ピンクの軽ワゴンはジャンクションを抜けてすぐの友部サービスエリアに入った。高山も一服したいと思っていたところだったので美咲の提案に乗っかるのはむしろ好都合だった。
「何かがっつりしたものが食べたい」と美咲がリクエストし、他の二人も同じ意見だったのでレストランで同じとんかつ定食を食べることにした。平日の午後ということもあり、サービスエリアは比較的すいていた。セルフサービスでとんかつ定食を手にした三人は窓際の席を確保し、美咲と綾香は並んで座り、その対面に高山が座った。
「式の形も決まったということで、これからは具体的なことを細かく決めていかないといけないね。美咲は相変わらず、普通の結婚式がお望みかな?」
とんかつ定食に手をつけながら高山が美咲に振った。
「そうですね。基本は普通に。でも前提が普通じゃないですけどね」
「まあ、今回の結婚式はこれから続く人にとっての世界標準になるかもしれないよ」
「そっか。あたし達がやることがフツーになる日がやってくるということですね?それはそれで楽しみです。それと、結婚式のジンクスみたいな話も聞くんですけどそれはどうなりますかねえ?」
「ジンクス?」
「ええ。ライスシャワーとかブーケトスとかは特に変わるところはないと思うんですけど、例えば結婚式の始まる前は、花婿は花嫁の姿を見ちゃいけないとか。要するに今回の結婚式は結婚式であるにも関わらず、花婿がいないわけじゃないですか。そういう場合のジンクスは、まあ、あたしたちの場合は二人とも花嫁だから当てはまらないのかもしれないけど、例えば式が始まるまで一方はもう一方を見ちゃいけないのだとしたら、それにもし何か意味があるのなら二人で楽屋は分けなきゃいけないのかなあとか思って」
「なるほど、君達にとっては楽屋か。普通は控室というと思うけど」
「スミマセン。芸能人癖が抜けなくて」
「まあいいよ。花婿が式の前に花嫁の姿を見ちゃいけないというのは、確かにそういう話はあるんだけど、昔の話だよ」
「どういう意味があるんですか?」
「昔は欧米でも自由恋愛ではなく、親が勝手に結婚相手を決めたりしていた。それで、結婚式の当日の結婚式の前に花婿が花嫁を見てしまって花婿の決意が変わってしまわないよう、結婚式の直前まで二人は顔を合わせないようにしていたようだね」
「それってひどくないですか?でも女子は決意が変わって逃げちゃっても良かったのかな。いずれにしてもあたし達には関係ないですね。じゃあ、楽屋は一緒でいいですね」
「そうだね。ところでやぶ蛇かもしれないけど、仲人はどうするのかな?最近は仲人を立てない結婚式も多いみたいだけど、普通の結婚式をお望みなら仲人は立てるんだろ?」
高山がそう言うのを聞いて美咲と綾香のはしが止まった。少し沈黙があり、二人は顔を見合わせた。
「そんなの先生に決まってるじゃないですか。他にどういうチョイスがあるっていうんです?」
美咲がやや怒った口調で言った。
「まあ、そう言われると思ってはいたよ。そのことについては、実はとっくに覚悟を決めてはある。僕が言い出しっぺみたいなもんだし、責任は取らないといけないとは思っているから。ただ一つ承知しておいてほしいのだけど、僕の妻は相変わらず全世界を飛び回っているので、妻が結婚式に参加するのは無理だ」
「相変わらずお忙しいんですね」
はしを再開させながら美咲が言った。
「こないだはビジネスジェットに乗ったって自慢してたよ。もちろん自分のじゃなくて仕事の都合だっただけみたいだけどね。ということで妻は参加できないので妻役をアナにやってもらうことにする」
美咲と綾香は再び顔を見合わせた。
「アナちゃんにですか?」
美咲が言った。
「実はアナはもうやる気満々なんだ。『どうせママは駄目だろうからあたしがママの役をやる』って」
「それはもう大歓迎ですよ。アナちゃんはあたし達のこと本当に祝福してくれてますからね」
「ところで、式のというか披露宴のというか、司会進行は誰がやるの?そっちの方が大事だと思うけど。誰か頼めそうな人いる?」
高山が言うと、美咲と綾香はもう一度お互いに顔を見合わせた。少し間があって、美咲が「ひとみ」と言い、綾香はうなずいた。
「誰かお友達に心当たりがあるんだね?」
高山が言うと、美咲が続けた。
「ええ、田島ひとみっていうラピスラズリのメンバーだった子がいます。最近は随分ご無沙汰だったんですけど、こないだ黒崎事務所に行ったときに久し振りに会いました。まだ事務所にいるんだ~と思ってちょっとびっくりしましたけど」
「ああ、そういえばそんな子とおしゃべりしてたね。ちょっとふっくらした子だよね?」
「ええ。今はフリーのアナウンサーみたいなことやってるんですけど、特に番組を持っているとかじゃなくて、仕事のメインはイベントの司会だそうです。特に結婚式の司会がほぼほぼ仕事の中心になってるみたいですよ。まあ、そこは腐ってもラピスラズリ。一世を風靡したスーパーアイドルグループ。元ラピスラズリを名乗るだけで、受けはいいみたいです。食うには困らないって言ってました。まあ、先日会ったときは見るからに食うに困らないようでしたけど」
「ひとみ太ったよね~。声かけられなきゃ分からなかった」
美咲に続けて綾香が言った。
「そうだね。幸せ太りでもないのに」
美咲が突っ込みを入れた。
「確かにあの子、君達と同じアイドルグループにいたとは思えないくらいたくましくなっていたけど、三十過ぎの世間相場はそんなもんなんじゃない?むしろ君達の方が奇跡だよ。十代の頃とプロポーションが変わらないなんて」
「ああ、ありがとうございます」
照れ臭そうに美咲が言った。
「何かコツみたいのがあるの?コツがあるんだったら本でも書けば売れると思うけど。出版社なら紹介するよ」
高山がそう言うと美咲と綾香は再び顔を合わせ、少し間をおいて綾香が口を開いた。
「私達、本当におぎゃあと産まれた時からアイドルとしての英才教育を受けてきたんです。食事のとり方、化粧の仕方、歩き方、そんなことを徹底的に叩き込まれました。だからそのときの癖が抜けないだけです。食事はお腹いっぱいになるまで食べることなんてできないし。どんなにおいしくても身体が受け付けないんです。だから普段は腹八分どころか腹半分くらい。夜はどんなに疲れていても化粧落として歯を磨かないと眠れないですし。歯磨きにも五分くらいかけないと気持ち悪いですし」
「でもここでとんかつ定食一人前を食べてるじゃないか。完食するんだろ?新幹線の中でもガツガツ食べてたじゃないか」
高山が綾香に突っ込んだ。
「そう言われればそうなんですけど、こういうところで食べる一人前は普通に食べられるんですよ。でも野菜から食べ始めて次がタンパク質。そして最後に炭水化物。この順番は崩せないですし、これだけ食べたら四、五日は野菜ジュースだけとかです」
綾香が答えた。
「なんで野菜からなの?」
「さあ。詳しいことは知らないんですけど、血糖値を急激に上げないためだって聞いてます」
「へ~。それで四、五日野菜ジュースでもお腹空かないんだ」
「ええ。不思議に思われるかもしれませんけど、身体が受け付けないんです。そういう身体になってしまっているんです。だからカロリーの過剰摂取とか、やれと言われてもできないんです。ひとみはそういう訓練を受けてこなかったんで太ってしまったんだと思います」
「なるほどね。君達はこれからも未来永劫そのプロポーションのままということか」
高山は納得したようにつぶやき、味噌汁をすすった。
年が明け、綾香は社会保険労務士として着実に歩を進めていった。やはり新人、分からないことが多く、辛いこともあったが美咲と一緒に結婚式の準備をしているとそんな辛さも吹き飛んでいった。
桜の季節を過ぎると季節はスピードを速め、一気に新緑の時期を迎えた。結婚式を半月後に控えた四月二十九日の昭和の日、美咲と綾香と高山、そしてこの四月から美咲と綾香の母校である広域通信制の高校に通うことになったアナの四人は一緒に外の空気を吸うことにした。美咲が「独身最後の思い出を作りたい」と言い、高山は「取材に行きたいところがある」と言い、四人で出かけることにしたのだ。珍しく電車での移動だ。のんびりと地元を出発した四人はJR南武線を南下して武蔵小杉で横須賀線に乗り換え鎌倉を目指した。
「なにこの駅。乗り換え長すぎじゃない?駅、もう一つ作った方がいいくらいなんじゃないの?」
グリーン車の二階の席を向い合せにして腰を下ろすと、武蔵小杉駅の長い連絡通路を随分と歩かされたアナが文句を言った。美咲と綾香は対面に並んで座り、横須賀線はホームを離れた。
「武蔵小杉は相当遅れて無理矢理、横須賀線のホームを作ったからね。でも横須賀線と南武線は同じJRで垂直に交わっているのにこれまで乗り換えができなかったのだから、そっちの方がむしろ異常で、乗り換えができるようになったのは実は画期的なことだったのかもしれないよ。それで便利になった人も少なくないはずだ」
高山が相変わらず淡々と説明した。
「もはや別の駅だよね。でも、まあこの電車は乗り心地がいいから許してあげよう。この電車の椅子いいね。これって特急?」
アナがもう一度天真爛漫に言った。
「特急ではないけど、ここはグリーン車だよ。さっき、スイカに情報をチャージしたけど気が付かなかった?」
「ああ、そういうことだったのね。今分かった。で今日は結局どこに行くのかな?」
アナが隣の窓際に座った高山に聞いた。
「どこに行くと思って付いてきたんだ?」
高山が聞いた。
「さあ。なんかみんなでお出かけするから面白いかなあと思って付いてきただけ。でも鎌倉ってことは遊園地とかじゃないよね?」
「そう。お寺だよ。それに鎌倉というよりは北鎌倉だ」
「お寺?地味だね~」
「いいじゃないか。今、書いてる作品にそのお寺を登場させたいんでね。まあ取材だよ。今日行くところは昔の本物の駆け込み寺だ」
「駆け込み寺って、先生と美咲がやってる?」
対面の綾香が聞いた。
「そう。今年からは綾もメンバーとして参加してもらってるけどね。江戸時代は離婚制度も厳しくて、というか男尊女卑で、女性はそう簡単には離婚できなかった。駆け込み寺に駆け込んで助けを求めないと離婚できなかったと言われている。ただ話にはそう聞くんだけど、現物を見たことはないからね。で、見に行きたいというわけさ。でも、社会科見学みたいなものだからアナにはつまらないかもね」
「随分と昭和チックだね。今は社会科見学じゃなくて校外学習っていうんだよ」
アナがまた突っ込みを入れ、美咲と綾香は顔を合わせて微笑んだ。アナはよくしゃべり、相手が誰であれ突っ込みを入れるのでアナがいるとそれだけで楽しい旅になる。電車は四十分ほど走って北鎌倉駅の下りホームに滑り込んだ。
駅構内の踏切を渡り、西口から外に出て左折すると、四人は狭い割にクルマの量が多い鎌倉街道を、高山を先頭に、縦一列に並んで歩いた。その寺は駅から徒歩五分くらいのところにあり、彼岸でもないのに多くの人が訪れていた。
「和服の人が多いね」
拝観料を電子マネーで払うとアナがポツリと言った。しばらく歩くと茶会開催の案内板があったので高山は「ほら」っと言って指でさしてみせた。
「茶会ってお茶飲むんでしょ?」
アナが高山に聞いた。
「そうだよ」
「タダで?」
「それは分からない、ってかどうしてそういう発想しかできないのかなあ」
高山が呆れた声で言うと、会話を聞いていた美咲と綾香はゲラゲラ笑った。
「先生とアナちゃんって本当に面白いですね。コンビ芸人にでもなればいいのに」
綾香が言った。
「駆け込み寺って言う割には質素ですね?」
美咲が言った。
「駆け込み寺だからこそ質素なんじゃないかな?江戸時代はこの辺は本当に辺ぴなところだったはずだ。この辺まで逃げてこないと江戸時代の女性は離婚できなかったってことだ」
「なんかかわいそうですね。男の方は自由に離婚できたんですか?」
「僕は歴史が専門じゃないし、江戸時代のことはよく知らないのだけど、縁切寺、つまり俗にいう駆け込み寺のことは大学のときに日本経済史の授業で聞いたことがある。みんな、『みくだりはん』っていう言葉は聞いたことがあるよね?」
「ああ、妻が夫に離婚を突きつけることですか?」
美咲が答えた。
「なるほど。離婚を突きつけるというのはまさにその通りだけど、残念ながら江戸時代の離婚制度では一方的に離婚を突きつけることができたのは夫だけだった」
「それってひどくない?」
今度はアナが言った。
「ひどいね。さらに言ってしまうと、離婚原因の第一は子どもができないことだったそうな。子どもができない、それだけのことで離婚理由として認められてしまう。まあ、歴史とはそういう無慈悲なものだ。『みくだりはん』というのは漢字では『さんぎょうはん』と書くのだけど、要するに書類に書かれている文字の行数が三行半あるということだ。その大学の授業で聞いた話だと、江戸時代は識字率も低かったから、別に文字を書く必要もなく、直線を縦に三本半書けばそれで離縁状として通用したんだと。まあ夫は勝手に離婚できたということだね。妻の方は大変でここと、もう一つ群馬の方に公認の縁切寺があるんだけど、そこに駆け込んで三年は奉公しないと離婚はできなかったと言われている。まあ諸説あるのだけど、寺での奉公といえば尼になること。世俗への復帰はできなかったのかもしれないね」
「連れ戻そうとする夫はいなかったんですか?」
今度は綾香が聞いた。自分と重ね合わせているようだ。
「もちろんいたようだね。それで、このお寺の敷地に入るまでに捕まってしまったら連れ戻されてしまうというルールだったようで、それは厳格に守られていたようだ。しかし、このお寺の敷地の中に体の一部でも入ってしまえばもう、夫は連れ戻すことはできないというルールが確立されていたようで、もっと言ってしまうと履いていた草履を投げて、その草履がお寺の敷地の中に入ると追いかけてきた夫はもう連れ戻すことができなかったそうだ」
「それってホント?作ってない?」
真面目に説明する高山にアナがまた突っ込みを入れた。
「さあ。さっきも言ったけど、僕は歴史家ではないから真偽のほどは分からない。ただ、大学の授業でそう教わったことは間違いない。真実を知りたければ自分で調べてみることだね。まあ、そういう言い伝えがあるということは、それに近いことは少なくともあったということだろうね」
空は曇がかかってはいたが雨が降るような様子はなく、さわやかな陽気だった。高山は他の三人が退屈そうなのを察し、鎌倉散策は早々に切り上げ、鎌倉駅経由で江ノ島に移動し、湘南の初夏を楽しんだ。
五月に入り、結婚式までカウントダウンに入ると綾香は引っ越しの作業に入った。このシェルターに身を寄せるようになってからまだ二年もたっていないが、なぜこんなにも持ち物が増えるのか綾香には不思議だった。それだけ、ここは安心できる空間だったのかもしれない。ゴールデンウィーク後半が始まった最初の休日、綾香はアナと二人で部屋を片付け、荷物をまとめていた。
「女の子の一人暮らしでも結構、荷物あるもんなんだね」
引っ越し作業を手伝いながらアナが言った。
「アナちゃんだって、自分の荷物だけで結構な量になると思うよ。普段は気が付かないだけだよ」
綾香が言った。美咲は自分のマンションで綾香を受け入れる準備をしている。高山はあいかわらず忙しく、綾香とアナの二人だけの時間だ。二人で段ボールに詰めるだけ詰めて軽ワゴンでピストン輸送する予定だ。以前の綾香なら引っ越し業者に丸投げしていたことだろう。しかし、ここに来て一年八ヶ月、綾香は等身大の自分を取り戻していた。
「引っ越ししたら美咲ちゃんのマンションからこっちに通ってくるの?」
アナが聞いた。
「当分はそうなるかな」
「当分ってことはそのうちここの事務所もやめちゃうの?」
「ここの事務所は、看板は付け替えたけど、高山先生からお借りしているものだからいずれはお返ししないとね」
「それからはどうするの?」
「まだ分からない。ただ、漠然とだけど、私と美咲で新しい家庭を作っていくとして、子どもを産むかどうかとかもまだ分からないんだけど、今の美咲のマンションも狭くなっていくだろうし、やっぱりマイホームってのかな、一軒家にも憧れるから、将来的には庭付きの戸建ての家に住みたいかなあとか考えてる」
「今の美咲ちゃんのマンションはどうするの?」
「美咲のマンションはここの事務所みたいに私と美咲の共通の事務所にしてね。そんなことを今、美咲とは話してる」
「あたしも新しいおうちには憧れるなあ。三階建てのうちに住みたいの」
「今のおうちは大きいの?」
「築四十年のひどい物件だよ。まあ、もうローンは完済したみたいだからパパとしては身の丈に合った買い物だったのかもしれないけどね。狭いし臭いし、早く家を出たい」
「アナちゃんは、将来はどうしたいの?もちろん、これからスーパーアイドルへの階段を昇っていくんではあるんだろうけど」
「あたしの夢はね~、公務員と結婚して専業主婦になること」
「はあ?」
「そんなにビックリすること?」
「いや、その~、JKとは思えないくらい堅実な夢なんで…。なんでまた?」
「そんなに変かなあ?友達にも変人扱いされるけど」
「最終的にそうなら、それはそれで幸せな人生なのかもしれないけど、まだ十五でしょ?」
「綾香ちゃんにはきっと分からないよ。あたしの気持ち」
「アナちゃんの気持ちって?」
「あたしはねえ~、保育園の頃からパパが送迎してて、学校に来るのも、買い物に行くのも、お医者さんに行くのも全部パパだった。あたしはそれがあたり前のことだと思っていたんだけど、小学校になって、お友達が色々とできて、お友達の家にも遊びに行ったりするのね。そうするとママがいるの。どこの家にも。あれは最初、不思議だったなあ」
「なるほど専業主婦ってことね」
「綾香ちゃんも母子家庭で日中、ママはおうちにいなかったと思うんだけど、そういう経験してないの?」
「私は近所に友達がいなかったから。レッスンとかお仕事とか小さい頃からそんなことばかりやらされてきたから」
「そっか。今度、色々教えてね。歌とか、ダンスとか」
「はいはい。落ち着いたらアナちゃんのレッスン、見に行くね」
「だから、専業主婦に憧れるの」
「高山先生はなんて言ってるの?」
「公務員の妻になるにはどうすればいいか?ってことを教えてくれたよ」
「どうするの?」
「『お前自身が公務員になれ』って。それで公務員試験を受けようかなって思って過去問とか見たんだけど、見ただけで挫折した」
「何言ってんの。挫折なんて言葉使うのは早いよ。まだスタートラインにも立ってないでしょ」
「そういやそうだね。それより、…お腹空かない?」
朝から作業をしているアナはいい加減、引っ越し作業に飽きてきたようだ。
「私はまだ大丈夫だけど、もうお昼時だし、アナちゃんに合わせるよ」
「じゃあお昼にしようよ。おそばでもご馳走して」
「おそば?」
「引っ越しそばっていうじゃん。バス通りに新しいおそば屋さんができたの。そば屋にしてはおしゃれなお店で、一度行きたいと思ってたんだあ」
アナは屈託なく言った。
「引っ越しそばは引っ越し先でご馳走するもんだと思ってたけど、まあいいよ。ランチタイムが始まる前に行ってみようか」
綾香はそう言って立ち上がり、キッチンのカウンターの上に置いてある、百円ショップで買った自分の財布をつかんだ。
そして結婚式当日の五月十八日、大安吉日の土曜日がやってきた。正午頃、開式を一時間後に控えた美咲と綾香の二人はVクラブの控室で純白のウェディングドレスに身を包み、鏡の前に並んで座っている。二人の周りでせわしなく動き回っていたヘアメイクの担当者が終了を告げた。
「終わったってことでいいのかな?」
二人のメーキャップを見ていたアナが言った。アナはこの四月から通うことになった高校の制服を着ている。
「お待たせしました。先生呼んできてもいいよ」
鏡に映るアナに向かって美咲が言った。
「いいなあ。二人だけ。あたしもウェディングドレス着たいなあ」
アナが本当にうらやましそうに言った。
「駄目駄目。今日は私達が主役なんだからね。申し訳ないけど、アナちゃんは脇役ということで今日は我慢してね。もうじきアナちゃんが主役を張るときがくるからさ。その時は私達、精一杯脇役に徹するからね」
綾香がそう言って諭すと、アナはつまらなさそうに大きなため息をついた。
「は~い。今日は二人の晴れの舞台だもんね。我慢するしかないか。じゃあ、パパ呼んでくるね」
アナはそう言って控室の扉を開け、開けっ放しにしたまま出て行った。アナを見送ると美咲と綾香はなんとなく顔を合わせた。
「美咲」
最初に声を出したのは綾香の方だった。
「ん?」
「綺麗だよ」
「ありがとう。綾も綺麗だよ」
「私なんかより、美咲の方が断然似合ってる」
「そうかなあ。ねえ、昔、こんなことやったよね?」
「こんなことって?」
「ラピスラズリのとき全員でウェディングドレス着たことがあったよね?」
「あったね~。雑誌の取材だったかな」
「あのときもうれしかったけど、本物の結婚式はうれしさが全然違うね」
「ねえ、美咲」
「ん?」
「今日までありがとう。お蔭さまでここまで来られたよ。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。絶対にベストカップルになろうね」
「うん」
そんなことを話していると開けっ放しの扉からアナが現れ、続いてモーニング姿の高山と緑色のツーピースに身を包んだ司会者の女性が現れた。
「じゃじゃん。どう、この二人?元アイドルだから綺麗なのは当たり前だけど、さすがに堅物のパパでもこの二人見たらクラクラっときちゃうんじゃない?でも、二人とも甲乙つけ難いからどっちか選べとか言われても無理だよね?」
アナが高山に振った。少し間があった。
「花嫁衣装を着たら誰だって綺麗に見えるのは当り前さ。むしろ花嫁衣装を着ても綺麗に見えなかったらそれはそれで大問題だということだ」
お世辞の一つもなく、高山は冷静にそう言い、近くの椅子にドカッと座ったので美咲と綾香は顔を合わせて苦笑した。アナと司会者も近くの椅子に座った。
「今、どんな気持ち?」
悪びれないアナが高山に聞いた。
「『どんな気持ちか?』と聞かれれば、花嫁の父親のような気持ちかな。僕はずっと二人のことを見てきたからね。よくここまで成長したなあって、そんな気分だよ」
「泣きはしないのかな?それはもうちょっと後かな」
「僕は、アナもそうだけど今日は仲人役だよ。父親ならともかく、結婚式で泣いてしまう仲人なんて見たことないよ」
「でもアナちゃんのときはさすがに泣いちゃうんじゃないんですか?本当の父親だし」
綾香が言った。
「先生、きっと泣いちゃうよ」
美咲もからかうように続けた。
「残念ながらそうはならないと思う。確かに父親は娘の花嫁姿を見て泣いてしまうものかもしれない。でも、僕は父親だが母親役を演じている。だから『やれやれやっと手を離れた』って思う方が先だと思うよ。それでなくてもアナにはさんざん振り回されてるからね。さっさと男でも作って家から出て行ってほしいというのが実は本音のところだ。そうすれば僕の負担は確実に減るし、人生やり直せるかもしれないとか思うよ」
高山がそう言うと不意に開いている控室のドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します」
クラブの女性従業員がそう言って中をのぞきこんだ。手に何か持っている。
「矢沢様という方がお仲人様と面会されたいと受付にいらしています」
従業員はそう言って控室の中に入り、手に持っている小さな紙を高山に渡した。小さな紙は名刺で「水戸南教会 牧師 矢沢次郎」と記載してある。
「矢沢先生だ」
美咲と綾香に視線を投げかけ、高山が言った。
「矢沢先生って?」
アナが高山に聞いた。
「去年の十二月に水戸まで会いに行ったゲイの牧師さんだよ」
「どうされたんでしょう?」
今度は美咲が聞いた。
「さあ。あれだけ結婚式を取り仕切るのは嫌だって言っていたのに、わざわざお祝いを言いに来たのかなあ。でも不思議だね。今日のこの結婚式、日にちも時間も場所も矢沢先生には教えていないはずなのに」
高山は名刺を手に持ったままポツリと言い、クラブの従業員と顔を合わせた。従業員は回答を待っている。
「ではこの控室にご案内差し上げてください」
高山がそう言うと、従業員は「承知しました」と言って一礼し、部屋を出て行った。