ハリエットという女の子
愛は目で見るものではなく、心で見るもの───ウィリアム・シェイクスピア
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ハリエット・ポッターの事を知る人間が、彼女を例える言葉はだいたい決まっている。
弱虫。泣き虫。臆病者。その他にもいくつかあるが、だいたい似たような意味の言葉なので割愛しよう。兎にも角にも、ハリエットは酷く内向的な少女だった。
写真でしか顔を知らない両親と彼女を引き取った叔母夫婦であるダーズリー家は、それはそれは折り合いが悪かったと聞いている。だというのに当時まだ一歳そこらだったハリエットを引き取らねばならなかった事は、彼らにとって純粋に苦痛だった筈だとハリエットは思う。
何故なら、ハリエットは赤ん坊の時から不思議な現象をよく引き起こした。触れずに物を落としたり、壊したり、窓を開けていないのに風を起こしたり。妙な夢を見て夜泣きをした夜はより一層暴れた。ダーズリー家もハリエットも、生きた心地はしなかった。
成長するにつれハリエットは、自分だけに引き起こるこの現象を誰よりも忌避するようになった。与えられた階段下の物置に何を言われずとも自ら引きこもり、自分をからかおうとする従兄弟のダドリーを泣きながら拒絶する。
ハリエットは誰かを傷付けたいと思っている訳ではない。むしろ叔母夫婦が口酸っぱく言い募る“普通”を喉から手が出るほど望んでいる。それが無理なら、せめてこの力を制御できるようになりたい。
一度、そんな事を叔母のペチュニアに訴えかけた事がある。その時の彼女は悲痛な表情を浮かべて、泣きじゃくるハリエットを見つめていた。
そんな風に幼少期を過ごした人間が、人と関わる事を苦手に思うのは至極当然の末路と言える。
だからと言って完全に俗世と関わらなくなったかと言うとそうでもない。規定の年齢となり、ハリエットはダドリーと同じようにプライマリースクールに通う事になった。大きく変わった事がなければ特に親しい人間ができた訳でもなかったが、どちらにしろ年齢は年齢なので行かなくては世間体がよろしくない。
通い始めて最初の頃は「親無し」やら「弱虫」やら、まぁありきたりな単語を用いていじめられたが、意外にもダドリーがハリエットを庇ってくれた。どうやら知らぬうちにダドリーの中でハリエットは「放っておいたら死んでしまう弱い生き物」に認定されていたようで、ダドリーは何かとハリエットに構うようになった。
これに困惑したのは当然ハリエットの方である。叔母夫婦は自分とダドリーが近付く事を嫌がっていたし、ハリエットの方も誰かと触れ合う事が恐ろしくてダドリーに近付く事は一切なかった。
しかし不思議な事にスクール在学中は叔母夫婦がこの事を怒る様子が特になく、また例の不可思議な現象に襲われる事もなくなっていたハリエットは、戸惑いながらもダドリーと一緒にいる時間が増えていくようになった。
その辺りからだろうか、ダーズリー家のハリエットに対する風当たりに変化が起き出したのは。ダドリーはハリエットをからかう事はなくなり、ハリエットに対するペチュニアとバーノンのあたりもマシなものに変わった。この変化に一番戦慄したのも当人であるハリエットだったが、それも致し方ない。幼少期から過ごしてきた環境が何か変わり出したら誰だってビビるものだ。
まぁ、そんな環境の変化のおかげでハリエットの心は比較的穏やかなものになったのだから悪い事は何もない。そうして若干、本当に若干、ほんの少しだけ余裕を持ったハリエットはある事に興味を引くようになった。
動物である。
それも、殊更惹かれたのは爬虫類と猛禽類。女子はハムスターや猫などの可愛い動物が好きという認識を持っていたダドリーは「変な奴」と首を傾げたが、爬虫類はだいたい男の子が好きな生き物なので特に問題はなかった。むしろウェルカム。結果として、ダドリーやその取り巻きの少年達とハリエットが話す機会は多くなった。
泣き虫で弱虫で臆病で内向的な所は変わらなかったが、それでもハリエットはそれなりに“普通”に進む事ができていた。悪夢に魘される日はまだまだあったし、両親の死について頑なに教えようとしない叔母達に対して思う所はあったけれど。それでも、まぁ良かったのに。
けれど、そんな彼女をまた不安に陥れる自体が起きてしまう。
それは、奇しくもダドリーの誕生日に起こってしまった。
スクールに通う以前までなら近所のフィッグおばさんの所に預けられて一日を過ごしていただろうが、ここ数年はダドリーの意向でハリエットも参加する事があった。
昼間のダドリーを楽しませる時間だけであって夕食の時間は同席できなかったが、ケーキをわけてもらえるようなっただけマシなものである。
スクールの先生に教わって作った日本の“オリガミ”がハリエットからダドリーに贈る誕生日プレゼント。不格好なティラノサウルスだが、今のハリエットができる精一杯がこれだ。
「ハリー! 起きてるか?」
「ダドリー、ハリエットはもうこっちにいるわよ」
朝早くからペチュニアを手伝ってダイニングのセットをしていたハリエットは、飛び込んできた本日の主役を見ておずおずと口を開いた。
「お、お誕生日……おめで、とう」
「へへ、サンキューハリー!」
もうすっかりハリエットのお兄ちゃんをやっているダドリーである。
さて、本日ダーズリー家はダドリーの為にその取り巻きを連れて動物園に向かう予定があった。勿論と言うべきか何故なのかと問うべきか、ハリエットも一緒に行く事になっている。ダドリーとハリエットの一番共通の話題は動物なので、ダドリーの中ではハリエットが行かない訳はなかった。
朝食を終えて集まったダドリー軍団と共に動物園に向かう。その間、ハリエットはずっとダドリーのパーカーの裾を握っていた。お下がりであるキャップ帽をロングストレートの黒髪の上に深く被り、エメラルドグリーンの目ができるだけ誰かと合わないようにしているのだ。
基本的にハリエットは感情の起伏が少ないが、そんな彼女が瞳を爛々と輝かせたのはやはり爬虫類館だった。
ダドリー軍団は最初からそれを予想していたので、自分達よりゆっくり爬虫類を観察するであろうハリエットから少しだけ距離をとって先に歩いた。ちらちらハリエットを気にしているピアーズをダドリー達が小突いたりしているが、そんな事ハリエットは気にも留めていない。
薄暗い爬虫類館の中を満喫していると、ふと、とぐろを巻いた一匹の蛇が目に留まった。
「綺麗、だなぁ」
ハリエットはそんな事を呟いただけだった。蛇が顔を上げてハリエットの目を見つめる。黒い眼に釘付けになると、ハリエットの耳に声が聞こえた。
「やぁお嬢さん。今、綺麗と言ったのはもしかして俺の事かい?」
目を見開いたハリエットが後ずさる。すると、蛇は成人男性の腕ぐらいの太さの体を滑らせて更に続けた。
「怖がらないでくれ。すまないね、まさか聞こえているとは」
「……貴方の、声?」
ハリエットは問いかけた。蛇はシュルシュルと喉を鳴らして、やはり人と同じような言葉を紡ぐ。
「あぁ。こちらも驚いたよ、俺の言葉がわかる人間なんてはじめて会った」
「わ、私、ちょっと……変、だ、から」
「変?」
小首を傾げるように蛇が呟く。
妙な悪夢と不思議な現象に、ハリエットとダーズリー家は嫌というほど悩まされてきた。近頃はなかった筈だが、それは起きるきっかけがなかっただけなのだとハリエットは察する。途端に心が不安にかられ、ただでさえ肌寒い室温の中で血の気を引いていく。
「ハリー、どうした?」
ダドリーの声にハリエットが横を見ると、取り巻きやペチュニア達から離れてダドリーがハリエットのすぐ隣に立っていた。
すると、ダドリーの顔が少し歪む。ハリエットの顔色の悪さに気付いたのだ。
蛇がハリエットを見上げている事に気付いたダドリーは蛇を睨み、ガラスケースを強く叩く。
「おい蛇!」
ハリエットが止める間もなかった。バンバンバン。四度目の音が鳴る事はなく、ダドリーの体がガラスケースを通り抜ける。ひゅっとハリエットは喉を詰まらせるような音で息を止めた。
手を伸ばそうにも体が硬直して動かない。消えたガラスケースの中に転落するダドリーと入れ違いに、蛇がガラスケースから抜け出した。蛇は顔を上げ、再びハリエットに囁いた。
「お嬢さん、本当に怖がらせるつもりはなかった。すまなかったね───それとありがとうよ、ブラジルへ俺は行く。じゃあね」
そのままスルスルと去っていく蛇に呆然として、けれどその蛇の言葉に困惑して、ハリエットは呆然と立ち尽くした。
あの蛇が言った言葉をリフレインする。ありがとう───ありがとう? あの会話のどこに感謝する事があった? 会話をした事? きっと違う。
それじゃあ何か。ハリエットが考えを巡らせていると、ペチュニアのヒステリックな悲鳴が響いた。はっとして、ようやく動いた腕を落ちたダドリーの方に伸ばす。けれどその手は、ガラスの板で塞がれた。
ぞっと背筋に悪寒が駆け抜けた。ガラスケースの中にダドリーがいる。出ようとして、ガラスに邪魔されるダドリーと目が合う。ハリエットは、蛇の感謝の意味を理解した。
このガラスケースを外したのは、きっと自分だ。
家に戻ってくると、ハリエットは素早く自分から物置に引きこもった。自分を呼ぶダドリーの声は、枕と毛布を重ねて被ってやり過ごす。バーノンが「放っておけ」と言ってくれる事が今は何よりありがたかった。
あの時の事を考える。もしもあの蛇が毒を持っていて、ガラスケースから抜け出さなかったら。突然中に飛び込んできたダドリーに噛み付いていたら───ありえたかもしれない可能性に、身体中が凍るような気さえした。
ハリエットにとって何よりも恐ろしいのは、自分が傷付く事ではなく誰かを傷付ける事。とにかくそれが嫌で、怖くて、恐ろしくて、ハリエットはいつも怯えていた。
今も、ハリエットは昔のように怯えている。