綾香が高山のシェルターに逃げてきてから一ヶ月が過ぎ去り、カレンダーが十月になった。本棚に置かれている高山の著作をすべて読み終えた綾香は、高山の指示通りDVDを見ながら社会保険労務士の勉強をする毎日を送っている。単調な毎日だがこれまでの生活がかなりジェットコースターな生活だったので、今の生活が心地よいというのが本音のところだった。それでもここ数日、自分の中のある緊張感が高まりつつあることを綾香自身も認識していた。プロ野球がレギュラーシーズンを終えたのだ。そして、夫の所属する在京球団はポストシーズンに進出することができず、夫自身も正式に戦力外通告を受けてしまっている。夫は自分のことを本気で探し始めるだろう。そしていつかきっと見つかってしまうだろう。綾香はそう感じていた。
十月の初め、大型台風が関東地方を横断した台風一過の午後、綾香がいつものようにシェルターでDVDを見ていると不意に玄関のチャイムが鳴った。このシェルターでは高山であっても勝手に鍵を開けて入ってくることはない。必ずピンホールでチャイムを鳴らした人物を確認して、中から綾香自身の手で鍵を開けることになっている。DVDを中断させ、玄関に向かい、ドア穴をのぞくとそこには高山と美咲が立っていた。綾香はドアを開けた。
「やあ」
相変わらず表情を変えない高山が低い声で言った。高山や美咲が来ること自体は珍しいことではないが、二人が一緒にここを訪れるのは初めてだった。高山はいつもと変わらないクールな表情だったが、美咲は少し慌てているようだった。二人は黙ったまま部屋の中に入り、リビングに置かれているダイニングテーブルの綾香の対面に並んで座った。
「何かあったんですか?二人が一緒に来るなんて珍しいですね?」
綾香がそう言うと、「綾、冷静に聞いてね」と美咲が興奮した様子で言った。少し重い雰囲気だ。
「うん」
「今日、昼前に岩崎君から電話があったの」
「えっ?」
「市役所にある議員控室に電話があった」
「……」
「岩崎君、あちこち調べて、あたしのこともネットで検索して、それで市会議員やってるってことを初めて知ったみたいで、それで市役所の議員控室に電話してきたの。あたしのホームページに電話番号載ってるしね」
「……」
綾香は黙った。覚悟はしていたがやはり怖い。
「綾香さん。色々と不安なことはあるだろうけど、いつまでも逃げてはいられない。特に君たちは二人とも有名人なんだから早目に決着はつけておいた方がいい」
少し間をあけて高山が言った。
「どうすればいいんですか?」
綾香は不安そうに高山に聞いた。
「その前に僕の方から君に一つ確認しておきたいことがある」
「はい」
「不躾なことを聞くけど、君は彼のことを、本当はそれほど愛してはいなかったんじゃないのかな?」
「はあ?」
「つまり、君は彼自身よりもむしろ彼の持っているモノの方に興味があったんじゃないのかな?ということを聞きたいんだ。彼もそうだ。色々と調べさせてもらったけど、彼は中学生の頃から君の大ファンだったそうじゃないか。彼は君のことを手に入れたい一心だった。そんな二人があるとき偶然出会った。彼の方は君を手に入れるため、お金を湯水のように使うことができる立場を手に入れていた」
高山の指摘は間違ってはいなかった。プロ野球公式戦の始球式。綾香はマネージャーに言われたから参加しただけのことであり、それまでは野球に興味を持つことはなかった。今でもリーグの構成はおろかルールだってよく知らない。でも、夫が億を稼ぐプレーヤーであることは知っていたし、夫とのお付き合いを最も熱心に勧めたのは、自分以上に「玉の輿」に乗ることを夢見ていた母親だった。それに、始球式が行われた頃の綾香のアイドルとしての人気は絶頂期に比べて確実に落ちていた。そのことを一番強く認識していたのはマネージャーでも母親でもない、他ならない綾香自身だった。これからどうやって生きていくかを考えなければならない、ちょうどその時に夫は彗星のように現れた白馬の王子様だったのだ。結婚前の夫はどんな我ままでも聞いてくれたし、欲しいものはなんでも買ってくれた。
夫が今のような状況に陥ってしまったのには綾香にも責任がある。もっと夫に寄り添っていれば、例えば自分も野球が大好きで、野球部のマネージャーの経験があるとかだったならば、食事のコントロールとか、いい鍼灸を見つけてくるとか、もっと夫を長持ちさせる何かができたのかもしれない。しかし綾香がしたことといえば我まま言い放題の贅沢三昧で夫は体重を増やし、怪我をしやすい身体になってしまっていた。
結局、綾香は自分自身では何も意思決定できない、弱い人間なのだ。高山の指摘は確かにいきなりで不躾ではあるが、間違ってはいない。
「……、それは……そうかもしれません…」
綾香は静かに答えた。
「別に君を責めているわけじゃない。別れたいという意思の強さを確認したかっただけだから気にはしないでね」
「はい」
「それで、明日の夕方、美咲と僕で旦那さんと会う約束にした。そこでこれからのこと、つまり離婚について話すことにする。もちろん明日は突然の離婚表明なのだから彼の方も混乱してしまうだろうけど、とにかく、そこは粛々と話を前に進めるしかないと思っている。下手に元の鞘に戻そうとすると元の木阿弥よりも悪い結果になってしまうからね。後は、綾香さんが立ち会うかどうかということなんだけど」
「立ち会わなければならないんでしょうか?」
「どうしても会いたくないというのであれば無理にとは言わないけど、会って、そして君の口から別れたいと直接言った方がいいと思う。彼というよりはむしろ、君自身が自らの未練を断ち切るためにね」
高山にそう言われると綾香は美咲の方を見た。美咲は少し微笑みながら大きくうなずいた。
「未練ですか?」
「そう、未練」
「私、彼にはもう未練はありません」
綾香はキッパリと言ったつもりだった。
「そうだね。彼に対する未練はもうないのかもしれない。でも、今までの生活、今までの華やかだった生活にはまだ未練があるんじゃないのかな?あの時の自分は光り輝いていたなあという思いが」
「……そうかもしれません」
「それを断ち切ってほしい。そうしないと君は永遠に前進できない」
「はい」
綾香は、うなずきはしたものの、本当に自分がどうしたいのかは分からなかった。
次の日の夕方、綾香は迎えに来た美咲と共に、高山の運転するピンクの軽ワゴンで約束のファミリーレストランに移動した。そしてクルマに十分くらい揺られ、市役所に近い、街道沿いのファミリーレストランに到着した。
それから三十分ほど待つと、約束の時間ちょうどに、背が高く、恰幅のいい男が店内に入ってきた。サングラスをしているが一目見れば、球界の往年のスーパーエースであることは誰にでも分かる。先に気が付いた帽子をかぶり、マスクとダテ眼鏡をかけた綾香が美咲に目配せし、美咲が大きく手を振った。男は一瞬、立ち止まるとこちらに向かい、空いている美咲の隣、高山の対面の席に座った。
「岩崎君、お久し振り。こんな形で会うとは思わなかったけど」
場を和まそうとしているのだろう。美咲は少し微笑みながら言い、「こちら、作家の高山新先生」と言って高山を岩崎に紹介した。
「はじめまして。高山といいます」
高山はそう言うと座ったまま「作家・ITストラテジスト 高山新」が記載された名刺を岩崎に差し出した。岩崎は座ったままそれを受け取りしげしげと見つめる。岩崎は名刺を持っていない。というより日米両球界のスーパーエース「だった」この男を知らない日本人はいない。
「どうして作家の先生が立ち会うのですか?僕はまた弁護士の先生かと思いましたよ」
岩崎はやや嫌味っぽい表情で言い、綾香の方をチラッと見た。
「高山先生は、あたしもそうなんだけど、R市でやっている『駆け込み寺』事業のスタッフなの。今回のこの綾の件はあたしと高山先生で担当してるの」
美咲がそう説明すると岩崎はそれを無視するように高山に視線を向けた。
「これからどこかに移動するんですか?」
「いや、話はここでさせてもらいます」
高山が相変わらずの淡々とした表情で言う。
「どうしてこんなに開放的なところなんですか?」
岩崎は周囲を見回すように言った。岩崎、美咲、そして綾香の三人は少なくとも有名人だからなのだろうか、周囲の一般客がこちらの方をチラチラ見ているような感じもする。
「開放的なところだからいいの。周囲の目があると結構、冷静に話せるもんだよ」
もう一度、美咲が解説した。
「そうですね。力づくででも綾を連れて帰ろうと思ってましたが、いきなり出鼻をくじかれてしまったようです」
岩崎は一気にそう言うと、斜め前に座った綾香の方を向き、心なしか頭を下げた。
「綾。俺が悪かった。どうか帰ってきてくれないだろうか」
岩崎にそう言われたものの、綾香は岩崎の方を見ることなく、前を見たまま黙っている。少し間があってもう一度岩崎が口を開いた。
「俺が悪かったんだ。綾がいなくなって初めて綾の大切さに気が付いた。俺にはやっぱり綾が必要なんだ。お願いだ。戻ってきてくれ」
メジャーで二桁勝利を収めたこともある自信はそこにはなかった。今度は高山が口を開いた。
「岩崎さん。残念ですが、彼女の意思は固いです。今更、翻意させることはできないでしょう」
「……」
「どうして綾香さんが眼鏡をかけてマスクをし、室内だというのに帽子をかぶっているのか分かりますね?」
高山がそう言うと岩崎は息を飲むような仕草を見せた。
「……それは、…分かっています。きっと、俺が一番、分かっているんだと思います」
「では、綾香さんの決意の固さも理解してください」
「……、そうですか。分かりました。…やはり、…力づくで取り戻すしかないようですね」
そう言って席を立とうとする岩崎を高山は右手のパーを目の前に差し出して制した。
「それは止めた方がいいと思いますよ。あなたはもう気が付いているかと思いますけど、ここのお客さん、さっきからチラチラとこちらの方を見ていますよね?実はR警察署の生活安全課の刑事さんに張り込んでもらっているのです。何か事が起きたときに、すぐにストーカー規正法違反の容疑者を逮捕できるように」
立ち上がりかかった岩崎はしばし固まり、そして再び椅子に腰かけた。
「……そういうことですか。随分、準備周到ですね?」
「別に綾香さんのケースが初めてというわけではありませんからね。現行犯逮捕の現場ももう何度も目にしてきました。それと、数あるファミレスの中でどうしてこのお店が選ばれたのか、その理由をお話ししておきましよう。理由はここのお店が一番R警察署に近いからです。いざ逮捕となったときに警察署にただちに連行できるようでないと警察としても効率が悪いですからね」
現行犯逮捕という言葉が効いたのだろう、諦めたのか、岩崎はおとなしくなった。
「……綾とはもう会えないんですか?」
高山の方を見て岩崎がポツリと言った。
「それだけのことをあなたはしてきたということです。でも、もう二度と会えないということではない。二人ともこの世に生き続けるわけですから。十年後になるかもしれないし、二十年後になるかもしれないけど、二人ともそれぞれの人生を重ねていって、同窓会のような気分でもう一度会って、お互いの健康を喜び合うことはできるかもしれません」
「俺は綾と離婚するんですね?」
「できれば協議離婚していただきたい。でも、その点は岩崎さんも素人でしょうから弁護士と相談してください。もう、相談なさっているかもしれませんが。綾香さんのことは我々でサポートしますが、慰謝料とか難しいことは言わないと思います。綾香さんはもう一度等身大の自分に戻ってやり直すつもりですから」
「俺はどうすればいいんですか?」
「あなたも等身大の自分に戻ってやり直せばいい」
「みじめですね?」
「そんなことはありません。今までが異常なほど恵まれていただけです。それにあなたは超有名人だ。これからどのような人生を歩むにせよ、過去の栄光は役に立つはずです」
「俺は野球しかできない男です」
「では、一生、野球に関わる仕事をされるのもいいと思います。しかし、そのためには綾香さんとの生活はまっさらにして、もう一度ゼロからスタートしなければなりません。そうしなければ、このまま綾香さんに取り付いていたら、あなたの人生が終わってしまうと思ってください。このまま綾香さんに取り付いて人生を終わらせてしまい、大好きな野球もできなくなってしまうか、綾香さんと別れて人生も野球も失わずに生きていくか、選択するのはあなたです」
「……分かりました。……考えさせて下さい。…また連絡します」
岩崎はそう言うともう一度綾香の方を見たが、綾香はまっすぐ前を見たまま最後まで岩崎と視線を合わせなかった。岩崎は高山に一礼し、美咲にも軽く会釈してから席を立ち、そして見えなくなった。
それから三十分くらい待って、岩崎が周囲にいないことを確認してから三人は店を出た。
「先生、美咲、……今日はどうもありがとうございました」
三人の乗る軽ワゴンが出発するとリアシートに一人座った綾香が言った。
「今日はあくまでもスタートだよ。これからが長いと思う」
軽ワゴンのハンドルを握る高山が静かに言った。美咲は助手席に座っている。
「しかし、刑事さんを張り込ませているとは気が付きませんでした」
綾香がそう言うと助手席の美咲が
「ねえ、綾、あれが刑事さんだと思った?」
「だって、先生が生活安全課の刑事さんだと……」
「まあ、そうは言ったけど、あれははったりだよ」
高山が言った。
「はったり、ですか?」
「そう。あれはただの、見ず知らずの他のお客さん。僕達とは何も関係ない。今日は平日でファミリー層がいなくてちょうど良かった」
「でも、みんな私達の方をチラチラ見てましたよ?」
「それは君達が有名人だからだよ。それ以上の意味はない。ちなみに僕が今までに何度も逮捕劇を見てきたというのもはったりだ。現実にそんなシーンを見たことは一度もない。まあ、夢の中で見たことはあったかもしれないからまるっきり嘘という訳でもないけどね。もちろん屁理屈だけど。それと、もう帽子、眼鏡、マスクはとってもいいよ」
高山にそう言われて綾香は「はい」と言い、帽子をとり、ダテ眼鏡とマスクをはずした。あざのない、きれいな肌が現れた。DVでできたあざはもう引いている。
「ついでに言うとその帽子と眼鏡とマスクもはったりだよ」
「そうだったんですか……、先生。もう一つ聞いてもいいですか?」
「うん」
「先生はどうして私と翔君がそんなに愛し合っていなかったってことを見抜いていたんですか?」
「それは……、君達が苦労を共にしていないからだよ。そりゃあ、彼も長く辛い練習に耐えてきた過去はあったんだろうし、君だって下積みの頃は随分と嫌な思いもしたんだとは思う。だから二人とも素晴らしい成功を収めることができたんだということは理解してるつもりだよ」
「はい」
「しかし、二人が出会ったのは公式戦の開幕戦の始球式。一人はホーム主催の開幕投手を務めるような球界屈指のスーパーエース。もう一人は開幕戦の始球式にゲストで呼ばれるようなスーパーアイドル。出会ってそれからは何も苦労することなく、面白おかしく、楽しく過ごしてきただけだったんじゃないのかな?」
「……そうかもしれません」
「だからスーパーエース引退の危機というハードルを二人で乗り越えることはできなかったんだと思う。二人の出会いがもっと早くて、一緒に階段を昇ってきたんだったらもっと展開は違ったのかもしれないけど、絶頂期に出会った二人が乗り越えるにはあまりにもハードルが高すぎたね」
「そうですね」
「でも、今までが異常だったと思った方がいいし、思うべきだし、思ってほしい。これからは普通の生活に入るんだからさ」
「……そんなこと私にできるでしょうか?」
弱々しい声で綾香が言うと美咲が「大丈夫だよ。普通の生活の方が案外、幸せかもしれないよ」と言い、綾香は「そうかもしれない」と思った。
今までは夫の影におびえてきたけれども、もうこの二人がちゃんと守ってくれるだろう。そう思えるだけでも十分感謝しなければならないことなのだ。綾香にとっては事務的で冷たいと思っていた高山の背中が大きく見えた瞬間だった。
それからさらに一ヶ月くらいがたち、美咲から「岩崎君から高遠美咲気付で綾の荷物が大量に送られてきたのでそちらの事務所に回送する」という連絡が突然入り、十一月のある平日の午後、大量の段ボールがシェルターである高山の社会保険労務士事務所に送られてきた。
段ボールの運び込みには高山も立ち会い、さながら引っ越し作業のようだった。高山は部屋の中に所狭しと並べられた三十個ほどの段ボールの一つを綾香に開けさせた。中には洋服が詰まっている。
「これは?」
高山が綾香に聞いた。
「私のものです」
「そうか。彼が整理して送ってくれたんだね」
「連絡した方がいいでしょうか?」
「いや、連絡はしない方がいいだろう。下手に刺激しない方がいい。それに荷物が着いたかどうかはネットで調べれば分かることだよ」
「どういうことなんでしょうか?」
「引っ越しをするんだろうね。勝どきのマンションを引き払うんで君のものも整理しなければならなくなったんだろう。勝どきのマンションは自分のものだったのかな?それとも賃貸?」
「スミマセン。分かりません。気にしたこともありませんでしたから」
綾香は今まで夫の財産を心配したことなどない。もっといってしまえば、産まれて今までお金の心配をしたこともなかった。自分の稼いだお金は誰かが管理していたし、そういうものだと思っていた。それで生活が不自由したこともない。
「そっか。実はね、君には黙っていたんだけど、彼は有名人だからブログがあったりする」
「それは知っています。私は全然見てませんけど」
「それにファンサイトもある。熱狂的なファンが勝手に作ったオリジナルなサイトからの情報もある」
「はい」
「僕はそれらの情報を随時モニターしている」
「はあ」
「彼、台湾に行くようだよ」
「台湾…ですか?」
「台湾のチームからオファーがあったそうだ。まあ、彼としては大好きな野球を続けるということだね」
「台湾にもプロ野球チームがあるんですか?」
「まあ君はそういうレベルだよな。でももういいよ。もう無理に野球には詳しくならなくていいから。とにかく彼は台湾に野球をしに行くことになったようなんだ。税金の問題とかあるし、彼にはその辺の指南役はいるだろうから年内には出国するはずだよ」
「そんなに早くにですか?」
「まあ、税金の話なんだけどね。住民税はその年の一月一日現在の住民登録のあるところで課税される。彼は今年までは高級を稼いでいたかもしれないけど、来年の収入は激減するはずだよね。でも住民税は今年の稼ぎを基に課税されるからとても払えないはずだ。だから、まあ、国外に脱出するということだね。彼にもそれはいい話だと思う。野球ができるなら全世界、どこでも同じだと思うし」
それを聞いて綾香はどこかホッとした。夫が日本からいなくなるということもそうだが、自分よりも野球を選んだという、冷静に考えれば当たり前のことが綾香を安心させた。
「それで、この荷物はどうする?」
「はい?」
「これだけの大量の服や鞄や装飾品、君のこれからの人生では荷物になるだけだよ。もっと身の回りは軽くしておいた方がいいと思うけど。ここに来てから二ヶ月以上経過したけど、スーツケース一個の荷物で特に不便でもなかったでしょ?」
高山は段ボールの中を物色している。
「はあ。どうすればいいでしょうか?」
「じゃあ、こうしよう。見たところブランド物も結構あるみたいだから生活に必要なものだけを取っておくことにして、後は中古屋さんで売却しよう。僕はブランド物の価値はよく分からないけど、少々まとまったお金になるだろうとは思う。それは君のこれからの人生のための貯金にしておこう。これからどこかに勤めるのか、社会保険労務士として独立した事務所を設けるのかは分からないけど、お金はそこそこあった方がいい」
「はい」
「ちょうど、今の君の身の丈にあったくらいのお金になると思うよ。お金って不思議なものでまったくないと困るけど、あり過ぎてもダメなんだよな。お金があり過ぎると、進歩しようとしなくなっちゃうからね。だから、お金は少し足りないくらいがいいのかもしれない。お金がないと頑張ろうっていう気分になるからね。荷物整理のために今、アナを呼んでるから彼女にもいるものといらないものの分別を手伝ってもらおう」
それからアナがやってきて、段ボールを開け始め、分別作業が始まった。アナははしゃぎ、ブランド物の財布を見つけて「これ欲しい!」とか言っていたが、高山が「自分で稼いで買うか、プレゼントしてくれる男を見つけてこい!」と言って一喝した。結局取っておくものは段ボール三箱くらいに縮小され、おびただしい数のものが軽ワゴンで中古屋さんへと運ばれていった。
結局、中古屋さんとの交渉があり、売却代金はトータルでちょうど五百万円になり、二日後、給与振り込みのために作られた綾香の預金口座に振り込まれた。高山と綾香はシェルターのテーブルを挟んで、預金通帳を前に向かい合った。預金通帳には九月と十月の給料、計十六万円との合計額五百十六万円の残高が記帳されている。
「綾香さん、君は恵まれている方だね。普通は、たとえ独身時代の蓄えがあったとしても、こんなには軍資金を準備できないよ。後は無駄遣いしないことだね」
「はい。そのことなんですけど……」
「うん」
「美咲から聞いているかもしれませんけど、私、今までお金の管理なんてしたことないんです。その~、なんていうか、お金は誰かが管理してくれてましたから」
「まあ、そうなんだろうね」
「ですから、申し訳ないんですけど、この通帳も先生に預かっておいていただきたいんです。先生も私のことで色々とお金が必要でしょうし、今までも色々と立て替えていただいていると思いますので」
綾香はそうされるのがあたり前のように言った。
「なるほどね。でもそれは駄目だ。このお金は君が自分で管理しなければならない。君はまだお金の計算の仕方は分からないかもしれないけど、これからもし、社会保険労務士として独立するのであれば、自分の勘定はもちろん他の人のお金の計算もしないといけなくなる。こればっかりは逃げられないからね。今から慣れておいた方がいい」
「はあ。どうすればいいんですか?」
「とにかく記録を付けることだ。それと、記録を付ける場合、二つのことを意識しながらつけた方がいい。一つは自分が今、どのくらい稼いでいるのかということ。もう一つは自分が今、どれだけの財産を持っているのかということ」
「はあ」
「簿記の話は少し難しいかもしれないけど、あえて難しく言うなら、どのくらい稼いでいるのかは会計上、損益計算書という書類で確認できる。どのくらい財産があるのかは貸借対照表という書類が担当する。損益計算書とか貸借対照表とか、そう言う言葉、聞いたことないかな?」
「スミマセン。ちんぷんかんぷんです」
「稼ぎのいい人と稼ぎの悪い人がいるのは分かるよね?」
「はい。そのくらいなら」
「それとお金持ちとお金持ちでない人、まあ平たく言えばお金持ちと貧乏人がいるというのも分かるよね?」
「それも分かりますけど、さっきの稼ぎの良し悪しとは違うんですか?」
「それが違うんだよ。それがこれからの人生、ポイントになると思う。稼いでいて財産も沢山ある人もいるし、稼ぎが悪く、財産もそんなにない、あるいは借金をしている人もいるけど話はそれで終わりじゃない。稼ぎはいいけど、借金も多い人もいる。例えば住宅ローンを組んで子育てにお金のかかっている三十代、四十代のサラリーマンとかを考えてみるといい」
「はい」
「一方、そんなに収入はないけど、住宅ローンの返済も終わったし、預金がたっぷりあるような人もいる。退職金をたっぷりもらった年金生活者なんかを考えてみるといいね」
「はい。分かります」
「人生は、お金という面では四通りあると考えてもらっていいと思う。稼ぎが良くて財産もある人、稼ぎはいいけど借金も抱えている人、稼ぎは悪いけど財産がある人、稼ぎが悪くて借金も抱えているような人」
「はい」
「君は今まで稼ぎが良くて財産もたっぷりある勝ち組の生活をしてきた。これから第二の人生、稼ぎが悪くて、財産もほとんどない状況からスタートするのが普通のパターンだけど、君はそこそこ預金がある状況から始められる。そのことには感謝した方がいい」
「はい。まだピンときませんけど、とにかく頑張ってみます」
「まだ、離婚が決まったわけじゃないからこれから先立つものが必要にもなってくるだろう。慎重に財産形成をしていこうね。僕もできるだけのアドバイスをするから」
「はい。よろしくお願いします」
綾香はそう言って頭を下げた。綾香にとっては家計簿をつけることさえ新しい経験だ。でもここに来る直前のような不安な気持ちはなかった。この人の指導に従っていれば自分も美咲のように輝きを取り戻すことができるのではないだろうか。そんな気持ちが強くなっていた。