一通りの話が終わった後、高山はやはり忙しいのだろう。日曜日だというのにSEの仕事へと向かった。残された二人は一仕事終わった安堵感と疲労感でしばらく椅子から動けなかった。
「ねえ、綾」
美咲が先に口を開いた。
「ん?」
「先生、綾のこと『綾』って呼んでたね」
「えっ?ああ、一昨日の夜からだよ。突然ね」
「そっか。じゃあ、先生の正式なお弟子さんとして認められたのかもしれないね」
「そうかなあ。じゃあ、これからは美咲のこと『美咲姉さん』って呼ばなきゃいけないのかな?」
「何言ってんの。夫婦になるんだったら姉も妹もないでしょ。でも、夫婦になるとして、どっちが夫でどっちが妻なのかなあ?」
「さあ、どっちでもいいんじゃないの?」
「こういうケースは本当にレアケースだろうから前例もそうたくさんはないだろうしね」
「まあ、ニュースとかで、ニュースじゃなかったかもしれないけど、同性同士の結婚の話は聞いた記憶はある」
「そう言われるとあたしもあるなあ。新聞だったかな?二人ともウェディングドレス着てる写真を見た記憶はある」
「なるほど。二人ともウェディングドレスか」
「まあどっちかが男役でもいいよ。そうするとやっぱりあたしが男役かな?」
「美咲はそれでいいの?」
「まあ、キャラ的にはそうなるだろうしね。あたしは竹を割ったような男っぽい性格。美咲はお嬢様だもんね。ラピスラズリの頃は逆のキャラ設定だったけどさ。…それで、さっき先生も言ってたけど親へのあいさつはどうする?」
「落ち着いてきたし、一度は顔を出さないといけないとは思ってる。ちょうどいい機会かもね」
「早い方がいいね」
「じゃあ…」
二人はスケジュール帳を取り出し、お互いに予定を確認しあった。今年は勤労感謝の日が金曜日なので来週末に三連休がやってくる。
「じゃあ次の三連休にしよう。金土でまわって、日曜日はオフ」
美咲が明るく言った。
「きつくない?私も美咲も、実家、近くはないんだし」
「遠くもないでしょ?高山先生にはすぐにメール打ってスケジュール調整してもらうから」
「先生も連れて行くの?」
「あたし達二人だけで行ったらただのバカって思われるだけだよ。これまでのいきさつも話さないといけないだろうし、先生が何か話してくれれば説得力があるじゃん。まあ後見人ってとこだね」
美咲が笑ってそう言うと綾香も苦笑いしてコーヒーを一すすりした。
十一月二十三日、勤労感謝の日の午前、三人は東海道新幹線のシートに並んで腰掛け、美咲の両親が住む名古屋を目指した。この日は地元でも有名なホテルのレストランでのランチが予定されている。
美咲と綾香はそれぞれ洋風と和風の弁当を開け、お互いにつつき合っている。一方、三人掛けの窓際に陣取った高山は時々「そんなにガツガツ食べると昼が入らなくなるぞ」とか言いながら一人車内販売のコーヒーをすすっていた。
「先生」
「ん?」
退屈そうな高山にようやく気が付いた真ん中のシートの美咲が声をかけた。車景を見ていた高山は美咲の方を見た。
「先生も何かつまみます?あたし達そんなに食べないんでお互いに一人前ずつだと多すぎますから。から揚げなんかいかがです?」
「君達は随分楽しそうで結構だね。久し振りに親に会うっていうのになんだか遠足気分だね。それだけリラックスできるようになったってことかな?」
高山が相変わらず事務的な冷たい口調で言った。
「ええ。ラピスラズリの頃はいつもこんな風に移動してましたから」
美咲が答えた。綾香は弁当をつまみながら二人の会話に耳を傾けている。
「でもよく分かんないんだよな。美咲は名古屋で綾は仙台でしょ?それで子どもの頃から東京で芸能活動してたってどういうからくりだったの?学校には通ってなかったの?」
「確かに学校にはまともに通ってませんでした。でも地元の中学の正式な卒業証書はもらってるんですよ。卒業式にも出ましたし。まあそれは卒業させないと中学校としても面倒くさいという事情があったからなのかもしれません。留年させるわけにはいかないでしょうから。中学までは、平日は地元にいて、金曜の夜とか土曜の朝に新幹線で東京に移動して、月曜の朝までに帰るような生活でしたね。でもそれもだんだんいい加減になってきて木曜日に出発したり帰りが火曜日になったり。そのうち一週間丸々お休みしたり。でも定期テストはしっかり受けましたよ」
「でも成績は知れたもんだったんでしょ?」
「ところがそうでもないんですよ。芸能人って結構待ち時間があるんですよ。その待ち時間に事務所お抱えの家庭教師兼サブマネージャーが勉強を見てくれましたから。綾もそんなには成績悪くなかったんじゃないかな?」
そう言って美咲は右隣の綾香の方を見た。綾香は「そうだね」と答えた。高山が続けた。
「それはそうと美咲のことは色々と聞いて知ってるつもりだけど、ご両親のことはよく知らない。綾はご存じなんだよね?美咲のご両親のこと」
高山が綾香に振った。
「ええ。お父さんは記憶にないですけど、お母さんには子役時代によく会ってましたから。ラピスラズリが始まってからも何度か会っていると思います」
綾香が答えた。
「もちろん僕は初対面ということになるし、こういう状況を設定して、さらに『結婚する』と美咲が言い出したら美咲のご両親はその相手を絶対にこのくたびれた男だと勘違いするだろう。まあ誤解はすぐに解けるとは思うけどね。美咲も綾も一人っ子だよね?その一人っ子が久し振りに会いに来るんだから、向こうも相当緊張してるんだろうなあ」
「そうですね。期待半分不安半分。いやきっと不安の方が大きいんだろうなあ」
今度は美咲が答えた。
「でも設定は高級ホテルでの豪華ランチへのご招待なわけだし、君が市議会議員になったことはご両親も知ってるんだろ?」
「あたしはここ何年も直接、話をしていませんけど」
「たとえ美咲が話していなくても人の親だよ。子どもに興味がないわけがない。絶対にネットとかで知らべて、あるいは人から聞いて、集められる情報は全部集めているはずだ」
「先生もそうなんですか?」
美咲が聞いた。
「そうだね。子どもも高校生くらいになると自分のことを話してはくれなくなる。特にうちはアナ以外みんな男だから。息子は男親には必要なことも話さないもんだよ。だからネットで調べたり、SNSに一方的にフォローしたりはしてるね」
「それで何か分かったりするんですか?」
「例えばSNSとかだと『いいね』を連発している女の子がいたりするのは分かる」
「ああ、そういうことはあり得ますね。それって彼女だったりするんですか?」
「そこまでは分からないし、分かる必要もない。『いいね』を連発する女の子がいるということだけで情報としては十分だよ。それで息子に『この子誰?』とか聞いてみる。息子はビックリするよね。『なんで知ってるの』ってことになる。それ以上息子はしゃべらないけど、息子と男親のコミュニケーションとしてはそれで十分だと思ってる」
「なるほど。さすがは情報化社会。家庭内の秘め事も隠せなくなってきてるんですね」
「それはそうと、美咲のご両親なんだけど、僕と同い年くらいかな?もっと上かな?」
「はるかに上ですよ。あたしは両親とも、両親は同い歳なんですけど、三十六のときの子どもですから。だからかれこれ七十になります。結婚したのは二十六のときかな。それから十年くらい子どもができなくて、不妊治療の末に産まれたのがこのあたしって訳です。母はどうしても女の子が欲しかったみたいで、それで相当無理して不妊治療をやったみたいなんです。まあ、子だくさんの先生にはその気持ちは分からないかもしれませんけど」
「そうかもしれないね。で、なんで女の子なの?」
「母は昔、アイドルの卵だったんです。元アイドルの卵。アイドルという言葉はまだなかったかもしれないけど、芸能人の卵。母は産まれてずっと名古屋だったんですけど、芸能界に憧れて、東京に憧れて、それでも親には反対されて、それでも名古屋を拠点とする事務所に出入りしていたもんだから、親には勘当されてしまって、それで風俗っぽいお店でバイトしながら食いつないで、でもチャンスは巡って来なくて、そういう青春を送っていたんです」
「その夢を美咲に託したかったって訳か」
高山が納得した口調で言った。
「そうですね。だから、母からはその青春時代の話とか、不妊治療の話とか苦労話ばっかり聞かされましたよ。不妊治療の時にはお父さんは全然協力してくれなかったとか」
「お父さんとは?」
「父は、そもそもはアイドルの卵時代だったか、その後だったかは分かりませんけど、母のファンだったというのがきっかけみたいです。だから綾と岩崎君のような出会いだったのかもしれません。とにかく最初は父が母にぞっこんで、何か夢を持っている人だったようで、最初のうちは羽振りも良かったようで、母も騙されてしまったようでした。母が『結婚詐欺だった』って言うのも何度も聞かされてます」
「アイドルの卵だったからそれなりに顔も知れていたってことか。でもそれは結婚詐欺ではなく、詐欺結婚だよ」
「詐欺結婚?何か違うんですか?」
「結婚詐欺というのはハナから結婚する意思なんかないんだ。ただお金をだまし取ることが目的だよ。結婚するというのは手段に過ぎない。実際に婚姻届を提出してしまう詐欺師もいるけど、結婚する意思はない」
「へ~、そうなんですか?」
「だから警察とかが捜査しても被害者であるはずの相手ですら『詐欺ではない』と言ったりするんだよね。プロに騙されるというのは本当に怖いということだ。一方、詐欺結婚というのは結婚する意思しかない。ただ、結婚するための手段として詐欺的な手法が使われるということだよ」
「でもそれをいうならあらゆる結婚はすべて詐欺的ともいえるんじゃないんですか?」
「そうだね。みんな結婚したいと思うときは真剣で、自分を実力以上に見せたいと思うだろうから」
「先生もそうでした?」
「自分では意識していなかったけど、きっとそうだったろうね」
「そう言われると、あたしも等身大の自分で勝負するようになったのはつい最近だなあ」
「で、マンションの管理人?」
「はっ?」
「君の親御さんだよ」
「ええ。黒崎のやっていた芸能プロダクションの不動産子会社が持っている名古屋のマンションの管理人をやらせてもらっています。食べてはいかれているはずですし、仕事もそんなにきつくないですから足腰立たなくなるまでできるんじゃないでしょうか」
「黒崎の事務所は今、どうなってるの?」
高山が続けて尋ねた。事務所の現在進行形については綾香も密かに関心を持っていた。
「株式会社でしたし、株は黒崎が全部持ってましたから奥様が全部相続したと思います。でも奥様も元芸能人だった割には事務所の経営にはあまり興味はないようで、事務所もラピスラズリが終わったら儲けの中心は不動産や飲食業にシフトしましたから、事務所の経営はプロの経営者に任せて自分は株主として悠々自適な生活を送っているんだと思います。そのうち誰かに乗っ取られるんじゃないんですか。あたしもよく知りません」
「でも事務所のホームページ見ると何人かタレントを抱えてはいるよね?売れっ子はいないけど」
「そうなんですか?それは知りませんでした。ホームページがあるなんて今、知りました。まあ不動産や飲食業で十分儲けが出るので芸能プロダクションは事務所に残った誰かが道楽でやってるのかもしれませんね」
新幹線の中ではそんな無駄話が続いた。結局、美咲の両親に関する有益な情報は得られなかったし、美咲もよくは知らないようだった。
この日は美咲の両親と名古屋駅近くのそこそこ高級なホテルで豪華ランチとなる予定だ。三人が十一時半頃に目指すホテルの中の上の階にあるフレンチレストランに到着し、ギャルソンに来意を告げると、三人は奥の個室に案内された。
奥の個室の扉が開くと中には少しふっくらした、七十歳と言われればいかにも歳相応の女性が丸テーブルに一人座っていた。髪は短く、おばさん色に染めてあり、レンズの大きな眼鏡をかけている。服装も紫などを入れ、小奇麗にはしているがおばさん趣味は避けられず、これがこのホテルに出かけてくるために選ばれた服装というのであれば相当質素な生活をしているのだろう。個室には美咲を先頭に入室し、綾香、高山の順で続いた。
「お父さんは?」
「お父さんは来ないよ」
美咲と母のそんな会話で始まった。二人が会うのは本当に久し振りのはずだ。もちろんこのランチを設定するため十日前に美咲は母に電話をしてはいる。しかしそのときも事務的な会話しかなかったはずだ。それなのに毎日顔を合わせているかのようなそっけない母子だった。もっと感動的な再会を期待していた高山は少し肩透かしをくらった。美咲が続けた。
「なんで?」
「美咲にあわせる顔がないんだろ。まあ、最初から来ないとは思っていたからここの予約はあたしの方で勝手に一人キャンセルしといたよ」
母は座ったまま答えた。それを聞いた美咲は何かを理解したようだった。三人を案内したギャルソンが「もう、ご準備させていただいてもよろしいでしょうか?」と尋ねてきたので高山が立ったままワインを注文した。母の注意が綾香に向かった。
「ああ、綾ちゃん。久し振り。綾ちゃんも来たんだね。すっかりテレビでは見なくなったけど、なんとなく話は聞いてるよ。岩崎と別れたんだってね?」
母の表情が少し明るくなったが満面の笑みというのではなく、苦楽を共にした戦友と久し振りに再会したといったような表情だった。
「ええ。まあ色々ありましたから」
綾香が静かに答えると美咲は身体をよじらせながら左の手のひらを高山に向けた。
「それで、こちらが初めてになると思うけど、作家の高山新先生。今、とってもお世話になってるの」
そう言って美咲は高山を母に紹介した。高山は「高山です。どうぞよろしくお願いします」と言って頭を下げた。母は何も言わず、緊張した面持ちで頭を軽く下げた。
「まあとにかく座ろうよ」
美咲がそう言い、三人は母を囲むように、美咲を真ん中にして右側に高山、左側に綾香の並びで座った。新幹線とは逆の配席だ。
「それで、なんだい、話ってのは。まあ、あんまりいい話じゃないんだろうね」
母はまるで高山の口調のように冷たく事務的に言った。
「ホントに久し振りに会ったっていうのにそっけないね」
「綾ちゃんじゃないけど、色々とあったからね。本当のこと言うと、ホントに色んな事があったからどんな顔して美咲に向き合ったらいいのかよく分からないんだよ。それが分からないからお父さんは来なかったんだけどね」
「それをいうならあたしも同じかもしれないね。どんな顔して向き合ったらいいのか分からないや。まあ、回りくどい話はあたしも大嫌いだからいきなり結論から話すね。あたし、結婚することにしたの」
美咲がテキパキとそう言うと、母は一瞬、高山の方をチラリと見た。
「まあ、そんな話なんだろうとは思ってはいた。美咲もいい歳だろうし、黒崎がいなくなって何年もたって少しは落ち着いただろうしね。もちろん美咲にはひどい思いをさせたから幸せになってくれるのはうれしいけどね、でもこれは親のエゴなのかもしれないけど、美咲もアイドルではあったんだし、そう育ててきたつもりだったからもっといい男を連れて来るのかと思ったよ」
歯に衣着せぬ性格なのだろう。母はキッパリと言った。美咲は一瞬、高山の方をチラリと見た。
「お母さんは何か誤解をしてると思うし、誤解すると思っていたから別に驚きはしないけど、でも高山先生のことは悪く言わないでね」
「ごめんね~。でも作家って言ってたけど、あたしは知らないや」
母が悪びれない様子で言った。美咲が続ける。
「『ウミネコの冒険』は知ってるよね?」
「ドラマの?」
「うん」
「ああ。見てたからね」
「高山先生は『ウミネコの冒険』の原作者だよ」
「ああ、そうなんだ。じゃあそこそこ売れてるんだね。で、美咲はお金に目がくらんだって訳か」
「まあこういうシチュエーションだから誤解するのも無理はないけど、でも高山先生は結婚する相手じゃないの。まあ、立場的には仲人さんかな」
それを聞いて母は一瞬固まったが回復は早く、少しかしこまり、前かがみになって「それは失礼しました」と言ったがあまり悪びれた様子はない。
「いいですよ。それは僕も想定の範囲内です。気になさらないでください」
高山が言った。
「じゃあ今日は話だけで相手は連れてこなかったのね?」
母が続けた。前言を気にしている様子はない。美咲は綾香の方をチラリと見た。
「それが相手はここにいるんだなあ。…あたしが結婚する相手はねえ、実は……綾なの」
美咲がそう言って一瞬間があった。
「……何言ってんの。あたしゃねえ、美咲を産み育てたわけだから美咲のことはなんでも知ってるつもりだよ。美咲はそういう子じゃないってことも知ってる」
「そう。あたしは別にレズピアンというわけじゃない」
「じゃあ、何おバカなこと言ってるの」
「まあ、いいじゃない。今の世の中そういうのもありってことだよ。綾とは長い付き合いなんだし、お互いに男には疲れたしね。もちろん綾も同性愛者じゃない。でもそういうんじゃなくてこれからの長い人生、生涯のパートナーとして綾とは歩んでいけるんじゃないかと、そう思ってるの」
「本気で言ってるの?」
「うん。そもそもは高山先生の提案、ってか、最初に言ったのは先生の娘さんかな。それ聞いていい話だと思った。今の世の中、女同士の結婚もありだよ」
「……そんなんで綾ちゃんはいいの?」
母は少し考えて、今度は綾香に振った。
「ええ。私も美咲も男運はなかったようですから」
綾香がそう言うのを聞いて母は大きなため息をついた。
「そうか。そう言われるとあたしも男運がある方じゃなかったね」
母はしみじみと言った。
「お母さんもお父さんに暴力を振るわれたりしたの?あたしは気が付かなかったけど」
「お父さん腕っぷしの強い方じゃないし、気の強い方でもなかったから、さすがに暴力はなかったけど、事業に失敗して、生活が滅茶苦茶になって、美咲にもひどい思いをさせたでしょ。何があっても幸せにするって宣言してたはずだったんだけどね。……まあ、いいよ。二人がいいっていうんだったらそれでいいんじゃないの。やっぱり親だね。美咲が幸せそうなのを見て少し安心したよ。でも、…孫を抱くという夢は完全にはかない夢か~」
母が上を向いて悲しい声を上げた。
「孫を抱く夢?そんな夢、抱いてるの?」
「そりゃそうだよ。親はみんなそう思うんじゃないかなあ。人生最後の夢。あたしの周りの友達はね、みんな孫がいるの。ご近所さんとかはまだ付き合いがあるから、孫の写真見せられたりしてね。作り笑顔で応えてはいるけど、結構つらいもんだよ」
「孫だったら抱けるんじゃないんですか」
それまで黙っていた高山が言った。
「何言ってるの。どうするっていうの?作家先生の想像力でも自然の力には勝てないでしょ?綾ちゃんは女の子だよ。第三者から精子の提供を受けるっていうの?」
母は呆れた顔で高山に言った。
「そうです」
高山は冷静に続けた。
「そんな話聞いたことない」
「確かに日本ではまだ珍しいかもしれませんけど、諸外国では決して珍しい話ではない」
高山は自信に満ちた声でキッパリと言った。
「……なるほどね。種馬がなんであれ、美咲が産めばその子はあたしの孫って訳か。…じゃあ、高山先生とやら。あなたその種馬になってくださるの?」
「僕はもう歳ですしそれは無理でしょう。でもお母さんがお孫さんを抱くことは十分に可能だと思いますよ。お母さんの遺伝子を受け継いだ本当の孫をね」
「……分かったわよ。これはいい話ということで受け止めておくね。で、お父さんにはあたしから伝えておくということでいいかい?」
母が美咲にそう言うと美咲は一瞬、高山に目配せした。
「いや、お父さんにはあたしが直接会って伝えたい。お父さんには言いたいことがいっぱいあるから」
美咲がそう言うと母はさもありなんというように肩をすくめた。
「そうだろうね。あんた、今日は刃物でも持ってきてるのかい?」
「刃物?」
「ピストルでもいいけどさ。あんただったら手に入れられるだろ?アメリカで実際に撃ったこともあるんだろうし」
「なんで?」
「お父さんを殺しに来たんだと思ってたからさ」
「ハハハ。確かにね。でも殺しはしないよ。せっかく市議会議員になって、綾とのことも決まって、人生やり直そうってところなのにさ。そんなつまらないことで第二の人生を目茶目茶にしてしまいたくない」
「第一の人生はあの男のせいで目茶目茶になったからねえ」
「それ言うならお母さんも共犯だよ」
「それは認めるけど、あたしもいってみれば被害者だよ」
「被害者?」
「そう。お父さん、青年実業家だっていってたけど、ふたを開けてみればどこにでもいるただの中小企業のおやじだった。それなのに商売はうまくいかず娘にさえ迷惑かけるし、ホント最低の男だよね。不妊治療で辛い時も決して歩幅を合わせてはくれなかった。まあ、あたしは長年連れ添って来て情もあるから殺しはしないけど、あんただったら殺す権利があると思うけど」
「…まあ、そこまではしないけど、言いたいことは言わせてもらうね」
美咲がそこまで言うとちょうどそのタイミングでギャルソンがワインを持って個室に入ってきてテーブルの上のグラスに注いで回った。そして美咲は目の前のワイングラスを手に取ると乾杯もせずに口をつけ、それを見て母もならった。とても乾杯することなどできない重苦しい雰囲気だった。
娘の婚約発表というおめでたい席のはずなのにランチはお通夜のようだった。それでも四人はそれぞれの近況をポツリポツリと語っていた。一番おしゃべりなはずの美咲の沈黙がランチの席を重苦しいものにしていて、その重苦しさはホテルを出て名古屋駅に引き返す間も変わらなかった。
四人は名古屋駅から名鉄犬山線に乗り六駅目の西春で降りた。そして名古屋圏の旺盛な消費意欲を象徴するような郊外の駅前に点在するマンション群の隙間を数分歩くと「シャトークロサキ」と横文字で書かれた建物の前に到着した。「城(シャトー)」とは名ばかりでマンションというよりは鉄筋コンクリート作りのアパートと表現した方が良さそうな年代ものだった。但し、背は高く、八階建てくらいの高さだった。美咲の両親はこの建物の一階で住み込みの管理人をしているのだろう。
自動ドアが開き、美咲を先頭に中に入るとエントランスではグレーの作業服を来た老人が手にほうきを持ち掃除の真っ最中だった。
「お父さん!」
美咲がそう叫ぶとグレーの作業服は一瞬、動きを止めた。しかし、すぐに何事もなかったかのように作業を再開した。作業服は振り向かなかったが声の主が誰かは分かったようだった。
「お父さん!」
美咲がもう一度そう叫ぶとようやく作業服姿の手は止まり、美咲の方に身体を向けた。顔は伏せたままだ。
「……勘弁してくれ」
作業服はか細い声で言った。
「お父さん!」
「……お前には…本当に申し訳ないことをしたと思ってる。謝って済むことでもないな。…お前は、…俺のことを殺したいほど恨んでるだろ?」
作業服はそう言って顔を上げた。父子の目が合ったようだ。
「あたしは…」
美咲が何か言おうとしたが父がさえぎり、自虐的な笑みを浮かべた。
「そうだよな。俺は…取り返しのつかないことをしてしまった。商売なんかさっさとやめれば良かったんだ」
それを聞いて美咲は軽く微笑んだ。
「確かに過去は辛いこともあったかもしれない。でも、それはもう全部忘れてしまった。今思い出せるのは…本当に楽しかったことばかり」
「何言ってるんだ…俺はお前に何もしてやれなかった。父親らしいことは何も…。父親失格もいいところだ」
「そんなことないよ。お父さんは……歯が痛いと言えば歯医者さんに連れて行ってくれたし、耳が痛いと言えば耳鼻科に連れて行ってくれた」
美咲の声が涙声に変わっていく。
「…美咲……」
「プリンが食べたいと言えば買ってくれた。何もしてあげられなかったのはあたしの方だよ」
「……」
「恨むなんてとんでもない。あたしは、…感謝してる。お父さんに会えて良かったって思ってる」
そう言って美咲は父の傍に寄り手を取った。母は後ろの方で泣いている。
「帰りの新幹線まで、まだ時間あるよね?」
黙って親子を見つめていた高山が傍に立っている綾香に聞いた。綾香はハッと我に返った。
「はっ、はい。八時十二分発ですからまだ六時間くらいあります」
「じゃあ僕達はちょっと距離あるけど熱田神宮にでも参拝に行こうか。ついでに味噌煮込みうどんでも食べよう。この親子、まだ当分時間かかりそうだし」
高山はそう言ってエントランスの外に出て綾香も続いた。建物の中には擦りガラス越しに寄り添い合う三人の影が見えていた。