亜莉寿と両親との話し合いが終了し、暖かいリビングルームから移動すると、暖房の効いていない書斎は、肌寒く感じられた。
吉野家の夫妻は、この部屋を共同で利用することもあるためか、室内には、書斎用のアームチェアが、二脚おかれている。
椅子を勧められた秀明は、遠慮がちに腰かけ、亜莉寿の父に、どんな話しをされるのか、少し身構えた。
その様子を見た博明は、
「わざわざ、部屋を移動してもらって申し訳ないね。さっきも言ったけど、そんなに緊張しなくても大丈夫だから」
と、穏やかな笑顔で語りかける。
「有間クンには、娘の相談にのってくれたお礼とウチの家族のことを話しておきたくてね。少し時間をもらって話しても大丈夫かな?」
博明にたずねられた秀明は、
「帰る前に、家に連絡しておけば大丈夫です」
と返答する。
「じゃあ、少しだけ話しをさせてもらおう」
そう言って、博明は大きな本棚に収納しているアルバムから、一枚の写真を取り出して秀明に手渡した。
写真には、広々とした草原を背景に、子供の像を挟んで少女と母親らしき女性が立っている。
少女の顔は、秀明が良く知っている顔に、面影が残っている。
女性の顔もまた、つい先ほどまで秀明が良く観察していたものだ。
「これは───。亜莉寿さんとお母さんですか?」
秀明がたずねると、
「そう。僕が商社の仕事の関係で、アフリカに赴任していた時に撮ったものなんだ」
博明は、懐かしそうに語りだした。
「亜莉寿が五歳くらいの頃だったかな。ティプトリー・ジュニア……、いや、この頃の名前は、アリス・ブラッドリーか?彼女が、『ジャングルの国のアリス』の主人公として描かれたのと同じ年頃だったから、僕も妻も妙にはしゃいでしまってね」
思い手にひたる様に話す博明に、秀明はたずねる。
「あの……。お父さんもお母さんも、ティプトリー・ジュニアの小説がお好きなんですか?」
「そうだね。娘に亜莉寿と名付けたのも───。と、これは、あのコから聞いてるかな?」
博明からの質問に、
「はい!夏休みに、こちらにお邪魔して、『ジャングルの国のアリス』の翻訳本を読ませてもらった時に、彼女から聞かせてもらいました」
秀明は答える。
「そうか───。僕がティプトリーの小説を読み始めたのは、妻の影響なんだ。彼女は学生時代から英語が堪能だったから、海外の小説を原書で読んでいたりしてね。僕も妻に薦められて、ティプトリーの作品が、邦訳される前にいくつか読んでいたんだ。ティプトリー=アリス・シェルドンの様に、聡明で感受性豊かな人間に育って欲しい……。そう願って、名付けたんだけど───」
秀明の答えにうなづきながら、博明は思い出話しを語るように、話し続ける。
「次の赴任先の北米に住んでいた時に、あのニュースが飛び込んできたんだ……」
それまで、淡々と語っていた博明の声のトーンが、沈むように暗いものになった。
「『あのニュース』っていうのは、ティプトリーの……?」
秀明は、そうたずねる。その先の言葉を語るのは、はばかられる様な気がした。
「そう、彼女の人生最後の衝撃的な出来事だ。僕たち夫婦もショックを受けてね。それまでは、娘に良くティプトリーの話しをしていたんだけれど……。あの日以来、娘には、彼女の名前の由来やティプトリーに関することを積極的に話すことをしなくなってしまったんだ」
亜莉寿の幼少期ことを回想しながら語る父は、「あの娘には、申し訳ないことをしたと思っているんだけど……」と付け加える。
その言葉に、秀明は吉野家の両親の気持ちを想像し、
「───そんなことがあったんですね」
としか答えられなかった。
「ただ───」
秀明の返答のあとに、博明は続け、
「亜莉寿が、SFやミステリーの海外小説を熱心に読んでいることは、ボクも妻も、何となく気付いていたから、いつか、あの娘が、ティプトリーの話しを私達に聞いてくるんじゃないかということは考えていたんだけどね……」
と、表情をゆるめて語った。
亜莉寿の父の言葉に、秀明は黙ったまま、うなずく。
「私達、両親にも話していないことを語るなんて、有間クンは、よほど亜莉寿の信頼が篤い様だね?」
今度は、ニヤリと微笑みながら言う博明に、
「いやいやいや!トンデモないです!!」
と、秀明は大きく頭を振った。
その様子を見た博明は、
「そんなに大げさに否定しなくてもイイよ───」
と、さらに可笑しそうに笑いつつ、今度は少し真剣な顔つきで話し続ける。
「個人的には、もう一つ、娘には済まないことをしたと思うことがあるんだ。さっきも言った様に、亜莉寿が幼かった頃は、商社勤めの僕の仕事の関係で、数年ごとに居住する国が変わっていてね。腰を落ち着けて一つの場所に留まるということが少なかったから、あの娘も、話の合う同世代の友だちを作ることが難しかったと思うんだ」
博明の言葉に、秀明は亜莉寿の幼い頃を想像しながら、
「そうだったんですね」
と返す。
「うん。現地で遇うのは、どうしても僕の同僚や取引先の人たちになりがちで、大人に囲まれることが多かったからね。幸い、周りの人たちに可愛いがってもらうことは多かったんだけど───。特別に自己主張をしなくても、気を使ってくれる大人が周りに居たから、自分の思う通りに出来ることが多かったんじゃないかと思うんだ」
そう語る博明に、
「なるほど───。それで……」
と、秀明はつぶやいた。
亜莉寿から海外での生活が長かったと聞いて、一般的な日本人より『自分の意見を主張することは得意なんだろう』と勝手に思い込んでいたが、今回の一件にしても、それは彼の思い違い、もしくは亜莉寿に対する過大評価だった様だ。
納得した様な表情の秀明を見て、博明は、さらに語り続ける。
「困った時も悩んでいる時も、いや怒っている時でも、ニコニコと笑っていたら、周りの大人が気を配って、あの娘に『どうしたい?』『こうすればイイかい?』と聞いていたから、衝突することはなかったんだけど……。いま、思えば、それは彼女にとって必ずしも良いコトばかりではなかった───」
しかし、その言葉を聞いた、秀明の表情がサーっと青ざめるのを確認して、
「もしかして、有間クンにも覚えがあるのか?それは、済まないことをした。自分たち親の責任もあるから、娘に代わって謝っておくよ。本当に申し訳ない」
博明は、謝罪する。
亜莉寿の父の思い掛けない言葉に恐縮した秀明は、
「いえいえいえ!僕の方にも原因はありますから!亜莉寿さんとは、高校入学前から知り合っていたにも関わらず、同じクラスなのに、なかなか気付けなかったので……」
と、自身の過去の失態を語った。
それを聞いた博明は、「ああ!」と声をあげる。
「半年くらい前に、あの娘が『たんぽぽ娘』の話しをしてきたことがあったんだけど───。『たんぽぽ娘』を読んだ友達が、主人公に《普通、最初に『たんぽぽ娘』の正体に気付くだろ?》《マークさん、ちょっと鈍いんとちゃう?》とか言うの!でも、その友達は去年の夏休みに会っていた私のことに、最近まで気付いてなかったんだ!同じクラスに居るのに!!なんて、可笑しそうに話すんだ。アレは───」
これまでより、声のボリュームを上げて話す博明に、
「はい、ご想像の通りです」
と、秀明はうなだれながら答えた。
「そうか、そうか!あの友達が有間クンだったのか。友達と言うから、勝手に女の子のことかと思っていたけど───」
そう言いながら、何故か博明の表情は嬉しそうなのだが、秀明には、その様子を観察する余裕はなかった。
「『たんぽぽ娘』は、ご両親の思い出の小説で、自分が生まれた時に買ってもらった大切な本だと、亜莉寿さんから聞いていたので、イイお話しだなと思いながら、読んだ感想を聞いてもらったんですけど───。見事に彼女に《してやられた》って感じでした」
自嘲気味に笑いながら話す秀明の様子を見て、
「そんな事まで君に話していたのか?確かに、あの小説は、僕と真莉さん、いや妻にとっても大事なモノだし、あの娘にも、そう思ってもらえるのは、親として嬉しいことだけど───。う~ん、そうか。有間クンに……。やっぱり、親子の考えは似るものなのかな?」
博明は、最初は意外に思いながらも、最後は納得したのか独り言の様につぶやく。
彼のつぶやきを不思議そうに眺めながら秀明は、
「亜莉寿さんから聞かせてもらったんですけど、『たんぽぽ娘』は、お父さんとお母さんにとっても、大切な思い出になってるんですか?」
とたずねる。
「そうだね!僕たち二人の学生時代の話しなんだけど……。ただ、これは語り出すと長い話しになるかも知れないから、また、有間クンと話す機会があれば、その時にさせてくれないか?」
博明の言葉に、秀明も「わかりました」と、うなずく。
快活に答えた秀明に、博明は語る。
「少し話しが長くなってしまったけど……。有間クン、今日は本当にありがとう」
礼を述べる亜莉寿の父親に対し、
「いえ!自分は、お礼を言ってもらえる様なことは、なにも───。それに、ご家庭の事情もあるのに、勝手に自分の思うこと言ってしまって……」
そう言って、謝ろうとする秀明に、博明は、
「いや、本当にキミには、感謝してるんだよ!僕たち家族の大切な《思い出》を思い出させてくれたし、何よりキミは、亜莉寿のためを思って、今日ここに来てくれたんだろう?自分の子供のことを大切に思ってくれるクラスメートが居てくれるということは、親にとって、とても嬉しいことだ。あらためて、礼を言わせてくれないか?ありがとう、有間クン」
そう言って、握手を求め、少し頭を下げる亜莉寿の父の様子に、秀明は、照れくさい様な、面映ゆい様な、くすぐったい気持ちになりながら、
「こちらこそ、突然お邪魔しさせてもらった上に、色々とお話しを聞かせていただいて、ありがとうございました」
と、自分が感じている感謝の気持ちを伝えた。
その後、博明は話しが長くなったことをあらためて詫びながら、携帯電話を取り出し、使い方を教えながら、秀明に渡してくれた。
秀明は、さらに恐縮しながら、携帯電話を使用して、自宅に、これから帰宅する旨の連絡を入れる。
連絡を終えると、博明とともにダイニングキッチンに顔を出した秀明は、亜莉寿と母親の真莉に別れを告げて、吉野家をあとにした。