一瞬、何が起こったのかよくわらなかったけれど、ディナーが散々な結果に終わったことだけは確かだと思った。
黒いローブが揺らめいて刹那も満たないうちに、ドビーの姿はバーノンの手の中から消えていた。残ったのはぐちゃぐちゃになった廊下と、ホイップクリーム塗れになった叔父さん、そしてその他の呆然とするメイソン夫妻やハリエット達だけ。
ハリエットが固まっていると、黒いローブが目の前で翻った。顔を上げると、ペチュニアが名前を叫んだ人物が、酷く険しい目つきをしてハリエットを見下ろしていた。
「……自分の部屋に戻っていたまえ、ミス・ポッター」
スネイプは、ホグワーツで幾度となく聞いたあの締めつけてくるような声で、ハリエットにそう告げた。まるで、ここが魔法薬学の教室で、ちょうどこれから授業を受けるかのような、そんな奇妙な錯覚がした。
「聞こえないのかね? 吾輩は君に、従兄弟を連れてさっさと自室に戻れと言っているのだ───さっさと行け!」
ハリエットは弾かれるように動いた。まだ尻餅をついていたダドリーの腕を引っ張って、降りてきたばかりの階段を駆け登っていく。睨めつけるような視線が背中を刺した。
二階に上がってすぐ、ペチュニアがスネイプの名を叫びながら怒鳴る声が聞こえてきた。メイソン夫妻の困惑した声も混じっている。ハリエットとダドリーは自室の前で立ち止まり、お互いにじっと顔を見合せ、それから示し合わせたように、それぞれ自分の部屋に飛び込んでいった。
ハリエットはミディアムドレスのままベッドに倒れ込み、ダドリーとドビーが暴れた痕跡にも手をつけず、毛布を頭から被った。多分ダドリーも同じようにしていることだろう。
そのままハリエットは意識を手放して、翌日の朝になるまでぐっすりと眠っていた。シャワーも浴びずにそのまま寝てしまったせいで、せっかくのドレスが皺だらけだ。きっとペチュニアに叱られてしまうに違いない。
眠たげに目を擦りながら、ため息と共にパジャマにしてしまったドレスを着替える。昨日のこともあって、階下に行くのは少し億劫な気分だった。
それでも皺だらけのドレスを抱えて下に降りると、やけに静かなことに気が付いた。毎朝バーノンがかかさず観ているニュース番組や、朝の水遣りにペチュニアが口ずさむ鼻歌が少しも聞こえない。昨日の大騒ぎで、そんな気力も奪われたのかもしれない。そもそもスネイプは昨日、どれくらいここにいたのだろうか。
色んなことを頭の中で思い浮かべながら、リビングに繋がるドアを開ける。スネイプはまだそこにいた。いつも通り神経質そうなしかめっ面をしてソファに腰掛け、手には来客用のティーカップ。そんなスネイプと向かい合うような形になって、バーノンがロッキングチェアに腰掛けており、ペチュニアは特に料理などをする訳でもなく、一人静かにキッチンの方で突っ立っている。
スネイプはハリエットを視界に捉えると、ティーカップを置いて静かに立ち上がり、つかつかとハリエットの目の前まで歩み寄ってきた。ハリエットは思わず後退ってしまい、朝の挨拶を、と思考してもうまく言葉が出てこない。
「あ、の……」
「今すぐ荷造りをしたまえ」
スネイプはハリエットの言葉を待たなかった。声も出ないまま驚いて目を見張るハリエットを見据えながら、スネイプは更に続ける。
「ホグワーツに向かう時と同じ用意を。杖、ローブ……君の場合は箒にフクロウも忘れぬように。取りには戻らんからな」
「あ、あの……」
「二度は言わん───急げ」
スネイプの声は低かった。ちらりとペチュニアに視線をやるも、彼女は目を合わせてくれない。困ってバーノンの方を向けば、しかめっ面の叔父は姪を見ながら無言で頷く。理由は誰も語ってくれないが、どうやらどこかに行くことは決まったことのようだった。
だからハリエットも大人達に逆らうことなく、黙ってリビングを後にした。
足早に階段を上がると、必要な物を片っ端からトランクに詰め込んでいく。皺くちゃのドレスは少し迷ってから、ベッドの上に畳んで置いておいた。箒は叔父さんがハリエットの“元”部屋である物置に放り込んでいる。なので全ての荷物を詰め終えた後、持って降りるのはトランクと鳥籠だけだった。
階段の下では、スネイプがハリエットのニンバス2000を抱えて待ち構えていた。どうやらハリエットの代わりに、バーノンから受け取ってくれていたようである。
「準備はできたかね」
頷く。スネイプは、ニンバスを抱える方とは逆の腕でハリエットのトランクをひったくると、彼女の前に自身の腕を片方差し出した。
「あの時のように、吾輩に掴まりたまえ」
言われるがまま手を出そうとして、直前にリビングの方を向く。やはりしかめっ面のままのバーノンが、何を思っているのかよくわからない表情で自分とスネイプを見つめている。
ハリエットは叔父にぺこりと頭を下げてから、今度こそスネイプの腕に捕まった。離さぬようにという小さな警告と共に、ハリエットの視界がぎゅるりと歪む。スネイプに初めて会った日と、全く同じ感覚だった。
渦巻く捻れた感覚の後、ハリエットとスネイプが立っていたのは、あの日の廃屋ではなかった。
てっきりあそこに行くものだとばかり思っていたハリエットは目を丸くしたが、スネイプはやはり何も言わず、黙って足を踏み出した。遅れてハリエットも後を追い縋る。鳥籠の中でヘドウィグが億劫そうに鳴いているのが罪悪感を誘うが、もう少しだけ我慢してもらうしかない。
周囲は広々とすると同時に鬱蒼として、プライマリースクールの頃に授業で視聴した映画の片田舎を彷彿とさせた。
「あ……あの、先生」
歩きながら、ハリエットはスネイプに語りかけた。何も言わなかったが、無視をされている訳ではないと感じたので更に続けた。
「あ、あの……わ、私、い、今から、ホグワーツに、行くん、ですか?」
「いいや、違う」
スネイプは囁いた。
「ここはオッタリー・セント・キャッチポールという村の外れ辺りだ。しばらく君が世話になる予定の家がそこにある」
「え……で、でも、あの」
世話になる、なんて、そんなこと初めて聞いた。もっと詳しく聞かせて欲しいのに、スネイプがずんずんと進んでいくものだから、ハリエットは追いつくのに必死だ。
「ダーズリー家に忍び込んだ屋敷しもべ妖精の詳細についてわからぬ間、君には違う場所に移動していただく……君の叔母夫婦のご意向だ。後ほど、君にも昨日のことについて詳しく聞かせていただこう」
叔母夫婦の意向。それを聞くと、ハリエットは下を向いて黙り込んだ。ドビーの目的はハリエットに話をすることで、そのせいで叔父さんがあんなに準備していた商談を台無しにしてしまった。ペチュニア叔母さんはずっと顔色が悪かったし、ダドリーだって一歩間違ったら怪我をしていたかもしれない。
普通じゃない力で迷惑をかけることが嫌だったからホグワーツに通ったのに、そのホグワーツに通っていることが原因で、こんなにも大きな迷惑をかけてしまった。本当はこっぴどくお仕置きを受けても仕方ないのに、追い出されるだけで済んでいるのは優しすぎるくらいだ。それも詳細がわからぬ間、という期限付きで、暗に詳細がわかったら戻ることを許してくれている。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
これからしばらくお世話になるという家がどんなところかはわからないけれど、できるだけ迷惑をかけないように気を付けなくてはならない。うまくできるだろうか、普通じゃないと言われないだろうか、そんな風な不安が次から次へと脳裏を過ぎっていく。
そうこう考えているうちに、頭上からスネイプの声が降ってきた。
「ついたぞ」
はっとして顔を上げると、ハリエットは一瞬だけさっきまでの不安をなくして、まん丸に目を見開いた。
今まで目にした建物の中で、ダントツに奇妙だとハリエットは思った。ホグワーツの夜空の天井や動く階段より、ずっとずっと変わっていて、まるで御伽噺そのままのようだった。
一番下に石造りの小屋があって、そこから子供が作った積み木の玩具みたいにどんどん部屋が乗っかって───と言うよりも、くっついているような感じだ。建物自体が木の枝みたいにくねくねと曲がっていて、赤い屋根に乗っかった数本の煙突から、もくとくと煙が出ている。
そんなとてつもなく奇妙で不思議な家に目を奪われていると、庭の向こうから誰かがこちらに走ってくるのが、視界の端に見えた。小柄で丸っこい赤毛の女性で、花柄のエプロンのポケットに杖が刺さっている。何か土仕事でもしていたのか、エプロンの裾が少しだけ茶色く汚れていた。
女性はセブルスとハリエットの前までやってくると、優しそうな笑顔を浮かべた。
「セブルス、いらっしゃい。いつも息子達がお世話になっていて……」
「それは構わない。先に連絡があった通りだ、こちらが……」
「えぇ、えぇ。ハリエットもいらっしゃい」
ハリエットが急いで頭を下げると、女性は良いのよ、と朗らかに笑う。その声がどこか聞き覚えのあるような気がしたけれど、よくわからなくて、ハリエットは失礼にならない程度にじっと女性を見つめた。女性がまた目を細めて笑う。
「無理もないわ、一度しか会ってないもの。私は……」
「───ハリー!!」
またどこからか名を呼ばれて、咄嗟にハリエットはきょろきょりと周囲を見渡した。今度は誰の声なのかきちんとわかったのに、肝心の居場所がわからない。
すると、真後ろ───斜め頭上の背後から、どしんとハリエットの肩に重い体重がかかった。重みに耐えきれずハリエットは前に倒れそうになって、どん、とスネイプの体にぶつかる形で支えられる。ヘドウィグが鳥籠の中で抗議の意を示すように鳴いた。
ハリエットが後ろを見ると、毎日隣にいたあの特徴的な赤毛が目の前にいた。
「───ロン?」
「ハリー、やっぱりハリーだ! 何でここにいるんだい!?」
よほど嬉しいのか、ロン・ウィーズリーはぎゅうぎゅうとハリエットを抱き締めて飛び跳ねた。足元には、使い古したぼろぼろの箒が転がっている。
「どうして返事をくれなかったのさ? 一ダースくらい手紙を出したんだよ。兄貴達も出してみたって言ってたのに、何にも音沙汰がなくて心配してたんだから───まぁでもジョージとフレッドのは届かなくて良かったかも。どうせ悪戯グッズが入ってたと思うし……」
「───オホン」
ロンの言葉を遮るように、赤毛の女性───ウィーズリー夫人が、少し大きな咳払いをしてみせる。ロンはぴたりと口を閉ざすと、力いっぱい抱き締めていたハリエットから離れて、傍にいる二人の大人の顔を見上げた。まるで酸っぱいものでも食べたみたいに渋い顔だ。
ホグワーツにいた頃でさえハグなんてしなかったのに、人前で───それも母親と、おまけにあの憎き天敵であるスネイプ教授の前でやってしまった不覚に、ようやく気が付いたようである。
「こら、ロンってば先生に挨拶なさい」
「……コンニチハスネイプ先生」
母親に窘められて、ロンはぶっきらぼうに挨拶した。スネイプは特に感慨深い様子も見せず、ロンのことを冷ややかに睥睨していた。
「これはこれはミスター・ウィーズリー、実にお元気そうで……その様子なら、吾輩の出した宿題はとっくに終わらせたのでしょうな」
「アー……ハハハ」
しっかりとした返答はせず、適当に笑うだけ。スネイプの方も本気で真面目な返事は期待していなかっただろう、ロンの態度にはっと鼻を鳴らして嗤った。ウィーズリー夫人が手を叩きながら、二人の間に割って入る。
「ハイハイ、そこまでよ。ロン、ハリエットに家の中を案内してあげてちょうだい。ママは先生とまだお話があるから」
「うん。ハリー、早くおいでよ」
ロンは箒を拾うと、ハリエットのトランクケースをスネイプの手からひったくるように奪い取り、足早に歩いてハリエットを急かす。ハリエットはスネイプとウィーズリー夫人に頭を下げてから、その後を追った。家の入口近くに看板が立てかけられていて、『隠れ穴』と書いてある。庭では丸々太った鶏が、呑気に餌を啄んでいて、ぼうっと見つめていると鳥籠の中でヘドウィグが鳴き出した。
「ね、ねぇ、ロン……ヘ、ヘドウィグのこと、外にだ、出しても、良い?」
「勿論良いよ」
ロンが即答してくれたので、その場で鳥籠の鍵を開けてやる。ヘドウィグは意気揚々と飛び出して、大空に舞い上がった。奇妙なウィーズリー邸の傍を飛び回るシロフクロウの姿は、何だかとても絵になるような気がする。
外から見たウィーズリー邸の階下は石造りの小屋みたいだったけれど、室内を見てみるとログホームのようだった。あちこちに家具や物があって、真ん中にしっかり洗い込まれた木製のテーブルと椅子が置かれている。ソファではまるで透明人間がそこにいるみたいに、棒針がカチャカチャと独りでに何かを編んでいるところだった。
「ここがリビングで、僕や兄貴達の部屋は上だよ」
ロンは箒を適当な壁に立てかけて、でこぼこでジグザグの階段を上がった。狭い廊下を通っていくつかの踊り場と部屋を過ぎていく。ようやくペンキが禿げかけた部屋の前に辿り着き、掛けられた小さな看板には『ロナルドの部屋』と書かれてあった。
「入る時は気を付けて。頭ぶつけるよ」
そう言ってロンが扉を開ける。ロンの言う通り、切妻の斜め天井に頭がぶつかりそうになった。少ししゃがみながら中に入ると、ロンの部屋は見渡す限り、どこまでも燃える夕焼けのようなオレンジ色だった。壁、天井、ベッドカバーに至るまで同じだ。壁は少し色褪せているところもあったけれど、それすら多い尽くさんと言うばかりにびっしりとポスターが貼っていた。どれにも鮮やかなオレンジ色のユニフォームを着た七人の魔法使い達が映っており、あるポスターでは整列して手を振っていたり、また違うものでは笑顔で箒に跨っていたりしていた。
「チャドリー・キャノンズ?」
ハリエットがそう尋ねると、ロンは少しだけ意外そうに、けれどどこか嬉しそうに頷いた。
「そうだよ、僕の一番好きなチーム。知ってたの?」
「ウッドが、教えてくれたの……ホグワーツで、い、色んなチームの、雑誌、み、見せてくれたから……」
そう言うと、ロンは納得したように頷いて、それからほんのちょっとだけ眉をひそめた。
「オリバー・ウッドが君を二代目クレイジークィディッチに任命しようとしてるって噂、本当だったんだね……」
それは流石にデマだとハリエットは思った。
調べたところイギリスの夏休みは宿題がないらしいですが、アズカバンでは夏休み中のハリーが宿題やってる描写があったのでホグワーツにはまぁあるんやろと思うことにしました。