季節はまた忙しく過ぎ去り、春が過ぎ、梅雨が明け、夏も残暑厳しい折となり、綾香がシェルターに逃げ込んできてから一年がたとうとしていた。そして八月二十五日の土曜日、社会保険労務士試験前日を迎え、綾香はシェルターのテーブルを前にして高山と向き合っていた。所長用の事務机ではアナが一生懸命数学の問題を解いている。溜まっている夏休みの宿題だ。
「いよいよだね」
高山はいつものように冷静に綾香に声をかけた。
「はい」
「でももう緊張もしてないんじゃないかな?自信あるでしょ?」
「自信なんて……とんでもないです…」
そう謙遜したものの、本当のところ綾香には自信がある。周囲は絶対に受かると言っているし、自身もよもや落ちるとは思っていない。この一年間、本当にこのことだけに打ち込んできたのだ。
「まあ、普通にやれば落ちることもないだろう。それで、今日はもう明日が本番ということで、本番に向けて最後の注意をしておきたい。君は高校受験もしてはいないよね?」
高山は相変わらず淡々と話しかける。この一年、最初に出会った頃の冷たさは結局、変わらなかった。
「はい。高校は広域通信制で書類選考でしたから。書類選考といっても特に何か選考があったわけではなく、願書を出せば通ったようですし」
「合否を決めるペーパー試験を受けるのはほとんど初めてということだね?」
「そうですね。合否という点ではオーディションを何度も受けていますけど、ペーパー試験はなかったと思います」
「それで試験の話をしよう。社会保険労務士の試験は過去問を何度も解いているだろうし、模擬試験も受けているだろうから分かっていると思うけど、全問マークシート方式だ」
「それは承知しています」
「だから適当にマークしても合格できる可能性はあるということだ」
「はい」
「しかし、まったく分からない、あるいは五肢のうち三つは消せたけど、あと二つのどっちにしたらいいのかどうしても分からないということはあるかもしれない」
「実際に模擬試験ではそういう場面を経験しています」
「それで、そういう場合にどうしたらいいのか、最後にアドバイスをしておきたい」
「適当にマークするんじゃ駄目なんですか?」
「駄目だね。『テキトーでもなんでも、とにかくマークシートを一つ埋めればいい、確率は二十パーセントだ』と思うかもしれないけど、それでは駄目だ。どうせなら確率は少しでも高い方がいい。もちろん綾香さんが圧倒的な強さを見せて上位合格できるのであればその必要はないのかもしれない。しかし、もしボーダーラインだったとしたらその一点が命取りになることもある。ボーダーライン上には万単位の受験生が並んだりするからね」
「しかし、どう考えても答えは分からないんですよね?それでも正解率を引き上げる方法があるんですか?」
綾香は首をひねった。
「まあ、一言でいうと出題者の身になって考えるということだね。自分が出題者だったらどういう風に問題を作るのかということだ。マークシートの場合、つまり選択式の出題の場合、五肢のうち正解は一つで後の四つは不正解だということになる」
「はい」
「しかし、不正解のために四つの選択肢を作るというのは実はとても面倒臭いことなんだよね。だから不正解の選択肢が正解の選択肢よりも複雑な構造になることはないということが基本だ。不正解の選択肢は正解の選択肢を見ながら作られる。不正解の選択肢が正解の選択肢よりも複雑になることは、普通はない」
「具体的にはどういうことでしょう?」
「例えばこれはよく言われているのだけど、長い選択肢は正解の可能性が高い。四つの不正解の選択肢は一つの正解の選択肢を見ながら作成するということになるけど、さくらの選択肢をわざわざ正解よりも長くするというのは面倒臭いということだ。まあ、出題者の心理だね」
「しかし、先生、そうすると長い選択肢だけを軒並みマークしていけばいいということになりませんか?」
「もちろんそんなことはない。注意してほしいのだが、試験はあくまでも実力だ。実力で解くのは当たり前のことだ。でも運にも左右される。ギリギリで合格、あるいはギリギリで不合格ということは多くの人が経験する。それだけボーダーライン上には人が並ぶということだ」
「それは、今まで色々なオーディションを受けてきて肌で感じているかもしれません。なんでこの人が選ばれて、自分じゃないのかなって思ったことは何度もあります。そのうち気持ちの問題なのかなって思えるようになりました」
「そうだね。気持ちの問題というとその通りだ。結局、最後は気持ちの強い方が勝つ」
「じゃあ気持ちさえ強ければ東大でも入れるっていうの?それっておかしくない?」
下を向いて数学の問題を解いていたアナが急に顔を上げて割り込んできた。
「おかしくはない。さっきも言ったけど、圧勝ならともかく、試験に受かるとしたら大抵の人はボーダーラインだ。ボーダーライン上にはものすごい数の人が並んで僅差の勝負になる。そうすると結局、気持ちの強い方が勝つということだ。『自分は絶対に勝つ』とか『一点でも多くとってやろう』という気持ちの人が最後には勝つ。……それでテクニックの続きなのだけど、何か特殊な言葉、普段使われないような表現が使われているような選択肢があればそれは正解の選択肢である可能性が高い。不正解の選択肢のためにわざわざ特殊な表現を使ったりはしないだろうからね」
「例えばどういうものでしょう?」
「漢字にわざわざルビがふってあったり、オマージュとかディフォルメとか日常生活では使わないような表現が使ってあったりするような場合だね。それから物事には例外があるのが普通だから例外を認めないような選択肢、例えば『ということはない』とか『絶対に』とか『必ず』とか例外を認めない記載がされている選択肢は不正解である可能性が高い。だから三つは消せたけど、後二つ残っていて知識ではどうにもならないというような場面では内容よりもむしろ選択肢の形でマークし、正解率を少しでも上げる努力が必要だということだ。確率は五十パーセントよりは六十パーセントの方がいいからね」
「もっと早くお聞きしたかったです。そうすれば模擬試験の成績ももう少し良かったんでしょうけど」
「まあ、今まで僕がこういう受験テクニックのようなことを話してこなかったのはあくまでも綾香さんには本当に勉強してもらいたかったから。テクニカルなものを教えるとどうしてもそれに頼って苦労したくなくなってしまうからね。別にいじわるするつもりじゃなくて、合格して開業となったら、本当に知識が必要になってくるからね。自分のためだと思ってほしい」
「はい。とにかく頑張ります」
綾香がやや緊張した面持ちでそう言うと横からアナが「試験終わったらまた去年みたいに宿題手伝ってね」と言ってニッコリ微笑んだ。
翌日、綾香は京王線調布駅に近い大学で社会保険労務士試験に臨んだ。本番は予想以上に簡単で綾香は終了時間を待たずに途中退出し、美咲にメールを送った。美咲がクルマで迎えに来てくれる約束になっている。調布駅前のロータリーに腰掛ける綾香にピンクの軽ワゴンが近付き、綾香に向かってパッシングした。それを見て綾香は立ち上がり、手を振った。軽ワゴンは綾香の傍に停車し、綾香は助手席のドアを開け、サイドシートに潜り込んだ。美咲がハンドルを握っている。美咲はこの年の二月に行われた市議会議員選挙に勝利し、二期目を迎えている。
「ありがとう。迎えに来てくれて」
「お疲れ様でした。どうだった?」
そう言いながら美咲は軽を発進させた。
「うん。……まあまあだった」
本当は自信満々のはずだが、綾香はわざと謙虚な素振りを見せた。
「手応えはあったんじゃない?」
「…そうだね。なんか行けそうな気はしてる」
「あたしがITストラテジストを受けた時もそうだった。行けるかなって思ったらホントに合格できて。試験なんてそんなものなのかもしれないね。落ちると思えばホントに落ちるし、オーディションもそうだったけど」
「オーディションかあ。懐かしいね」
「綾とは一緒に色んなオーディション受けに行ったよね」
「小さい頃からね」
幼少の頃は母親に付き添われて色々なオーディションを受けに行った。発表までのドキドキ感、久し振りに綾香は美咲とあの頃の気持ちを共有している。
「…じゃあ前祝でもやりますか?」
「いくらなんでもまだ早すぎるよ。アナちゃんの夏休みの宿題やる約束もしちゃったし」
「でもさすがにアナちゃんも今日は来ないと思うよ。綾が疲れているの分かってるだろうから。先生にもそう言われてるだろうし」
「そう言われるとホントに疲れがどっと出てきた。今、気付いたんだけど、私が美咲の所に来たのって、一年前の今日だよね?」
「そうだね。社会保険労務士試験の試験当日だった」
「もう一年がたったんだ。なんかあっという間だった」
「まあ、今日は合格後のことでも考えながら早く寝ることだね」
「合格後のことか。まあ、それはまだ先の話だから」
「何、他人事みたいに言ってるの?二ヶ月半なんてあっという間だよ。…で、どうするの?合格後は?」
「やっぱり高山先生のところは出て行かないといけないのかなあ?」
「そういう約束だったと思うけど。それに、今、月給八万円でしょ?とてもじゃないけど生活していけないよ。今はあたしや高山先生やあるいは女性の会の支援があるから生活していかれているかもしれないけど、いつまでも支援できるわけじゃないし、それに綾香には早いところ支援される方じゃなくて支援する側に回ってもらわないといけないしね」
「うん。それは理解してるつもりなんだけど。……ねえ、…美咲は、私はこれからどうすればいいと思う?」
「もちろん普通の生活をするのが一番いいと思うよ」
「普通の生活?」
「普通の三十三歳のバツイチ女がどういう生活をしているのか見てみるといいよ。そして、それと同じような生活をするの。それが案外幸せだと思うけど」
「もっと具体的に言ってもらわないと分からない」
「あたしがそうだったように普通のOLになるのがいいのかな。就職先は高山先生が探してくれるだろうし、後は住むところを探せばいい。結婚はもうコリゴリでしょ?」
「それはそうだけど…」
「何か不安なの?まあ不安しかないのかもしれないけど」
「美咲は理解してくれると思うけど、今まで私は誰かに支えられて生きてきた。今は高山先生。だから先生なしで生きていかれるのかどうか…。先生には自分の足で歩くように言われているけど、しんどくはある」
「そっか。でもそれは乗り越えないとね」
「しばらく今のままでいられないかな?」
「合格発表までは今のままでいられるだろうけど」
「先生の傍を離れたくない」
「あんなロボットみたいに冷たい人でも?」
「確かに外見はそうかもしれないけど、一年間、ずっと傍で支えてくれた。本当は美咲も私と同じ経験をしてるんじゃないの?だからR市に引っ越して来たんじゃないのかな?」
「そう言われればその通りだね。でもそんなあたしからアドバイスするとしたら、先生にはあまり近付き過ぎない方がいいと思うよ」
「火傷するってこと?」
「まあ、先生には指一本触れられていないだろうし、これからも指一本触れられることはないだろうから綾香が火傷することはないと思うけどね」
「違う。そうじゃないの。別に先生と一緒に暮らしたいとかそういうことじゃないの。…私は、正直、美咲みたいになりたいだけなんだと思う」
「あたしみたいにって、政治家になりたいってこと?」
「ううん、そうじゃなくって。美咲みたいに輝きたいってこと」
「輝く?あたしそんなに輝いてるかなあ?」
「輝いてるよ。キラキラ眩しいくらい」
「それって、ただの隣の芝生だと思うよ」
「ラピスラズリの頃は私も輝いていた。それが今じゃ……」
「あの頃は綾がセンターだったもんね。あの頃に戻りたい?」
「…そう思うときもある」
「あたしはもうあの頃には戻りたくないかな?」
「今が幸せってこと?」
「そう」
「そりゃそうだよね。美咲は私にないものを全部持っているんだし」
「違うんだなあ。あたしが今、幸せなのは自分の足で歩いているからだよ。ラピスラズリの頃は歩かされているだけだったでしょ?確かにスーパーアイドルになるのは夢だったかもしれない。しかし夢に描いていたものと現実はまるで違っていた。夢から覚めて、現実を見て、それで本当の幸せって何かが分かったような気がする。もしあたしが輝いて見えるとしたら等身大の自分で勝負するようになったからだよ」
「等身大の自分?」
「軽のハンドルを握るようなね。昔のあたしなら絶対に外車だったと思う。でもそれは本当の自分じゃない。先生からは離れた方がいいかもしれないよ。先生はもちろん、面倒見はいいから綾が望めば面倒は見てくれると思う。しかし、それじゃあ先生に頼ってるだけじゃない」
「私は美咲とは違う。誰かに頼らなければ生きていかれない」
「じゃあどうするの?告白でもするの?」
「……」
綾香は黙った。本当は告白してしまいたいくらいだ。でも、美咲の言う通り、自分の本当の気持ちを高山は受け止めてはくれないだろう。綾香が黙ると美咲も綾香の気持ちを察したのか、それ以上の追及はしなかった。合格発表まで二ヶ月半、きっと合格が待っていることだろう。しかし、それは本当に綾香にとって朗報なのか、綾香には分からなかった。
次の日から綾香には社会保険労務士事務所事務員としての本格的な仕事が待っていた。それまではDVDを見たり、過去問を解いたり、座って勉強ばかりしていたが、得意先をまわり、パソコンで保険料を計算し、新規顧客の開拓までやらされた。何か高山が仕事を少しずつ綾香に引き継いでいるような感覚だった。月給もそれまでの八万円から二十万円に跳ね上がり、綾香は時折、外出もするようになっていた。
そして十一月九日の午前九時半過ぎ、綾香のスマホがショートメールを着信した。高山からで「合格おめでとう」と一言だけだった。綾香は慌ててそのまま高山に電話をかけた。
「どうした?」
ディスプレイに発信元が表示されるのだろう。高山のそう言う声がいきなり聞こえた。
「発表を見に行って下さったんですか?」
綾香もいきなり要件から入る。
「いや、インターネットで見たんだよ。綾香さんはまだ見てないのかな。今日の午前九時半からウェブサイトに掲載されるんだ。スマホでも見られるけど、もうパソコン立ち上げてるよね?」
「はい」
「じゃあ自分の目で確かめてみてよ?受験票は手元にあるよね?」
「はあ。今、手元にはありませんけど、大事にとってありますのである場所は分かります」
「じゃあその目で直接確かめて合格を噛みしめてね。本当は今日、お祝い会をしたいところだけど、今、ソフト開発の案件が大詰めでしばらくは無理だ。まあ、美咲が気を利かせて午後にでもお祝いを言いに行くとは思うけど」
「はい。とにかく今までありがとうございました。ホームページ確認します」
「うん。それと、…いい加減に次のステップを考えておいてね。今度、僕と会ったときにはこれからのプランをキチンと説明できるように。じゃあ」
高山がそう言うと電話は一方的に冷たく切れた。高山の最後の言葉を飲み込んだ綾香はすぐに合格を確認する気分にはなれなかった。試験には自信があるし、もう既に高山が見てくれているのだから合格は間違いないだろう。それよりもこれからどうするのか、その方が綾香にとって大切な問題だった。
「合格おめでとう」
昼過ぎ美咲がシェルターにやってきた。
「ありがとう」
綾香の口はそう言ったが、喜びは感じられない。美咲は持ってきたケーキを並べ始め、お茶の準備をするようだ。
「なんか浮かないねえ?おめでたい話なんだからもっと素直に喜べばいいのに」
綾香の暗い表情を美咲が察した。
「そうだね。本当はとってもうれしいはずなのに元気が出ない」
「どうしたの?って聞くだけ野暮かな?」
「…私、……ここを出て行きたくない」
「でもここを出て行くことは約束だったはずだよ」
「美咲の所に居候させてもらいながらここの事務所で働くのは無理かな?」
「それじゃ駄目だって。綾は自分の足で歩かないと」
「私にはできない」
「じゃあ、どうしたいの?」
「…先生に…自分の正直な気持ちを伝えたい」
綾香はしっかりと言った。
「告るってこと?」
「……うん」
「どうしても?」
「…はい」
「……分かったよ。告ることについてあたしは、止めはしない。積極的に応援はしないけど、いじわるもしない。振られちゃったら振られちゃったで慰めてあげることも約束するよ。でも一つだけお願いがある」
「うん」
「アナちゃんに相談してほしいの」
「アナちゃんに?」
「振られちゃったらそれはそれですべてが今まで通りになるだけだから何も問題ないのかもしれないけど、万が一、先生が綾の気持ちを受け止めてしまったらアナちゃん達に迷惑がかかるからね。それは理解できるよね?まああたしも人のこと言えた義理じゃないけどね。結果、黒崎を奥様から奪ったことになるんだから」
「……アナちゃんが反対したら?」
「反対したらって、反対するに決まってるよ。それは分かってることなの。それで、アナちゃんの気持ちを踏みにじってまで綾は自分の気持ちを貫けるのか悩み、苦しんでほしいの」
「そんなことできないよ」
「できないなら最初から告るのはやめにして」
「……」
「あたしは次があるからケーキ食べたらサクサク失礼するけど、アナちゃんには連絡してここに来るように言っとくね。美味しいケーキがあって、綾一人じゃ食べられそうもないから助けてあげてって。先生は今日、ここには来ないよね?」
「うん。今、ソフト開発の大きなプロジェクトに参加しているそうで、そっちの方が忙しいみたい」
それから美咲は話題を変え、雑談をし、コーヒーを飲みながら持ってきたいくつかのケーキの一ピースだけを食べると、「じゃあ、合格おめでとう」と一言言い、シェルターから出て行った。
アナが現れたのはそれから二時間が過ぎた頃だった。まだ中学校の制服のままだが、鞄は持っていないので、一度帰宅してから鞄だけ置いて来たのだろう。アナの家からこの事務所までは自転車で十五分くらいだ。
「……アナちゃん。実は相談というか、話したいことがあるんだけど」
手も洗わずに、「合格おめでとう」とだけ言ってケーキにパクつくツインテールに綾香から切り出した。
「へ~。別にかまわないけど、あたしみたいな中学生で解決するようなことなの?」
「先生のこと」
「うん」
「私は試験に合格できたし、合格したらここを出て行かなきゃいけないって言われている。独立しろって」
「まあ、そんなにすぐでなくてもいいと思うけど、いずれはね」
「でも、私は先生の傍を離れたくないの。…実はね、…先生のことが……好きになってしまったの」
アナはそれを聞いて一瞬固まったがすぐに手と口を再開させた。
「それで……どうするの?告白でもするって言うの?」
「できるならそうしたい」
「……綾香ちゃん。申し訳ないけど、パパは渡せないよ」
アナはケーキにパクつきながら綾香とは目を合わせず冷静に言った。
「……そう、……そうだよね。告ったところで、先生は私の気持ちを受け止めてくれるはずもない。それは分かってるんだ」
「じゃあ、告るとかそんな、最初から面倒になるようなこと考えないでよ。今まで通り、師弟関係でいればいいじゃない。あたしも綾香ちゃんと変な関係になるのは嫌だな。せっかく仲良しになったんだし」
「自分の気持ちに正直になりたいの。いつも私は人生に対して受け身だった。誰かがレールを敷いてくれてその上を走ってきただけ。でも、自分の力で試験にも合格できたし、これからは自分の敷いたレールの上を走ってみたい。その第一歩だと思ってほしいの」
アナはゆっくりと顔を上げ、綾香と視線を合わせた。
「じゃあ振られちゃったら永遠にこの街からいなくなるってことでもいいの?」
アナは少し強い口調で言った。
「もちろん嫌だけど、それは仕方ない。それより今の自分に素直になりたい」
「じゃあ好きにすれば。でもこれはあたしからのアドバイス、というか警告なんだけど…」
「何?」
「もっといい人見つけた方がいいと思うよ。人生のパートナーとしてね。もちろんパパもいい人だとは思うけど、歳とり過ぎてるからね。パパの方が確実に早く死んじゃうだろうし。その後、一人での生活があまりにも長いと寂しくない?だからもっといい人を見つけてさ。綾香ちゃんまだ若いんだから」
「再婚しろって言うの?」
「まあ、簡単に言うとそういうことかな」
「それは無理だよ。もう結婚はコリゴリだし、結婚できそうな相手に出会う可能性もなさそうだし。第一、私自身がもう男の人にはうんざりしてる」
「パパはいいの?」
「先生は、本人も言っているけど社会学的な性は女性だから。だから私は先生の傍にいると安心できるのかもしれない」
「フーン。社会学的には女性かあ……」
そこまで言うとアナは表情を変えた。目を見開き、手にしていたフォークを皿の上に置き、そしてフォークを持っていたその手で右ひざを叩いた。少し鈍い音がした。
「そうだよ、それだよそれ」
目を見開いたままのアナが綾香を指さして言った。
「…それって?」
「結婚相手。別に男でなくてもいいじゃん。女の人と結婚しゃちゃえば?」
「はあ?何言ってるの?」
「別にいいじゃん。今、急にひらめいたんだけど、いるよ。綾香ちゃんにふさわしいパートナー。…美咲ちゃん。美咲ちゃんもお嫁に行きそびれてるし。ちょうどいいよ。そうだ、それがいい。パパなんかよりもずっといい」
言ってアナは手と口を再開させた。
「本気で言ってるの?私も美咲も同性愛者じゃないんですけど」
「いいじゃん。美咲ちゃんがパートナーなら男の人に暴力を振るわれることもないでしょ?」
そう言われて綾香は何か急に力が抜けた感じがした。綾香が恐れているのは男性ではない。暴力なのだ。高山に魅力を感じたのも、外見的な冷たさとは裏腹に自ら「社会学的には女性」という、その女性らしさだったに違いない。確かに美咲がパートナーであれば暴力を振るわれることはないだろうし、お互いに助け合えるだろう。そんなことを考えながら綾香はしばらくケーキに夢中になっている制服のツインテールを黙って見ていた。
その日の午後十時が過ぎた頃、綾香はシェルターで高山の到着を待っていた。「遅くなるけどそっちに寄る。美咲とアナから『一言、おめでとうと言ってほしい』という連絡をもらっている」という事務的なメールが高山から送られてきたのはアナが帰ってから一時間もしないうちだった。美咲もアナも今日中に高山と綾香を会わせようと、そして綾香のモヤモヤを決着させてしまおうと、そう考えているのだろう。
そして待ち人の到着を告げるチャイムが鳴り、綾香は玄関のロックを解除して待ち人を招き入れた。待ち人は手に花束を持っていた。
「合格おめでとう。よく頑張ったね。まあ、こうなるとは思っていたけど」
高山はそう言ってピンクを基調とした五千円くらいの花束を綾香に渡した。
「ありがとうございます。どうも今まで色々とご指導いただき本当にありがとうございました」
綾香はそう言って花束を抱えたまま深くお辞儀をした。
「まあ、本当の勝負はこれからということになるんだろうけどね。今までのは、ほんの準備運動にすぎなかったってことはこれから気付くんだと思う。それで、…これからのことはもう考えてくれたかな?今日一日は喜びを噛みしめたいというのが正直なところかもしれないけど」
「実は、……先生。そのことでお話があります」
高山はすぐにはそれに応えず、キッチンにあるコーヒーメーカーのコーヒーをカップに注ぎ、砂糖とミルクを入れて軽くかき混ぜてから事務机の自分の椅子にもたれて座り、今入れたてのコーヒーを一口ごくりと飲んでから「うん」と言った。綾香は花束を抱えたまま斜め前のテーブルの椅子に浅く腰かけ、前かがみになった。
「……先生、私をもうしばらくここに置いていただけないでしょうか?」
「…そうか。でも、それは駄目だ。君のためにならない。ここは、確かに居心地はいいかもしれない。でもそれでは駄目なんだ。世間はもっと居心地の悪いところなんだ。君には苦労をしてもらわないといけない。そうしないと君はいつまでたっても一人で歩くことはできない」
「それは分かっているつもりです。そうじゃないんです。先生の所を離れたくないんです」
「……うん」
「私、…先生のことが好きになってしまったんです。もちろん、先生に大切な奥様とお子様がいらっしゃることは分かっています。でも、今は自分の気持ちに正直になりたい。今まで私は自分の気持ちに正直になったことはありませんでした。誰かの言う通りに動いていただけです。翔君とのこともそうでした。最初から翔君に気持ちなんかなかったのかもしれません。私はそんな自分を変えたいんです。その変える第一歩として、先生に今の自分の気持ちを正直にぶつけたいんです」
少し静かな時間が流れた。高山は考え事をしているようだった。そして「綾」と静かに言った。
「えっ、あっ、はい」
これまで自分のことを「綾香さん」と必ず「さん」づけで呼んできた高山がいきなり「綾」と呼び捨てにしたので綾香は動揺した。
「お風呂沸いてるよね?」
「あっ、はっ、はい。沸いてますけど」
「じゃあ一緒に入ろう」
「はあ?」
綾香はいきなりの展開についていかれない。
「僕は先に入っているから、早く来てね」
高山はそう言うと席を立ち、玄関脇の浴室の方に消えて行った。そして衣服を脱ぐタイミングがあって、バスタブのふたを開ける音がした。