あの」

「うん」

「ま、まああれだよ。せっかくの勝負事なんだし、優勝してみたいかなーなんて」

 

 ホシノが、気楽そうな調子で笑う。

 そのホシノの言葉に、黄池はしみじみ納得してしまった。ホシノは昔から競争心が高い女の子であったから。

 ――フラッシュバックする。自転車部で、惜しくも二位だったあの瞬間。

 

「その気持ちは、わかる」

「でしょー?」

「でも、無理はしちゃだめだ。ホシノが体を壊してしまうところなんて、僕は絶対に見たくない」

「う……」

「今日はちゃんと寝てほしい。頼むよ、頼む」

「……うん」

 

 うなずいたホシノが、しばらくの間、口を閉じ続ける。

 黄池としては、返事はそれだけでも十分だった。

 

「……ほんと、あんたはさ」

「なに」

 

 そしてホシノは、白い歯を見せながらにこりと、

 

「なーんでもない」

「……そっか」

 

 この笑顔が見られなくなってしまうなんて、僕のホシノが倒れてしまうなんて、それだけは何としてでも阻止しなければならない。

 そのためなら自分は、生徒会の権力だの何だのを行使してやるつもりだ。

 ――間もなく、大洗女子学園の校門が見えてくる。女子生徒の姿も見受けられるようになってきて、そろそろ別れの挨拶を切り出そうと、

 

「悟」

「うん?」

「今日はごめんな、心配をかけさせて」

「いや、いい。とりあえず休んで、一区切りつけよう」

「うん。……今日は整備は休む、レースもお預けにする。事故ってみんなに迷惑なんかかけたくないし」

「ああ、それが一番いい」

「だね。……あ、ナカジマ達にもこのことは伝えておくから」

「うん」

 

 そうして、ホシノと別れていく。その背中は、やはりどこか疲れているように見える。

 ――自分は、正しいことを言えたはずだ。

 生徒会員である黄池悟は、何度も何度もそう確信しようとした。

 

―――

 

 アンツィオ女子寮のベッドに、仰向けに寝転がる。

 何もない天井を眺めながら、ぼうっと思う。

 ようやく、一回戦目を突破できた。

 ほんとう、ようやく勝つことができた。

 アンツィオ戦車道の隊長を務めてはや三年、決して楽な道ではなかったと思う。良くも悪くもノリと勢いで動き回るものだからコントロールが難しくて、作戦の成功率も揺れ幅がすごくて、それでも試合終了後に食べる飯の味がまた格別で――この三年、とても楽しかった。

 

 さて、

 

 あと数日もすれば、西住みほ率いる大洗戦車隊と戦うことになるのか。

 出来たてのチームらしいが、強豪サンダースを打ち破ったことはよく把握している。戦車道界隈ではやれ大番狂わせだの、やれサンダース不調だのと噂しているが、自分はそうは思わない。だって奴さんの隊長は、「あの」西住流継承者の、「あの」西住みほなのだから。

 

 だから、大洗戦車隊の跳躍には納得がいく。

 問題は、ポルシェティーガーを乗り回す「ナンバー2」の存在だ。

 

 大洗戦車隊は、確かにオールマイティに強い。けれどその中で、最もいぶし銀に輝いているのがポルシェティーガーのチームだと思う。

 とにかく、やることなすことが「上手い」のだ。当てるべきところで当てるし、最短コースは突っ切るし、おまけに走行中に戦車を整備し始めるし、ハッキリ言って油断ならない相手だと思う。

 初心者であるはずなのに、なんであんなに強いんだろう――そう思って、自分はポルシェティーガーの面々について独自に調査してみた。といっても、大洗戦車道の公式ぺージを眺めただけだけれど。

 けれどもこれが大当たり、疑問はたちまち氷解した。

 ポルシェティーガーの面々は、誰もが自動車部に所属していたのだ。

 ――なあるほど、と思う。

 それならあの操縦テクにも、納得がいく。胆力に関しても、日頃のレースで慣れっこのはずだ。まあ走行中の整備はトンデモだったけれども、ギリギリうなずける。

 ベッドの上で寝転がる。

 ナカジマ、ホシノ、スズキ、ツチヤ、か。

 これは、厄介なやつらと当たってしまったな。

 二回戦目を突破できる確率は、おそらくまずまずといったところだろう。あとはノリと勢いに任せるしかない。

 今日は早いところ寝てしまおうか。そう考え、部屋の電気を消そうとし、

 

 携帯が、震えた。

 もしかして。自分は、充電中の携帯を手にとる。

 ――やっぱり。

 

 ホッシー:こんにちは、ちょびさん。いまだいじょうぶですか?

 ちょび:どうしました?

 ホッシー:まず、聞いて欲しいことがあります。……整備の件で

 

 ベッドの上に腰かけながら、ため息をつく。

 やっぱりこの人、徹夜で整備をしていたのか。

 

 ホッシー:体を壊しかけました

 ちょび:やっぱり。体力には限度があるんです、ましてやあなたはうら若き乙女なのに

 ホッシー:あ、あはは。……でも、徹夜はもうやめると決めました

 ちょび:なぜ?

 ホッシー:イエローが、指摘してくれたからです

 ちょび:……そうですか。

 

 笑みが、そっとこぼれる。

 ほらね。あなたのことを想っていなければ、そんなふうにはしてくれないんだよ。

 

 ホッシー:もう少しで試合も始まりますし、コンディションは整えておかないといけませんよね

 ちょび:ですね

 ホッシー:ちょびさんから教わったイロハを活かしきりたいですし

 ちょび:そうです。イエローさんにも、いいところを見せないと!

 ホッシー:ですね!

 ちょび:そうです!

 

 タイピングに熱が入り始める。ホッシーの恋は、なんとしてでも報われて欲しいから。

 

 ホッシー:二回戦目も、必ず勝ちます!

 ちょび:素晴らしい!

 

 ホッシーが高校戦車道全国大会へ出場したことは、以前のやりとりで把握している。

 真っ先に戦果を報告してくれた時は、それはもう嬉しくて仕方がなかったものだ。

 

 ホッシー:どんな相手だろうとも、私たちのドライビングテクで押し切ります!

 ちょび:ブラーヴォ!

 ホッシー:相手がノリと勢いを武器にするなら、こっちはノリと勢いと恋で対抗しますよ!

 ちょび:さすが!

 ホッシー:宣告します! 私たちは必ず、アンツィオ女子高等学校を追い抜いてみせますッ!

 ちょび:いいですね、これは私たちも負けていられません!

 

 うん。

 

 ちょび:ホッシーさん

 ホッシー:はい

 ちょび:私たちが通っている高校を、同時に教えあいませんか?

 ホッシー:はい

 ちょび:じゃあ三秒ルールで

 

 1、2、

 

 ホッシー:大洗女子学園

 ちょび:アンツィオ女子高等学校

 

 携帯をベッドの上に放る、自分も身投げする。

 ふぅ―――――。

 戦車隊隊長の頭脳が、冷静に回転しだす。

 ホッシー=ホシノ、ということなのだろう。

 あれだけ戦車をブン回せるのも、自動車部だからなのだろう。

 つまるところ、ホッシーはポルシェティーガーの砲手を務めているのだろう。

 こんな偶然があるか、と思った。

 でも、まあ、そういうこともあるか、とも思った。

 同じ戦車道を歩んでいる以上、同じ戦車乗りとはきっとどこかで交えるはずだから。

 

 よろよろと、ベッドの上に放置中の携帯を手に取る。

 

 ホッシー:ちょびさん。どうしましょうか

 ちょび:決まっています。同じ戦車道履修者として、礼節を尽くしあいましょう

 ホッシー:はい。……師匠、長い間お世話になりました

 ちょび:ちょび、でいいですよ

 ホッシー:わかりました

 

 締まった。

 時刻も十時を回り始めたし、そろそろ寝てしまおうか。

 おやすみを伝えようと、文字をタイピングし始めて、

 

 ちょび:あ、そうだ

 ホッシー:はい?

 ちょび:せっかくですし、試合が終了したら二人でお話でもしませんか?

 ホッシー:本当ですか!? 実は私も、あなたとお話がしたかったんですッ!

 ちょび:マジですか!?

 ホッシー:マジです!

 ちょび:それは嬉しいですね……面白い話ができればいいのですが

 ホッシー:ちょびさんからは、まだまだ学ぶべきことがあります

 ちょび:えー? 師匠から卒業したのでは?

 

 卒業発言が削除された。

 思わず、笑い声が漏れてしまう。

 

 ホッシー:恋の相談もして欲しいですし、ちょびさんにはこれからもお付き合いしていただきます

 ちょび:仕方がありませんねー

 ホッシー:はい。……では明日も学校ですので、そろそろお開きでも

 ちょび:そうですね

 

 そして、続けざまにタイピングを行い、

 

 ちょび:ガチンコ勝負、楽しみにしていますよ。ぶつかりあいましょう

 ホッシー:こちらこそ。あなたを追い抜いてみせます

 

 口元が歪んでいく、血が騒ぎだす。

 

 ちょび:では、今日はこれで。おやすみなさい、ホッシーさん

 ホッシー:はい。それではまた、ちょびさん

 

 会話が途切れる。

 無言でベッドから立ち上がり、携帯を充電器に差し込んで、部屋の電気を消しては、ふたたびベッドの上で横になった。

 

 ――イエローさん、やっぱりあなたのことが好きなんだね。

 

――ー

 

 久々の本土に上陸して、まずは晴天と強い日差しに出迎えられた。

 最初に黄池が考えたことは、戦車内の温度について。恐らくサウナ状態になるだろうが、モニターに映し出されている大洗、アンツィオの履修者達は誰一人として文句を言うことなく、審判の前でよろしくお願いしますと一礼を交わしあっていた。

 すごいなあ、と思う。

 そして間もなく、アンツィオ女子高等学校との対決が始まった。

 

 この日がやってくるまで、大洗学園艦は実に平穏だった。ギャラリーのおじさんおばさんは好きに応援しているし、友達らしい女子生徒もやや過激なエールを送り続けている。大洗報道部も、慎重な顔をして特設モニターを見守り続けていた。

 日常は、いまも回り続けている。

 生徒会の情報統制が、うまくいっている証拠だ。

 

『ポルシェティーガー、アンツィオのセモベンテを撃破しました!』

 

 アナウンスがスピーカーから反響する、大洗のギャラリーが大きく湧き上がる。

 出場する都合上、今日はホシノの顔は見ていない。徹夜をしていないかの確認を取りたかったのだが、キューポラから頭を出している笑顔のナカジマを見るに、その心配は無いようだった。

 胸をなでおろす。

 徹夜を指摘して以来、ホシノは毎日のように元気いっぱいの表情を見せてくれた。もちろんレースで引き分けを繰り返してきたし、愛車のクラシックバイクも新品同様になるまで整備してくれたものだ。

 ここまでされては、何か報酬を支払いたくなるのが人の性だろう。

 けれどもホシノは、決まってこう言ってくれるのだ。

 

 ――あんたがくれるカツカレーで十分だよ。

 

 自動車部のみんなが、ホシノが倒れるなんて、そんなことは決してあってはならない。

 それは廃艦よりも、恐ろしい。

 

『ポルシェティーガー、アンツィオのフラッグ車と戦闘開始!』

 

 がんばれ、みんな。

 大会を楽しんでくれ、ホシノ。

 

 □

 

『アンツィオ女子高等学校、フラッグ車大破! 勝者、大洗女子学園ッ!』

 

 負けた。一時間すら経たないまま。

 思った以上に大洗は強く、ポルシェティーガーは速くて、結果的に相打ちにへと追い込まれた。さすがはナンバー2、恐るべし大洗女子学園。

 正直悔しいけれど、悔いはない。やれるだけのことはやれた。

 ――表情を崩さず、背筋を伸ばし、審判の前で列をつくる。

 

「双方、礼!」

「ありがとうございましたッ!」

 

 好敵手へ、友へ、戦車道へ一礼する。これにて、アンツィオ戦車道に一区切りがついた。

 ――はあ。

 だめだ、まだ泣くな。

 それよりも、今は、

 

「うむ」

 

 アンチョビは周囲を見渡す。

 緊張の糸が切れたのだろう、この場にいる履修者全員の顔が緩みきっている。余韻に浸っているのか、大空を見上げてばかりの子もいた。

 ――ああ、ぜんぶ終わったんだな。

 そんな空気を、体で感じ取る。

 だから、

 

「皆の衆ッ!」

 

 大声を出したものだから、大洗の履修者たちが驚きの表情を露わにする。大空を見上げていた子は、ワンテンポ遅れてアンチョビの方を見た。

 

「試合、ご苦労! ナイスファイトだった! ……疲れているだろう、お腹も空かせているだろう」

 

 大洗一同は、どよめいたり顔を見あわせたりしている。

 一方のアンツィオ群は、待ってましたとばかりに顔全体を歪ませていた。

 

「だから今日は! 我らアンツィオの料理を堪能するが良いッ!」

 

 眼鏡をかけた子が「へ?」と戸惑うが、もう遅い。

 アンツィオ一同の手によって、まずはテーブルが用意される。そしてあらかじめ用意しておいた食器をカルパッチョが持ち運んできて、続けざまにペパロニがピザをお届けする。他の履修者も、食材だのフォークだの屋台だのを流暢に引っ張ってきて、試合会場が瞬く間に宴会場と化す。

 この流れを見届けていた西住みほが、「はやい」と驚愕する。アンツィオ一同は、誇らしく歯を見せて笑う。

 迅速なる祭りの準備速度もまた、アンツィオきってのワザの一つといえよう。

 

「ふふふ」

 

 アンチョビが不敵に笑う。大洗の面々は、目を輝かせている。

 ――己が手を、真上に掲げ、

 

「さあ、食べてくれッ!」

 

 その手を、食べる許可を下ろした。

 瞬間、「いただきます!」の号令とともに大洗の進軍が始まった。みんなして思い思いの料理を手にとり、そして誰もが「うまい!」と感想を口にしてくれる。

 この瞬間を見られただけでも、大洗と勝負したかいがあったというものだ。

 アンチョビは腕を組みながら、しみじみとうなずいて、

 

「あ、いけないいけない」

 

 まだ自分には、やるべきことが残っている。

 私自身の望みを、今ここで叶えたい。

 ――そう思った矢先に、褐色肌の女の子が嬉しそうな顔をして駆け寄ってきてくれた。だからアンチョビも、女の子のもとへ走って、

 

「ちょびさん!」

「ホッシーさん!」

 

 お互いに強く、抱きしめあう。

 ようやく出会うことができて、なんとなく実感が湧かなくて、心の底から嬉しく思えて、ホッシーの黒髪を指先でそっと撫でる。ホッシーも、同じことをしてくれた。

 

「ようやく、会えましたね」

「そうですね」

「……アンチョビだから、ちょびさんなんですよね? あなたで合ってますよね?」

「はい」

 

 しばらくは、そのまま。

 周囲から興味深そうに注目されるが、友達なんだと後から言えばいい。

 

「……強かったです、ホッシーさん」

「……あなたこそ、最強のドライバーですよ。ちょびさん」

 

 訂正しよう。

 最高の友達だ。

 

「……うん」

 

 抱きしめるのも良いが、このままでは向き合うことすらかなわない。

 だからアンチョビは、ホッシーは、音もなく身を離していった。

 

「――ああ。この人とは親友なんだ、ネットで知り合った」

「そうそう、そうなんだよ。アンチョビさんとは親友でね」

 

 アンチョビの主張を前に、アンツィオの皆は、大洗女子学園の生徒達は、「そうだったんですか」と笑ってうなずいてくれた。

 それだけ聞ければ十分だったのか、皆は宴会の空気へ戻っていった。

 

「さて……ホッシーさんは、高校何年生ですか?」

「え? 三年ですけど」

「同い年なんだ。じゃあ、そういうわけだから」

「――ああ、そっか、そだね」

「うん」

 

 堅苦しいのはナシ、そういうことになった。

 さて。

 ホッシーが気恥ずかしそうに微笑む。アンチョビも、なんて言えば良いのか分からずに苦笑してしまう。

 話したいことが多いと、かえって話題を切り出しづらい。恋も絡んでいるから、ホッシーのことをデリケートに見てしまう。

 対するホッシーも、「ええと」と頬を掻いている。たぶん、自分と似たようなことを考えているに違いない。

 どうしたものかなあと、アンチョビはホッシーの顔を覗って、

 

「ホッシーさん」

「え?」

「徹夜、本当にやめてくれたんだな」

「え? ま、まあ……」

 

 力なく笑うホッシーめがけ、アンチョビは思い切って、正直にこう言った。

 

「爽やかで、とても可愛い顔をしているじゃないか。それを徹夜なんかで暗くするなんて、ぜったいだめだ」

「は――――――ーッ!?」

 

 ホッシーのメタルな咆哮が反響し、同時に両陣営がホッシーをガン見する。

 囲まれたホッシーは、「あっ」、「えとっ」、「いやっ」と狼狽し、手をわちゃわちゃ動かして、

 

「なんでもないっす! ほんとうになんでもないっす!」

「そ、そうそう! なんでもないんだ! うんうんうん!」

 

 リーダーたるアンチョビの弁明もあってか、一同は「そうなんですかぁ」と食事を再開する。

 やはり食べ物の力は偉大である。

 

「……さて」

「はい」

 

 ホッシーが、むすっとした無表情でアンチョビに迫る。正直怖い。

 

「いきなり何を言ってくれてるんだよ。真に受けるところだった」

「……え?」

「え?」

 

 間、

 

「えっ? ホンマ?」

 

 ほんまほんま、アンチョビはこくりと頷く。

 うそうそうそ、ホッシーはぶんぶんぶんと顔を左右に揺らす。

 

「人の容姿に、冗談なんて言えない」

「そ、そんな……いや、私だよ? 可愛いなんてそんな……」

 

 ホッシーが、頬や頭を忙しなく手で触れ始める。

 そんなホッシーを見て、アンチョビが疑問顔で首をかしげ、

 

「どこからどう見ても可愛いじゃないか。しかも爽やか」

「い、いやっ! ホントどこがなのッ!? 私はその、ぜんぜんおしとやかじゃないし!」

「スポーティで可愛い、じゃあダメなのか?」

「い、いや、その……かわいい、なんて言われたこと……いや、悟からは綺麗って言われたか……」

 

 アンチョビは、悟――イエローめがけ心のサムズアップをした。

 それにしても、まあ、

 このホッシー、予想以上に可愛い子じゃないか。天然の魅力に気づいていないところなんて特に。これはモテるタイプだろう。

 

「私はアンツィオ人だから、美術にはちょっとうるさいんだぞー」

「は、はい」

「そんな私から見ても、お前は爽やかでかわいい。自信をもってくれ」

「う……う……」

 

 冗談抜きで言った。

 アンツィオ学園艦は、ノリとメシとナンパの本場と評されるくらいには人とよく関わりあう世界だ。だから自然と、さまざまな「顔」を間近で眺めてきた。

 その中でもホッシーは、素でモテる顔つきをしていると思う。しかもズルいことに、どこか男性的な雰囲気をサラッとかもし出しているのだ。勇ましい女の子に弱い男性は多い。

 更にホッシーの強いところは、それでもやっぱり乙女チックな点に尽きると思う。異性と手をつなぐだけでも大事件、初恋こそ人生のすべて、大真面目にそう考えてしまうのがホッシーという女の子なのだ。残念だったな、イエローさん以外の男性諸君。

 ――まったく。

 イエローさんがどういう男なのか、自分はよくわからない。

 けれども、

 

「そ、そうなのかな……あいつに、かわいいって思われてるのかな……だったらいいなあ……」

 

 善い人なんだろう。だってホッシーは、いつもあなたのことばかり見ているんだから。

 ――ホッシーの肩に、手を軽く置く。

 

「イエローさんの気持ちを、憶測で口にはできない。でもホッシーさんは、かわいいと思う」

「う……ど、どうも……」

「まだ不安か?」

「しょ、正直……実感が……」

 

 実感か。アンチョビは、どうしたものかと頭を回し始め、

 !

 アンチョビの口元が、嬉しそうに曲がる。

 よからぬ気配を察したのか、ホッシーが気の抜けた声とともに後ずさりした。

 

「落ち着いてホッシーさん。アンツィオ流の、いい方法があるんだよ」

「そ、そうなの」

 

 そうそうそうそうなの。アンチョビは、喜色満面の笑みとともに何度もうなずく。

 

「後で渡すね」

「わ、渡す? 何かブツを?」

「そう、ブツを」

「こ、怖くない?」

「こわくないこわくない」

「し、信じるからね?」

「信じてくれ」

 

 ようやく、応酬が鳴りを潜める。

 ホッシーはじいっとうつむいて、しばらくはそのままで、やがて上目遣いになっていって、

 

「……あの」

「うん?」

 

 宴会は未だ盛り上がっているのか、カラオケ対決まで始める者も現れた。

 先陣を切っているのはペパロニらしく、ド派手なイタリアンメタルが会場を沸かせる。

 

「どうしてちょびさんは、そこまでしてくれるの?」

「え? あなたに、幸せになってほしいから」

 

 考えることもなく、あっさりと口にした。

 言葉を咀嚼しきれていないのか、ホッシーが目を丸くして沈黙し始める。

 そしてアンチョビは、笑顔のままでホッシーの始動を待ち続けていた。

 

「……ちょびさん」

「うん」

「あ、ありがとう。あなたと出会えて、ほんとうによかった……」

「私こそ。あなたと出会えて、とても嬉しいよ」

 

 そしてちょびは、そっと、手を差し出す。

 

「さあ、一緒に食事をとろう。いろいろ考えることはあるだろうけど、いまは勝利を祝って、ね?」

「――はい!」

 

 恋という魔物は、自らが持つ自信をだんだんと食べていってしまう恐ろしい存在だ。

 けれどやっぱり、それでも、かけがえのない困ったやつなんだ。

 ホッシーの気持ちは、とてもわかるよ。

 

「いやあ、ちょうどお腹が空いてて」

「そうだろうそうだろう? ご自慢のアンツィオ料理、ご堪能あれ!」

「オッケ!」

 

 だからこそ今は、楽しいことだけをしよう。恋は後回しにしちゃおう。

 だいじょうぶ。イエローさんも、あなたを待ってくれているだろうから。

 

「……それにしてもちょびさん」

「うん?」

「ずっと思ってたんだけど」

「うん」

「……すごい美人、だよね」

「はあ゛―――――――ッ!?!?!?」

 

 確信した。

 この人モテるわ。

 

―――

 

 鼻歌交じりで朝食を作り、「快晴でしょう」という天気予報ににっこり笑い、学生服をぴしっと着替え学生鞄を片手に持ち、実に爽やかな声で「いってきまーす」を告げる。

 見てわかる通り、黄池は上機嫌だった。

 順調に二回戦目を勝ち抜いたから、というのもある。しかして一番の理由は、ホシノ達がアンツィオの大将を討ち取ったからだ。

 生徒会としても喜ばしいし、黄池としてもめちゃくちゃ嬉しい。やっぱり自動車部は、ホシノは何をやらせてもすごい。車輪がついたものなら、何にでも負けないのだと冗談抜きで思う。

 軽やかな足取りで寮の二階を下っていって、なんとなくあついなーとつぶやき、寮の門まであと少し、

 

「さーとるっ」

 

 やっぱり、待ってくれていた。

 ホシノが、門ごしから手を小さく振っている。今日も元気なのか、いつも通りの笑みをにじませていた。

 

「やあ、おはよう」

 

 いつも通りに挨拶を交わして、いつも通りに門を開けて、ホシノを遮るものがなくなって、

 

「? ど、どうしたの? 悟」

 

 そして、黄池悟のいつも通りが一時停止した。

 ふたたび、ホシノの「顔」を確認する。

 改めて、ホシノの顔をまじまじと見つめる。

 ホシノがどうしたんだよーと困惑し始める中、黄池は生真面目な顔で深呼吸して、

 

「ホシノ」

「な、なに?」

「く、口紅か? それ」

 

 黄池の指摘に、ホシノは照れくさそうに苦笑いする。

 

「ま、まあ……ど、どうかな?」

「いい」

 

 即答だった。

 ホシノの唇は、ベージュ色の口紅に彩られている。いつものホシノの違うところは、それだけ。

 だからこそ、逆に存在感が引き立っている。見るべき箇所が一点化しているからこそ、新たな姿を容易に受け入れられやすい。

 そしてイメチェンというものは、決して「ほんのちょっと」には留まらない。唇を少し変えただけでその人の目つきが、表情が、印象が、やはりどうしても違うものに見えてくる。初恋の人が相手ならば、なおさらだ。

 そして黄池は、戸惑いはすれどすぐに感想が出た。

 それを耳にしたホシノは、顔ぜんたいを赤くしながら、両頬に手を添えて、視線を地面めがけひかえめに傾けはじめる。

 

「そ……そう、なの?」

「あ、うん」

 

 セミの鳴き声が、青空によく反響する。ホシノの背後で、白い自動車が音を立てて通りすがる。思わず自動車のものかと動揺したが、たぶん違うと思う。

 嘘みたいに、歩道には誰もいない。ここにいるのは、自分とホシノだけ。

 まるで、夏の1ページだ。

 そんなでたらめなことを、沈黙の中で想う。

 

「ほ、ホシノ」

「うん? な、なに?」

 

 ホシノからの上目遣い。

 はやる鼓動をぐっと堪えながら、もっとも聞きたかったことを口にする。

 

「ど、どうしたの? その唇」

「う、うん、ああ、これ、これね……」

 

 ホシノが、人差し指だけで唇にそっと触れ、

 

「まあ、その……いい歳だし、イメチェンでもしようかな? って」

 

 この言葉に、黄池はなんとなく納得した。

 ホシノも自分も、もう18歳だったから。

 

「……そっか」

「うん」

「……きれいだ」

「……そっかぁ」

 

 ホシノが、ほっとしたように微笑んでくれた。

 それを見られて、黄池も安堵する。胸すらなでおろす。

 

「あ、でも、校則で引っかからないかな……」

「ああ、着いたら落としておくから」

「なるほど」

 

 それなら、まだギリギリの範疇、だとは思う。

 そして黄池は、「あれ」と首をかしげて、

 

「あれ、僕に見せるだけでいいの? いや、ナカジマ達にも見せてるかもしれないけど」

「あ、ああ、いいのいいの。見せたい人には見せたから」

 

 ホシノがそう言うのなら、これ以上は何も言うことはない。

 ――内心は、とても心躍ってたけれども。見せたい人に、自分が含まれているだなんて。

 

「じゃ、じゃあ、行こうか? 悟」

「あ、ああ」

 

 ホシノは笑う、目に見える気恥ずかしさを残しながら。

 ホシノはもう、ただの幼馴染ではない、友達でもない。僕の隣にずっといてほしい、かけがえのない乙女そのものだ。

 

―――

 

 そして次の日。口紅をつけたホシノが、また玄関先で出迎えてくれた。

 

 

 

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