物語の主題に迫って行く回です。
6
時間ほど残酷なものはない。
そんな一文が書かれていたのは、何気なく選んだ地球の書物だったろうか。今ならあの意味が痛いほど分かるのに、昔はトランスフォーマーという己に頼り切るあまり、何の感情も抱かなかった。それだけ、時間が過ぎ去っていく事の重大さに対して認識不足だったのだから、愕然とする。
小さな――まったく躯に見合ったこじんまりとして質素なアケロンの住まいは、壁の一部を刳り貫いた剥き出しの寝台と石造りの卓と椅子があるきりの、遺構の通路に面した手掘りの一室だった。
壁一面が黒く変色しているのは、地下から採る原油を灯した時の油煙に煤けたためで、それがいっそう室内を薄暗く見せ、とても人間が生活できる空間には思えなかった。少なくとも、囚人か隠遁者でなければ、一年と持たない場所だろう。こんなにも隔絶された、静寂の中。
「適当に腰を下ろしてくれ。私は‥‥すまんが少し、横になりたい」
この部屋まで大した距離があった訳でもないのだが、少年は招じ入れた客達に息切れを堪えながら席を勧めると、ざらついた呼気を不規則に吐き出して、冷えた寝台に身を任せた。とても外見の活発さとは噛み合わない。
マイスターは椅子に掛けたコンボイの傍らに付いて、まだ戸口に突っ立ったまま少年を睨め付けているネブラの様子を伺う。 一時の自失からは立ち直ったものの、 ネブラの、少年を値踏みする視線は尋常ではなかった。
自らが心酔し追い求めてきた存在が、生きて眼前に居るというのに、ネブラは何一つ信用していないのだ。それも当然だろう。教義上は遥か以前に死亡しているはずのアケロン。教徒達の口伝に依るなら彼は少年でも、ましてネブラと同じトランスフォーマーでもないはずなのだ。疑いは濃くなりこそすれ、薄まることはない。
ネブラの疑念の根。マイスターにも、それは解かった。
「彼の肉体は、〝カーゴ〟‥‥ですね」
低い呟きがすでに確認であることを悟って、コンボイは副官の慧眼に軽く頷く。
「見ての通り、だな」
軍籍にある者が戦場で負傷し、著しい損傷によって本来の肉体が使用不能となった時、治療が済むまでブレインサーキットなりスパークなりを留め置く仮宿として与えられるのが、カーゴと呼ばれる疑似肉体である。 カーゴはエネルギー消費を最低限に抑えることを目的としているため、大抵が幼少体をしており、傍目には本当の子供と区別がつかない。
ただし、この医療技術については現段階でも、耐用年数の問題、安易な転生技術への悪用など諸々の課題を抱えており、まだ広く一般に認知されるには至っていない。
(しかもあのカーゴ、とっくに使用期限が切れている)
マイスターがちらりと目顔でコンボイに同意を求めると、コンボイも目線にそれを肯定する。アケロンが疲労で起きていられないのも、途切れ途切れに意識が薄くなるのも、おそらくカーゴ自体が限界を超えているからだ。姿は少年でも中身は数百万年以上を経た老体。入れ物がいくら新しくとも、生命を維持し続けるのは無謀だ。
ふと、マイスターは身の内に深い憐れみが滲むのを感じた。軍属にないアケロンがカーゴを使用していること自体、既にありえない事なのだ。だからこそネブラはこの幼い姿をした相手を、アケロンとは信用できずにいるのだろう。もっとも年相応の姿で現れても、俄かに受け入れられるものではない。
なぜ、アケロンは生きている?
ネブラの心情に暗として点る憤慨を、マイスターは感じていた。
戦いの中で生き、老い、生の終末にようやく得た『信仰』という名の安寧を、なぜ今さら掻き乱す?
老躯のネブラにとって、アケロンの姿は裏切りに等しい。刻の流れがネブラから全てを貪り尽くす間、アケロンはその楔から離れ、生き続けてきたのだ。 この不公平が時を支配する者の残酷さでなくて何だろう。
無意識に、疲労の色が濃く落ちるアケロンの、それだけは若い横顔をじっと見つめていたらしいマイスターは、反対にアケロンの揶揄するような視線を返されて、はっと目を逸らす。声も立てずアケロンは笑った。
「コンボイ、二度と会わぬと言って別れたはずだが、なぜ来た?」
「色々と事情がありまして。貴方に会わせてやろうと‥‥彼を」
と、ネブラを示すと、アケロンは億劫そうに老人を見やった。
「‥‥彼は?」
「貴方の信奉者です。それも特に敬虔な」
「信奉者?」
心底驚いた様子で、少年特有の大きな双眸が見開く。そこに宿った光は困惑のようだった。
「貴方の残した予言書を教義に戴いて、その解読に人生をかけている者達の一人だ」
コンボイの言葉に、アケロンはもう一度目を剥くと、
「馬鹿を言う。私は宗教のような愚かしいもの、説いた覚えはないぞ」
心外そうに言い捨てた。
ギシリ、とネブラの全身が萎縮したように音を立てたのは、気のせいか。マイスターは振り返って確かめたい衝動に駆られた。
アケロンは寝台から、一呼吸の間に沈黙の霜が降りた室内を見回すと、嘆息して首を振った。
「コンボイ、私の書いた
「貴方が表舞台から身を引いてからでしょう。私自身もつい最近までは、貴方が昔、生命体すべてへの警告文として認めていたあの文書が、一教団の聖典に祭り上げられているとは知りませんでした」
「皮肉なものだな。あの頃、どれほど人々に伝えようと奔走しても、誰一人耳を傾けなかったものが‥‥今や教義とは」
自嘲気味に広がる浅い笑みの後、アケロンは深く息を吐き出して天井の一点をぼんやりと見上げた。
コンボイは、ネブラの陰影に窪む相好に目をやって、先を促すように肩を竦めてみせる。自分の口で問え、と、ネブラもその意味は悟ったようだが、 いざ口を開こうとすると唇も喉も干からびて、容易に声帯は役目を果たそうとしなかった。
どれだけの時間をかけたか、零れる欠片のように紡がれたたどたどしい声が問う。
「本当に‥‥貴方がアケロン様か‥‥?」
「そういう名の存在であるか、という問いなら、是だ」
「生きている‥‥?なぜ?」
「生きていると言えるのか?私はすでに屍と同義だ。遥か昔から‥‥いや正しくは、この世界に〝現れ出た〟時から」
はっとネブラの眸が緋に輝く。だがアケロンは苦笑を上せて、否定に首を振った。
「‥‥生憎だが客人、私は、私が記した『女神』の元から遣わされたのでも、生まれたのでもない。その事はコンボイもよく知っている」
私は‥‥と付け足してから、アケロンは喋りすぎて消耗した意識が明確になるのを何秒も待って、告げた。
「‥‥トランスフォーマーでも、他のどんな生命体でもない‥‥ただの、魂なのだよ」
「魂、だと?」
「そう怪訝そうな顔をしてくれるな。私が警鐘を鳴らさんが為にあの書を記した経緯を語るには、私自身が何者なのかを、知ってもらわねば始まらぬのだ‥‥」
アケロンは唇の端だけを窪ませて力無く笑うと、
「すべてを明らかにすることが、あの書の内容を曲解してしまった者達への、せめてもの贖罪になろう」
言って、言葉に間違いがあった時は修正してくれとコンボイに言い置き、細い糸をなぞるような慎重さで、アケロンは静かに語り出した。
おそらくはコンボイすら確とは知らない、セイバートロン星がまだ、その名すら定かでなかった彼方の話を。
最初に有ったのは、澱みだ。
アケロンはただ本能的に、その黒々とした澱(おり)の中に全てを賭けて追い続けてきた『奴』が混じり込んでいる事に気付いた。
どれほどの時間、どれだけの次元‥‥記憶に留めることすら困難になるほどの悠久を超えたか。何度も追い詰めながら結局は取り逃がし続けて、こんな見知らぬ最果ての次元でようやく手の届く距離に辿り着いた。
アケロンは奇跡に感謝し、思い出そうとしても劣化しきって像を結ぶこともない、霞んだ記憶の向こうにある己の国や家族を想った。
意識が霧中に沈むようになってから、随分と刻が経った。おかげで、今では『奴』を抹殺しなければならないという使命のみが衝動を司る意志であり、誰から何の為にこの命令を受けたのかも忘れてしまった。
だが、構わない。『奴』を跡形なく消し去ってしまえば、それで心は満たされる。やっと永い責務から解放されるのだ。
〈それにしても――〉
この空間に凝る、澱みの禍々しさは何事だ。
遥か頭上、遥か眼下に目を転じても、分厚い鋼鉄を継ぎ目なく組み上げた冷たい機械の天井と地表が見渡す限りを覆い尽くし、緩く弧を描きながら焦点を結んでいる。
ここは一体、長大な鉄の箱の中か。それとも金属が構成する星の内部でもあるのか。
アケロンは、自身が抜け出てきた〝孔〟を顧みた。
ぼんやりと淡く、一見すると灯火のような紅い光を放って、中空の一部に押し広げられた丸い裂け目。『奴』の航跡を追って出るために、向こう側から強制的に固定した孔はまだ原形を留めているが、同じ空間のあちこちでは今しも新しい裂け目が無数に生まれ、 何ものともつかない忌まわしい邪気が――そのほとんどは形も持たない姿のままで――溢れ出し、互いを吸収し合いながら別の物へ変異しようともがいている。いずれはあれすら、『奴』が溶け込んだ深い澱と同化するに違いない。
〈何もかも、無秩序に過ぎる〉
孔は邪気を吐き終えると、爛れ切った傷口のように崩れ去っていく。その傍らに次の傷が開き、再び異界に通じる孔から元の世界に存在を許されなくなった禍が逃げ込んでくる。この閉鎖空間は邪気の墓場でもなければ、牢獄でもない。むしろ再生を得るまで一時、身を休められる隠れ家のようなものなのか。
無秩序と言う名の、世界。だがアケロンが怖れるのは、この世界を支配する別の秩序があることだった。
〈〝
アケロンの知る限り、異界との孔道が現れる確率は常人が思うほど稀ではない。だが全く異質の孔が同一の空間に保たれる事は、ほとんどない。干渉しあって消失するか、次元同士が捩じれて繋がることで変異するか、ともかくここまで整然と現存するのは自然には有り得ないことだ。間違いなく作意が――それも悪辣な意思を持った者の力が働いている。
『奴』もその力に魅かれたのか?
ギリ、と魂を締め上げる痛みに、アケロンは不吉な予兆を感じた。
〈――今のうちだ!次の器に転移されれば、『奴』を倒す機はまた無くなるッ〉
一つの集合体に成るだけで手一杯の邪気の中でなら、『奴』だけを確実に仕留める自信がある。このまま他の邪気を残すのは無用な災いの種を蒔くのと変わらないが、『奴』がこの次元に再起する事でもたらされるだろう数々の厄災や戦火に比べれば、遥かにましだと思われた。
〈先決なのは、『奴』を復活させないことだッ〉
意を決すると、アケロンは一所に黒々と蟠った邪念の澱みに向かって飛翔した。
突き進む先はもう、闇というより〝虚無〟だった。何の形質もなく、質量すらない。 後から後から融合してくる邪気によって際限なく膨張し、凝り固まり始めているが悪気の原子は研磨されて、唯一の意思を持とうとする。その最深部に『奴』は鎮座していた。
待っているのだ、とアケロンには解かった。
格下の低俗な邪気が互いを食い荒らして肥大化し切るのを、じっと待っているのだ。 己の復活に足りるエネルギーが満ちるまで。
不可視なものに成り下がっても『奴』の狡猾さは、やはり『奴』にしかないものだった。
だが、終わらせる。
アケロンは『奴』を真正面に捉えると、全霊を一点に込めた。
一撃。たった、一撃でいい。
〈―――‥‥?〉
苦痛はなかった。音も立てずに足元へ散っていくものの煌めきが、奇妙に眩しかった。
これは、何だ?
どうして、私には形がない?
手は。足は。胴は。
私の顔は‥‥どこだ?
〈わ、た、し、は、〉
『奴』を打ち倒すための、肉体が無い。
ニタリ、と邪気が嗤った。ここまでの苦難がすべて無駄だったな、と。
〈――ッ!!〉
アケロンは吠えた。吠え続けるしか術がなかった。
もはや生命と呼べるものの咆哮でないそれは、空漠とした悲壮感を内包してはいても、身を引き裂かれるほどの痛みも憎しみも響かせることはない。誰に届くことも叶わない、魂の悲鳴。
魂?嘘だ。嘘に決まっている。どこからが?すべてがか?それは私が私という存在ですらなかったということか?愛するものもあった。憎悪もあった。私の肉体が消え去ってもこびり付いて離れないこの感情は、嘘のはずがない。
長い咆哮が細く途切れると、アケロンはやはり『奴』の前に居た。『奴』がそうであるように自らも元の身体を失い、一つの「念」の塊と化した姿ではあったが。
〈私は――ここで貴様を見続けよう〉
凝り固まるなら、それもいい。
討ち果たせないまでも、アケロンという反目の『気』が混じり込んだ空間の中では、『奴』が有り余る邪気を吸収して次元に適う器を手に入れるまで多くの時間を必要とするだろう。何千、何万‥‥刻の永さなど、肉体の枷から解き放たれた者には無意味でしかない。
待つのだ。『奴』を滅ぼすに足る者が現れるまで。その力と出逢うまで。
アケロンはそれからの茫漠とした時間を、絶えず吐き出される邪念の渦中にひっそりと身を沈めて過ごした。闇があり、明滅する異界の裂け目があり、嵐のように空間を行き交う邪気があり、その中で次第に『奴』が膨張していく様は、むしろ緩慢な変化と呼ぶよりも進化に近いように思われた。
確かに、『奴』の再生は進化だった。
アケロンにじっと見つめられながら、『奴』はかつての姿とは似ても似つかない、金属で構成された極微細ナノマシンの集合体になりつつあったのだ。
これは、この空間の〝向こう〟に生まれつつある生命体の姿なのか?なんと特異で、異質な生命だろうか。これも『奴』を引き寄せた強大な何者かの作意なのだとしたら、どんな世界を創るつもりなのだろう。その中に果たして、『奴』に拮抗しうる者がいるだろうか。
それから何万年が過ぎたろう。徐々に生命体らしき形に育ち始めた『奴』の前に、外側の空間から一人の男が現れた。
肉体の原子すべてが金属で構成された、自我のある機械生命体。輝くばかりに強靭な魂を持った隻腕の剣士。
アケロンは再びの奇跡に歓喜した。
まだ胎生から脱していない『奴』なら、剣士の力量で充分に滅ぼせる。世に悪災を解放することもない。多くの生命体が救われるのだ。
だが、剣士はアケロンの願いを拒絶した。
――俺がこの星に帰ったの俺の女を取り戻すためで、未来の災いを取り除くためじゃない――
『奴』の胎生が垂れ流す禍々しい気が、いずれ来る戦禍の根源になることを理解しながらも、剣士は結局『奴』に一筋の傷も負わせることなくアケロンの元を去って行った。
待ち続けて得た光明に背を向けられたアケロンの絶望は、想像を絶した。
〈『奴』はもうじき生まれてしまう!この世界に、〝宇宙〟という空間に放たれてしまうのだぞ!〉
『奴』の胎動は日増しに大きく力強くアケロンの魂を揺さぶり、その時が近付いていることを誇示していた。残された希望は、器を得て能力を倍加させるだろう『奴』の邪念に対抗できる、高い叡智を秘めた者を探し出すことだけだった。
その為には、長い間『奴』と共に居たこの閉鎖空間を捨て、外界に踏み出さねばならない。ここへ唯一訪れた隻腕の剣士と同じ、機械の肉体に魂を宿した生命体が闊歩する外側‥‥機械惑星の地表へ。
そして人々に伝えよう。『奴』がかつてもたらした戦禍によって、どれほどの民が散っていったか。『奴』の撒き散らす悪意を遠ざける高潔な意志が、これから否応なく要求される現実を。 救いに役立つ道標を。
アケロンは闇の奥で微かな鼓動を発している、かつては『奴』そのものであり、今は『奴』が溶けた邪念によって醜悪な自我を目覚めさせつつある胎生を睨め付けた。おそらく次に出会う時、互いの姿は見知らぬものに変わっているだろう。しかし久遠に感じ続けた魂の本質で、アケロンは『奴』を見分ける自信があった。
〈貴様を滅ぼせる者は、きっといる〉
それまで、しばしの別れだ。
最後にもう一度、意識の奥底へ刻み込むように胎生を凝視すると、次の瞬間、形のないアケロンの魂は澱んだ闇を突き抜けて、まだ見ぬ地上めがけ飛び出していった。
トランスフォーマーと呼ばれるようになったばかりの機械生命体が暮らす、地上へ。
アケロンの荒い呼吸だけが、湿った岩壁に反響していた。話が終わってから相当の時間、マイスターは息を呑んだままでいたように思う。ネブラもただ呆然と、腑抜けたように汚れた床へ座り込んで、長いこと無言だった。
問い返そうにも多すぎる疑問で、何を口にしても中途半端になってしまう気がするのはネブラも同じなのだろう。ただコンボイだけが涼しい顔で、アケロンの呼吸が落ち着くのを眺めていた。
横たわった少年の顔を歪めて、アケロンは言った。
「‥‥私は地上でいくつもの肉体に憑依し、生き続けた。ああ、もちろん死体ばかりだったがね‥‥苦しい生だったよ」
それはそうだろう。マイスターは出かかる言葉を飲み込む。
生まれついてのトランスフォーマーがカーゴに意識を移すだけでも、かなりの苦痛を伴うのだ。まして「魂」でしかない存在がトランスフォーマーの身体を、それも骸になっているものに入り込んで動かすとなれば、想像を絶する感覚に襲われるに違いない。それこそ生気を削り落とされるほどに。
アケロンが衰弱しているのは、その無謀な憑依が原因なのではないか。ただでさえ、肉体の置換は何度も耐えられる処置ではないのだ。
コンボイが言葉を継いで、説明を付け足す。
「初めて出会った時、彼は老人の姿で、私が働いていた管理庫の近くに住んでいた。私がコンボイに転生した後、焼け出されて弱っていた彼を見つけてアルファートリンの所へ運び込んだんだ」
そこでアルファートリンに正体を見抜かれたのだと、アケロンは苦笑してみせた。
アルファートリンは、アケロンが死者の肉体に乗り移りながら旧敵を倒す能力を秘めた戦士を探していることを知ると、新しいカーゴを造り与え、進んで匿ってくれたのだと言う。ネブラ達が予言書として奉じる書物は、そうして匿われて過ごした期間に『奴』の脅威と戦禍への防備を書き連ねた、トランスフォーマー全体への警告書なのだった。
「では、貴方が言われる女神というのは‥‥」
マイスターの問いに、アケロンは笑顔を向けた。
「君は、それを何だと思う?」
逆に問われてマイスターは口ごもる。元々が抽象的なものに答えなどあるのだろうかと思考を巡らせるうち、想像はマイスターの奥に巣食った果てしない困惑や懊悩まで呑み込み、別の想いへと膨らんでいく。
アケロンはその真剣な顔を見返して、何故か満足そうに呼気を吐いた。
「幸いなる騎士殿、それこそが真理だ」
と、静かに流した目の先にネブラの老いさらばえた短躯を写し取り、アケロンは相容れない感情を否定する時のように、そっと首を振った。
「客人、君は諦めるのが賢明だ。その身の内には、私が記した真理など‥‥見当たらない」
「な、んと?」
性急に踏み出した拍子、ネブラの古い関節が、耳障りな音で軋んだ。まるで全身が、一瞬で錆び付いてしまったような悲鳴。
マイスターは自分が詰め寄られたような錯覚に眩暈を覚えたが、ネブラの奇妙にねじくれた声音は立て続け、冷えた壁に跳ねてアケロンへ飛んだ。
「わしはッ、誰よりも貴方を理解してきた!こんな若造が、あの書の言葉の何を理解できていると言うッ?!わしは繰り返し、繰り返し貴方の言葉を――」
「言葉は、真理など生み出さない。文字を追う事に幸いや救いがあると思う者は、盲目的な己に酔っているだけだ。すべてを閉じてしまえば闇も、」
ふつりと、アケロンの声が前触れなく途切れた。
滴り落ちた点が波紋を広げるように双眼が恐怖に見開かれ、その眼窩はネブラの姿を素通りして壁を凝視し、更に外側まで見透かそうとするように、残った光を凝縮していく。
「アケロンッ?!」
コンボイが跳ね立って寝台へ駆け寄ると、飛び起きたアケロンの華奢な上体が差し伸ばした腕に取り縋った。
「――‥‥だ‥‥!」
「何だって?」
「‥‥『
力強く一つ頷き、コンボイは不意に己の使命を見出しでもしたようなしなやかさで踵を返した。
「マイスター、彼を頼むッ。ネブラ、一緒に来てもらうぞ!」
命じるより早く老人の腕を引っ掴むと、コンボイの姿はもう、戸口から暗い通路へ掻き消えている。
マイスターが、コンボイとネブラ結び付けて離さない
コンボイがネブラを連れて出たのは、不用意に離れてネブラを自爆させてしまう危険も然る事ながら、アケロンからあの狂信者を遠ざける目的だったのかもしれない。
ネブラにとってアケロンはもはや、彼等が信じるところの予言者ではなくなってしまった。これまでの崇拝が意味をなさない妄信だと気付いた人間の狂気は、マトリクスという形ある偶像を身に秘めたコンボイが何より知っている。そして、偶像から目を背けた先に現実がある事を示すために、コンボイは言葉を尽くす。アケロンと同じように、誰の耳にも届かない暗闇の中でも。
まるで、漆黒の夜に光を投げる灯台守のように。
「
紡いだ声の弱弱しさを振り払うように、アケロンはマイスターの腕にきつく指を立てて語気を強めた。
「私を、コンボイの所へ‥‥『奴』の前へ」
「無茶です、アケロン殿!お身体が、」
「構わぬよ。私にも『奴』の足止めくらいは出来る」
「それは戦士の役目ですッ」
「‥‥私も、戦士であった」
マイスターは、引き留めようとする腕を押し退けて寝台から這い出したアケロンの背を、無言で見つめるしかなかった。
《続く》