ハリエットは呆然と部屋の惨状を見つめた。
見知らぬ───きっと何かの生き物であることは間違いない───何かはヘドウィグに追い立てられ、甲高い悲鳴を上げながら部屋の中をぐるぐると逃げ回っている。どうやら階段を上がる時に聞こえた聞き覚えのない声は、この生き物の声であったらしい。
「ヤッ! ヤメテェッ───ヒィッ、ギャッ───」
「っぁ、ヘ、ヘドウィグ……!」
はっと我に返ったハリエットが困惑気味にヘドウィグを呼ぶと、賢いフクロウは侵入者を追いかけるのをやめて主人の肩にとまった。
やっと追撃から逃れた生き物は、身を守るように頭を覆っていた手をゆっくりと降ろしてこちらを見る。そこでようやく、生き物の全体像を見ることができた。
コウモリのような長い耳、テニスボールくらいの大きさでギョロリと飛び出した緑色の目。鼻は細長く手足は枝のようにガリガリで、裂け目がある古い枕カバーのような布切れを着ている。
「アァ───」
生き物はハリエットと目が合うと、感慨深そうな声でハリエットに話しかけてきた。
「ハリエット・ポッター……何たる光栄でございましょう。ドビーめはずっと貴方様にお目にかかりたかった……」
「ど……あ、あなた、は……」
「ドビーめでございます。『屋敷しもべ妖精』のドビーです。どうか、ドビーと呼び捨てになってください」
ドビーはベッドからするりと滑り落ちて、鼻が床につきそうなくらい深くお辞儀をした。ハリエットが震えながら、ドビーの名乗った言葉を反芻する。
屋敷しもべ妖精───図書室で読んだ覚えがある。確か、独自の杖なし魔法を使いこなし、古い魔女や魔法使いの家に仕える魔法生物だ───それが何故、マグルであるダーズリー家にいるのだろうか。
「ドビーは、ハリエット・ポッターに申し上げたいことがあって参りました…………」
ドビーはハリエットを見上げながら熱っぽく言った。見つめられたハリエットは体を硬直させたまま、はく、と唇を震わせている。何かを言わなければいけないけれど、驚きと困惑で、一体何を言えば良いのかもわからない。
「な、なにが……」
絞り出したハリエットの言葉に、ドビーは困ったように目尻を下げる。
「複雑でございまして……ドビーめは一体何やら話して良いやら……あぁ、ハリエット・ポッター、ハリエット・ポッターは───ヒャアッ!」
うろうろとドビーが喋りながら傍に寄ってくると、ヘドウィグがハリエットの肩から翼を広げて威嚇する。びくりと驚いたドビーはまた先程のような悲鳴を上げると、突然テーブルの上に立ち、窓ガラスに激しく頭を打ちつけ始めた。
「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子───!」
「な───」
ハリエットはショックで大きく目を見開いた。数秒の間ただ呆然と見つめた後、慌ててはっとして遠慮がちにドビーの手を引いて窓から引き剥がす。ヘドウィグがばさばさと羽ばたきながら、ハリエットの肩を離れて鳥籠の中のヤドリギにとまった。
「だ……だい、じょうぶ?」
「ぁえ……?」
ドビーは目をくらくらさせながら、不思議そうにハリエットを見上げた。
「だい……じょうぶ? ドビーめに『大丈夫?』と聞いてくださった……?」
ドビーは信じられないと言わんばかりに声を震わせると、途端にわっと泣き出した。
「ドビーは───ドビーはこれまでたったの一度も、魔法使いにそんなお優しい言葉をかけられたことはございません───まるで対等みたいに───」
オンオンとドビーはしゃくりあげる。下の階まで響いているのを心配しているハリエットの姿なんてまるで見えていない。
あんまりにも泣き続けるものだから、ハリエットはなんだか可哀想な気分になってきて、おっかなびっくりというようにそっとドビーの肩を掴むと、無言でベッドの方に誘導して座るよう促した。ドビーはきょとんとしていたが、ベッドに腰を落とした時にハリエットの意図を察したようで、大きな目を尊敬で潤ませる。
「ドビーめは感激しております……ドビーめに大丈夫かと聞いて、ドビーめを座らせてくださった……あなた様が偉大な方だとは聞いておりましたが、こんなにもお優しい方だとは知りませんでした……」
「そ……そんなこと、ないよ……」
なんたかむず痒い感覚がして、たまらなくなり目を逸らす。けれどドビーは相変わらず目を輝かせて、ハリエットを見上げている。
「ハリエット・ポッターは謙虚で控えめな方です───『名前を呼んではいけないあの人』に勝ったこともおっしゃらない」
ハリエットはびくりとした。一年生の学期末に起きた出来事が、たちまち脳裏に蘇る。ドビーが更に言葉を続けた。
「ドビーめは聞きました。ハリエット・ポッターが闇の帝王と二度目の対決を、ほんの数週間前に───ハリエット・ポッターはまたしてもその手を逃れたと」
真実ではある。が、なんだか変に美化されているような気もする。対決と言っても一方的に呪文を浴びせられていただけであったし、命からがら生き延びたのは、ダンブルドア曰く母の愛の守りがあったが故。クィレルだって、結局はどこに逃げおおせたのか、ハリエットにはわからないままである。
困ったように首を傾げつつ、ひとまず頷いてみせる───首を傾げた姿なんて見えなかったみたいに、ドビーは目に浮かぶ涙を枕カバーの切れ端で拭った。
「ハリエット・ポッターは勇猛果敢! もう何度も危機を乗り越えられていらっしゃった!」
キン、と甲高い声でドビーは叫び、そしてまた悲しそうに眉を下げた。
「けれど、ドビーはハリエット・ポッターをお護りする為に参りました───本当はドビーはこんなことをしてはいけないのです。お目にかかりに参りましたことで、ドビーは自分をお仕置きしないといけないのです。オーブンの蓋で両耳をバッチンしないといけないのです。ご主人様にバレたら、もう……」
ドビーはまたぴたりと止まった。かと思えば座っていたベッドを立ち上がって、ハリエットが止めるよりも先に、部屋の壁に頭を打ちつけ始める。
またハリエットが引き剥がした時にはくらくらになって、ドビーは目を回しながらこう言った。
「あぁ───ハリエット・ポッター……あなたは───あなた様は、ホグワーツに戻ってはなりません」
しんとした静寂。
一瞬、ハリエットはドビーの言った意味が意味が理解できなかった。ダイニングの小さな音が聞こえるくらいに静まり返った部屋で二人───一人と一匹? あるいは一頭? ともかく───少女と屋敷しもべ妖精が、ぽつんとお互いを見つめ返しあっている。どちらも何も言わず、じっと。
「……ど、どうして……」
無言がいたたまれなかったのか、意を決したのか、ハリエットが問いかけると、ドビーはわなわなと身を震わせながら、囁くように口を開いた。
「罠です、ハリエット・ポッター。今学期、ホグワーツ魔法魔術学校に世にも恐ろしい罠が仕掛けられたのでございます。あぁ、ドビーめはそのことを何ヶ月も前から知っておりました……」
「恐ろしいこと?」
ドビーは頷いた。
「だ、誰が……待って!」
またテーブルに頭を打ちつけようとしたドビーをすんでの所で引き止める。どうやらドビーは言えないことを聞かれるたびに、言えない自分を罰しているようであった。
「わ、わかったから……も、もう、それは聞かないから……」
改めてドビーをベッドに座らせようとしながらハリエットはそう言った。ぱぁとドビーの瞳が明るくなる。
「で、でも……」
ハリエットがそう続けると、ドビーの明るくなった瞳がまた切なく萎んだ。
「で、でも、学校は行かなきゃ……く、九月から新学期だから……」
「いえ、いえ、いえ」
犬のように耳をパタパタとさせながら、ドビーはキーキー甲高く声を立てる。
「ハリエット・ポッターは安全な場所にいないといけません。ハリエット・ポッターは偉大な人、お優しい人。失う訳には参りません。今ハリエット・ポッターがホグワーツに戻れば、死ぬほど危険でございます」
そう言われても、死ぬほど危険な目になら昨年とっくに合っている。仮に闇の帝王に命を狙われる以上の危険があったとして、それを学校に行かない理由にはできない。
それでも、とハリエットが困ったように小さく言葉を続けようとすると、ドビーはぴしゃりとそれを遮って、座っていたベッドの上に立ち上がった。
「いけません! ハリエット・ポッターは、絶対にホグワーツに戻ってはならないのです! ハリエット・ポッターは決して危険な目には───」
ドビーは最後まで言い切ることができなかった。
部屋のドアがノックもなしに開かれる。二つの視線がドアの方に集中して、ずんぐりむっくりな金髪の少年がそこにいた。
ダドリーはドアノブを握ったまま瞠目して、従姉妹の部屋の中を見つめていた。いつもと変わらず眉の下がった従姉妹の姿と、それに向かい合う形で醜い人形のような“何か”がベッドに座っている。
次の瞬間、ダドリーはハリエットの傍に走り寄ると、その後ろにあった木製の椅子を両手で掴み、そのままハリエットが止める隙もなくベッド目掛けて振り下ろし───というよりは、最早、勢い任せにして投げ飛ばした。すんでのところで避けられたドビーが、また甲高い悲鳴を上げる。
「ヒィィィ───ッ!」
「パパ! 変なのがいる! 変なのがハリーの部屋に忍び込んでる!」
ダドリーはダイニングにいる父親に向かって叫びながら、もう一度椅子を掴んで今度こそしっかりと振り下ろした。ドビーはまた避けながらぱっと部屋を飛び出して、ダドリーが怒鳴りながらそれを追いかける。ハリエットも少し呆然としてから後に続いた。
ドビーが階段を駆け下りるのが見えて、ハリエットは待ってと言おうとしたけれど、無理だった。ダイニングに辿り着くまでの廊下に降りたところで、ドビーがぴたりと止まる。息子の大声に駆けつけて廊下に出ていたバーノンは、ドビーと目が合うなり鬼のように血相を変えて、傍の壁に立てかけていたゴルフクラブを握り締めた。
「この───化け物め───!」
威嚇のような唸り声と共にシルバーのゴルフクラブが振り下ろされる。縦に一回、次に横向きにフルスイング───ドビーはその二回とも、震えっぱなしのまま器用に避けた。
「ヒィッ───ドビーめは怪物ではございません、ドビーめはただ───」
「パパ、早くそいつやっつけて!」
ドビーの情けない悲鳴と、奮闘する父へのダドリーのエールが響く。
バーノンは完全に頭に血がのぼっていた。背後でダイニングから顔を覗かせたメイソン夫妻が呆然としているようだったが、それにも気付いていないようだった。
やがて、ドビーは逃げているうちに、避けようのない壁際に追い詰められていった。バーノンは確実に仕留めようと、拳に力いっぱいの握力を込めて、真上に勢いよくゴルフクラブを振り上げた───それがいけなかった。
バーノンを見上げながら、ドビーはパチンと指を鳴らした。ドチャッとどこか鈍いいやな音が立ち、さっきまでバーノンが持っていたゴルフクラブがいとも簡単に消え去って、その代わりにバーノンは、頭から足の先まで甘い香りのデザートに塗れていた。
皆がショックで硬直していた。寸前まで怒り狂っていたバーノンも、突然のことにパニックになって血の気が引いているようだった。
「こいつ、よくもパパに───!」
ダドリーは父の代わりにわなわなと顔を赤くさせながら、ドビー目掛けてきつく作った握り拳を叩き込もうとした。止めようとハリエットが伸ばした手が届くより先に、ドビーがまたパチンと指を鳴らす。ダドリーの体は風の筒に押し出されるように後ろ向きに吹っ飛んで、玄関先のシューズラックにぶつかった。
さぁっと血の気が引く感覚がする。ダイニングの方からペチュニアの悲鳴が聞こえた。
「───ダドリー!」
ハリエットの絶叫に、ドビーはびくりと目を見開くと、ハリエットを見つめ、それから自分の尖った耳をきつく引っ張り出した。息子を傷付けられて怒り狂ったバーノンに首根っこを引っ掴まれて、ぷらんと宙に持ち上げられても、ドビーは自分の耳を引っ張ったまま、狂ったように壁に頭をぶつけ始めた。
「ドビーは、悪い子! ドビーは悪い子! あぁっ、ドビーは悪い子───!」
「やめて!」
ハリエットがまた叫ぶ。さっきの絶叫より少し小さいけれど、ハリエットからすれば充分なくらい大声だった。けれどドビーは叫ぶのも、自分を傷付けるのも止めなかった。咄嗟にバーノンが動きを抑えようとしても変わらず、暴れ続けている。
「おねがい、や、やめて───!」
ハリエットがまた叫んでも、ドビーはやっぱり止まらなかった。
「やめてってば!」
やがて、壁に血が染みて床に赤い雫が落ち出して、阿鼻叫喚の惨状をずっと見ていたペチュニアが走り出した。リビングの鍵がかかった収納ダンスを急いで開け、更に中から錠付きのジュエリーボックスのようなものを取り出す。
ガチャリと錠を開いて中にあった物を手に取ると、ペチュニアは腹の底から大きく叫んだ。
「───
突如、バチッと弾けるような音が聞こえて。
数度の瞬きの後、ハリエットの目の前には真っ黒なローブが揺らめいていた。
「ドビーはむやみやたらにマグルに魔法を使わないだろ!」という作者の気持ちと
「ドビーがマグルと魔法族の違いを完璧にわかってるわけないだろ!」という作者の気持ちと
「でもとりあえず殴られそうになったら抵抗する為に魔法くらいは使いそうやろ、マグル相手だし」という作者の気持ちと
「でも自由になったからようやくルシウスに歯向かったのにまだ洋服じゃないドビーがそんなことするか……」という作者の気持ち。
もうね、ぜーんぶ、ぐちゃぐちゃ。
手紙をドビーが止めていたという真実もハリエットは知らないし、大変そうですね。自力で未来の自分の首を絞めていくのどうにかしたい、ハハッ。笑い事では無い。