同性婚   作:山田甲八

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十二 旅立ち

 しばらくすると先ほどの女性従業員に先導され、宗教服に身を包んだ牧師が控室に入ってきた。

「失礼致します。本日はおめでとうございます」

 そう言って牧師は深々と頭を下げた。

「矢沢先生。どうされたんですか?」

 高山が立ち上がり、牧師と向き合った。

「間に合って良かったです。私はご覧の通りの服装で今日、ここにやってきました。今日ここに私がやってきたのは本当にたまたまなのですが、聖書も持っていますし、既に準備はできています。今すぐにでも結婚式を執り行うことができます。もちろんお心遣いは結構です。通りすがりの牧師がたまたまお二人の結婚に立ち会った程度に考えて下さればよろしいのです。式が終われば披露宴となるのでしょうが、私はさっさとお暇致します」

 牧師は立ったまま淡々と答えた。

「よろしければご事情をお話いただけますか?」

 席を勧めることもなく、立ったまま高山が聞いた。

「事情とおっしゃいますと?」

「どうして今日、今ここに矢沢先生がいらっしゃるのかということです」

「それは正直私にも分かりません。本当に分からない。神がお導きになったとしかいいようがないのです。今日私はここR市にあるT大学で開催されるセミナーに講師として招かれていました。T大学は皆さんご承知のことと思いますが、この会場の最寄り駅のお隣の駅の近くです。T大学ではLGBT、すなわち性的マイノリティーに関してのセミナーが今日と明日の両日、開催されることになっています。今日は午前に私の研究報告があり、午後には名古屋のN大学からヨハネス先生がお越しになって、研究報告をされる予定でした。しかし、急な要件が入ったとかで、スケジュールが変更になり、ヨハネス先生の報告は明日に順延になってしまったのです。今日のセミナーは午前の早い時間に終了ということになってしまい、仕方がないので私は宿泊先のある新宿に戻ろうとしたのですが、ここからそう遠くないH市で古い牧師仲間が教会をやっていることを不意に思い出しました。それで、近くまで来たのだしせっかくだから尋ねて行こうと思いまして、新宿とは逆方向の電車に乗ったのです。電車に乗った私はドア際に立っていました。その電車の網棚には新聞が置かれていました。普段はそんな誰が読んだか分からないような新聞を手にすることはないのですが、ちょうど大きな活字で『同性婚』という文字が書かれているのが目に入りまして、思わず手に取ってしまったのです。私は高遠さんと藤森さんが同性婚をされることは存じておりましたが、いつどこでされるかまでは承知しておりませんでした。しかしその新聞には、今日、ここでお二人の結婚式が人前式で執り行われることが書いてあり、会場の写真まで載っていました。そしてドアのガラスの外を見ると、なんと写真に写っているものと同じ建物が見えるではありませんか。ドアが開きました。私は思わず電車を降りてしまいました。そしてもう一度目の前の建物と新聞の写真とを見比べました。記事にも目を通しました。時計も確認しました。目の前の建物でこれからお二人の結婚式が執り行われることは間違いないと確信致しました。先日はせっかく茨城までお越しいただきましたのに勝手なことを申してしまいました。しかし私は運命に逆らうことはできないと観念し、神に導かれるまま、この会場にやってきたのです」

 美咲、綾香、高山、アナそして女性司会者の五人は少し黙り、お互いに顔を見合わせた。

「すごい。まるで信じられない奇跡だね」

 まずアナが座ったまま口を開いた。

「もう人前式ということでシナリオは出来上がっちゃってるけど」

 高山が言った。

「でも結婚式の部分だけだったら人前式からキリスト教式にチェンジするだけなんですからできるんじゃないですか?仕切るのがひとみから矢沢先生に変わるだけなんだから」

 美咲が女性司会者と聖職者を見比べながら言った。綾香も心配そうな顔はしていない。

「アナは大丈夫かな?婚姻届を机に置いたりとかアシスタントをやるはずだったけど」

 高山がアナに振った。

「アイテムが変わるだけだったらアドリブで対応できると思うよ。そのくらいの瞬発力はあるから。どーせ婚姻届が聖書に変わるだけでしょ?」

 アナは表情を変えずに答えた。

「美咲は?」

 高山が今度は美咲に振った。

「あたしもアドリブで対応できると思います。なんてったってこちとら元アイドル。ハプニングへの対応は日常茶飯事でしたからね」

「じゃあ綾も大丈夫か」

「はい。むしろアドリブ対応は美咲よりもうまいかもしれません。それにひとみもね。ひとみは結婚式の司会ばっかりやってるからハプニングの対応には慣れっこでしょ?」

 高山の問いかけに綾香が答え、女性司会者が軽くうなずいて「うん」と言った。高山は牧師に視線を戻した。牧師はゆっくりと大きくうなずいた。

「分かりました。それでは矢沢先生にお願いしましょう。どうぞよろしくお願い致します」

 高山が牧師に一礼した。

「こちらこそよろしくお願い致します」

 そう言って牧師も一礼した。

「でも、聖書に手を置いたりとか、指輪の交換とかあると思うけど、聖書置く台とかは準備してないし、どうしよう。指輪の交換はアナちゃんにお願いしてるから牧師さんがタイミングを教えてくれれば、そのタイミングでアナちゃんに出してもらえればいい話だけど」

 綾香が心配そうに言った。

「まあ、ぶっつけ本番でできなくもないんじゃない」

 アナが言った。

「あたしと美咲ちゃんと綾香ちゃんなら阿吽の呼吸で、その場でなんとでもなると思うよ。聖書は二人に持ってもらうというのでもいいし、そんなに重いもんじゃないでしょ?昔、見た映画で、牧師さんが裁判の証言台に立つんだけど、自分の聖書を持ってきていて、それを手に持ったまま宣誓するっていうシーンを見たことがあるなあ。まあ自分で言うのもなんだけど、あたしならその場の状況を自分で判断して、ベストなチョイスができると思うよ」

 アナが自信満々の顔で言った。

「そうだね。ここの仕切りはアナちゃんに任せてしまって大丈夫かもしれない。そもそもあたしたちの結婚式自体、前例がそうそうあるものじゃないでしょ。なんかハプニングがあっても、お客さんはそういうもんだと思うんじゃない?」

 美咲がそう言って話は決まったようだった。高山がうなずいた。

「では、矢沢先生。よろしくお願いします」

 高山がそう言うと牧師はハッキリ「はい」と答えた。

「アシスタントのお嬢様には聖書を運んでいただいたり、色々と動いていただくことになるかと存じますが、もし分からないところがあれば私がうまく誘導するようにしますので、それに乗って動いていただければよろしいかと存じます」

 牧師が言った。高山が続けた。

「シナリオはほとんど当初通り。人前式がキリスト教式に変わるだけということでいいね。冒頭で田島さんに矢沢先生の入場を宣言してもらって、そこから『新しいカップルの誕生です』までは矢沢先生に仕切っていただこう。アナが矢沢先生をアシスタントするということでね」

「あいよ~。あたしはどんなシチュエーションだって大丈夫だよ」

 アナが元気にそう言うと美咲と綾香は顔を合わせて笑った。

 

 午後一時の披露宴会場、いや、今日は結婚式そのものもこの会場で行われるので結婚式会場といった方が正確かもしれない。既に招待客は全員着席し、上座の方には黒崎未亡人の姿も見える。司会者は司会者台に置かれたマイクを少し調整し、周囲を見回してスタートのタイミングをはかっていた。そして会場の明かりが少しずつ暗くなり、スポットライトを浴びた司会者が会場に浮き上がった。マイクに口を寄せる。

「たいへんお待たせ致しました。本日はご多用のところ、にぎにぎしくご尊来をいただき、新婦、そしてもう一人の新婦はもちろん、双方のご家族、ご親類の皆様ともどもまことに幸せと存じ、厚く御礼申し上げる次第です。申し遅れました。私はフリーアナウンサーの田島ひとみと申します。新婦、そしてもう一人の新婦である高遠美咲さん、藤森綾香さんとは同じグループのメンバーだったというご縁で長くお付き合いをさせていただいております。若年非才ゆえ未熟な司会となりますこと、まずはお許しくださいますようよろしくお願い申し上げます。さて、本日は結婚式そのものを皆様の前でやりたいというお二人のたっての希望により、ただ今より、この会場にて結婚式を執り行わせていただきたいと存じます」

 そこまでいうと会場に拍手が沸き起こった。司会者は拍手が静かになるのを待ち、続けた。

「それでは大変お待たせ致しました。新婦、そしてもう一人の新婦、ご入場です。皆様、温かい拍手でお迎えください」

 司会者が言うと数秒のタイミングがあって、会場奥の観音開きが静かに開き、純白のウェディングドレスに包まれた美咲と綾香がスポットライトに照らされた。会場は大きな拍手に包まれた。

 二人はしばらく会場の空気を楽しんだ後、一礼すると正面までの赤いじゅうたんをゆっくりと進んだ。五メートルほど後ろには仲人役の高山とアナが並んで前の二人を追っている。美咲と綾香は腕を組み、満面の笑みを招待客に投げかけながら正面の席に並んで立った。通常の結婚式では新郎の立ち位置となる右側には美咲が立ち、ウェディングドレスを着てはいるものの美咲が新郎役の格好になっている。少し遅れて美咲の右側には高山が、綾香の左側にはアナがそれぞれ立ち、四人並んで深々と一礼した。拍手の音は一層大きくなった。

「牧師入場。全員ご起立ください」

 拍手の音が弱くなるのを待って司会者が言うと客席の招待客が立ち上がり、入口に向けて再びスポットライトが点灯した。そして再びドアが開き、聖職者が入場してくる。聖職者は会場の中央を上座の四人の前まで一直線に進み、四人の前で一礼すると、右を向いて司会者のところまで歩いた。司会者が場所を譲り、聖職者がマイクの前に立ち、会場は一瞬にして静寂に包まれた。

「これより高遠美咲さん、藤森綾香さんの結婚式を執り行います。私は茨城よりまいりました水戸南教会牧師の矢沢と申します。どうぞよろしくお願い致します」

 牧師がそう言って一礼すると客席から拍手が沸き起こった。拍手が収まるまで十秒ほど待って牧師が続けた。

「ご列席の皆様はお座りください」

 牧師がそう言って招待客は着席した。牧師は美咲と綾香の方に身体を向けた。

「では聖書を」

 牧師が言って自分の聖書を高く掲げると、綾香の左隣に立っていた仲人役のアナが牧師の下に歩み寄り、その聖書を受け取った。アナはそのまま美咲と綾香の背後に回り、二人の間から聖書を差し出した。美咲は左手で、綾香は右手で聖書を握り、腕を曲げて上げてみせ、肩のあたりで止めた。一歩下がったアナは背後で控えている。

「高遠美咲さん」

 牧師がしっかりした声でまず美咲の名前を読んだ。招待客は静まり返っていて、シャッターを切る音だけが聞こえる。

「はい」

 美咲のアイビームが牧師を捉えた。牧師は一度うなずいた。

「あなたは藤森綾香さんを終生のパートナーと認め、良しきときも悪しきときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、パートナーを思い、パートナーのみに添うことを神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」

「誓います」

 美咲もしっかりした声で牧師の問いかけに答えた。牧師はもう一度ゆっくりうなずくと、身体をやや右にずらし、今度は綾香を正面に捉えた。

「藤森綾香さん」

「はい」

 綾香もしっかりした声で応じる。

「あなたは高遠美咲さんを終生のパートナーと認め、良しきときも悪しきときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、パートナーを思い、パートナーのみに添うことを神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」

「誓います」

 綾香は満面の笑みで答えた。牧師はもう一度やさしくうなずいた。

「では指輪の交換を」

 牧師がそう言うと美咲と綾香はお互いに向き合った。そして二人の背後に控えていたアナは二人から聖書を受け取り、自分が着ているジャケットの左ポケットから小さな箱を二つ取り出した。一つは青く、もう一つは赤い。アナはそのうちの赤い方を開け、美咲の前に差し出した。中には指輪が入っている。美咲は箱の中から指輪を右手で取り出し、左手で綾香の左手をつかんでゆっくりとその薬指にはめた。指輪をはめ終わると、アナは青い方の箱を開け、今度は綾香の前に差し出した。綾香は箱の中の指輪を右手で取り出し、左手で美咲の左手をとり、その薬指にはめた。そしてお互いに顔を合わせ、ニッコリ微笑んだ。

「新しいカップルの誕生です。おめでとうございます」

 牧師がそう言うと、会場は拍手の嵐に包まれた。美咲と綾香、そして美咲の右隣に立つ高山は招待客に深々と一礼し、ワンテンポ遅れて後ろに控えていたアナが加わった。顔を上げると美咲と綾香は身を寄せ合い、今はめたばかりの左手の指輪を招待客に見えるように掲げてみせた。マスコミ関係者に限らず、カメラを持った多くの人が美咲と綾香の前に集まり、盛んにフラッシュを焚く。高山とアナはそんな二人を温かい目で見つめながら、いつまでも拍手をおくっていた。

 

 結婚式の興奮冷めやらない次の日の午後、美咲、綾香そして高山とアナの四人は成田空港の国際線ターミナルにいた。グアムへの新婚旅行に出発するためだ。見送りに来たのは高山とアナの二人だけだったが、少なくない数の芸能記者と思われる報道関係者が詰めかけていた。テレビカメラが回り、あちこちでフラッシュが光っていた。大きなスーツケースをそれぞれ脇においた美咲と綾香は高山父子と向き合い、名残惜しそうにしている。

「ねえ、なんでグアムにしたの?」

 アナが唐突に聞いた。

「なんでって?」

 美咲が逆に聞いた。

「なんか芸がないなあと思ってさ」

「ハハハ。そうかもしれないね。でもそれでいいの。あたしは普通の結婚式がしたかったんだから」

 そんな二人の会話を微笑ましく見ていた綾香が高山に声をかけた。

「見送りにまで来てくださいましてどうもありがとうございました」

「なんだ、改まって。見送りというよりも、僕としては送迎程度のつもりでいるよ。成田はアクセスが良くないし、まあこのくらいはサービスしてあげようかなと。もちろん送迎だからお迎えにも来るつもりだし。まあ到着予定時間に大幅な変更があるようだったら連絡頂戴。僕もフライトインフォメーションには気を付けておくけど」

 高山がそう言うと美咲と綾香は顔を合わせてから声をそろえて「はい」と言った。

「お土産たくさん買ってきてね」

 アナがすかさず言うと、「大丈夫。アナちゃんが食べきれないくらいの量のマカダミアナッツ買ってくるから」と美咲が言った。アナは「ドライマンゴーもよろしくね」と付け加え、美咲と綾香はもう一度、顔を合わせて笑った。本当にどこにでもある新婚旅行の出発の風景だった。

 それから後ろに控えている報道関係者からの質問が五月雨式に飛び交い、美咲と綾香は笑顔で応じた。そして出発の時間が近付いてきて高山に改めて一礼すると二人はスーツケースをそれぞれ転がしながら搭乗口へと消えていった。

 二人の姿が見えなくなるのを見届けた高山とアナが振り返るとそこにはたくさんの報道関係者の姿があった。フラッシュが焚かれ、高山はマイクを向けられた。あちこちから「高山先生、一言お願いします」の声が聞こえる。すると高山の後ろにいたアナがスルスルと前に出てきて高山の前に立ちふさがった。高山をかばうような格好だ。

「はいは~い。マスコミの皆さん、本日は取材、お疲れ様で~す。今回の二人の結婚を取り仕切った仲人役で、いや、仲人そのものか、今年九月にメジャーデビュー予定の善養寺杏奈で~す。アナって呼んでくださいね。でっ、みんなパパに聞きたいことがあるとは思うんだけど、パパは口下手だし、こういうの慣れてないんであたしが代わりになんでも答えますね。聞かれてないことでもじゃんじゃんしゃべりまっせ。ただ~し、ホントに知らないことには答えられないけど」

 ツインテールがそう言うとおびただしい数のマイクやICレコーダーがツインテの目の前に突き出された。

 

 美咲と綾香が成田空港を飛び立ってから既に三ヶ月が過ぎ、八月も下旬を迎えた。東京郊外にあるR市の中ほどにあるマンションの一室の朝の風景。綾香がダイニングキッチンで朝ごはんの支度をしていると、寝室の方で目覚ましのアラーム音が聞こえる。綾香はミキサーのスイッチをオフにすると、寝室に向かい、ベッドの中をのぞきこんだ。ベッドの中では美咲が気持ちよさそうに目を閉じている。まだ夢の中にいるようだ。そんな美咲を綾香は揺り動かした。

「美咲。もう七時になるよ」

 綾香はそう言ってもう一度揺り動かしたが反応は鈍い。

「今日は、朝は特に用ないのかな?まだ寝てる?」

 綾香がそう言うと美咲の目が少し開いた。

「…いや起きる。お風呂沸いてるかな?」

「いや、沸かしてないけど、沸かす?」

「そうしてもらえるとありがたいや。入ってから行きたいから」

 夢と現実を行き来しながら美咲が言った。

「よく眠れた?」

「お蔭さまでぐっすり。なんかアナちゃんがラピスラズリのメンバーになってる夢を見たよ」

「メンバーって私達と一緒にってこと?」

「う~ん、よくは思い出せないんだけど、そういうことだったんだと思う。アナちゃんがセンターであたしと綾が両脇を固めてるっていうフォーメーションだった」

 そこまで言うと美咲はむっくりと起き上がり、改めて「おはよう」と言った。二人でダイニングに移動し、ダイニングテーブルに向き合って腰かけた。まだ二人ともパジャマのままだ。テーブルの上にはトーストやベーコンエッグ、サラダやコーヒーなどがきれいに並べられている。

「いつもゴメンねえ。綾におまかせで」

 ようやく瞳孔の開いた美咲が言った。

「まあいいよ。私は朝強いんだし」

「綾と結婚して何が一番よかったかって、朝起こしてくれる人がいるってことだね」

「ハハハ。私も少しは役に立ってるんだね」

 綾香は笑ってそう言い、ミキサーから特製野菜ジュースをグラスに注いで美咲の目の前に置いた。美咲はグラスを手に取ると一気に飲み干した。

「ああ~、目が覚める~」

「前にも言ったと思うけど、今日、新しい人が来るんだって」

 綾香が自分のグラスに特製ジュースを注ぎながら言った。

「新しい人?」

「そう新しい人」

「ああ、高山先生からなんか聞いてたなあ。朝一で来るの?」

「九時の約束になってる」

「そっか。…ねえ、二年前のこと思い出す?」

「そりゃ思い出すよ。もうそんなにたつんだね」

「どんな気持ち」

「なんだかうれしいなあ」

「うれしい?」

「そう。恩返しができるっていうのがさ。二年前はこんな日が来るなんて思ってもなかったけど。なんか今日は二年前の自分に会えると思って少し興奮してる」

 綾香はニッコリそう言うとグラスの特性ジュースに口をつけた。

 

 その女性はR駅からそう遠くないところにある百世帯は入っているだろうと思われる大きなマンションを見上げていた。眼鏡をかけ、マスクをし、大きなスーツケースを転がしている。それからその建物の中に入り、入口のポストに目をやって、三階の一室に「藤森綾香社会保険労務士事務所」の表札が出ていることを確認した。入口はオートロックになっているので部屋番号を押し、呼び鈴を押した。呼び鈴が鳴り、インターフォンから「はい~」という高い女性の声が聞こえた。何か聞き覚えのある声のような気もする。

「おはようございます。九時にお約束を頂きました天野優子と申します」

 呼び鈴を押した女性がそう言うと「はい~」という声がもう一度聞こえ、ドアのロックが解除される音が聞こえた。その女性は周囲に人の気配のないことを確認して中に入った。

 エレベーターで三階まで上がり、「藤森綾香社会保険労務士事務所 各種手当申請/就業規則作成相談」という看板のかけられているドアの前でもう一度呼び鈴を押すと中から「鍵開いてるのでど~ぞ~」という大きな声がした。天野優子はドアを開け、玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるとそのままおずおずとリビングルームに向かった。リビングルームは広く、大きな事務用の机が一つこちらを向いて置かれていて、綾香が座っていた。綾香の後ろには軽い腕組みをしているツインテールの女の子の特大ポスターが貼られていて、ポスターのコピーには「ラピスラズリプロデュース、超大型新人デビュー!」と書かれていた。

「おはよう。時間ピッタリだね。はじめまして。社会保険労務士の藤森綾香です。さあ、どうぞ座ってください」

 綾香はそう言って席を勧め、優子の前に名刺を置いた。

「あの~…」

「ん?」

「ラピスラズリの藤森綾香さんですよね?」

 腰かけた優子が緊張した声で言った。

「そうですよ」

「…私、…ファンでした。こんなところでお目にかかれるなんてとっても光栄です」

「ありがとう。そんなこと言ってくれて。眼鏡とマスクは無理に外さなくていいからね」

「はい。…ここ、綾香さんの事務所なんですか?」

「うん。社会保険労務士がどういう職業かは分かるかな?」

「スミマセン。分かりません」

「お仕事は?」

「エステシャンでした」

「でしたって、辞めちゃったの?」

「前の職場は辞めました。彼が来るといけないので」

「エステシャンはこれからも続けるつもりなの?」

「はい。それしかできませんから」

「お子さんは?」

「いません」

「そう。では、これからの優子さんの生活について説明しますね」

 綾香がそう言うと優子は「はい」と言って少し前かがみにかしこまった。

「まず、住む場所なんだけど、優子さんにはここでしばらく暮らしてもらうことになります」

「はあ?ここでって、綾香さんと一緒に暮らすってことですか?」

「…いや。そういうことじゃないの。もう知ってるかもしれないけど、私は今、美咲と一緒に暮らしてるの。美咲知ってるよね?ラピスラズリで一緒だった高遠美咲」

「えっ、はい。もちろんです。お二人が同性婚をされたことも存じてます」

「そう。まあ大きく報道されてたしね。だからそういう事情でここはあくまでも仕事場。ただ、ここは居住用のマンションだからキッチンもお風呂もある。それを使わないのももったいないんで優子さんに住んでもらおうってこと。まあシェルターだと思ってよ」

「シェルター?」

「避難所ってこと」

「あっ、はい」

「荷物はそのスーツケース一個だけかな?」

「はい。このスーツケースに詰められるものを詰めるだけ詰めてきただけです」

「必要なものでまだ自宅に残っている物はあるの?」

「どうしても必要な物はないと思います。着る物とかはおきっぱなしですけど」

「取りに戻るつもりはある?」

「いいえ。もうあの家には戻りたくありません」

「そっか。思い出したくもないよね。まあ、着るものは足りなければ私のものを貸すでもいいしね。で、住むところはここということで、次に仕事なんだけど、仕事は取り敢えず私の秘書ということになってもらうね」

「秘書、って…何をすればいいんですか?」

「まあ電話番とかスケジュール管理とかになると思うけど、その間に色々と勉強してもらえればと思ってる」

「勉強、…ですか?」

「うん。そこにDVDがたくさんあるでしょ?」

 綾香はそう言って、部屋の隅にある大型テレビの脇の棚を指さした。棚の上にはDVDがきれいに並べられている。

「そのDVD、社会保険労務士試験講座のDVDなの。それを見てしばらく勉強してほしいの。まあ、ほとんど基礎からということになるし、試験も簡単ではないからきついだろうけど、そこは頑張ってね」

「私が試験を受けるんですか?」

「うん。ちょうど一年後くらいになるかな。そして合格できればどこかに就職するか、独立して自分の事務所を持つかして晴れて独り立ちということになるね」

「そんな。…私、そんな勉強したことありませんし、無理ですよ」

「大丈夫。実はね、二年前の私がちょうど今の優子さんと同じような状況だったの」

「えっ?ホントですか?」

「そう。なんか昔の自分を見ているみたい。そして二年前の私もこんな風に助けてもらったの。だから、…今度は私が助ける番」

「…私も、…綾香さんみたいに輝けるようになりますか?」

「輝く?私が?私、そんなに輝いているように見える?」

「ええ、眩しいくらいにキラキラしてます」

 確かに綾香は窓を背に座ってはいたが、それにしても誰の目にも光り輝いているように見える。

「じゃあ、大丈夫だよ。あなたも絶対に輝きを取り戻せるから」

 綾香はニッコリ笑ってそう言い、大きくうなずいた。

 

(完)

 

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