何かがやってきた
あの人が私を愛してから、 自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう───ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
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「準備はできているんでしょうね」
ハリエットはゆっくりと顔を上げた。いつも以上に小綺麗にめかしこんだペチュニアが、厳しい目でハリエットを見つめ、次にハリエットの手元に視線を移す。
テーブルの上は綺麗にセッティングされていた。この日の為に磨き抜かれた銀食器に、厳選した食材をふんだんに使った豪華な食卓。ペチュニアが育てた中で一番綺麗だった花が花瓶に飾り立てられており、家中どこにも埃一つ落ちていない。
それら全てを一瞥して、ペチュニアはふんと鼻を鳴らした。
「もうすぐバーノンとダドちゃんが帰ってくるからね。それまでに全部整えて、お前も早く着替えるのよ」
今日はダーズリー家にとって───と言うより、家長のバーノン・ダーズリーにとって、非常に大切な日であった。
今夜、メイソンさんというお金持ちの土建屋が、奥さんを連れて商談をしにやってくる。バーノンはうまくいけば山のように注文が取れると踏んでおり、ここ二週間はその話ばかりしていた。
一家の大黒柱の一世一代に、ダーズリー家は総出でサポートに回った。それは居候のハリエットも例外ではなく、朝からキッチン周りで忙しないペチュニアを手伝って、窓を拭いたり、食器を磨いたり薔薇の枝を整えたり───とにかく大忙しだった。
最後の紙ナプキンを整えた後、ハリエットは部屋───ハリエットの部屋は今年から、階段下の物置部屋から二階の小部屋に移動した───に引っ込むと、ペチュニアの用意してくれた淡いラベンダー色のミディアムドレスに着替えた。去年のクリスマスにダーズリーから贈られた中にあったヘアピンと赤い花のブローチも一緒につける。傷はある程度隠れていれば良いとペチュニアは言っていたから、ヘアピンは前髪を整えるのに丁度良かった。
くるくると鳥籠の中でヘドウィグが鳴いている。覗いてみると餌箱が空になっていたので、ハリエットはハグリッドにもらっていたフクロウフーズを補充してやった。ついでに鳥籠の鍵も開けておけば、部屋の中は自由にできるから、静かにしてくれるだろう。
そうしてふわふわとしたヘドウィグの首周りを撫でてから下に降りると、いつの間にかバーノンとダドリーも帰ってきていた。わざわざ用意したオーダーメイドのディナージャケットは、親子揃って大きなお腹をしっかりと支えている。
父親に襟を整えられていたダドリーが、ハリエットを見つけて「あ」と呟いた。
「それ、俺のやったヘアピンだろ」
ダドリーが笑いながら言う。バーノンは姪をしばし睨めつけ、それからふんっと鼻を鳴らした。先程のペチュニアと似たような仕草だ。
「小娘、お前は今日何をすべきかわかっているな?」
改めて言われると、ずしりと肩の荷が重くなるような気がする。ハリエットは緊張した声と共に頷いた。
「お、お手伝いをしています。おばさんの……」
「その通りだ」
バーノンは重々しく頷いた。
「何があっても、余計なことをせず、余計なことも言うなよ。お前が何か言うのは、メイソンさんが何かお尋ねになった時か、わしらがお前に何か促す時だけだ」
ハリエットがもう一度頷くと、バーノンもまた頷き返し、そのままキッチンの方に向かっていった。ペチュニア叔母さんの最高の仕込み具合を確認しに行ったのだろう───残されたハリエットとダドリーが、無言でお互いに顔を見合わせる。
「……そのブローチも気に入ったのか?」
ハリエットの胸を指さしながらダドリーは言った。頷けば、ダドリーは何故だかにんまりと楽しげに笑って「それピアーズが選んだんだぞ」と話す。今日に始まったことではなくて、ここ最近ピアーズの話をする時はいつもそうだ。
「去年、お前に何かプレゼント贈るって言ったら、あいつも持ってきたんだ。今年も何か……」
そこで、ダドリーは急に「あっ」と跳ねるような声をこぼした。思わずきょとんとすると、早足になってどたどたと二階に上がり、部屋から何かを取ってきた。この短い距離で既に息を切らしている。
「は、はぁ……わ、忘れてた。あいつに殴られるとこだった」
ほら、とダドリーがハリエットの前に何かの紙を差し出す───バースデーカードだった。
ハリエットはエメラルドグリーンの瞳をこれでもかと大きく見開く。
「これが俺。こっちがピアーズ……あとマルコム、デニス、それからゴードン」
ハリエットはダドリーからバースデーカードを受け取ると、物珍しそうにそれを見つめた。ダドリー軍団とは縁がなさそうな可愛らしいデザインに、思わずどの雑貨屋で買ったのだろうかと思いを馳せてしまう。まさか全員で買いに行ったのだろうか───ダドリー軍団全員でこれを?
「良いだろ。わざわざ用意してやったんだぞ。去年まで何もなかったけど、今年からならやっても良いかもって思って……」
ダドリーは何やらもごもごと口ごもりながら、カードを見つめているハリエットを見た。
「……だから、えーと……気にすんなよ。手紙がないことくらい、変じゃないって」
あぁ、とハリエットはダドリーを見上げた───ダドリーは気にしてくれていたのだ。手紙もカードも何一つもらえない、可哀想な従姉妹のことを。
この夏休み、ハリエットのもとには手紙が一通も送られてこなかった。ロンもハーマイオニーも───ハーマイオニーはフクロウを持っていないから仕方ないのかもしれないけれど───パーバティやラベンダーも、ネビルもシェーマスもディーンも、ハグリッドからさえ何もなかった。
ハリエットの方から送れば良いだけかもしれないが、バーノンはそれだけは決して許そうとしなかった。そもそも、バーノンはヘドウィグを飼うことだって本当は反対なのだ。
普通の家庭にありふれた犬や猫ではないペットを───よりにもよってフクロウなんていう変わったペットを飼わなければならない事実に、バーノンはいつも憤慨していた。
もしもダドリーがヘドウィグに興味がなかったら、毎週一度、それも夜中にだけヘドウィグが家の外に放されることもなかっただろうし、今頃どこかに捨てられていたかもしれない。
「とりあえず、おめでとう」
ダドリーはそう言った。
ハリエットはカードを指先できつく握った。去年までのダドリーなら、こんなものは用意してはくれなかっただろう───せいぜい今みたいに、おめでとうという言葉をくれて、ダドリー軍団の遊びに付き合わせてくれるくらいだ。不思議な気持ちになりながら、ハリエットは口を開こうとした。
「ダドリー! 小娘! 二人共そろそろこっちに来い! まもなくメイソンさんがご到着だぞ!」
ダイニングの方から、バーノンの大声が飛んできた。二人は揃って階段下で慌てて、ハリエットは急いで部屋にカードを置きに向かう。すれ違いざまにダドリーがまた言った。
「だから、忘れられてても気にすんなよ! お前元々友達いないんだし!」
大変失礼なことである。
けれどそれがダドリーの精一杯の気遣いだということを、ハリエットは知っていた。
・
接待パーティーの出だしは好調だった。
ハリエットはペチュニアと一緒に応接間でメイソン夫妻を出迎えた。予定通り、ダドリーが夫妻のコートを預かって、メイソン夫人をエスコートしている。更に予定通り、バーノンが妻と姪を夫妻に紹介し、飲み物を勧める───この日の為だけにバーノンが用意したワインだ───ペチュニアがこれまた予定通りに夫妻を食事に招待すれば、夫妻は快くそれに応じた。
「どうですかな、メイソンさん。こちらは家内と姪が作ったのですが……」
おぉ、とメイソンさんが感心したような声を上げる。
「これは実に豪勢ですな。いやはや、奥様もですが姪御さんも頑張ったでしょう。息子さんも礼儀正しくて、まだ子供なのに大変立派だ───ところで、不躾とは思いますが何故、姪御さんを預かってらっしゃるので?」
「それは……実はこの子の両親は、交通事故で死んでしまったのです。ですから私共で引き取りまして……」
「あぁ、それは……失礼なことを聞いてしまった……」
メイソン氏が申し訳なさそうに言い、夫人も同情的な視線でハリエットを見つめる。ハリエットは困ったように苦笑した。
事こういった場面において、ダーズリー夫妻はいつもハリエットの存在をうまく使いこなした。
彼らは普通じゃないものが大嫌いで、何よりまともを愛する偏屈な所がある───が、常識がない訳ではない。むしろ、まともを愛するということは、何よりも普遍的な常識を愛しているということだ。
両親を亡くした悲劇の子供を、まだ幼い子供がいたのに引き取って育てた───その事実が、大半の常識と良識ある人々の目にどのように映るのか、バーノンとペチュニアはよく知っている。
現に、事情を知ったメイソン夫妻は同情的になって、ハリエットに親身に接した。口ごもるハリエットを見てペチュニアが姪は人見知りなのだと話すと、積極的に話しかけることはなくなったが、気にかけているのは変わらない。
礼儀正しく快活な実の息子と、人見知りだが気配り上手な美人のお嬢さん。年配の夫妻は、そんなダーズリー家の子供達をいたく気に入ったようだった。手応えを感じているのか、バーノンも鼻高々な様子だ。
接待パーティーはスタートから変わらず順調に進んだ。
最初はメイソン夫妻が子供達の話を聞きたがって、ハリエットとダドリーの話題ばかりだった。本当は話したくもない記憶ばかりだろうが、バーノンとペチュニアはこういう時の為のエピソードも用意していた。
「ハリエットは、小さい時からいつもダドリーにくっついていたんですのよ」
間違いではない。というか事実、今より小さい頃のハリエットはダドリーに引っ張られていつも一緒だった。当時のダドリーから見れば、当時のハリエットは相当弱々しく見えたのだろう。
話題は更に進んでいく。ダドリーとハリエットの学校のこと───ハリエットの時は遠くの寄宿学校に通っていることだけを話して、それが『ホグワーツ魔法魔術学校』だということだけをひたすらに隠していた。名前が聞かれそうになるたびに、バーノンが何度もわざとらしく咳払いをして、無理矢理次の話題に持っていく。授業態度などの当たり障りのない話なら、ホグワーツもマグルの学校も大差なく話すことができるからだ。
好きな授業が何かと聞かれた時は、歴史ですと答えた。実際に魔法史は歴史の一環なのだから何も間違いではない。メイソン夫妻も特に何も思わず、ふむふむと頷いていた。
「君は、学校が好きかね?」
メイソン氏がハリエットに問いかけた。ハリエットは頷こうとして───ガタガタと、二階から何かの音がした。
空気が静まった。全員が天井を見上げる間も、音は続いている。ハリエットは何故だか、体が冷たくなるのを感じた。
「えぇと」
メイソン夫人が困惑気味に目を丸くして口を開いた。
「今の音は、何かしら……?」
「ハハ───家鳴りでしょうかね!」
バーノンは言った───が、すぐに無理がきた。ガタガタという音は更に続き、ガシャン! と、何かが落ちる音が響いたからだ。
「家鳴りではないようですな」
メイソンさんが言った。バーノンの額にじっとりと汗が滲んでいる。ペチュニアの笑顔も強ばって硬直していた。
「ハハ───えぇと、これは───」
「ハリーのペットだと思います」
狼狽える両親を差し置いて、口を開いたのはダドリーだった。バーノンとペチュニアの目がぎょっと見開かれる。メイソン夫妻は目を丸くしてダドリーを見てからハリエットを見やり、そしてもう一度ダドリーを見た。
「ペット?」
「はい。ハリーはペットを飼ってるんです。ふく───」
「───この子の学校は変わったカリキュラムなんですの!」
咄嗟にペチュニアが、我が子の声に覆い被さるようにして口を開いた。相変わらず笑顔は強ばっているが、
「なんでも命の大切さを学ぶ為とかで、動物を飼うことになっているんだとかで───お邪魔でしたらと思ってこの子の部屋に居させておいたのですけれど、うるさくして申し訳ないですわ」
ほほ、とペチュニアが上品に笑う。夫妻は相変わらず困惑気味なままだったが、ひとまずは納得したようだ。弾かれたようにバーノンも大声を上げて笑った。
「ハハハ、全く妻の言う通り。お騒がせして申し訳ない───」
バーノンは笑いながら、ハリエットを見やる。笑顔のままだが、目は笑っていなかった。
「───ハリエット、ここはもう良いから、お前のペットを静かにさせてきなさい。お客様にご迷惑だぞ」
ハリエットは頷くとすぐに椅子から立ち上がった。メイソン夫妻に頭を下げると、小走りで駆け抜ける。気にしなくて良いとメイソン夫妻は笑ってくれたが、ハリエットは笑う気になんてなれなかった。
階段を上がっている時も、二階の音はうるさかった。時々、今までヘドウィグから聞いたことのないような甲高い声が聞こえてくる。迷惑をかけたことも不安だが、ヘドウィグのことも心配になってきた。
やはり、週に一度だけの飛行はストレスだったのだろうか。おじさんに頼んで、もう少しだけ増やしてもらえるだろうか───ハリエットはそう思いながら、ドアを開けた。
「ギャッ! ギッ、キャアッ───やめ、ヤメテくださ───アァーッ!」
しかし、ドアの向こうにいたのは、ヘドウィグだけではなかった───何かがハリエットの部屋で、ヘドウィグに襲いかかられていた。
秘密の部屋、はっじまっるよー!