綾香はしばらく呆然とし、身動きできないでいた。それはそうだ。それまで堅物で、自ら「社会学的には女性」と言ってきた高山が突然、自分との入浴を求めてきたのだ。綾香は混乱した。もしそれが、自分に好意を示してくれた結果であるのであればうれしいに決まっている。綾香は高山に抱かれたいとすら思っていたはずなのだ。しかし何かが違う。
綾香は振られることしか考えていなかった。こういう状況も心の準備ができていない状況といえるのかもしれない。綾香の考えていたシナリオはこうだ。綾香が告白する。高山がそれは受け入れられないと言う。そして綾香は「そうですか。そうですねよ」とか言って一人落ち込む。そういう展開を考えていたのだ。
呆然とはしたが決断は早かった。自分を変えたいというのが自分の正直な気持ちだったはずだ。それならそれがなんであれ、自分を変えるきっかけになるものであれば先のことは考えずに飛び込むべきなのだ。意を決した綾香は脱衣場に向かい衣服を脱いだ。
浴室の中は静かだった。高山は瞑想でもしているかのようだった。
「失礼します」
そう言って浴室の擦りガラスのドアを開けるとこちら向きに湯船に浸かっている高山の顔が見えた。高山は目をつぶっている。それでも綾香は隠すものは隠しながらかがみ、洗面器に湯船のお湯を汲んで湯浴びをすると、「失礼します」ともう一度言って高山の反対側から湯船に浸かった。バスタブは大きめだが大人二人がやっとだ。足がぶつかり合った。
数秒沈黙があり、やがて高山が目を開けた。
「やあ」
「はい」
そんなぎこちないやり取りがあった。
「なあ、綾」
「はい」
「僕は別に綾の裸が見たいわけじゃないんだ」
「はあ?」
「僕の裸を綾に見せたかったんだよ」
「はい」
「僕の身体をよく見てみるといい。とんでもないじじいだよ」
「……そんなこともないと思いますけど」
そう言われるまで綾香は気が付かなかったが、意識して見てみると目の前には疲れた中年男の肉体が置かれていた。確かに年齢を感じさせる。
「ありがとう。そんなこと言ってくれて。でも人生わずか五十年。僕はもう棺桶に片足突っ込んでる男だ」
「そんなことありませんよ」
「いや、そうだよ。だから……。もちろん綾のそういう気持ちはうれしいけど……、僕も男だからね。いくら女性の役回りを演じていて、女性の会の副会長とかやっていても所詮は男だから、そういう気持ちをぶつけられるとうれしくはある。…でも、その気持ちを受け止めることは僕にはできない」
「……そうですか……、そうですよね。そう言われることは、ホントは分かっていたんです。分かっていて、でも、それでも言いたかったんです。なんか自分の殻を初めて破ったような気分です。……駄目なことは最初から分かっていたんです。アナちゃんにもそう言われていたんです」
「アナに?」
「アナちゃんに相談するようにって美咲に言われていたんです」
「そっか。アナはなんか言ってた?」
「パパは渡せないって言ってました。当たり前ですけど」
「そうか。まあ、あれでいてパパっ子だからね。僕はアナのために九ヶ月間の育児休業も取ってるし」
「……それで…、私と美咲が結婚すればいいのにって言ってました」
「君と美咲が結婚?」
「笑っちゃいますよね」
綾香はそう言ったが、高山は再び目を閉じた。しばらく間があった。
「…そうか、その手があったか」
高山は目を閉じたままそう言い、眼を開けて綾香を見た。
「それいいね。君と美咲が結婚するんだ。いいじゃないか。新しい夫婦の、いや、もはや夫婦とは言わないかもしれないけど、新しいカップルのスタイルとしていいかもしれない」
「はあ?何言ってるんですか。美咲も女の子ですよ」
「いいじゃないか。美咲のことは嫌いじゃないだろうし、お互いに長い付き合いで信頼もあるだろ?」
「先生。お言葉を返すようで恐縮ですけど、私も美咲もレズピアンじゃないんですけど」
「そういう問題じゃない。大切なことは二人がお互いに信頼しあっているということだ。同性愛者かどうかは問題じゃない。同性愛者同士でなくても、お互いに信じあっている女性同士が生涯のパートナーとして家庭を築いていくという人生設計があってもいいはずだ。どうして今までこれに気が付かなかったんだろう」
「確かに美咲のことは信頼してます。でも夫婦になるというのとは違うと思います。子どもだって作れないじゃないですか」
「不妊の問題は普通の夫婦の間でも生じるよ。それでも第三者から精子の提供を受けたり、里親になったり、解決の方法はあるはずだ。それに……」
「それに……?」
「君達は本当にベストなカップルになれるはずだ。二人とも同じ境遇にあったんだから」
「確かに私が結婚するまでは同じ道を歩いてきましたけど」
「結婚後の話だよ。君も、そして美咲もパートナーから暴力を振るわれてきたはずだ」
それを聞いて美咲は沈黙した。美咲もDVを受けていたということなのか?それはまったくの初耳だった。しばらく間があった。
「……それってどういう意味です?美咲が黒崎社長から暴力を受けていたっていうことですか?」
「美咲からは何も聞いてないのかな?」
「ええ、何も聞いていません」
「そうか。僕も何も聞いていない。でもきっとそうだと思う」
「何も聞いていないのにどうして分かるんですか?」
「うまくは説明できない。でも分かるんだよ。……シグナリングって言葉を聞いたことはあるかな?」
「シグナリング、…ですか?」
「うん」
「いいえ。ありませんけど」
「シグナリングというのは難しい言葉でいうと情報の持ち手が自分では意識せずに自分のことについて語っていることをいう。つまり無意識のうちに自分の情報を外に漏らしていることをいうんだ」
「スミマセン。ピンと来ないんですが」
「例えば今までコーヒーをがぶがぶ飲んでいた妙齢の女性が突然、紅茶に切り替えたりすると、その人自身は何も言っていなくても、この人は妊娠したかもしれないなという情報が手に入ることになる」
「なんとなく分かります」
「あるいはこういうこともある。例えばある官庁が『午後三時から記者会見をする』と発表したとしよう。なぜ会見を開くのかは内緒だ。でも『記者会見をする』という事実だけで、何か重大なことが起きているということは分かる。それを他の情報と結びつけるとその内容が会見前に分かってしまったりするんだよ」
「はあ。…でも、それと美咲のことと何か関係があるんですか?」
「僕は役人時代、内閣情報調査室に二年間出向していたことがある。内閣情報調査室は知ってるかな」
「スミマセン、分かりません」
「日本版CIAといえばピンと来るかな?」
「ああ、そう言われるとなんとなく分かります。スパイみたいなことやっていらっしゃったんですか?」
「諜報機関と言ってほしいけど、まあいいよ。そんなもんだ。内閣情報調査室は諜報機関だから情報収集活動をやっていた。そこで僕はシグナリングとか、ささいなことの寄せ集めで大きな情報をつかむ訓練を受けている。それで僕は美咲のささいな言動から実は黒崎が美咲に対してとんでもないことをしてきたことに気が付いた。それがなんだったかは僕の口からは言えない。あくまでも仮定の話だから。でも、たとえ美咲が何も話してくれなかったとしても、分かることはあったということだよ。まあ、僕には本当のところは話してくれなかったけど、でも、一番信頼している綾になら本当のことを話してくれるんじゃないかな。真実は黒崎のいない今となっては美咲しか知らないんだから」
「……」
それを聞いて綾香は黙った。ショックだったのだ。綾香はなぜ自分だけがこんなひどい目に合わなければならないのか恨んでいた。しかし、ひどい境遇にあったのは自分だけではないのかもしれないのだ。しかもそのことを友人は一言も漏らすことなく自分に優しく接してくれていたのだ。もっと美咲のことも考えてあげなければならなかった。そもそも愛人関係だなんてその時点で美咲の苦労をねぎらってあげるべきだったのだ。綾香は自分の小ささが身に染み、自己嫌悪に陥った。
「実は美咲には軌道に乗るまでは綾の面倒を見てくれって懇願されている」
綾香が黙っていると高山が続けた。
「綾を見捨てないでくれって言われている。美咲にはきっと君に対する強い思いがあるんだと思う。……じゃあ僕は先に出るから。美咲とのこと考えておいてね。明日はこっちには顔を出さない予定だから」
長い沈黙の後、高山はそう言うと浴室から一人出て行った。
頭の中に色々なことが渦巻いていた綾香はしばらくの間、動くことができなかった。のぼせ上がる自分に気が付き、ようやく浴室から出た時には、高山は既にシェルターを後にしていた。
次の日の昼前に美咲はシェルターにやってきた。玄関のドアを開けると買い物袋をぶら下げた美咲が立っていた。
「ヤッホー!お昼これからだよね?一緒に食べない?お寿司買ってきたんだけど」
そう言って美咲は近所にあるスーパーのレジ袋を上げて見せた。
「あっ、ありがとう」
「じゃあお邪魔します」
美咲は部屋の中に入り、リビングのテーブルの上に寿司を並べた。寿司はいかにもスーパーの総菜コーナーで買ったと思われるものだったが一応、「上寿司詰合せ」の文字がある。二人は座った。
「こんな時間に、忙しかったんじゃないの?」
綾香は遠慮気味に聞いた。
「予定はあったけどキャンセルした。振られちゃった綾を励ましてあげる方が最優先だと思ってね」
「……ありがとう」
「何はともあれ食べようよ。お腹空いたでしょ?スーパーの安物だけど、一応、上寿司ってことになってるしね」
美咲はふたをあけ、添付の醤油をふたにあけると「いただきます」と手を合わせた。綾香はまだふたをあけない。
「で、どうだったかな、って聞かれるのも辛いかな?」
視線を綾香に合わせずに美咲が続けた。注意は上寿司に向いている。
「もちろん振られちゃったでいいんだけど、……それは分かっていたことだから。……それより美咲に聞きたいことがあるの」
「…うん」
美咲は割り箸を割った。
「黒崎社長のこと」
「黒崎がどうかしたの?」
「美咲と黒崎社長との関係、私は理解していなかったかもしれない」
「どういうこと?」
美咲と目を合わせないまま美咲はいくらの軍艦をつまみ、口に持っていこうとした。
「昨日、先生は美咲が社長からDVを受けてたって言ってた」
美咲の動きが一瞬止まり、それから軍艦巻きを元に戻した。そしてかしこまり、綾香と視線を合わせた。
「……先生はなんて言ったの?」
「…美咲も私と同じ経験をしたはずだって」
「ラピスラズリじゃなくて?」
「うん」
「DVって言ってたの?」
「直接は言ってなかったけど、そんなことを」
少し間があった。
「……そっか。先生には詳しいことを話した記憶はないけど、でも少し長い付き合いだし、言葉の端端に出てはいたかもしれない」
「それは先生も言ってた。先生が内閣情報調査室にいたことは聞いたことがある?」
「ああ。なんかの機会に聞いたことがあるかもしれない」
「そのときにそういう訓練を受けたことがあるんだって。微かな人の言動から情報を得る訓練っていうのかな」
「そっか」
「本当なの。社長とのこと」
「綾はそれ聞いてどう思った?」
「私は何がなんだかよく分からない。その~、美咲は社長のお気に入りだったし、美咲が社長の愛人になったって聞いても別に驚きはしなかった。もちろん奥様のいる人だから何から何まで幸せってことはなかったとは思う。でもマンション買ってもらったりとか美咲は美咲なりに幸せなんだなって思ってた。だから先生にそう聞いてびっくりしたの」
「……先生には隠してたつもりだったけど無理だったんだね。あたしが黒崎からひどいことをされてたことは知っていたんだね。言ったつもりはなかったのに」
「美咲もDVを受けてたの?」
「DVなんてそんな生易しいもんじゃないよ。世間はあたしを黒崎の愛人とか呼んでいたけど、愛人なんて、そんな綺麗なもんじゃなかった。愛なんてなかったもん。あたしは……黒崎のただのおもちゃにすぎなかった」
「美咲……」
「あたしのお父さんが会社を経営していたのは知ってるよね?」
「うん」
「でも事業には失敗。ちょうど二十歳になったばかりのあたしが借金の保証人になっていたの。当時のあたしはスーパーアイドル。だから銀行は返せもしないようなお金をじゃんじゃん貸し付けた。事業なんて最初からうまくいってなかったし、それは銀行も分かっていたはず。でも銀行は保証人から回収するつもりでいたのね。返せるわけがないからあたしは黒崎に泣きついた。黒崎はあたしと引き換えに借金を全部片づけてくれた。それからあたしは黒崎のマンションに軟禁されるような格好になったんだよ」
「自分の意思で社長のところに行ったんじゃなかったのね?」
「そうなんだけど、あたしにも見栄ってものがあってさ。まあ、あの頃の自分は等身大の自分と向き合っていなかったってこと。みっともないから世間的には愛人のように装ってた。いかにもこうなったのは自分の望むところですみたいなオーラ出してね。奥様と戦っていたように見せたのも見栄だね。奥様から奪い取ってみせるみたいな。本当は世界で一番嫌いな生き物だったのに」
「……」
「黒崎には随分とひどいことをされたよ。目の前でおしっこさせられたこともある」
「いいよ。美咲……無理して言わなくていい」
「ううん。聴いて。今までこんな話は誰にも話せなかったから。でも、誰かに聴いてもらいたかったから」
「うん」
「あたしは無理して黒崎のことを受け入れた。違う。受け入れたふりをした。そして、……黒崎のことを殺そうと思ったの。まあ、殺すといってもあたしが手をかけちゃったら親とかに迷惑かけちゃうから直接は手を下せない。事故死に見せかけるのも難しいし。結局、嫌疑はあたしにかかるからね。だから病死というか自然死を狙ったの」
「自然死?」
「そう。だから酒はじゃんじゃん飲ませたし。強いやつをね。脂っこいものもたくさん食べさせた。運動はあまりさせず、それでいて医者には見せなかった。ひどい女だと思う?」
綾香は首を横に振った。美咲は続けた。
「ひどい女だと思われても仕方のないことはしたかもしれない。でもあたしは正当防衛だったと思ってる。不幸中の幸いだったのは黒崎が逝ったのがちょうど奥様の所に帰っていたときだったこと。離婚の話をするとかなんとかで奥様の所にたまたま帰っていて、そこで突然倒れて、そのまま逝ってしまった。あたしとしてはあたしの手で黒崎を殺したつもりだったけど、黒崎は本当に自然死として、心臓まひで死んでくれた」
「それからも大変だったんじゃない?」
「経済的にはね。でもおかしな話だよね。奥様も愛人であるはずのあたしも、黒崎が死んで大喜びしたんだから。経済的には確かに大変ではあったよ。それまで贅沢に慣れきってたしね。それは一年前の綾と同じ境遇だったのかもしれない。それであたしは黒崎から横領したお金でとにかく食いつないだ。もちろん貧乏にはなったけど黒崎がいないと思うとそれだけでもう十分だったよ」
そこまで話すと美咲は落ち着いたのか、さっき食べかけたイクラをつまみ、口に運んだ。そして続けた。
「それから少し間があって、奥様から『会えないか』って連絡が来たの。バカなあたしは『財産分与かな?』とか勝手に思っちゃって。結局、黒崎が死んで一番得したのは黒崎の遺産を全部相続した奥様。あたしが黒崎にひどいことをされていたことも奥様は、本当は知っているはず。それで、さすがに良心が咎めてあたしに何かくれるのかなとか思ってひょこひょこ会いに行った。確かに何かくれはしたけどね。一枚の紙を」
「一枚の紙?」
「黒崎はあまりにも突然に死んだんで遺言状は書いていなかった。でもエンディングノートを書いていたのね」
「ああ、その話は先生に聞いたことがある」
「そっか。じゃあ話早いね。そのエンディングノートには『美咲のことは高山新に託す』と書いてあった。そのコピーを奥様はあたしに手渡しでくれた。『あなたも所詮は黒崎に売り飛ばされる運命だったのね』って捨て台詞付きでね。奥様はゲラゲラ笑っていた。それであたしは新たな殺意を抱くことになったの」
「殺意って、奥様に対する?」
「違う。高山先生だよ」
「高山先生?」
「ああ、あたしは売られたんだ~って思ってね。黒崎は殺したけど、今度は新しい邪魔者を消さなきゃいけない。それでその高山新って人を探さなければならないことになった。でも見つからなくてね。そうこうしているうちにあたしはマンションを追い出され、流浪の民。どうにかこうにか就職して、二度目の人生が順調になりだした頃にようやく高山先生に出会うことができた。二人がどうやって出会ったかは先生に聞いてるよね?」
「うん」
「あれはホント、人生の中で一番ビックリした経験だった。そして、一番うれしかった経験だった。それからはどうして黒崎があたしを先生に引き合わせようとしたのか少し考えた。結論は、黒崎はあたしに随分とひどいことをしたけど、先生ならあたしをいい方向に導いてくれると判断したんじゃないかなということ。まあ、ギリギリのところで黒崎にも良心が残っていたってことかな。それで今のあたしがあるってわけ」
「そうか。私は美咲が私にないものをなんでも持っているってうらやましく思ってたけど、苦労してたんだね」
「そうだね。だから、綾がDVに悩んでるって聞いたときは実はうれしかった。あたしの気持ちを理解してくれる人がいると思ってね。それもこれまでずっと同じ道を歩いてきた綾。だから、綾はあの頃の自分だから、だからできる限りのことはさせていただきましたよ」
「今までありがとう。私は美咲のことをとっても頼りにしていた。…それと美咲のこと全然気遣ってあげられなくてごめんなさい」
「そんなこといいよ。綾はそれどころじゃなかったんだろうし」
「…それで、……先生にはまた別のことを言われたの」
「別のこと?なんだろう。養子にでもするって?」
「違う。なんか変な話なんだけど、私と美咲が結婚するのがいいんじゃないのかなって言うんだよね」
「……はあ?」
「『はあ?』だよね、まったく。私も最初に出た言葉はそれだった」
「ちょっと、何考えてるの?あたしも綾も女の子だよね?」
「そうだよ」
「ねえ、今まで気が付かなかったけど、綾って実はそっち系の人?」
「なわけないでしょ。男と結婚してるし」
「そうだよね?先生の言葉とも思えないんだけど」
「言い出しっぺはアナちゃんなんだけど、私がアナちゃんにそう言われて、先生にそのことを伝えたら先生がその気になって」
「な~る。アナちゃんがそういうこと言うのなら分かるけど。なんでまた先生はその気になったんだろう」
「お互い信頼し合ってるからだって。先生は二人が同性愛者だとは思ってはいないよ。でもレズピアンだからというのではなくて、信頼している者同士が、夫婦同然のパートナーとして生涯付き合っていくのもいいんじゃないかって言ってた」
「で、綾はなんて答えたの?」
「私はまだ何も言ってない。でも、先生にそう言われて、冷静に考えると美咲と二人でこれからの人生、生きていくのもいいのかなって感じはしてきている」
「はあ?」
「子どもの頃からずっと一緒だったんだし」
そう言われて美咲も少し考えた。
「…なるほどね。女同士の結婚かあ。今の時代、そんなのもありなのかもしれないね。まああたし的には悪くはないかもしれないね。どうせロクな男運はないし。でももしそうなったとして、結婚式ってするのかなあ?」
「形式的なことはどうでもいいけど」
「でもどうせするならそのくらいはやりたいなあ。美咲は盛大な結婚式を挙げて、何度もお色直ししてたけど、あたしは他人の結婚式に出席したことしかないからね」
美咲はそう言うと今度はうにの軍艦をつまんで醤油をつけ、口の中に放り込み、「綾もさっさと食べなよ。干からびるよ」と言った。
それを聞いた綾はようやく微笑み、上寿司詰合せのふたを開けた。
次の日の朝、綾香と美咲の二人はシェルターで高山の到着を待った。あいかわらず忙しい高山が、今朝この事務所に立ち寄ることは聞かされていた。そして二人は高山に、話したいことがあるので少し時間をとってほしいと伝えておいた。高山は綾香のこれからについて結論が出たのだろうと捉えていたようだった。事実、その通りだった。
二人は押入れの奥から「ラピスラズリ」の頃の、高校の制服をあしらったユニフォームを引っ張り出してきて着た。あれから十数年が経過しているはずなのに、ユニフォームは二人の身体にピッタリ収まった。二人でおそろいの格好をしてみたかったのだ。
そして時計が午前九時を指し、ほぼ同時に玄関のチャイムが鳴ると、綾香はいつものようにピンホールで高山を確認し、ドアを開けた。
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
そう言う綾香の着ているものを一瞥し、さらに奥でコーヒーを入れている美咲が同じ服を着ていることを確認してから高山は「どうしたんだ、二人してそんな格好して」といつもの事務的な口調で二人に尋ね、テーブルの椅子に腰かけた。
「今日は重大発表があるんでおそろいの格好をしてみました」
美咲がコーヒーをテーブルに置きながらはきはきと答え、二人は並んで高山の対面に座った。綾香はうつむき加減に黙っている。高山は目の前に置かれたコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
「まさか今日のために新調したんじゃないんだろ?」
「ええ。ラピスラズリの頃のユニフォームですよ」
美咲がもう一度はきはきと答えた。
「そうか。あの頃と体型が全然変わっていないってことか。…それで、決まったのかな。綾のこれからは」
「昨日、綾にプロポーズされました」
いきなり美咲がそう切り出した。
「プロポーズって?」
高山は相変わらず淡々としている。
「何言ってるんですか?先生が綾にあたしとの結婚を勧めたんでしょ?プロポーズって、もちろん結婚を申し込まれたんですよ」
それを聞いた高山は一瞬沈黙し、綾香を一瞥すると、ただ一言「そうか」とだけ言った。
「最初それ聞いたときはビックリしましたけど、すぐに決めました。新しいカップルの形としてそういうのもありだと思います」
美咲がそう言うと高山は、今度は綾香の方に顔を向けた。
「綾はどうなの?」
「……私は、…今まで色々ありましたけど、美咲とならこれからの人生、力を合わせながらやっていけるんじゃないかと思ってます。先生のご提案には大賛成です」
綾香はそう言って美咲の方を見た。二人の目が合った。そして二人とも微笑んだ。
「そうか。まあ、まずは結婚が決まったカップルに対しては『おめでとう』と言うべきなのかもしれないね。だからまずはおめでとうと言っておこう。ただ、これからが大変かもしれないけどね」
「いばらの道なんでしょうか?」
綾香が不安そうに聞いた。
「それをいうなら人生はすべていばらの道だよ。もしいばらの道でなかったなら何かが間違っているということだ」
「これからどうすればいいでしょうか?私としてはここにもうしばらくいさせていただきたいんですけど」
綾香がそう言うと美咲が
「それより結婚式だよ。やろうよ結婚式。できればマスコミも呼んじゃったりして。新聞は無理かもしれないけど、週刊誌ネタにはなると思うよ。『ラピスラズリの両エースが結婚!』とかいってさ」
興奮してきた美咲を右手で制し、高山は二人に分かるようにわざとらしく深呼吸した。
「それでこれからのことなんだけど、綾のことに関しては、美咲にも言われているし、ここでしばらくというか、当分の間、社会保険労務士をやるということでいいよ」
「はい。ありがとうございます」
綾香は礼儀正しく一礼した。
「ただ一つ条件がある」
「はい」
「看板を付け替えたいんだ。つまり、善養寺陽一社会保険労務士事務所から藤森綾香社会保険労務士事務所へ看板を変えることが条件だ」
「はあ?そんな、いきなり私が所長になるってことですか?そんなのいくらなんでも無茶だと思いますけど」
綾香がたじろいで言った。
「まあ、そんなに心配しないでいいよ。今は僕が所長で綾は従業員ということになっているけど、その立場を逆転させるだけのことだ。僕は引き続き綾の事務所の従業員として君が完全に独り立ちできるまで君を支えることにするよ」
「そんなこと先生に申し訳ないです」
「まあいいさ。美咲にも頼まれているしね」
そう言って高山が美咲の方に顔を向けると美咲はニッコリと微笑んだ。高山は続けた。
「それがビジネスで、私生活の方は普通に、普通にといっても普通には行かないだろうけど、結婚の準備に入ればいい」
「あたしは初めてだから分からないなあ」
美咲がくだけて言った。
「どこのカップルでも手順は同じだと思う。まずは親にあいさつ、それから式場の手配。君達は有名人だし、記者発表でもするのかな?それから新居の準備、式本番があって、新婚旅行に出発って手順かな」
高山がそう言うと、「あたしも綾も親とはしばらく離れているから親へのあいさつが案外一番高いハードルになるかもしれないね」と美咲が言ったが、言葉とは裏腹にその表情は明るかった。