翌朝、綾香は美咲の運転する軽ワゴンで目指す社会保険労務士事務所に向かった。今日の日程を美咲に聞いても詳しくは教えてくれなかった。何か秘密があるようだ。
目標の事務所はR市北部のR駅の近くにあった。R駅の近くといってもR駅前自体、閑散としたたたずまいなので、繁華街というイメージはない。いかにも予算が付いたから大きく贅沢に作りましたというバスのロータリーをぐるっと回って軽ワゴンは方向を変え、しばらく走って大きなマンションの前に停車した。
「着きました。ここだよ」
美咲はそう言ってシフトレバーをパーキングに入れた、がエンジンは切らない。
「ゴメン。ここから先は一人で行ってもらっていいかなあ?」
美咲が申し訳なさそうに言った。
「一人で?」
綾香が不安げに聞き返した。
「付き合ってあげたいのはやまやまなんだけど、次があるんで急がなくちゃいけないの。また後で顔を出すから少し一人で頑張ってみてね」
最初から無理なお願いをしている以上、綾香も強くは言えない。
「ううん。こっちこそ無理言ってごめんなさい。ありがとう」
そう言って綾香はクルマを降り、手を振って軽ワゴンを見送り、振り返って百世帯は入っているだろうと思われる大きなマンションを見上げた。事務所といっても雑居ビルの一室ではなく、居住用のマンションの中に入っていた。中に入りエントランスのポストを確認すると三階の一室に「善養寺陽一社会保険労務士事務所」の表札が出ている。入口はオートロックになっているので部屋番号を押し、呼び鈴を押した。呼び鈴が鳴り、インターフォンから「はい~」という高い男性の声が聞こえた。何か聞き覚えのある声のような気もする。
「おはようございます。九時にお約束を頂きました藤森綾香と申します」
綾香がそう言うと「はい~」という声がもう一度聞こえ、ドアのロックが解除される音が聞こえた。綾香は周囲に人の気配のないことを確認して中に入った。
エレベーターで三階まで上がり、「善養寺陽一社会保険労務士事務所 各種手当申請/就業規則作成相談」という看板のかけられているドアの前でもう一度呼び鈴を押すと中から「鍵開いてるのでど~ぞ~」という大きな声がした。綾香はドアを開け、玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるとそのままおずおずとリビングルームに向かった。リビングルームは広く、大きな事務用の机が一つこちらを向いて置かれており、その前にテーブルが一台と椅子四脚が置かれていた。事務机の上は雑然としていたが、テーブルの上はきれいで何も置かれていない。その事務用机の向こうには高山新が座っていて、綾香と顔を合わせると椅子にふんぞり返るような格好で右手を上げた。
「やあ。おはよう。時間ピッタリだね。美咲に送ってもらったんだね」
「……」
綾香にとっては意外な人物の登場だった。他に人はおらず、高山がここの事務所の主のようだ。それにしては看板に高山の名前は出ていない。
「改めまして、初めまして。社会保険労務士の善養寺陽一です」
少し前かがみに改まった高山にそう言われて綾香はキョトンとした。しばらく間があった。
「……スミマセン。先生のお名前は『高山新』じゃないんですか?それにお仕事は作家なのでは?」
ようやく綾香がそう言うと高山はわざとらしく深呼吸した。
「高山新はペンネームだよ。新高山をひっくり返したんだ。知ってるかな?新高山。かつて日本で一番背の高かった山。今はもちろん、富士山だけどね」
「そんな山あったんですか?スミマセン。存じません。日本一高い山は昔からずっと富士山だと思っていました」
「ニイタカヤマノボレの新高山だよ、って言っても分からないだろうなあ。台湾にあって、今は確か玉山って呼ぶんだと思う。で、台湾は日本領時代があったから、当時は日本で一番高い山だったってわけだ。まあ、それはペンネーム。ここは社会保険労務士事務所なんで本名の善養寺陽一を使ってる。今日僕がここで君を出迎えることは美咲には聞いてなかったのかな?」
「はい」
「そうか。美咲も人が悪いな。同一人物だって教えてくれといても良かったのに。まあ、美咲としては君をからかうつもりだったのかもしれないけどね」
昨日よりは砕けてはきたが、高山の口調は相変わらず事務的で、淡々としている。
「美咲には、先生はSEもなさっているとは聞いています。確か、昨日、いただいた名刺にもそう書いてあったかと」
そう言いながら綾香は帽子をとり、ダテ眼鏡とマスクをはずしたが、高山はそれについてはコメントしなかった。
「う~ん。確かにSEもしているなあ。それを言ってしまうと僕には本業というものはないのかもしれない。いや、かといって副業とも言えないから、逆に全部本業って言った方がいいのかもね。兼業作家、兼業SE、兼業社会保険労務士。もちろん兼業主夫でもあるけどね。まあ立ち話じゃなんだからとにかく座ってよ」
そう言って高山は綾香に席を勧め、自分は席を立った。ここは事務所用ではなく、居住用のマンションなのでリビングルームとキッチンがくっついている。高山はキッチンでコーヒーを入れるようだ。
「ここ、先生の事務所なんですか?」
「そう、看板は社会保険労務士だけど、作家業もSEもここが拠点かな。社会保険労務士がどういう職業かは分かるかな?」
「いや、その~、保険の手続きとかを代行する人ですか?」
「そうだね。まあ、弁護士や税理士の厚生労働省バージョンと考えてもらってもいいかもしれない」
「先生が労働基準監督署にお勤めだったことは昨日、美咲から聞きました」
「そっか。まあ、そういう時代もあったね」
高山はそう言って入れたてのコーヒーを綾香の前に置き、自分は元の事務机に戻って、今入れたコーヒーを一すすりした。
「では、これからの君の生活について説明しよう」
高山がそう言うと綾香は「はい」と言って少し前かがみにかしこまった。
「まず、住む場所なんだけど、君にはここでしばらく暮らしてもらうことになる」
「はあ?ここでって、先生と一緒に暮らすってことですか?」
綾香がビックリした声で言うと高山も一瞬ビクついたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「…いや。残念だがそれは君がたとえそれをどんなに強く望んだとしても無理だ。僕には家庭があってね。まだ子どももいるし、親の介護もある。妻は外で働いている。だから仕事はともかく、家事や育児をみっちりやらないといけないんだ。ここはあくまでも仕事場ということ。ただ、ここは居住用のマンションだからキッチンもお風呂もある。それを使わないのももったいないんで君に住んでもらおうというわけだ」
「はあ」
「今日は随分、軽装で来たけど、着の身着のままで逃げてきたのかな?」
「いえ、スーツケースに詰められるものを詰められるだけ詰めてきただけです」
「そのスーツケースは?」
「美咲の家です」
「そっか。じゃあ後で美咲に届けてもらおう。その他、必要なものでまだ自宅に残っているものはあるのかな?」
そう聞かれて綾香は少し考える素振りを見せた。
「どうしても必要なものはないと思います。着るものとかはおきっぱなしですけど」
「取りに戻るつもりはあるの?勝どきのマンションに」
「いいえ。もうあの家には戻りたくありません」
「そっか。思い出したくもないよね。で、住むところはここということで、次に仕事なんだけど、仕事は取り敢えず僕の秘書ということになってもらうね」
「秘書、って…何をすればいいんですか?」
覚悟はしていたものの驚きは隠せない。
「まあ電話番とかスケジュール管理とかになると思うけど、その間に色々と勉強してもらえればと思ってる」
「勉強、…ですか?」
「美咲からも聞いてるけど、これまでどこかに勤めたという経験もないし、特にこれといった特技もないよね?パソコンもそんなに使えないだろうし」
「はい。……その通りです。確かに仕事はしてきましたし、それなりに稼いできたのかもしれませんけど、それは誰か他の人に言われたことを言われた通りにしていただけですし、自分の実力ではありません。ある意味若さを売っていただけですから、歳を取ればそれで終わりです」
「まあ、それはこれからの人生そんなにマイナスじゃない。むしろまっさらから始められると前向きに捉えてもらっていいと思う。美咲もそうだったけど、これから普通の生活に入ると思ってくれればいいよ」
「はい。それで具体的に何をすればよろしいでしょうか?」
「具体的にというとここで留守番ということになるのだけど、君は社会保険の素人だからまずは勉強ということになる。そこにDVDがたくさんある」
高山はそう言って、部屋の隅にある大型テレビの脇の棚を指さした。棚の上にはDVDがきれいに並べられている。
「そのDVD、社会保険労務士試験講座のDVDなんだ。それを見てしばらく勉強してほしい。まあ、ほとんど基礎からということになるし、試験も簡単ではないからきついだろうけど、そこは頑張ってほしい」
「私が試験を受けるんですか?」
「うん。ちょうど一年後くらいになる。そして合格できればどこかに就職するか、独立して自分の事務所を持つかして晴れて独り立ちということになる」
「夫とのことはどうなります?」
「それは相手のある話だからゆっくり進むか、一気に進行するか分からないけど、離婚ということで進めることにする。でも、今すぐに離婚話を始めても相手も頭に血が上るだけだろうからこれは専門家も交えてじっくり取り組むことにするよ。何よりも君が二度と暴力を振るわれないようにすることが最優先だ」
「はい。ありがとうございます」
高山の気遣いが伝わってきて少し笑顔が出た。
「そして最後にこれがとても大事な話なんだけど、君のお給料。月八万円ということにさせてもらうね」
「八…万円ですか?」
「まあ、確かに金額は少ないからビックリかもしれないけど、ここはそういうものだと思って受け止めてほしい。それを超えてしまうと税金とか社会保険とか、色々と面倒な問題が発生してしまうんだ。それにそれ以外の意味もある。贅沢に慣れきってしまった君をリハビリする必要もある。確かに月八万は安すぎるかもしれないけど、そんなに悪い話でもない。少なくともここの家賃はただなんだし、最低賃金法の定める東京都の最低賃金は時給九百五十八円だ」
「最低賃金……ですか?」
(「また専門用語だ!」)と思ったがなんとかついていった。
「今はまだ九百三十二円だけど、再来月にはアップすることが決定している。だから月八万円ということは月に八十三時間働けばいいことになる。二十日働くとして一日四時間ちょっとだ。それ以外の時間は自由時間ということになる」
「分かりました。頑張ってみます」
「それで僕の仕事なんだけども、さっきも話した通り、僕の仕事は作家とSEと社会保険労務士の仕事が複雑に絡んでいる」
そう言って高山は、今度は壁にかけてあるホワイトボードを指さした。ホワイトボードには月間予定表が書かれているのだが三つに区切られていて、作家、SE、社会保険労務士の予定がそれぞれ書かれているようだった。
「はい」
「連絡先はすべてこの事務所にしているし、『善養寺社会保険労務士事務所です』と言ってもらえれば電話は分かるようにしてある。もっとも変なセールスの電話とかは『そういう電話は取り次げない』と言って切ってもらって構わないけどね」
「…先生、一つ聞いてよろしいですか?」
高山の説明が一段落ついたようだったので綾香は改まって聞いた。
「ああ、いくつでもいいよ」
高山は相変わらず表情を変えない。
「なんで先生はそんなにたくさんの仕事を抱えていらっしゃるんですか?」
「どういうこと?」
「つまり、どうして作家だけとか、SEだけとかに専念されないのかなあと思って」
「まあ、そのうち分かると思うけど、それだけでは食えないということだよ」
「そうですか?」
「まあ食えるかもしれないけど、家族は養えないし、家も買えないだろう。世間はそんなに甘くはないよ」
「でも先生は流行作家でいらっしゃいますよね?」
高山はコーヒーを一口、ゴクリと飲んでから続けた。
「なるほどね。『流行作家か?』と言われれば、年に二本くらいは出しているからそうとも言えるかもしれないね。でもそれだけでは生活は厳しいよ。掛け算してもらえると分かるけど、僕はコンスタントに年に二冊、単行本を出している。作家としては恵まれている方だ。そしてさらに恵まれていることに僕の本を愛読してくれている人がいて、単行本を出せば一万部は売れてくれる」
「すごいじゃないですか」
「作家の中では売れているとは言えるかもしれないけど、千五百円の本が一万部売れたとして収入は千五百万円。印税はテンパーセントだから、僕の印税は百五十万円。それが年に二回で僕の作家としての年収は三百万円。かすかすの生活はできるかもしれないけど、子どもを育てて、家を買ってというのは無理だよ」
「はあ」
「普通の生活をするためにはサラリーマンなら年齢の十五倍から二十倍の年収が必要だと言われている。僕は五十歳だから五十掛ける十五で最低でも年収七百五十万は欲しいところだよ。まあ、そこからさらに税金とか保険とかが引かれるんだけどね。でも年収三百万円でも世の中に数多く生息する自称作家に比べればまだ恵まれている方だよ」
「そういうものなんですか。作家って印税だけで悠々と暮らしていけるのかと思ってました」
「プロ野球選手と一緒だよ。正確なパーセンテージは分からないけど、上位十人が全体の九割くらいを稼いでいるんじゃないのかな?」
なるほどプロ野球選手に例えられると分かりやすい。綾香は続けた。
「でも、先生の本、ドラマとかにもなってますよね?」
「実際の話、ドラマ化されたら誰がもうかるのか僕は知らない。原作者にとっては、原作が少し読まれて、印税が微かに増えること以上のうまみはないよ。まあそれは本当に微かだけどね。君だってドラマは見たかもしれないけど、原作は読んではいないだろう?」
「はい」
「でももちろん原作者にとっては自分の書いたものが映像化されるんだから作家冥利にはつきるけどね。『ウミネコの冒険』は一度だけ撮影所の見学に行ったことがあるんだけど、主役じゃない、脇役の女の子がわざわざ、『この度は使っていただきましてありがとうございました』って頭下げに来て、キャストについては、僕は何もしていなかったんだけど、あれはあれでうれしかったなあ。まあ、それはあくまでも作家冥利。作家だけで食べていくということは、普通はできないんだ。だから作家はあくまでも趣味の延長。僕はそう割り切ってる」
「美咲と同じ会社にいたって聞いたんですけど」
「ああ。美咲は市議会議員に転身して辞めちゃったけどね」
「先生もその会社は辞めたんですか?今はここで事務所やってますけど」
「う~ん、正社員ではなくなったから辞めたといえばそうともいえる。退職金ももらったし。でも嘱託の形で仕事は続けているから辞めたかどうかは解釈の問題ともいえるね。実際、収入はSEの収入が一番多いし。まあ、興味があれば僕がここに至るまでのいきさつはそのうち話すよ。今はとてもそれを聞くだけの余裕は君にはないだろうけど」
「はい」
「じゃあ、僕はこれから出かけるのでお留守番よろしくね。どこに出かけるかはそこのホワイトボードを見れば分かる。君の荷物は後で美咲に持ってきてもらうよう手配しておくよ」
「ありがとうございます」
高山は席を立ち、キッチンの方を指さした。
「それとご飯は冷蔵庫の中やその隣の食器棚にも色々あるから適当に食べていいよ。まあ君の口には合わないかもしれないけど。そのうち買い物にも出られるようになるだろう。炊飯器と米もあるから炊飯をしてもらっても構わない。じゃあ」と言って高山は部屋を出て行こうとしたが、不意に思い出したように綾香の方を振り向いた。
「ゴメン、忘れてた。もう一つ。今朝、新聞は読んだかな?」
「いいえ」
「そうか」と言って高山は事務机まで戻り、新聞を手繰り寄せ、テーブルの上に置いて中を開き、ある記事を指さして綾香に見せた。
「……これは……」
スポーツ欄の下の方に小さく「岩崎、再び登録抹消」と出ている。
「十一連戦だと思ったけど、案外早く東京に戻ってくるね」
「はい」
綾香は力のない返事をした。
「彼とは連絡は取っていないんだよね?」
「はい」
「じゃあ、家に帰ってきて君がいないことに気付いたら、君のことを探し回るかもしれないね」
「でも、置き手紙はしてきました」
「置き手紙?」
「はい。出て行ったことを知らせておいた方がいいと思いまして」
それを聞いた高山の顔が心なしか明るくなったが、口調は引き続き事務的だった。
「そうか。それは案外、賢明だったかもしれないね。ただの行方不明じゃないと分かれば民事不介入の警察も首を突っ込めない。でもその手紙を見たら彼は自力で君を探し始めるかもしれないね。一軍登録も抹消されたみたいだし」
「私はどうすればいいでしょうか?」
「とにかく、携帯には出ないことだね。メールも見ない方がいい。それで、…彼はここにいる君をすぐに探し出せると思うかい?」
「それは大丈夫だと思います。美咲とは長らく音信不通でしたし」
「まあ、彼は僕のことも知らないだろうからここにいれば安全だと思う。でも念のため来客には気を付けた方がいい」
「はい」
「じゃあ僕は出かけるので。さっきは留守番って言ったけど、僕に用のある人はほとんど携帯に電話をしてるから事務所の電話はならないし、来客も飛び込みのセールスくらいのもんだと思う。今日は戻らないけど、美咲がちょくちょく顔を出してくれると思うからそんなに心配しないでいいよ。とにかく今は休んでね」
そう言って軽く右手を上げると、高山は綾香の視界から消えて行った。どこまでも事務的な冷たいしゃべり方で綾香はコンピュータと話をしているような気分だった。その後姿を見送り、綾香は不安と期待の入り混じる不思議な気持ちがした。
(「自分も美咲みたいにもう一度輝きを取り戻せるだろうか?」)
綾香はそんなことを考えた。
高山が出て行った後、事務所に一人残された綾香は高山に言われた通り、DVDを見ようと思ったが、その興味はむしろDVDと同じ棚に収まっている高山の著作の方に注がれた。十冊ほどの著作が並んだ棚の中から綾香の手は自然に『ウミネコの冒険』をつかんでいた。高山がどんな人物なのかをまずは知っておきたい。そのためには高山の著作を読むのが一番良いと思ったのだ。
『ウミネコの冒険』は一年くらい前にドラマで放送されていた作品だ。そこそこの視聴率だったはずで、法務省の役人である主人公が恩赦のために強盗殺人事件の再調査をするというのがストーリーの中心だったと綾香は記憶している。そして強盗傷害事件は現実に起こったものの、殺人については実は冤罪で、被害者の妻が真犯人だったというのが衝撃の結末だったはずだ。そう、確か、その真犯人は被害者からDVを受けていた。そしてそのDVから逃れるため、強盗に瀕死の重傷を負わされた夫にとどめを刺したのだ。フラッシュバックするドラマの映像と自分の置かれている立場が重なり、綾香は少し身震いした。ほんの一年前まではドラマの中の出来事と思っていたことが、今は自分の身に降りかかっているのだ。
『ウミネコの冒険』を読み進めていると不意に玄関のチャイムが鳴り、綾香はハッとした。物語はクライマックスに近付いている。時計を見ると十二時少し前だった。
本をテーブルに伏せ、ドアに向かう綾香の鼓動が少し高鳴る。自分がこの部屋に入るときにはエントランスでオートロックを解除してもらわなければならなかったはずだ。この部屋のドアの前まで来ているとは高山だろうか?いや、高山は「今日は帰らない」と言っていたはずだ。あるいは夫がもう自分の居場所を突き止めていて玄関先まで来ているのだろうか。オートロックといっても誰かと一緒に入ってしまえば入って来られないことはない。
そんなことを考えながらドアのピンホールから外を見ると、玄関の前にはTシャツに短パン姿で頭をツインテールにした中学生くらいの女の子が立っていた。夫ではないので少し安心し、ドアを開けた。
「なんだいるじゃん。出てこないんで留守かと思ったよ」
目の前の女の子はフランクにそう言うとそのまま慣れた表情で部屋の中に上がり込んだ。
「ごめんなさい、どちら様?」
綾香はキョトンとして女の子に聞いた。女の子はリビングに入り、背負ってきたリュックを降ろしてテーブルの綾香の対面に座った。
「昨日来た人だよね?パパから聞いたんだけど」
「ああ。高山先生の娘さん?」
確か昨日、高山には四人の子どもがいると美咲が言っていたはずだ。
「そう。あたしは善養寺杏奈。みんなにはアナって呼ばれてる」
アナが自己紹介した。
「中学生?」
「中学二年生だよ。夏休みで暇なんで、お腹も空いたしこっちのぞいてみたの。パパはお出かけでしょ?」
「うん。今日は戻らないって言ってた」
「それも聞いてる。新しい人が来たから暇だったらお昼ご飯でも準備してやってくれって言われてるの。で、お姉さんは?」
そう言われて綾香は我に返った。自分は所詮、今朝来たばかりの居候の身分なのだ。
「私は……藤森綾香」
「美咲ちゃんのお友達だよね?」
「美咲は知ってるの?」
「パパと仲良しだからね。綾香ちゃんかあ。どうぞよろしくね」
「こちらこそよろしく」
お世話になる人の娘だろうし、一応、気を使う相手ではあるのかもしれない。綾香は一回り以上離れた子どもに低姿勢で接した。それに比べアナの方は堂々としている。
「随分ひどくやられたね」
「……うん」
アナが綾香の顔を見て言った。部屋の中なのでここではマスクもダテ眼鏡もしていない。鏡も見ていないし、見たくもないのだ。
「でも、ここに来たらもう心配しないでいいよ。パパが守ってくれるから。お昼ご飯まだでしょ?」
「うん」
「あたしもまだなの。じゃあ、一緒に食べようよ。カップラーメンくらいしか作れないけど」
そう言ってアナはキッチンに向かい、冷蔵庫の隣の食器棚を物色した。カップラーメンを二個取り出すと、手際よく外装フィルムを取り、ふたを開けた。
「四人兄弟って聞いたけど」
綾香は電気ポットのお湯をカップに注ぐツインテールに声をかけた。
「男、男、男ときてよ~やく末っ子のあたし。まあ、それはたまたまで女の子が出てくるまで頑張ったわけじゃないってパパは言ってるけどね」
「お母さんは?」
「ママはバリバリに働いてるよ。あたしは赤ちゃんの頃からそういう生活だから、そういうもんなのかなって思ってたけど、なんだか世間は違うみたいだね。うちが特殊なんだってことに気が付くのに結構、時間がかかったよ」
「特殊って?」
「つまりね~、よそのおうちと違って、うちでは、……善養寺家では父親と母親が逆転してるの」
「逆転?」
「そう。パパが母親役。それでママが父親役っていうか、外でバリバリ働いてるの。稼ぎは同じくらいか、パパの方が多いのかもしれないけどね」
「お母さんはどんなお仕事なの?」
「よくは分からないんだけど、経営コンサルタントっていうのかなあ。潰れそうなホテルとか潰れてしまったホテルとかを再建させる仕事をしてるみたい。それで全世界を飛び回ってて、二ヶ月くらい家を空けることもある。だから善養寺家ではご飯作ったり、掃除したり、洗濯したりはもちろんだけど、保育園のお迎えも、学校のPTAも全部パパ。パパはPTAの会長をやってたこともある。あたしが赤ちゃんのときは育児休業も取ってたっていうし。……パパの本、読んでるんだ」
綾香の読書に気付いたアナはリビングに戻ってきて、カップラーメンをテーブルに置きながら言った。
「あ、うん。先生のこと少し知っておかないといけないと思って」
「そっか。…それで、実は綾香ちゃんに一つお願いがあるんだけど」
アナは初対面にしてはフレンドリーというか、ずうずうしく言った。
「お願い?」
「夏休みの宿題を手伝ってほしいの」
「えっ?」
「全然、終わんない、ってかやってなくてさあ。来週から二学期だし。どうせ暇なんでしょ?お願いできないかなあ」
「そんなこと言われても、私、……勉強なんか分からないし」
「勉強っていっても中学二年生レベルだよ」
「ごめんなさい。私、学校にはまともに行ってないの」
小中高とアイドル生活を送ってきた綾香は、それでも学業成績はそれほど悪くはなかったが、まともに勉強などしていない。
「そっか。美咲ちゃんと同じなんだ」
「そう」
「でも読書感想文くらいは書けるでしょ。今読んでるそれについて感想文を書いてくれればいい。パパも喜ぶよ、きっと。それと絵くらいは描けるよね?」
「うん。たぶん」
「じゃあ、美術もお願いしようかな。なんでも明るい選挙のキャンペーンポスターを描かなきゃいけないの」
ちょうどタイマーが鳴り、カップラーメンができたようだ。
「まずは腹ごしらえだね。綾香ちゃんもパパのこと色々聞きたいだろうから、聞きたいことがあるならどうぞ。なんでも答えるよ。それと、遠慮しないでじゃんじゃん食べてね。おかわりしてもいいからね」
タイマーを止めたアナはそう言うと、できたてのカップラーメンをすすった。
それからアナは綾香の質問に一々答え、聞かないことまで丁寧に教えてくれた。というよりしゃべりたくて仕方ないといった感じだった。これだけの話術があれば、しゃべりだけでも十分に食べていかれるのではないか、綾香はそう思ったくらいだ。綾香は『ウミネコの冒険』を読み上げ、感想文を書き、アナが持ってきた絵の具セットで明るい選挙推進キャンペーンのポスターを描いた。アナはその傍らで数学の問題集を必死になって解いていた。そして午後五時半、外で遊んでいる児童に帰宅時間を知らせるチャイムがR市内に鳴り響くと、それを合図にアナは帰っていった。慣れない作文を書き、ポスターを描いた綾香は疲れてはいたが、知らない土地に来て初めて新しい友達ができて少しうれしかった。
アナが帰ると二分くらいのタイミングがあって、玄関のチャイムが鳴った。綾香がドアのピンホールをのぞくと美咲が立っていた。傍に赤いスーツケースがある。綾香はドアを開けた。
「こんにちは~。荷物持ってきたよ」
美咲はそう言ってスーツケースを部屋の中に入れた。
「アナちゃん来てたんだね。さっき入口ですれ違った」
「うん。色々と教えてもらったよ」
綾香が言うと、美咲はさっきまでアナが座っていた椅子に腰掛け、綾香は対面に座った。
「いい子でしょ?」
「元気な子だね」
「そうだね。あたしも色々と元気をもらったなあ」
「そう」
「ねえ。アナちゃんって芸能人向きだと思わない?」
「えっ?」
「だって、大人相手にあれだけ渡り合えるんだもん。あたしね、実は野望があるの。アナちゃんをツインテキャラで売り出そうかなと。あたしがプロデューサーで」
「確かにツインテだったけど」
「『ラピスラズリ』のときはあたしが、背が一番低いということで不本意ながら無理矢理ツインテキャラをやらされてたけど、四人兄妹の末っ子の彼女は正真正銘のツインテキャラだからね。だから、初めて会ったときはでき損ないのポニーテールだったけど、あたしがツインテールに改造しちゃったってわけ」
「そっか。……いつの間にか私たちがプロデューサーの年齢になったんだね」
綾香は感慨深げに言った。
「そういえばそうだね」
「昨日、相談受付票に年齢を書いたでしょ?自分の年齢を紙に書いたのはホントに久し振りだった。それで…三十二歳になったけど、自分は何も持ってないんだなあって思っちゃった」
「何もって?」
「仕事も、資格も、才能も。……美咲はすごいよね。私にないものを全部持ってる。同じように育てられたはずなのに」
「それってただの運だと思うよ。五年前、あたしが就職した時も、あたしは今の綾と同じことを考えてた」
「同じこと?」
「あたし達、それこそ物心つく前からアイドル養成工場に入れられて、それ以外のことは何も勉強してこなかったでしょ?」
「うん」
「でも、そんなあたしに高山先生はこう言ったの。『君は若さと健康を持ってるじゃないか』って。それで、少し前向きになった」
「美咲……」
「まだ大丈夫だよ。取り返せるって。だから…一緒に頑張ろう」
ニッコリ笑った美咲にそう言われて綾香にも少し笑顔が出た。