八月最後の日曜日の午後、例年なら厳しい残暑にさらされているはずの東京もこの年は既に秋が来たかのような涼しさに包まれていた。午後二時を過ぎたばかりだというのに肌寒いくらいだった。厚い雲が立ち込めていて、いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様だ。
「サヨナラ夏…」
郊外に向かう、黄色とシルバーに彩られた八両編成の私鉄に揺られながら、藤森綾香はふとそうつぶやいた。昔、仲間たちとそんな歌を歌っていたような思い出がある。
連結器に近い四人掛けのシートに一人腰掛ける足元を大きな赤いスーツケースが邪魔している。帽子を深くかぶり、マスクをし、ダテ眼鏡をかけているので、一見しただけでは誰も綾香本人とは気が付かないだろう。本当はサングラスをかけたかったのだが、あまりにも怪しすぎるのでダテ眼鏡で我慢した。帽子も、眼鏡も、マスクも、あるいは季節外れの長袖のブラウスもパンツも、すべては無数のあざを隠すためのアイテムに過ぎない。幸い車内はガラガラで綾香は誰にも注目されていなかった。
「サヨナラ夏…」
綾香はもう一度つぶやいた。そんな歌を、綾香は十数年前に確かに歌っていた。その頃の綾香はこの国で多くの人々の注目を集めていた「ラピスラズリ」というスーパーアイドルユニットのメンバーだった。
元々アイドル好きで、アイドルにあこがれてアイドルになったのではない。親にそう育てられただけだった。「アイドルとして成功し、玉の輿に乗る。」これこそ母親が綾香に求めたものだった。幼稚園に入る前からバレエとダンスを習い、ボーカル教室にも通った。小学生の頃には、既に子役を演じ、テレビにも顔を見せていた。それでもオーディションには落ち続け、アイドルユニットの一員としてデビューを果たしたのは高校生になってからだった。
最初のうちは順風満帆とは言えなかった。四国で開かれた初めての握手会ではファンよりもメンバーの方が多いというありさまだった。
次第に売れ始め、デビュー二年後には大晦日恒例の大型歌謡番組にも出演し、押しも押されもしない、国民的アイドルユニットに成長した。ラピスラズリは実働五年、まだ人気が衰えないうちに、余力があるうちに次に移行するという事務所の方針で解散した。
解散後しばらくは一人でタレント活動をしていたが、開幕戦の始球式に登板したことがきっかけとなってプロ野球界のスーパーエースと結婚、この国で最も有名なカップルの誕生ということでその年の芸能ニュース第一位の座を飾った。スーパーエースの夫は海を渡り、メジャーリーガーとして年間数十億の年棒を稼いだ。その妻として、綾香は誰もがうらやむ特別の存在だった。
スポーツ選手は身体が資本、そしてその身体は年齢と共に確実に劣化していく。メジャーリーグでの四年間の活動を経て帰国した夫は日本球界への復帰を余儀なくされた。しかし、渡米前よりも二十キロ体重を増やしたその身体は確実にキレを失っていた。三年契約の最後の年、既に一軍と二軍を行ったり来たりの生活で、「給料泥棒」の野次にも慣れてしまった夫は、事実上の戦力外通告という受け止めきれないストレスを綾香にぶちまけていた。
綾香はこの夫の仕打ちに耐え続けた。しかし、それは夫への愛情というよりも綾香の中に「見栄」というものがあったからというのが本当の理由だった。誰もがうらやむようなセレブ婚、自分では到底稼げないようなあり余るお金、そして何よりも母親が綾香に期待してきた「玉の輿」、それらを手放すことができなかったのだ。
しかし、引退の噂が現実味を帯びるにつれ、綾香の我慢も限界に近付いてきた。二人の間に子供がいなかったこと、それぞれの実家が遠方にあったことも、少なくとも綾香には幸いした。気を失うまで殴られ続けた翌日、十一連戦のため長期間、家を留守にするチャンスに綾香は「駆け込み寺」を探した。すると偶然にも、R市の「駆け込み寺」サイトにかつて自身が所属したアイドルユニット「ラピスラズリ」のメンバーだった高遠美咲の名前を見つけたのだ。驚いたことに美咲はR市の市議会議員となっていた。
美咲は幼少の頃から所属事務所が同じアイドルの卵だった。同じレッスンを受け、同じ寮のルームメイトとなり、同じアイドルユニットのメンバーとなり、同じ広域通信制の高校を卒業した。少なくとも、ラピスラズリが解散するまでは、美咲は綾香が最も多くの時間を共有した盟友の一人だった。
ユニットが解散してからも渡米するまでは頻繁に連絡を取り合っていたが、アメリカに渡ってからは不意に遠くなり、さらに夫のメジャーでの活躍が芳しくなくなるとさらに遠い存在になっていった。近況も所属事務所の社長の愛人となり、本妻ともめているというゴシップを日本のインターネットニュースサイトで時々目にするくらいだった。そのうち、その社長が急死したというニュースが入り、綾香の耳には美咲の消息はまったく入らなくなった。目の前の生活が厳しくなる一方で、綾香には美咲の消息を探る余裕はなくなり、そのうち美咲に対する興味も薄れていった。
そんな綾香からの久し振りの電話を美咲は快く迎えてくれた。美咲は市議会議員に当選する前から女性団体の活動に参加していて、その活動の一つとしてDV被害者の救済事業も行っているという。そして綾香は美咲に言われるまま、大きな赤いスーツケースに自分のものを詰めるだけ詰めて逃げ出してきたのである。
その電車がR駅のホームに滑り込んだのは午後三時頃だった。初めて降りる駅、というより一人で電車に乗ること自体、本当に久し振りかもしれない。エスカレータを昇り、橋上駅舎の改札を出ると、大きく手を振る、べっこうの眼鏡をかけた背のそう高くない女性と目が合った。
「やあ、お久し振り」
もう一人の眼鏡の女性は明るく手を振った。綾香は立ち止まり、深々と一礼した。
「急に電話してごめんなさい。お世話になります」
綾香は力なく言った。
「やだなあ、綾。別にそんなに他人行儀じゃなくていいじゃない」
「ゴメン。なんか、迷惑かけちゃって」
「お互い様だよ。とにかく、まあクルマ乗って」
背のそう高くない女性は赤いスーツケースを奪い取るとゴロゴロと転がし、二人はコンコースの端にあるエレベーターに乗った。
「電話もらったときはビックリしたよ。岩崎君、暴力振るったりするんだ」
美咲は親友だったし、ステディに付き合い始めるまではグループで交際していたので夫とは顔なじみだ。ただ最後に会ったのは渡米前のはずで、綾香自身も美咲に会うのは本当に久し振りだ。
「今年は散々だからね。一番弱いところに矛先が向くんだよ」
綾香はしんみりと言った。メジャーリーグでの数年の活躍が終わり、二年前に日本球界に復帰した綾香の夫、岩崎翔は在京球団との三年契約の三年目の今年はオープン戦からまったく振るわず、栄光は過去のものとなっていた。八月に入っても一軍はおろか二軍ですら一勝もできず、引退が確実視されていた。
エレベーターを降りると、ちょうど、目の前にピンクの軽ワゴンが停まっていた。美咲は遠隔操作でキーを開けると、後ろのドアをスライドさせ、スーツケースを乗せた。そして助手席のドアを開けて綾香を乗せると、自分は運転席に回り、軽を発進させた。
「これ、美咲のクルマ?」
「そうだけど、…どうかした?」
「いや、市会議員って聞いてたし、外車でも乗ってるのかと思ってた」
綾香の記憶では美咲はもっと派手好みだったはずだ。実際にチャラチャラしていたし、国産車に乗るという姿は想像できなかった。しかも軽で自らそのハンドルを握るとは。
「確かに昔のあたしならそうだったかもしれないけどね。まあ等身大の自分になったってことだよ」
「等身大の……自分?」
「そう。それに、有権者をまわるのに外車じゃ反感を買うだけじゃない?もっと有権者目線じゃないとね。世間一般のアラサーの独身女子はこんなもんだよ。……それでどうしたの?」
「……電話でも話したけどDVだよ」
「ただの夫婦喧嘩じゃないんだね?」
「もう無理。それで、逃げてきた」
「……マスクしてるってことはそういう事情があるんだね」
美咲は、これまでもそういう女性と向き合った経験があるのだろう。知った口調で言った。
「顔だけじゃない。全身、あざだらけだよ」
「そう、……もう、戻るつもりはないのね?」
「その覚悟はできてる」
「岩崎君が謝ってきても?」
「うん」
「戻らないとしてどうするつもりなの?」
「…分からない。それで、……迷惑だとは思ったけど、美咲に色々相談したいの」
「…了解。……あたしにどれだけのことができるかは分からないけど、まあ、長い付き合いだし、できる限りのことはさせてもらうね」
その一言が聞けて綾香は少しホッとした。感謝の気持ちが素直に出た。
「ありがとう。……それで、…美咲がやってる現代版『駆け込み寺』ってどんなところなの?」
「『駆け込み寺』っていうと本当にお寺みたいな、逃げてきた妻をかくまう施設みたいなのを想像するかもしれないけど、そういうシステムがあると考えてもらった方がいいと思う」
「システム?」
綾香は一々美咲に視線を向けるが、ハンドルを握る美咲は前を向いたままだ。
「かくまうのはその通りなんだけど、そのための寮みたいな施設があるわけじゃないの。住んでもらうところは市内のあちこちに散らばってて、そのうちの一つが綾にはあてがわれることになる」
「美咲の家じゃないの?」
綾香は一転、不安になった。
「急な話だから今夜はあたしの家に泊まってもらうけど、明日からは別の所に移ってもらうことになると思う。まあ大体の青写真はできてるけどね。これから相談員と面接してもう少し綾の状況を詳しく聞いてから決めることになる。まあ、もうあらかた決まってるかもしれないけど。綾も岩崎君も有名人だし、これまでの経歴とかいきさつとかは聞かなくてもネットで調べれば分かるもんね」
「これからどこに行くの?」
「取り敢えず、その相談員のいる男女共同参画センターに行くね。まあ、綾は古い付き合いだし、特別扱いでもいいんだけど、通常の相談体制に乗せた方が綾のためにもいいかなあと思ってね。それで、男女共同参画センターでDV相談員に面接してもらうね」
「DV相談員?」
「その筋の専門家だよ。あたしも一応、相談員ということにはなってるし、市議会議員としてそれなりのこともしてるんだけど、他の人にも話、聞いてもらった方がいいと思うし。これからのこと、考えないといけないだろうから」
「これからのことって?」
「彼と別れるのはいいけど、一人で生きていかなきゃいけないでしょ?」
「うん……」
綾香は力なく言った。それはそうだ。綾香にとって一人で生きていくということ自体、初めての経験なのだ。これまで、綾香は必ず誰かに頼って生きてきた。最初は母親であり、次は所属事務所の社長、そして最後が今の夫だ。確かにスーパーアイドル時代は大金を稼いでいたのかもしれない。しかし、それは誰かに言われたことを言われた通りにやっていただけのことであり、自らの意思で、何かをやろうとしたことはない。今、一人であれと同じことをやれと言われても絶対に無理だ。
「まあ、そんなに心配しないでいいよ。あたしのやってる現代版『駆け込み寺』、綾が初めてという訳じゃないし、結構、上手くいってるんだよ」
綾香の沈黙を元気づけるように、美咲は明るく言った。そんな話をしているうちに、美咲の運転する軽は学校のような敷地に入り、体育館のようなかまぼこ型の建物の裏にあるパーキングに停車した。
「着いたよ」
美咲はそう言ってエンジンを止めた。
「ここ、……なんか学校みたいだね」
周囲を見回して綾香が言った。
「その通り。廃校になった小学校を再利用していて、図書館とか児童館とか、色々な市の施設が入ってるんだよ。もちろん男女共同参画センターも入ってる。再利用だから作りは古いし、綺麗でもないけど、スペースだけは贅沢にとってあるよ。小学校の普通の教室、三つ分くらいはあるから。スーツケースはクルマの中におきっぱでいいからね」
美咲はそう言うと綾香に降りるよう促し、自分も降りてリモコンキーでドアをロックした。
その施設は美咲の言ったとおり学校の建物であり、どこか懐かしさを感じさせた。昇降口から入り、階段を昇ると二階すぐのところに男女共同参画センターのエリアがあった。美咲は「DV相談室」という看板の立っている入り口から中に入り、綾香も続いた。
「お待たせ~」と美咲が言うと、カウンターの向こうに、下を向いて本を読みながら座っていたアラフィフと思われる男性が顔をムクッと上げ、「やあ。お疲れ様」と言った。休日だからなのだろう、ラフな格好でフチのない眼鏡をかけている。
「紹介します、って紹介するまでもないかな。こちらあたしの親友、藤森綾香さんで~す。まあ本名は岩崎綾香なんだろうけどね」
目の前のアラフィフに綾香をそう紹介した美咲は、今度は綾香の方を向いた。
「綾香。知ってるかな?こちら、作家の高山新先生」
美咲がそう言うと、綾香は「初めまして。藤森綾香と申します。よろしくお願いします」と言って高山に一礼した。
「じゃあ座って」と事務的に高山が言い、二人はカウンターを挟んで高山の前に並んで座った。
「初めまして、高山です」と言って高山はカウンターの上に一枚の名刺を置いた。名刺には「作家・ITストラテジスト 高山新」と印字してある。
「先生の本は読んだことあるかな?」
美咲が綾香に聞いた。
「スミマセン。存じておりません」
綾香は高山の方を向いて申し訳なさそうに言った。
「でも、半年くらい前にやってたドラマ、『ウミネコの冒険』は見たことあるよね?視聴率あったし」
美咲がもう一度ざっくばらんに聞いた。
「ああ、それは見てたけど」
「その原作者だよ」
「ああ、そうだったんですか?そんな有名な先生とは知りませんでした。失礼しました」
綾香は座ったままもう一度深々と一礼した。
「まあ僕はそんなに売れっ子作家って訳じゃないからね。知ってる人の方が少ないよ。じゃあまずは相談受付票を書いてもらおうか」
高山がもう一度事務的に言った。美咲がカウンターの脇にあるA四サイズの紙を一枚とってカウンターの上に置き、「この太枠の中を書いて」と言ってボールペンを渡し、「住所は空欄でいいからね」と付け加えた。
「名前は本名の方がいいでしょうか?」と綾香が確認すると、「これは公式なものじゃないから。ただの整理票だから藤森でいいよ」と美咲が言った。高山が「名前はどうでもいいけど、年齢と家族構成は本当のことを書いてね。まあ、お子さんのいないことは承知してるけど」と言ったので、「年齢」の欄には「三十二」と記入した。
「話は昨日、美咲から大体聞いているし、君と旦那さんのこともインターネットとかで調べてきたから普通の相談者よりは把握してるつもりだよ。…それで、どうしたのかな?」
高山が再び事務的に聞いた。本人の性格なのだろうが、高山はニコリともせず、とても冷たい印象を受ける。綾香はボールペンを置き、座り直してから深呼吸をした。そしてゆっくりと深くかぶった帽子とマスクを取り、ダテ眼鏡を外した。
「……こういうことです」
あざだらけの素顔を見せ、綾香は静かに言った。少し静かな時間が流れた。
「……、分かった。辛いことは無理に話さなくていいよ。過去も無理して振り返らなくていい。振り返るのは楽しかったはずの思い出だけにしよう。それより将来のことを話そう。それで、綾香さんはこれからどうしたいのかな?」
「……分かりません」
少しうつむいて綾香が答えた。
「元の鞘に収まりたいという思いは少しでもあるのかな?少しでもあるんだったらそれなりの対応をするつもりではいるんだけど」
高山がそう言うと綾香は下を向いたまま静かに首を振った。高山は美咲と顔を合わせ、うなずくとカウンターの上にもう一枚、名刺を置いた。名刺には「善養寺陽一社会保険労務士事務所 社会保険労務士 善養寺陽一」と書かれている。
「美咲から電話をもらって、あらましを聞いて、それで大体のプランはもう立てている。今日はもう遅い時間なんでこのまま美咲の家に泊まるといい。ゆっくり休んで下さい。昔話でもすれば少しはリラックスできるかな?そして、明日の朝、午前九時にこの社会保険労務士事務所を訪ねて行ってほしい。それで、ここの事務所でこれからのことについて説明がある。場所が分からないとは思うけど、美咲がクルマで送ってくれるよ」と高山が言うと、綾香は名刺から高山に視線を移し、「はい」と静かに返事をした。
これから先、どうなってしまうのか本当に分からない。しかし、今はこの二人に頼るしかない。綾香は本当に何も持っていないのだ。
「じゃあ僕はこれから受け入れの準備に入るから、美咲は今晩、綾香さんのことよろしくね」
高山がやはり冷たく、事務的にそう言って席を立つと美咲は「はいは~い」と軽く返事をした。
綾香と美咲は廃校となった小学校を出て、コンビニで少し買い物をし、美咲の住むマンションへと向かった。マンションはR市のほぼ中央にある。市の中央といっても、R市は市の南端と北端に鉄道が走っているので市の真ん中は鉄道へのアクセスが悪く、ひなびたところだ。ただ、市役所も近くにあるので市議会議員でそう頻繁にはR市の外に出ない美咲にとっては便利な物件のようだ。
まだ早い時間で、日は長く、外は明るかった。美咲の部屋に入ると綾香は急に空腹感を覚えた。このところ夫との生活から逃げ出すことに精一杯で、まともに食事をとっていなかったのだ。綾香はチェアが二脚あるダイニングテーブルに座り、今買ってきた弁当をガツガツと食べた。久し振りに安心できる場所での食事、特に高級なものではなかったが胃に染みわたった。
「綾と二人でコンビニ弁当つつくなんて駆け出しの頃を思い出すね」
美咲が不意にそう言ったが綾香はそれには答えず
「ねえ、美咲」
「ん?」
「私の話ばっかりしてたけど、美咲の方はどうだったの?」
「どうだったのって?」
不意を突かれたように美咲が言った。
「今までどうしてたのかってこと。私がアメリカに行くときに成田まで見送りに来てくれたよね?」
「ああ。報道陣の数がものすごかったよね。それは今でもはっきり覚えてるよ。世紀のカップルだったもんね」
「それから、アメリカでも美咲のニュースとか時々見てたんだけど、そのうち自分の方が大変になっちゃって、なんか縁遠くなっちゃって、こっち帰ってきてもなんかバタバタしてて、市議会議員になったことも知らなかった」
今思えば帰国してから綾香は盟友の美咲に連絡をすべきだった。しかし落ちぶれていく姿を美咲に見せることは恥ずかしく、できなかった。
「まあ、芸能界引退してからはひっそりと暮らしてたからね。マスコミにも出ないように心掛けてたし。それで、…あたしのことはどれくらい聞いてるのかな?」
「いやっ、その、……ゴメン、…芸能ニュースで見るくらいだよ」
「社長の愛人だったっていう?」
「…そうだね。」
綾香は少し気を使って返事をした。
「まあ、あの頃は世間をそれなりに騒がせてたからね。女性週刊誌とかにも追いかけられたし、アメリカにも届いてたって訳だ」
「ネットで見れば分かったからね。それで……ホントのところはどうだったの?」
「ホントのところって?」
「その~、……社長とのこと。美咲が黒崎社長のお気に入りだったことは、それはそうかもしれなかったから」
一瞬、間があった。美咲は言葉を選んでいるようだった。
「まあ、あたってなくもないかな。そこはマスコミ。嘘は報道しないよね。ブログとかではありもしないこと噂されたりしてたけど。黒崎の子を身ごもったとか」
「社長と一緒に暮らしてたの?」
「マンションは買ってもらったよ。でも黒崎は気が向いたら来るくらいで、自宅と行ったり来たりだったよ。まあ、自宅よりあたしのいたマンションにいる時間の方が長かったんだろうけど。あたしの他にも女の人いたみたいだし」
「社長の奥様とは?」
事務所の社長夫人は元アイドルで二人の先輩にあたる人だったはずだ。
「お互いに知らない間柄じゃないからね。奥様には随分ひどいこと言われたし、されもした。まあ、それは仕方ないよね。あたしの方がもっとひどいことやってたんだから。黒崎が亡くなった時、奥様には面と向かって、『あなたには一銭も渡さない』って言われたよ。マンションも買ってもらったと思ってたけど、実は黒崎名義ですぐに立ち退かされた」
「そう。……それからどうしたの?」
「それからは結構、武勇伝なんだけど、実はあたしもしたたかな女でさ。そうなることは薄々気付いてたんで、最初から誰にも気づかれないように三千万円くらい着服してたの。黒崎のお金をね。黒崎は、本当は気が付いてたかもしれないけど、本人はもういない。それでしばらく食いつないで、就職活動をした」
「就職活動?」
「そう。今までの人生があまりにも異常だったから少しまともに働いてみようと思ってね。ハローワークとかにも行ったよ。失業保険はもらえなかったけど。でも、自分一人じゃやっぱり何もできないね。アイドルだったっていってもそれは過去の話。結局、親戚を頼って、とあるソフト開発会社に就職したの」
「へ~、普通のOLになったんだ」
「そうとも言えるね。で、そこで先程の高山先生に出会ったってわけ」
「えっ?高山先生って作家じゃないの?」
話の意外な展開に綾香はついていかれない。
「もちろん本も書いてるけど、それだけじゃ食べられないっていうのがホントのところかな」
「ねえ、さっき、先生と美咲、随分、仲良さそうだったけど、…先生とは…そういう関係なの?」
「ハハハ。それならあたしも望むところだけどね。残念ながら先生には愛する奥様と四人のお子様がいらっしゃるの。だから、…二人の関係は師弟関係ってとこかな」
「師弟関係?」
「そう。師匠と弟子の関係。まあ、これは冗談じゃなくてホントの話なんだけどね。あたしがそのソフト会社に入った時、実は先生も一緒に入ったの。二人とも中途採用でね。同期入社。先生は労働基準監督官からの転職だった」
「公務員だったの?」
「そう。先生はそのキャリアを捨てて転職したの。それで、同期入社ということと、同じプロジェクトチームにいたということでそれなりに仲良くなったんだけど、二人の距離が縮まったのは弟子にしてもらってからだね」
「弟子って、作家の?」
「ううん、SE。システムエンジニアのだよ。あたしはソフト開発会社に入ったはいいけど、コンピュータのことそんなに詳しくもなかった。それでお給料も低かったんだけど、ある日、その会社に資格手当があることを知ってしまったのね。情報処理技術者の資格は実はいっぱいあるんだけど、ITストラテジストっていうのが一番難しくて、その会社ではその資格持ってるだけで月に七万円の資格手当がもらえたの」
「ITなんとかって、先生の名刺に刷ってあったやつかな?」
「そう。先生はその資格を持ってて、それでソフト会社に転職してきたんだけど、あたしもその資格が取れるかどうか先生に相談したの。だって持ってるだけで月に七万円ももらえるんだよ」
「でも一番難しい資格なんでしょ?」
一緒に広域通信制の高校を卒業した綾香は美咲の頭のレベルもよく知っている。
「そう。ダメもとっていうよりも、ランチの時に話題がなくてただ言ってみただけだったんだけど、先生曰く『確かに一番難しいし、ペーパー試験だけで取れる資格では我が国最高峰だろうけど、自分は全然勉強しないで合格できたし、そんなに勉強しないでも取れると思う』って言うんだな」
「美咲の実力を知ってて?」
「さあ。とにかく、『SE資格といっても、国語の実力が肝になる試験だし、コツがあるからコツさえつかめれば大丈夫だろう』って言うの。それを聞いた次の瞬間、あたしは人生の中で初めて土下座っていうものをしていた。黒崎の奥様にもしたことないのに。会社のミーティングルームで二人だけだったんだけど、『弟子にしてください』って。それで二人は師弟関係になったの」
「で、その試験、合格したんだ」
「そう。しかも一発でね。十ヶ月位先生の言う通り勉強したんだけど、ホントに国語の試験だった。それからあたしは先生を慕って、先生の住むR市に引っ越してきたの。それで先生のやってる男女共同参画事業にも参加するようになって、それが縁で市議会議員の話が出てきて、立候補して当選したってわけ。まあ、補欠選挙だったんだけどね。黒崎が死んでしまったときはもう人生おしまいかなって思ったときもあったけど、高山先生に出会えてもう一度やり直すことができた。まあ、まだまだ勉強中、修行中の身ですけどね」
「へ~。…ねえ美咲?」
綾香は美咲の言うことが妙に理解できたが、次の疑問も湧いてきた。
「ん?」
「一つ分からないんだけど」
「何?」
「美咲のやってる『駆け込み寺』をやってる母体って、女性団体だよね?」
「そうだよ。正式名称はR市女性の会」
「先生もメンバーなの?」
「うん。副会長だよ」
「先生って男の人だよね?」
「うん。てか、見れば分かるでしょ?」
「男の人なのに女性団体の副会長っておかしくない?それとも、…先生は性同一障害とか?」
「そっか。初めての人は混乱しちゃうかもね。…確かに端から見ればおかしいかもしれないけど、先生は身体と心の性が一致していないのでもない。まあ、後で先生に直接、聞いてみればいいけど、聞かなくても本人が言うと思うけど、先生は『生物学的な性は男性だけど、社会学的な性は女性』なの」
「社会学的な性?」
難しい言葉だったようで綾香は首をひねった。美咲は一呼吸おいた。
「…いきなりじゃ難しいかもしれないけど、先生は生物学的な性差とは別に社会学的な意味での性差があると思っているの。男女の役割分担っていうのかな。まあ、あたしもそこは難しくてうまく説明できないから後で、先生に直接聞いてみてね」
「ふ~ん」
綾香は分かったような分からないような表情で返事をした。そして二人はアイドル時代の思い出話などをしながら弁当をつつき、早目に床に就いた。一人暮らしの美咲の部屋にはベッドが一つしかなく、綾香は遠慮したが、結局、二人は同じベッドに並んで寝た。アイドルユニット時代はよくそうやって寝ていた。何か、とても懐かしい気持ちがした。綾香は久し振りに落ち着いた眠りについた。