この年のクリスマス・イブは日曜日だった。クリスマス・イブといえば、これまでは必ず何か心ときめくようなイベントがあり、サプライズがあった。しかし、今年はあるはずはなく、綾香はそのことを静かに受け止めていた。いつもと変わらない日曜日、高山もこのシェルターにはやって来ない。きっと、家では愛する妻と四人の子ども達に囲まれたホームパーティーが開かれるのだろう。ここに来てから、綾香は、高山には言葉にできないような感謝の気持ちを抱いている。しかし、この日ばかりは寂しさが感謝の気持ちに勝っているようだった。
そんなふうに思っていると不意に玄関のチャイムが鳴った。ピンホールをのぞくと荷物をたくさん持った美咲が立っていたので綾香はドアを開けた。
「メリークリスマス!…って気分でもないかもしれないけど、まあ世間はクリスマスなんだし、ちょっとはパーティーみたいなことやろうかなあと思って来てみたよ」
美咲はそう言うと部屋に上がり込み、持ってきた手荷物をテーブルの上に置いた。オードブルやケーキもあるようだ。
「ありがとう美咲。ちょうど寂しいなあって思ってたところだったの」
綾香はポツリと言った。美咲にとっても寂しいクリスマスなのかもしれない。愛人だったはずの黒崎はもうこの世にいない。愛人だったという後ろめたさからすれば、実家に帰ることもはばかれるのかもしれない。芸能界はもう引退したのだから今日だけ華やかな世界に戻るということもできないだろう。綾香は美咲が自分と同じように孤独であることを理解した。
「実家には帰らないの?」
テーブルの上に料理を並べながら美咲が聞いた。綾香が聞こうと思ってためらった質問だった。
「今年は無理だよ。少なくともほとぼりが冷めるまではね」
自分の離婚を一番残念がっているのは母親だろう。母親とはもうしばらく連絡を取っていない。これから先、母親と和解することはあるのだろうか。それを思うと綾香は辛かった。
「そっか」
「美咲のお父さん、お母さんは元気なの?」
「お蔭さまでね。今は地元でマンションの管理人をやってるよ。それで、まあ普通の生活はできてはいる」
「何かご商売やってたんじゃなかったっけ?」
「商売っていうか、ただの中小企業の社長だっただけだよ。まあ、結婚した時は青年実業家とかなんとかいって、お父さんはお母さんのことをだましたんだろうけど、それからひどい時期が少しあって、それでうちらの事務所の社長に助けてもらって今の仕事に就かせてもらったの」
「黒崎社長に?」
「そう。まあ、あたしの口利きといえばそうなんだけどね。黒崎はラピスラズリで相当儲けたでしょ?それでビルとかマンションとか投資用の不動産をたくさん買ったんだって。確かにビルがいくつも買えるくらいあたしたちは稼いでいたし。あたしたちの手取りはひどかったけどね。とにかく、黒崎は自社グループに不動産子会社を作るくらいビルを買ったの。後は飲食店とかもやってたけどね。まあ、そっちはある程度道楽だったのかもしれないけど、いずれにせよ黒崎にはそれなりの商才があったってわけ」
「でも、前、聞いた話では美咲、社長の奥様から追い出されたんでしょ?お父さん、お母さん大丈夫なの?」
「まあ、詳しいことはよく分からないんだけど、大丈夫ではある。奥様がお父さん、お母さんの存在に気付いていないのか、あるいは気が付いてて、武士の情けで気が付かない振りをしているのかは分からないんだけど、とにかく、親は引き続き、社長のやってたグループ企業の一つのビルの管理人になってる」
「で、お正月も帰らないの?」
「まあ、政治活動で忙しいってことにしてるし、あたしが帰っても心配かけるだけだしね」
「心配?こんなに成功してるのに?」
娘が市議会議員なら親は安心だろうと綾香は考えていた。
「お嫁に行きそびれてるとかそういうことだよ。所詮は花嫁の父だからね」
「そっか。それでお正月はどうするの?」
「ここにいるでもいいよ。どうせ先生は正月明けまでこないだろうし」
「そうしてもらえると私もありがたいけど」
綾香は寂しさが紛れそうで少しホッとした。
「勉強の方は順調にいってる?」
美咲が話題を変えた。
「ああ。お蔭さまで、バカな私にしてはうまくいってる方かもしれない。なんといってもここには実際の教材が転がってるし、分からないところは先生がすぐに教えてくれるし」
「そっか。じゃあ次の試験にはきっと合格できるね」
「そればっかりは分からないけど、頑張りたいとは思ってる」
「それから先のことは?」
「えっ?」
「合格してから先のこと。ここは一時しのぎのシェルターにすぎないんだから。岩崎君も年内には日本からいなくなるんだろうし、綾も安心して次の人生、考えられるでしょ?」
「う~ん……」
美咲にそう言われて綾香はうなった。確かにそういう約束ではあったが、たとえ社会保険労務士の試験に合格できたとしてもすぐにその次のことが考えられるわけではない。それでなくても綾香はこれまで誰かに頼る生活をしてきたのだ。
「まあ、難しいことは後回しにして、取り敢えずワインでも飲みますか」
料理を並び終えた美咲はそう言って持ってきたワインを掲げて見せた。そんな美咲を見て綾香も少し微笑んだが内心の不安を隠すことはできなかった。
「ねえ、美咲」
「ん?」
「前にも聞いたと思うけど、先生とはそういう関係じゃないの?」
「もしそうならたとえ鈍感な綾でもハッキリ気が付くんじゃないの?」
美咲は微かに笑みを浮かべた。
「ただの師弟関係とは思えないんだけど」
「どういうこと?」
「私が立ち入れないような信頼関係があるような」
「ハハハ。そうかもね。まあ、それは年が明けたら先生本人に直接聞いてみてね」
「私も美咲みたいに高山先生に弟子入りさせてもらえないかなあ?」
「はあ?そんなことしたらあたしのこと、『美咲姉さん』って呼ばなきゃならなくなるよ。……それでも高山先生に弟子入りしたいっていうの?」
「私は真面目に言ってるつもりなんだけど」
「まあ、あたしは構わないけど、それは先生が決めることだからね」
美咲はニッコリ笑ってそう言うとコルクにワインオープナーを突き立てた。
翌日、同じベッドの上で目を覚ました綾香は美咲と一緒に朝ご飯を作り、八時頃、市役所に向かう美咲を見送り、後はひたすら勉強に励んだ。高山は、今日はこの事務所には現れない予定だった。昨日「夜遅く、朝も遅いので」と高山には珍しく言い訳をしていたので、きっとサンタクロースに扮し伝説を演じたのだろう。
玄関のチャイムが鳴ったのは午後六時頃だった。綾香はピンホールをのぞき、美咲の姿を確認するとドアをあけた。そして美咲の隣に高山もいたので少しビックリした。
「あっ、先生もいらしたんですね」と綾香が言い終わらないうちに美咲が「綾、落ち着いて聞いてね」と言い、高山の方に視線を向けた。
綾香は美咲の普通でない声色に少し緊張し、視線を高山に向けた。真剣な眼差しの高山と目が合った。
「綾香さん」
「はい」
「急な話で申し訳ないけど、今から岩崎氏と会うことになった」
良い知らせでないことは雰囲気で何となく分かったが、綾香の緊張感は一気に高まった。
「……今から、…ですか?」
「そう、今から」
「私も行かないといけないんでしょうか?」
「もちろん、君にとって彼にはもういい思い出はないだろうから、会いたくない気持ちは分かる。でも、きっとこれが最後になると思う。離婚届を彼から受け取るんだ」
それを聞いて綾香は複雑な表情を見せた。夫が離婚に応じてくれるならそれは良い知らせに決まっている。しかし、あまりにも諦めが良すぎるのではないかという気持ちが心のどこかに現れた。自分は夫にとってその程度の人間だったのか、あるいはこれは何かの罠なのか。
「急な話で混乱してると思うけど、ここはあたし達を信じて」
戸惑っている綾香を察して美咲が力強く言った。綾香はためらいがちに頷いた。
「ではすぐに出発しよう。この前のファミレスの下の駐車場で会う約束になっている。もう、向こうは到着して待っているかもしれない。要件は一瞬で終わるし、おしゃれする場面でもないからそのままの格好でいいよ」
そう言って高山はすっぴんに部屋着の綾香を促し、美咲は綾香の腕を引っ張って、靴を履かせ、玄関に掛けてある高山の青いベンチコートを着させると外へと連れだした。
ピンクの軽ワゴンに乗り、高山の運転で先日のファミレスへと向かった。ファミレスは一階部分が駐車場となっている構造であり、高山はその一画に軽ワゴンを停車させた。
すると前方に停めてある白いクルマのライトが点灯し、助手席から大柄の男が降りて来るのが見えた。手に何か持っている。髪の長い、眼鏡をかけた女性がハンドルを握っている。
高山と美咲は車から降り、リアドアをスライドさせて美咲が綾香を軽ワゴンから引っ張り出した。綾香はなお躊躇していたが、美咲が綾香の腕を持って男の目の前まで連れていった。
「綾、これを」
岩崎はそう言って一枚の大きめの紙を綾香の目の前に差し出した。しかし、綾香はうつむいたまま、顔を上げない。
「綾香さん、受け取って」
背後に控える高山が力強く言うと、綾香は美咲に腕を掴まれたまま両腕を伸ばし、その紙を受け取った。
「…じゃ」
綾香の言葉をしばらく待った岩崎は相変わらず顔を上げようとしない綾香に一言そう言うと、美咲と高山に軽く会釈して、乗ってきたクルマの助手席に戻り、白いクルマはそのまま発車した。
駐車場を出て行くテールランプを見つめ、両手で紙を持ったままの綾香はしばらく茫然としていた。高山に促され、綾香は美咲に抱きかかえられるようにして軽ワゴンのリアシートに戻った。
軽ワゴンの暗い後部座席で、綾香は手に持った紙を広げてみた。暗いのでハッキリとは分からなかったが、紙には離婚届と書いてあり、岩崎の自署押印がなされていた。二枠ある保証人の自署押印欄が一枠だけ埋まっていて、綾香がサインし、もう一人保証人がサインすれば役所に提出できるよう他の欄には記載がなされている。
「君は、彼が離婚届を書いて持ってきたことに、もちろん安堵している面もあるだろうけど、なぜだ?と思っている部分もあるんじゃないかな?諦めが良すぎると」
綾香がなお混乱した頭で離婚届を見つめていると運転席に座った高山が不意に言った。
「…そうかもしれません。おっしゃるとおりです。混乱しています」
綾香は素直に言った。
「実はここまで至るには裏ストーリーがある」
「裏ストーリー?」
「まあ、それはともかく、綾香さんの気持ちは変わらないということでいいね?」
高山が念を押した。
「はい」
綾香が短く、しかしはっきりと答える。
「そっか。じゃあ、すぐに出しに行こうか」
「出しに行くって…」
「その離婚届をこれから市役所に提出しに行くんだよ」
「これからですか?もう、夜ですよ」
綾香がビックリしたように言った。
「確かにそうだけど、結婚もそうなんだけど、役所の窓口というのは実は二十四時間開いていて、受け付けるべきものは受け付けてくれるんだ。離婚届もまさにそれで休日でも深夜でも受け付けてくれることになっているからとにかく今すぐ、サインして、出しに行こう」
「明日の朝でもいいんじゃないんですか?」
綾香がそう言ったのは別に離婚手続きを先延ばしにしたいからではなかった。あるいは未練がなかったというのもまるで嘘ではないかもしれないが、ただ、自分の我ままのために高山や美咲、あるいは市役所の職員の手を煩わせたくないという思いが強かった。
「確かに慌てているように見えるかもしれないけど、実際に、こうやって離婚届に判を押しながら、実は気が変わったっていって、役所に受理しないように申し入れをしていて、離婚が受け付けられないケースもあるんだ。それは本当にまれなケースだけど、離婚が成立するためには離婚届を出す瞬間に双方が離婚の意思を持っていなければならない。だから彼の気が変わらないうちにさっさと離婚を成立させてしまおう。とにかく、まずはいったん、事務所に戻って、サインして、市役所に移動しよう」
高山はそう言うとエンジンをふかし、軽ワゴンを発進させた。
「さっき、裏ストーリーっておっしゃってましたけど」
ファミレスの駐車場を出ると綾香が高山に聞いた。
「うん」
「どういうことなんですか?何かあったんですか?」
綾香が重ねて尋ねると今度は美咲が、
「ゴメンね、今まで内緒にしてたんだけど、実はね、あたしと高山先生で、岩崎君と離婚についての話を進めていたの」
「……そうだったんですか?」
ビックリする綾香に高山が応じる。
「最初からそれを狙っていたわけじゃないんだけど、結果的にそうなった。この前、三人で彼と会ったとき、僕は彼に僕の名刺を渡している。善養寺ではなく高山のね。その名刺には事務所ではなく、僕の携帯の電話番号が記載されているから、翌日から僕の携帯には彼の電話がじゃんじゃんかかってくることになった。僕だけじゃない。美咲の議員控室にもね。彼は未練たらたらで、君を取り返そうと必死だったわけだ」
「はい」
「そんな彼を美咲と僕は粘り強く説得した。綾香さんよりも野球を選ぶようにとね。それだけじゃない。彼を説得できそうな人を探して、それが高校時代の監督だと分かって、その監督さんにも会いに行った。彼を助けてくれって。その監督さんは本当に面倒見のいい人で、彼のために弁護士さんも紹介してくれた。さっき、彼のクルマのハンドルを握っていた人が弁護士事務所の事務の人だと思うよ。これでモヤモヤは、少しは晴れたかな?まあ、君達の場合は二人とも有名人だし、彼には野球という君と比肩するものがあったりしてうまくいったけど、普通はこうはいかない。失うものが何もない男も多いからね。そういう男は本当に怖いよ。綾香さん。君はラッキーだった」
綾香は目を閉じて、高山の抑揚のない声に聞き入っていた。
三人は事務所に戻り、高山は綾香に指示してボールペンと印鑑と朱肉を持ってこさせて妻の欄にサインさせた。印鑑は銀行のものを使った。保証人は美咲がいいだろうということで美咲がサインし、再び高山の運転する軽ワゴンで夜の市役所に向かった。市役所は裏口が開いていて、綾香は警備員に要件を告げ、離婚届を提出した。警備員が市議会議員である美咲のことをよく知っていたこともあり、離婚届はスムースに受理された。
テレビカメラが何台も並んだ世紀の結婚式から七年、あっけない幕切れだった。
年明けの四日、高山は時間通り、事務所へとやってきた。ドアのチャイムを鳴らし、中から綾香がロックを解除するのは元夫が日本を去った今でも変わっていない。綾香はいつも通り、「おはようございます!」と元気にあいさつしたが、高山はドアを閉めてから改まり、「あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します」と言って深々と頭を下げたので、綾香は恐縮した。
「スミマセン。あけましておめでとうございます。こちらの方こそどうぞよろしくお願い致します」
綾香はそう言って慌てて頭を下げた。高山はそんな綾香を見て珍しく少し笑い、部屋の中に入って、事務机を前にドカッと腰かけた。綾香はキッチンに回り、コーヒーを入れる。
「今年はきっといい年になるよ。去年、あれだけ苦労したんだから」
「はい。そう願いたいです。今年もご指導よろしくお願い致します」
綾香はそう言ってもう一度、頭を下げた。
「今日は、午後からは新年のあいさつとかで出かけるけど、午前中はどこも仕事始めだろうし、特に何もないから初詣でも行こうか?」
「初詣ですか?」
「初詣っていっても、そんなに遠くに行くわけじゃないよ。歩いて十分くらいのところに地元の小さな神社があるから、新年の祈願にでも行こうかなっていうだけなんだけど。綾香さんも来るかな?」
「はい。ぜひお供させていただきます」
高山と二人だけで外の空気を吸うのは初めてである。綾香は高山の事務机の上にコーヒーを置き、自分の分は事務机の前のテーブルの上に置いて座った。
「今年は綾香さんにも顧問先まわりに付き合ってもらおうかと思っている」
「はあ?」
「勉強は進んでいるね?」
「はい。お蔭さまで。こんなに勉強するの、初めてです」
「それを実地で見れば、参考になると思う。試験も一発で受かるんじゃないかな」
それを聞いて綾香はクリスマス・イブの夜、美咲と話したことを思い出した。
「ところで先生、先生のお話を少しお聞きしたいんですけど、いいですか?」
綾香は少し改まった。
「うん」
「先生は今までどういうキャリアを歩んでこられたんですか?」
「キャリア?」
「いや、その~、今のここに至るまでどういう歴史を歩んでこられたのかなと」
「ああ、そういうことか」
「以前、そのうち話して下さるとおっしゃっていらっしゃったかと思います。去年は、私も自分を受け止めるのが精一杯でとてもそんなお話をお聞きする余裕はなかったんですけど……」
「少し、余裕ができたということかな。まあいいよ。話しても。……美咲からは何か聞いてるのかな?」
「労働基準監督官をされていたということは聞いています」
「まあ、そういう過去もあったね」
「どうして辞めてしまわれたんですか?」
「どうして辞めたのか?って聞かれると、実は僕もよく分からない」
「はい」
「『ウミネコの冒険』は読んでくれたんだよね?」
「はい。そこにある先生の本は全部読ませていただきました」
「じゃあ、どんな話だったか理解してるよね?」
「はい。法務省の職員が恩赦の調査に行くんですけど、実は冤罪で、被害者の奥さんが真犯人だったという衝撃の結末でした」
「なるほど。確かにそういう展開もあるけど、それはあらすじじゃないんだなあ」
「はあ?」
「君は確か、刑事ドラマに出てたことがあるよね?」
高山がいきなり話題を変えた。
「はい。もう昔の話ですけど」
「ラピスラズリが解散してすぐくらいだったよね?」
「はい」
「そのドラマ、どんな話だった?」
「ええ、私が警察庁の若い、入りたてのキャリア警察官で、老刑事と共に事件を追っていくんですけど、二人とも最後に負傷して、病院に運ばれてそれで実は親子だったってことが分かるというラストでした」
「その老刑事はキャリアではなかったよね?」
「はい。ノンキャリと呼ばれていました」
「では、綾香さんはキャリアとノンキャリの違いは理解しているね?」
「はあ。まあ、公務員にそういう、…階級とはいわないんでしょうけど、学歴というかどんな試験を経て入ったかによって昇進とかに差が出るということは知っているつもりです」
「まあ、正確には学歴は関係ないんだけどね。なぜこんな話をしたかというとキャリアとノンキャリの差を知っているのか確認したかっただけなんだけどね。それで、さっきの『ウミネコの冒険』、実は法務省のノンキャリがキャリアとの対立の中で思い悩んで、結局、仕事に限界を感じて故郷の八戸に帰って、司法書士事務所を開くというのがあらすじなんだ」
「確かにそういうことも語られてはいましたけど」
「僕があの物語で言いたかったことはそういうこと。それで僕自身があの物語のモデルになっている」
「先生が、…ですか?」
「そう。僕は確かに労働基準監督官だった。厚生労働省、当時はまだ労働省だったけど、労働基準監督官採用試験というのを受けて、大学を出て、労働基準監督官として働き始めた」
「はい」
「働き始めたんだけど、働き始めるとすぐに、何か違和感のようなものを覚えたんだよな」
「違和感、ですか?」
「うん。出世のスピードがすさまじく遅いように感じたんだ。まあ、それだけなら『千里の道も一歩から』ってことで理解できるんだけど、その一方で、ものすごいスピードで出世していく人たちがいることを知ったんだな」
「それがキャリアの人達だったということですか?」
「そう。それで文句を言ったんだ。なんで採用試験の違いだけでこんなにも違うのか?って。まあ違いがあるのはある程度やむを得ないとしてもあまりにも差があり過ぎるんじゃないのか?って異議を申し立てたんだ」
「はい」
「そうしたら『キャリアの人達はそれなりの試験に合格している。くやしかったらお前もその試験に合格したらどうだ。試験に合格したらキャリアにしてやるよ』って言うんだよな」
「はあ」
「それからは本当に頑張ったよ。人生の中で一番勉強した。そして、ようやく、国家公務員採用Ⅰ種試験、当時はそう呼んでいたけど、今は総合職というと思うんだけど、その試験に合格できたんだ」
「よかったじゃないですか」
「しかし、試験には合格したけど、合格とキャリア採用は別のものだったんだな。そしてついにキャリアとして採用されることはなかった。面接は受けに行ったけど、結局、落とされてしまった。『もっと他に取りたい人がいるから』というのがその言い訳だった。『話が違うじゃないか』と言っても『そんなことは言っていない』と逃げられた。もちろんそんなのは口約束に決まっている。しかし、僕はその口約束が裏切られるとは思わなかったし、向こうは僕がまさかⅠ種試験に合格してしまうとは思わなかったんだろうな」
「それもひどい話ですね」
「それでもよほどまずいと思ったのか僕はしばらくノンキャリの中ではトップランナーだった。トップランナーにしてもらっていたといった方が正確かもしれない。でもそれも僕が普通に結婚して、子どもが産まれて、その子どものために僕が育児休業を取るとまた話が変わってきた」
「先生が育児休業を取ったんですか?」
「男としてはパイオニアだったよ。それが政府の方針だったはずなんだけどね。女性に一方的に育児を押し付けない社会を作ろうというね。でも育児休業を取った途端、僕は一気にシフトダウンすることとなった」
「奥様とはどういうきっかけだったんですか?」
「ありきたりの職場恋愛だよ。妻も労働基準監督官だった。そして妻もそういう昭和チックな職場に嫌気がさしていたんだろうと思う。大学院に通ってMBAを取ると、さっさと経営コンサルタント会社に転職してしまったよ」
「それで先生も転職されたんですね」
「迷ったは、迷ったよ。子どもはまだ小さいし、熱が出たり、ケガをしたりしたら仕事を後回しにして対応しなければならない。労働基準監督官の仕事を捨てたとして、そんなファミリーフレンドリーな別の仕事を探すことができるだろうかって悩んだりもした。でも職場の方は相変わらず冷たくて、それで、今の世の中、インターネットは人の心も読むんだよな。僕は当時、既にITストラテジストの資格を持っていたんだけど、『SEの転職なら』とかいうバナーが出てくるんだよ。これをクリックしさえすれば自分の抱えているモヤモヤがすべて解決されるのかなあとか思って、そこにマウスポインタを合わせては、クリックを我慢する日々が少し続いた。でもある時、ついにそのバナーをクリックしてしまったんだよ」
「それで…」
「僕の人生は劇的に変わったよ。年収は倍くらいになったかな。まあ、お金の問題じゃないんだけど、とにかくモヤモヤが解決されたのは事実だった」
「そのSEの会社もお辞めになったんですよね?」
「何年か勤めていたけど、うまくいかないもんだね。僕の母親と、妻の両親が相次いで要介護認定を受けてしまったんだ。ようやく子育てが一段落したと思っていたら今度は介護が始まったって訳さ。まあほうってはおけない。SEの仕事はやりがいはあるし、高収入だけど、勤務時間も長くてとても子育てと介護と、全部できるわけじゃない。そこでまたシフトダウンして、僕は社会保険労務士の資格も持っていたし、既に作家としてもデビューしていたから、自分の都合に合わせてSEと社会保険労務士と作家を組み合わせていけば、子育てや介護もやっていけるかなと思って、それで今の生活となったわけだ」
「奥様は?」
「妻は引き続きホテル専門の経営コンサルタントとしてワールドワイドに活躍しているよ。それにしては彼女なりに子育てにも介護にも手は抜いていないと思う。それは立派だね」
「先生は生物学的には男性だけど社会学的には女性だと、それで女性の会の副会長もやっていらっしゃるのだと美咲から聞いたことがあるんですけど、それは家事や育児を担ってきたということですか?」
「美咲がそんなこと言ってたのか?そうだね。僕は、というかみんな気が付いていると思うんだけど、性差には生物学的なものと社会学的なものの二つがある。生物学的なものがセックス。社会学的なものがジェンダーでジェンダーハラスメントという言葉も聞いたことがあると思う」
「はい」
「歴史的には男は外で働き、女は家にいて家事育児に専念する専業主婦という生活スタイルがこの国を支配してきたわけだけれども、それだから家事育児をする人というのは社会学的には女性ということができる」
「先生はその役を担われてきているということですね?」
「そう。だから社会学的には女性だと言っているんだ。今、世間は『女性の輝く社会を作る』みたいなことを言ってるけど、僕は今の状況では結局、不十分なんじゃないかと思っている。『女性を登用しましょう』とか言って大臣とかにもしてるけど、顔を見ていると結局、男の敷いたレールの上を走れる女性だけが登用されている。それって、結局、生物学的な男性が生物学的な女性に入れ替わっただけで、社会学的には男性のまま変わっていないってことだと思うんだよね。それじゃあ男女共同参画とかいってもつまらないわけで、社会学的な意味での女性が登用されていかないと真の男女共同参画社会は生まれないんじゃないかと思う。だから僕はそういう社会を作りたいと思って女性の会とかでも活動するようになったんだよ」
「お話は理解できるんですけど、でも、結局、会社の社長さんとか大臣とかもそうですけど、専業主婦がいきなりできるものでもないと思いますけど」
綾香が反論した。
「確かにそうだけど、モデルケースは作らなければならないと思う。僕が嫌なのは、男は外でバリバリ働き、女は家で家事育児に専念しなければならない生き方しかないということ。そういう、昭和チックというか二十世紀的というか、そういう生き方しかない、選択の余地がない世の中ではダメだと思うということだよ。もちろんみんながみんな僕のような生き方はできないと思うし、する必要もない。どうしても専業主婦になりたいという人がいればそういう生き方もいいと思う。大切なことは、女性は専業主婦しか道がないという社会ではなくて、専業主婦という生き方もできる社会になってほしいということだよ」
綾香は分かったような、分からないような、不思議な気持ちだった。これまで自分が関わってきた人達はどのように綾香自身の人生を捉えていたのだろうか。母親は玉の輿に乗せることだけを考えていたのだから明らかに専業主婦志向だっただろう。元夫もそうだ。事務所の社長は、どれほど自分にタレントとしての価値を見出していただろうか?元夫との結婚をあっさり認めたので、案外、コマの一つ程度にしか考えていなかったのかもしれない。
「……先生、もう一つ聞いてもいいですか?」
綾香がもう一つ質問した。
「うん」
「先生と美咲はどういう関係なんですか?」
「どういう関係か?と聞かれると師弟関係ということになると思う。それについては美咲も異論はないと思うけど」
高山はそう言ったが綾香は引き下がらない。
「それは美咲からも聞いています。でもただそれだけじゃないような気がするので」
「そんなに怪しいかなあ?」
「別にいやらしい意味じゃないんですけど」
「美咲はなんて言ってるの?」
「先生に直接聞けと」
高山は目をつぶり、上を向いて少し首を回した。少し間があった。
「なるほどね。確かに僕は美咲とのことを題材に一つ小説を書いてみようかなと思ってはいる。それくらい僕にとって不思議な体験ではあった。たとえていうなら『あしながおじさん』みたいな話だった。まあ、伏線を仕込んで、最後でひっくり返す話をするのも回りくどいからいきなりオチから話してしまおうか」
「オチですか?」
「そう。物語には必ずオチというものがある。そして美咲と僕の物語のオチは美咲と君が所属していた芸能プロダクションの黒崎社長と僕が実は長い付き合いだったってことだ」
「ええっ!社長と、お友達だったんですか?」
綾香は少し大きな声を出した。
「う~ん、友達だったかと言われると、友情はあまり感じていないから正確ではないのかもしれない。ただ付き合いは古くて、もっというと僕は彼の影武者だった」
「影武者?」
「そう。彼は大学生の頃から既に放送作家として活躍していた。僕はそんな彼の代わりに大学のレポートや卒業論文を代筆していたんだ。それで少なくないお金をもらっていた」
「そんなことがあったんですか」
「それで、もう何年も前になるけど、世間で偽装が連鎖して話題になった時期があったんだよね。食品の表示とか学歴とかね」
「はい」
「それで黒崎もそれを心配して、僕に大学時代のことは絶対に口外しないよう念を押した。僕は当時、公務員だったし、こっちの首も危なくなるからそんなこと言うはずないのに、黒崎は心配して自分も僕のために何かアウトローなことをしたいって言ったんだ。で、僕は作家として発表したいものがあったから、それなら僕になにがしかの文学新人賞をくれないか?って言ってみたんだ。半分冗談だったけど、僕の作品は彼が選考委員を務めるとある文学賞を受賞することになって僕の作家人生がスタートした。黒崎には『これでお相子だ』って恩着せがましく言われたよ」
「そうだったんですか」
「それから黒崎とは疎遠になった。お互いにスネに傷を持ってしまったから連絡を取り合わない方がいいと思ったんだろう。年賀状の交換はしてたけど。それからしばらくして僕は報道で黒崎の急死を知ることになる。でも僕にとっては既に他人の死で、葬式にも行かなかった」
「はい」
「それからまたしばらくして出版社の人から『高遠美咲という人が僕と連絡を取りたがっている』という話を聞いた。もちろん高山新はペンネーム。謎の人物だから連絡の取りようがない。それで美咲は僕の本を出している出版社に聞いてみたって訳だ。でも僕は当時、美咲がどういう人か知らなかったし、警戒もしていたから取り敢えずメールアドレスを教えるに留めた。それから美咲と高山新とのメールのやりとりが始まった」
「美咲はSEの会社で先生と出会ったって言ってましたけど」
「そう?まあ、そのとき美咲が出会ったのは善養寺陽一というもう一人の僕だ。美咲がSEの会社で働いていたのは事実で、ITストラテジスト試験に合格するため今の綾香さんみたいに一生懸命勉強していた。高山新には受験することは隠していたんだけど、まあ、人生で一番大きなハードルと向き合っているという話はしていた。僕と連絡を取ろうとしていたのは実は黒崎の指示だった。なんでも、黒崎があまりにも急に死んで、遺言状もなく、それで相続権のない美咲は奥さんに追い出されることになったんだけど、でも遺言状はなかったけどエンディングノートが見つかったそうだ。エンディングノートには遺言状と違って法的な効力はまったくないけど、故人の意思がそこには記されている。そして、そのノートには『美咲のことは高山新に託す』という一文があったそうな。美咲はその一文を写メして高山新に送ってきていた」
「託すってどういうことですか?」
「それは僕にも分からなかったし、色々と報道はされていたけど、黒崎と美咲がどういう関係なのかも本当のところは理解していなかった。とにかくメールをやりとする中で高山新は美咲を励まし、美咲は一生懸命勉強した。そして彼女は合格し、そのSEの会社のクリスマスパーティーで合格祝賀会も開催されることになった。合格発表は十二月の中旬だったんだ。そして祝賀会が終わって、美咲は帰る方向が一緒の善養寺陽一と二人になって、飲み直そうってことになった。そして美咲が席をはずした隙に、高山新は美咲にメールを打ったんだよ。『合格おめでとう』って。戻ってきた美咲はメールを見て驚愕。受験の話なんてしたことないのに。それで目の前の善養寺陽一に自分の不思議な体験を話し始める。そして目の前の男が実は自分が高山新だったって告白して二人の物語はハッピーエンドとなった。美咲にしてみたらビックリだよね。会いたいと思っていた人物が実はずっと前から目の前にいたんだから」
「それから二人はどうなったんですか?」
高山はコーヒーをすすり一呼吸おいた。
「それからか。…美咲は僕の住んでいるR市に引っ越してきて、僕がやっていた女性の会の活動に参加するようになった。そこからはさすが有名人だね。あっちこっちから声がかかるようになって、議員にならないかっていう声がかかって、あっという間にバッチをつけて赤じゅうたんを踏んだよ」
「へ~。……私も美咲みたいになれますかね?」
「なりたいの?」
「なりたいというか、あやかりたいです。……できれば、…私も先生に弟子入りしたいくらいです」
「美咲とはそんな話したりするの?」
「はい。そんなことしたら自分のことを『美咲姉さん』って言わなきゃならなくなるって脅されました」
それを聞いて高山は珍しく笑った。
「まあ、今は余計なことは考えないで勉強に専念してよ。今年は綾香さんにとって勝負の年になるんだからさ」
高山がそう言うのを聞いて綾香は大きくうなずいた。高山は今まで自分が関わってきた人が持っていなかったような、自分に対する価値観を持っているのではないか、綾香はそんなことを感じていた。