動物園の事件の後、ハリエットはしばらく体調を崩して寝込んだ。
ペチュニアからもらった薬を飲んで休むとすぐに熱は引いたが、やはり心の不調のせいか気分は気だるいものだった。
せっかくのダドリーの誕生日を台無しにした事を、ハリエットは申し訳なく思っていた。
あの時自分が行かなければこうはならなかったのに、と自己完結した答えが胸を締め付ける。
用意したオリガミの恐竜は、ペチュニアが渡してくれたらしい。もうそれだけで十分だった。
しばらくスクールにも行けなかったハリエットをダドリーが心配した事もまた、ハリエットの心に負担をかけた。申し訳なさで目の前が見えなくなってしまいそうだ。
どうしようもなく自分が悪いと考えてしまう、それがハリエット・ポッターの人間性だった。
そんなある日の事。ハリエットは、ダドリーに連れ出されてダイニングにいた。
本当は物置にこもっていたかったが、こうも心配させているのに無視し続ける事はハリエットにはできない。ダドリーなりにハリエットを元気づけようとしているから、バーノン達もダイニングにいるハリエットを叱りつけたりはしなかった。
ハリエットとダドリーが恐竜の話で盛り上がっている時、玄関前からペチュニアの悲鳴が響いた。ダイニングにいた全員が驚いた顔をして、バーノンが誰よりも先に妻のもとへ急ぐ。
ハリエットは無意識にダドリーのパーカーの裾を掴もうとして、直前でやめた。ダドリーの方はそれに気付かずにハリエットの腕を掴むと、その足で玄関に向かう。顔を覆って崩れ落ちるペチュニアと、そんな彼女を抱き締め慰めるバーノンの姿が目に入った。
ハリエットとダドリーは、思わずお互いの顔を見合わせた。一体何があったのか本気でわからず、かと言って聞くには悲壮感が強すぎる。困惑していた子供達の耳にまず飛び込んだのは、ペチュニアのヒステリックな叫びだった。
「ハリエット、ハリエットに───あぁ!」
ざぁっとハリエットの顔が青ざめた。また何かしてしまった、また迷惑をかけてしまった、そんな気持ちがハリエットの頭を支配した。しかし実際は、ハリエットの意思とは違って動いている。
「ハリエット! こっちに来なさいハリエット!」
びくりと肩を震わせながらペチュニアの方に歩く。ダドリーの腕から抜け出して、胸の前でぎゅっと両手を握る。
目の前までやってきて膝をついたハリエットの肩を掴んで、ペチュニアは問いただした。
「いいこと、ハリエット。お前はどこにも行かないのだからね、こんなデタラメな所には行かないのよ。言ってご覧なさい、お前は新学期からどこに行くの?」
「学校……」
「えぇそうね、そうよ。けれどお前が行くのは女学校よ。こんな……こんな所に、この子を行かせてやるものですか!」
ヒステリックなペチュニアは、そうしてゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
何の事かわからず、バーノンに目だけで助けを求める。バーノンもハリエットの切実な視線に気付いただろうが、何も言う事はなかった。
それからしばらくは穏やかな日々が続いた。あまりの穏やかさにハリエットは日に日に不思議な緊張感を募らせていく。ペチュニアは毎日ハリエットが部屋にいる事を確認するようになり、郵便物の確認はバーノンの仕事になった。
けれどある日、いつものように目を覚ましたハリエットはドアの隙間に挟まっている便箋を見つけた。見つけてしまった。
ダドリーか、もしくはダドリー軍団の誰かからか。ごく稀に届く手紙の事を思い出し、ハリエットは便箋を開き、宛名を見た。ハリエット・ポッターの名前がある。
『ホグワーツ魔法魔術学校
校長 アルバス・ダンブルドア
マーリン勲章、勲一等、大魔法使い、魔法戦士隊長、最上級独立魔法使い、国際魔法使い連盟会員
親愛なるポッター殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封致します。
新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着でフクロウ便にてのお返事をお待ちしております。
敬具
副校長ミネルバ・マクゴナガル』
「……ホグワーツ?」
はて、聞いた事があっただろうか。ミネルバ・マクゴナガルという人物にも心当たりは特にない。イタズラかと思ったが、それにしては完成度が高すぎる気がした。
困り果てた末に叔母に相談しようかと思ったが、最近ずっと困らせ続けている。これ以上迷惑をかけるのは罪悪感が耐えられない気がした。
色々考えて手紙を毛布の下に隠そうとしたその時、ペチュニアの絶叫が聞こえた。近頃こればかりだと、ハリエットの気分は下がりに下がる。
ハリエットはベッドに腰掛けて、ダドリーがお下がりにくれた動物図鑑を手に取った。青い付箋を貼った場所を開けば、ページいっぱいに写真と説明を載せたふくろう達。下がっていた気分が少しだけ緩やかに浮上した気がしたが、それもバタバタと騒ぐ廊下の音で掻き消えた。
ペチュニアが自分の名前を叫んだ気がして、ハリエットは咄嗟に図鑑から視線を上げた。元の場所に図鑑を戻して物置から身を乗り出し、ペチュニアの姿を探す。玄関に後ろ姿を見つけて立ち上がり、小さな声で呼びかける。
「おばさん?」
そう呟いた瞬間、ペチュニアは勢いよく振り返ってハリエットに声を荒らげた。
「部屋にいなさい、ハリエット!」
ペチュニアがそう言った直後、その脇を抜けて大きな男性がハリエットに近付いた。たまらず後ろに後ずさりながら、ハリエットはその男性を見上げる。
全身黒ずくめの男性は、酷く顔色が悪かった。ついでに言うと人相も悪い。神経質そうな目をしかめた彼に、ハリエットはまるで蛇に睨まれたカエルのように縮こまった。
「ミス・ハリエット・ポッターかね」
それは確かに自分の名前だ。けれどそれを肯定して良いのか悩んで、結局ハリエットはしばらくの時間を置いてから無言で頷いた。ペチュニアの声が更に続く。
「セブルス、ハリエットは連れていかせないわ!」
「無駄な事を言うのはやめたまえ、ペチュニア。彼女が魔法使いである事は事実なのだ」
「ふざけてるわよそんなの!」
大人達の会話が続く中、ハリエットは困惑が収まらない。ちょうど外に出ていたバーノンとダドリーが帰って来た事で余計に騒がしさが増す。 混乱しっぱなしのハリエットを見下ろして、男性は口を開いた。
「ハリエット・ポッター。君は幼少期から不思議な事が起きた筈だ。心当たりはあるだろう?」
ハリエットは言葉を詰まらせた。心当たりがある所の話ではない。つい最近、そんな事に巻き込まれたばかりなのだ。
血の気を引いた顔をするハリエットに眉をしかめてから、男性はもう一度、声を荒らげ続けるペチュニアの方を向いた。
「この子はホグワーツに入学するのだ、この子の母リリーがそうであったように」
「そうやってまた死ぬかもしれない世界に連れて行かせろって言うの!? そんなのもうたくさんよ!」
「ペチュニア!」
バーノンが声を荒らげ、しまったと言いたげにペチュニアが口もとを手で覆う。けれど既に遅かった。ハリエットにはしっかりと聞こえてしまっていた。
「……お母さん?」
「さよう。ミス・ハリエット、君の両親は魔法使いだったのだ。ある闇の魔法使いと争い、君を守護して死んだ」
「でも……でも、事故で、死んだって」
眉を下げて呟いたハリエットに、男性は目尻をつり上げてペチュニアを睨んだ。負けじとペチュニアも彼を睨み返す。
「……言える訳ないでしょう、本当の事なんて。この子はとても臆病で内向的な子なのよ。友達だってほとんどいやしないわ。学校はダドリーがいてようやく成り立つくらい。そんな子をあんな所に行かせて、過ごさせて、一体どうなると思う!?」
「何をどう言おうと入学は覆らん。知り合いがおらぬのは他の生徒も大抵は同じだ」
そこまで言って、男性はもう一度ハリエットの方を見た。
「ハリエットよ。君は何故そうも内向的になった?生来の性か?それとも、環境がそうしたのか?」
その言葉に、今まで起きた不思議な現象が頭の中に思い浮かぶ。全てが嫌になるほどに、全てが恐ろしく感じるほどに、簡単に誰かを傷付けてしまいそうな不思議な何か。
「その力を恐ろしく思うなら、尚の事ホグワーツに来ると良い。我輩はそこで教師をしている。将来、魔法使いや魔女になる者達の学び舎だ」
ハリエットが瞠目する。恐ろしく思う?当たり前だ、こんな力があったからいつも恐ろしかったのだから!
「……あ、の。聞いても、いいです、か?」
ハリエット!とペチュニアとバーノンが自分を呼ぶが、ハリエットはこの時、はじめて二人の声を無視した。
男性が肩を竦めて「構わん」と呟いたので、そのまま問いを投げかける。
「わ、私……これ、ま、魔法? は……こ、コントロール、できるように、なるんです、か?」
「なるとも。その為の学び舎だ」
「そう、したら……だ、れも……傷、付けなくて、いいですか……?」
男性が片眉を上げてハリエットを見下ろした。しばらくしてから、男性が「あぁ」と短い肯定の言葉を示す。途端にハリエットの表情は喜色めいた。
この十一年間、どんな事よりもハリエットを苦しめたのは誰かを傷付けるかもしれない恐怖だ。もしもこの力を抑え込む事ができるなら、やっとその恐怖から解放される───けれど、叔母夫婦がそれを決して許そうとしていない事は、ハリエットもわかっていた。ハリエットの潜在意識において、叔母夫婦の存在は絶対だ。
「……あと一歩を留めるは叔母の存在か? なるほど、元より有していた臆病な気質が、この家で更に大きくなった……そんな所かね」
そして、男性はまるでハリエットの思考を読み取るかのようにそう言って、ペチュニアとバーノンを睨みつけた。
「なんと愚かな事だ、ペチュニア。貴様の行いはオブスキュラスを産みかねない」
「何を言ったって構わないわ! そのなんとかっていうのも、魔法が使えない私に関係ないでしょう! だからハリエットも関係ないの!」
「ペチュニア・ダーズリー!」
そこで、はじめて男性は大声を上げた。ビリビリと轟く声にペチュニア達は怯えたようになったが、ハリエットは呆然とそれを見つめるだけだった。
男性は何かを言いたげな顔をしながらも言葉を閉ざし、そしてハリエットに手を伸ばした。
「我輩に掴まりたまえ、ハリエット」
「ダメよ!」
「このような所にいて何になる? 君は果たして幸福か? ハリエット・ポッター!」
「黙れ! ハリエット騙されるな、こんな奴の言う事を信用しちゃならん!」
肌を突き刺すような男の声。ペチュニアとバーノンの悲鳴と泣き声を混ぜたような声。相反する二つの声音のどちらを、ハリエットは選べばいいのかわからない。
本音を言うと、ハリエットの心はきっとこの男性について行きたいと思っている。彼はハリエットが望み続けた事を言ったのだ。誰も傷付けないように力を制御できるようになる。
けれど、ダーズリー家にはこんな自分を育ててくれた恩がある。選ぶべき方が、捨てるべき選択肢がハリエットにはわからない。
そんな板挟みになったハリエットに助け舟を出したのは、意外や意外、ずっと会話に参加していなかったダドリーだ。
「行ってこいよ、ハリエット」
ペチュニアとバーノンは絶句してダドリーを見た。流石にこれは予想外だったのか、男性も眉をしかめてダドリーを振り返る。
「よくわかんないけど、ちゃんと帰ってくるんだろ?じゃあ大丈夫だよ」
「何を言うの、ダメよ! 絶対にダメ!」
「でもママ。ハリエットの奴、この前の動物園の事でずっと辛気臭いんだ。そんな事しなくなったら、もうそんな顔しなくなるだろ?」
至極真っ当な意見だったが、ペチュニアは涙目になってそれを否定した。
「違う、違うのよ。そんな事じゃないの。私はあそこを知らないけれど、そんな甘い所じゃない事はわかるのよ」
そう言いながら、ペチュニアは顔を地面につけるように蹲った。彼女のこうも弱々しい姿は今まで見た事がない。呆然とそれを見ているしかできないハリエットに、男性はついに舌を打って無理矢理にその手を取った。
「ペチュニア、何があっても無意味なものは無意味だ。この子はリリーが守った───リリーの愛の魔法がある。貴様の心配するような事は何もない」
何の話をしているのかわからなかったが、それを聞く前に視界がぎゅるりと歪んだ。目を見開く隙もない。空間がハリエットごと巻き込んで渦になる。ペチュニアがこちらを見て「ハリー!」と叫ぶ。
ペチュニアに愛称で呼ばれたのははじめてだと、ハリエットは少しだけ驚いた。
瞬きしたその刹那、ハリエットは知らない廃屋にいた。
ぽかんとするハリエットの手を引いて、男性はハリエットを部屋に案内する。廃屋の中でもその部屋は綺麗に掃除されていて、ベッドの上には明るい包みが数個並んでいた。
「あれは君へのプレゼントだ、ミス・ポッター」
「……ぷれぜんと」
はじめて聞いたような感覚がして、ハリエットは小さな声で繰り返した。そっと触れると、シンプルなカードがリボンの下に挟んであるのを見つける。後ろから「それは服だ。マダム・マクゴナガルから君への誕生日プレゼントと入学祝いを兼ねて」と言われてはっとした。
そうだ、今日は自分の十一歳の誕生日だった。
ハリエットに誕生日を祝う習慣はなかった。気の良いお兄ちゃんをしていたダドリーでさえ、ハリエットの誕生日を意識はしていないだろう。そもそもハリエットが生まれた日を覚えているかすら怪しいものだ。
「少ししたら下に降りてきたまえ。君の学用品を買いに行く」
お下がりではない、自分の為だけの学用品を。なんだかむず痒い気持ちになりながら、ハリエットはバースデーカードを引き抜く。自分宛のバースデーカードなんてはじめて見た。
「あ、の」
カードを持ったまま振り返る。動きを止めた彼に、ハリエットはおずおずと問いかけた。
「あ、貴方の……名前。なん、ですか?」
名前というものは、人と人が最低限に共有すべき情報だ。彼はハリエットの名前を知っているようだが、ハリエットは彼の名前を知らない。
先程は叔母達との猛烈な言い争いに口も挟めなかったし、呆然として途中に口を出す事もできなかった。
「……セブルス・スネイプだ。ホグワーツでは君に教鞭を執る立場なのだから、我輩の事はスネイプ先生と呼ぶように」
「はい。スネイプ、先生」
セブルス・スネイプ。何度もその名前を頭の中で復唱する。忘れないように、しっかり頭に刻み込む。
ハリエットは知らない。ずっとしかめっ面のスネイプが、自分のエメラルドの瞳を見つめる時、少しだけ優しげな顔をする事に。