鞘に納めし一振りの刀。
刀の鍔を、鞘を持つ手の親指で押して少しだけ刃を見せれば。私の白い親指の腹を刃に押し当てる。
ゆっくりと波紋のように流れる血。赤い血は熱を持ち、鞘の中で滴る。そしてそれは、炎となる。
手入れのされた庭。今日も満月は美しく。緩やかな風が私の頬と髪を撫でる。
風がやめば、私は刹那的に開いた右手で柄を握る。優しく、力を込めず。けれど放さぬよう。
抜刀すれば、銀に鈍く光る刀など存在しない。赤黒い炎、それを纏った死を齎す刀。
古く、葦の地ではそれを不死斬りと呼んだ。死ねぬものを殺す必殺の一撃。
まるで習字の達人が如く、刀の軌跡は黒ずみ空を死で穢す。これは唯の炎ではない。私の血の中に流れる怨嗟、呪い、人間性。それが形付いたもの。
振り切った後、斜め上段に刀を構え左手を刃に添える。そして掌を這わせ、傷付ける。血が滴る。
より一層燃え上がる炎は、先程よりも悍ましい。またそれを振り切れば、空を覆うが如くの一閃。
秘伝、不死斬り。溜めに溜めた瘴気の前に敵の巨大さは関係が無い。弱きも強きも纏めて殺し尽くすのみ。
「ふぅ! 久しぶりにやったが、案外様になってるものだ」
残心の後、左手でじっとりと額にかいた汗を拭う。自らの血を払い、納刀すれば私はルンルンでスキップしながら工房へと向かう。
美少女がスキップすると見ていて気持ちが良いだろう?
工房に入れば、私の愛しい者がちょうど朝食をテーブルの上に並べていた。今日のメニューはトーストにスクランブルエッグ、そして紅茶とシンプルだ。
「お帰りなさい、狩人様。朝食ができています」
席に着くと私は笑顔で感謝を述べる。最初こそ本当に酷いものだった。彼女に食事は必要がないから、味覚というものに疎いのだ。
だが今では良い塩加減と胡椒の塩梅。そして紅茶に入る砂糖は私の好みの量だ。
「いただきます。はむぅ」
スクランブルエッグをスプーンでトーストの上に盛り、齧り付く。作法など知らぬ、私は私の好きなように食べる。彼女もそんな私を見て微笑んでいる。
食事の途中、愛すべき彼女は不意に口を開く。
「狩人様、鍛錬の方はもう良いのですか?」
んぅ? とあざとく首を傾げた後に納得する。彼女が言っているのは不死斬りの事だろうか。
「うん、斬れ味も悪くなってないからもう良いかなって。そもそも、鍛錬していたわけではないからね」
「ああ、狩人様、お口にパンくずが……そうだったのですね」
口の周りに着いたパンくずを、球体関節の指が掬う。その指先を私はペロリと舐めた。うん、彼女の指とパンの味が美味しい。
舌で口の周りをペロリと舐め、私は喋る。
「うむ。少し想い出に浸るのも良いかと思ってね。夜こそ我ら狩人の生きる時間だが、夜明けに生まれるものもあろう」
思い返すは、我が師である騎士。今でも彼の剣筋は忘れない。
「ああ、昨日語られた……騎士、アーロン様でしょうか。強い方であったと」
頷いて、紅茶を飲み干す。砂糖の甘さと茶葉の苦味が丁度良い。
「当時は見切るのに苦労したものだ。ロスリック時代の私ならばあっさり終わるだろうがね。あの時の私は本当に最強だったから」
その代わり、つまらぬ女であったが。正直ドラングレイグの時よりも黒歴史である。良い出会いも別れもあったがね。
まぁそれは良い。今は、彼との修行の日々を思い返そう。
私の木刀が宙を斬る。
確かに私は師と鍔迫り合いをし、捩じ伏せたはずだった。けれどその師はおらず。
気配がして上を見上げれば、いつの間に跳躍したのか兜割りを敢行しようとする騎士アーロンがいた。
「ぶへぇッ!?」
軽めの殴打。けれど頭蓋を叩かれれば誰だって悶絶する。頭を押さえ大理石を転がる私をよそに、師は木刀を納刀する動作を、美しくやってみせていた。
痛がる私に、師はため息混じりに語る。
「勝ったと思って油断するのはお前さんの悪いところだぞ、まったく。今までそれで痛い目を見た事がないのか……」
あるに決まっている。その最たる場面が薪の王との決戦だ。勝ったと思って必殺の一撃を叩き込もうとしたらパリィされてしまったし。なんだか腹が立ってきたぞ。
我が剣の師、アーロンとの修行から体感で数週間。私は一向に彼を超えられないでいた。
彼の剣技は卓越している。数多の敵と戦って殺してきた私でさえも、彼にまったく及ばない。
早くあの不死斬りとやらを教えてもらいたいが、師曰く私には何もかも足らぬとの事だ。
「よし、稽古はここまでだ。次は座学だぞ」
「はい、師匠」
ただ心折れぬが私の利故。必死に食らいついている。記憶の中にとどまるのは数時間が限界だが、現実ではルカティエルが待ってくれているから寂しいことは何もない。
充実していた。久しく、学ぶことの楽しさと真摯さを忘れていた。いや、初めてこんなに楽しいかもしれない。勉学とは、鍛錬とはこんなにも素晴らしいものだったか。
師が教えるのは何も剣技だけではない。騎士とは、武士とはなんたるか。精神教育も盛んだ。
頭で理解し、身を以て覚え、技で試す。私が得意とする事ばかり。彼は教育者としても優れている。
また、彼は忍術もかじっていたらしく、東洋の秘伝を惜しげもなく私に享受してくれた。
曰く、私は忍術の素質があるらしい。というよりも、正々堂々と戦うよりはあらゆる手段を用いて戦うスタイルは葦の地の忍術に通じるらしい。
「見切りを多用するな。見切るのであればより相手の体幹を削れ」
師匠の木刀を踏みつければ、逆にカウンターされる。
今までこの踏み付けをこうも容易く反撃してくる者などいなかった。
そうして、私の技量も魂胆も向上したある時。
とうとう師からあの技を伝授する時が来た。
「もう、これが最後になる。お前に不死を殺す一太刀を授けよう」
互いに正座し面した状態で師は言う。傍らに置かれている薙刀のような太刀を手にすると、彼は刀を脇にさして構える。
それは居合い。何度も見て、盗み、私のものにした構え。けれど気迫がいつもと異なる。
不死を殺すための一撃。左手の親指が、柄を押す。同時に僅かに覗く刀身が親指の腹を傷付ける。
刃に伝わる赤黒い血。それは鞘の中へと延びていき、きっと刀全てに行き渡ったのだろう。
「目に焼き付けよ。これぞ死なぬ者を殺す一撃なれど。それこそ救いとなれば」
刹那、鞘から炎が漏れ出す。
炎などという生優しいものではない。あれは怨嗟。今まで殺した者達の負の感情と、殺めど狂わぬ強靭な人間性が具現化したもの。
振るう。
速さは無い。けれど絶対的な一撃は、空を斬ればあの時のように黒く軌跡を描く。
まるで紙に筆で線を描くよう。その炭に触れれば、待つのは死。他の不死ならば、それに触れれば容易に朽ち果てよう。
「怨嗟と呪いを、その身に溜めよ」
更に師は、振り切った後に上段から刀を振り翳す。その刹那に、左手の掌を刀に添えれば斬られた肌が更なる血を齎す。
血によって深まる呪い。人間性の呪いは時として凶器となる。
秘伝、不死斬り。
より太い一撃が宙を舞う。必殺。それこそこの一撃に似合う。
納刀すれば、師は私に向き直り言ってみせた。
「お前さんの人間性ならば習得できるはずだ。もう、見て盗んだであろう?」
私は頷き、
そして立ち上がり、師と同じく脇に構える。
集中する。感じるは、自らの人間性。
流れる血を意識する。呪いを
「
そう、私は無敵。全てを打ち倒す不死。数多の屍を踏み越え最後に立つ姿は荒野の白百合。
柄を親指で押す。指の腹を斬りつけ、悍ましい人間性を滴らせる。
燃える炎。沸る人間性。どこまでも暗く、けれど暖かい炎。
「奥義、不死斬り」
一閃。
悍ましく延びる怨嗟の炎。
殺め奪った怨嗟がどこまでも延びていく。
「ぬぅッ!?」
遠く離れていた師にも届かんとする怨嗟。
あまりにも殺し、極め過ぎた。
制御できぬ程に漏れ出すほどに。
「秘伝、不死斬り」
振り切り、そのまま上段で構え左手を添える。
掌を斬りつけ更なる怨嗟を闇朧に浴びせながら、ズタズタになる大理石と壁を無視して振りかぶる。
大きな一閃。広がる深淵は、危うく全てを飲み込みかけるほどに巨大。
けれど躊躇はしない。これは私の全力を試しているだけだ。
「やりすぎだお前さん」
「あだっ」
師から拳骨をもらう。そこまで痛くはないが、優しくもないそれは戒めのようだった。
「……正直、ここまでは想定しておらんかった。お前さんの闇を見誤っていたようだ。もう、師弟ごっこも良いだろう」
そう言うと、師はゆっくりと私から離れていく。まるで袂を別つかの如く、彼は鞘に手をかけた。
どうやら、その時が来たようだ。
「……師よ」
「最後の試練だ。お前さんの全てを出し、この儂を打ち倒してみせよ」
隙を見せぬ動作で抜刀する師、否。騎士アーロン。深呼吸し、私も彼に倣い闇朧を抜いた。
それは、永遠にも感じた。
動かず、じっと互いの間合いを見切るように見つめ合う。
動けば、反撃で斬られる。それはお互い様。刀を扱う者として、カウンターは当たり前の動作。
故に動けぬ。脳内でずっと斬り合うも、そのどれもが良いイメージを持たぬ。
「……ッ!」
だが、唐突にアーロンが動いた。痺れを切らしたのではない。これは、師から私への最大限の手ほどき。
瞬きする暇もない程に速い突き。それを、瞬時に見切って踏み付ける。
深く、しかし隙を見せぬ踏みつけ。だがアーロンはすぐに引き抜くと、斬り払いをして距離を取ろうとする。
闇朧でそれを弾く。重い一撃のせいで弾き飛ばされるが、脚で踏ん張って転ばぬように耐える。
「せいやッ!」
今度は振り下ろし……否。一文字。
至極単純な一撃故に、あまりにも高い破壊力。喰らえば、身体が左右にスライスされるだろう。
それを、弾く。弾いて、隙を窺う。
何度も何度も最低限の力で弾き、そして。
「ちぃ!」
少しばかりアーロンの身体がブレる。体幹切れ、それは即ち。
すかさず刀を翻し、喉元を突きにかかる。だが瞬時に彼は身体をズラし、刀身の先は必殺となることはなかった。
肩に逸れた一撃は、確かに致命的だが殺せぬ。闇朧を引き抜き、距離を取ればアーロンは片膝をついた。
「流石よ、馬鹿弟子……ならばこれはどうだァッ!」
距離は離れていた。けれどアーロンは、その場で刃を振るい、納刀する。
いや、ただ振るったのではない。あれは。
「ッ!」
危険を、本能が察知した。見えず飛んでくる刃を弾く。一瞬でもタイミングを間違えば、私は殺されていた。彼はそれを、竜閃と呼んでいた。
だがそれで収まらぬ。またアーロンが抜刀し、目に見えぬ速度で刀を振るえば。
一度で無数の斬りつけ、それは無数の斬撃を生む。だが、それはもう特訓で見て、覚えている。故に通じぬ。
その全てを弾く。もう二度と、私に既知の攻撃は通用せぬ。私を殺したければ、まだ見ぬ戦いをせよ。私は不死故、見飽きたものに興味は無い。
「ふぅッアァッ!!!!!!」
だが私が攻撃を弾く隙に、アーロンは居合いの 形で迫る。迸るは怨嗟。つまりそれは。
抜刀すれば、漏れ出す怨嗟の炎。
奥義、不死斬り。
筆で描いたような軌跡が私を両断する。
否。
私は百合の花弁と化す。
「ッ!? 霧がらすかッ!」
斬られた私の身体が花びらとなり、実体が消える。刹那、再構成された私の身体がアーロンに迫り、左手の掌を押し付ける。
宿すは呪術、大発火。
炸裂する混沌の系譜がアーロンを弾き飛ばす。もう弱き白百合はいない。対峙するのは絶対強者。
我こそ不死の頂点。不死すらも殺す白百合なり。
受け身を取りながら立ち上がるアーロンを前に、私は居合いで構える。
「御返ししよう」
抜刀し、一閃。それは葦の秘伝、竜閃。如何に斬ることを考え、鍛錬した先の一撃。飛んだ刃はアーロンの腹を深く斬りつけ、出血を強いる。
だが未だ終わらぬ。折角の対決。教えてくれた事を、全力で返さなければならぬ。
走り、両手でしっかりと闇朧を保持して構える。刃には私の血が滴っている。
「渦雲渡り」
血が纏い、延びた刃と化しながら。
振った回数に見合わぬ斬撃がアーロンを襲う。それはまるで、深紅の渦雲が如く。それを渡る舟が如く。
源流とは異なり、ずっと宙を舞い、斬り続ける。
アーロンは悟った。最早弟子は、自らを超えた。刃を交える内に、見果てぬ境地へと達した。
考えれば当たり前だ。この弟子は、自らが生まれるよりもずっと前、遥か古から戦っている。強者と殺し合っている。
そんな者が、強くならぬ訳がない。
どこまでも貪欲で、強欲で、全てを奪い尽くす白百合の魂。
悍ましい程に美しいそれは、神ですら殺す戦士の誉。
悪くはなかった。それに殺されるのであれば、戦士として名誉だった。楽しかった。
「
全身を斬られ、既に戦う力も無く。目の前の弟子は最後の一撃を齎そうとしている。
「不死斬り。お返し致す」
怨嗟を溜めたその一撃は。不死として、長年闘いに明け暮れた葦の騎士を葬る。
制御された深淵の微睡が、騎士を斬り捨てる。
「見事、なり」
心臓を斬り裂かれて尚、師は弟子を称賛した。
得たものが大きいと、それだけでやってきて良かったと思える。
当たり前の事だが、ドラングレイグにおいて闘いに最大限興奮することがなかった私としては、騎士アーロンとの錬成と闘いは非常に実りのあるものだった。
もちろん、師を手にかける事は好ましくはないし私も思うところはあるが、戦士として殉じた彼を思えばやって良かったと思う。
「刃が飛ぶなんてこと、未だに信じられんな……私にも是非教えて欲しいものだ」
隣を歩くルカティエルが興味深そうに言う。私は満足気に笑うと頷いた。
「もちろんだ、剣戟は君にこそ似合うからね」
ルカティエルは魔術や奇跡等は全く使わないから、渦雲渡りや竜閃は覚えておいて損は無いだろう。
まぁ、今はまず目の前の事に集中しなければ。彼女に教えるのはその後。
虚の森の影、ドラングレイグ方向。その道中に、それはある。
冬の祠。この地最後の、寄り道。
私達は、愛の最果てをここで見る。