九月一日の朝、ウィーズリー家は大騒ぎだった。
皆きちんと早起きはできたのに、何故だかドタバタ上へ下へと忙しない。半分パジャマでトーストをかじったまま行ったり来たり。前日の夜に準備を済ませておいた筈のハリエットでさえ不安になって、せっかく詰めたトランクの中身をひっくり返して確認していた。
そんなこんなで用意できた荷物から、アーサーがフォード・アングリア───マグルの車だ、これがアーサーの愛車らしい───に詰め込んでいく。六人分の荷物に三人分のペットがぽんぽん詰め込まれていく姿にハリエットは驚いたが、アーサーがにっこり笑いながら、魔法で拡張されたトランクの中を見せてくれた。魔法をかけていることは、モリーには内緒にしているようだ。
やっとの思いで全て詰め込んで、いざ車を走らせても、やっぱり問題は続いた。
最初にジョージがフィリバスター花火の箱を取りに戻って、次にフレッドが箒がないことに気が付いて、だいぶ家を離れかけた頃にジニーが日記を忘れたと絶叫した。おかげでフォード・アングリアは出ては戻ってを繰り返し、時計の針は刻一刻と進んでいるのにちっとも進めていない。
「……なぁ、モリー……」
「駄目よアーサー。昼日中は駄目」
そんな会話が聞こえたりもしたけれど、何の話かハリエットにはわからなかった。
ようやくキングス・クロス駅についた時には、もう時間はギリギリだった。汽車が十一時発なのに対して、今はちょうど十五分前。うかうかしている暇もない。
アーサーが道路の向こうにあるカートを数台持ってくる間に、子供達が自分でトランクから荷物を引っ張り出して、カートに載せていく。もう取りに戻れないぞとアーサーが脅し文句を叫びながら、皆大急ぎで構内に入った。
流石はロンドンで最も大きな駅であるキングス・クロス、利用者の数も相当である。大きなカートを押した団体のウィーズリー家は人混みの中だと動きづらく、やっとお目当ての九番線と十番線のホームに辿り着いた時にはもう一刻の猶予もなかった。
「あぁ、まずい、本当にまずいな……パーシー、フレッド、ジョージ、先に行け」
アーサーが心配そうに大時計を見上げながらそう言うと、まずパーシーがきびきび前進して壁の中に消えていった。フレッドとジョージもその後をすぐ続き、アーサー、ジニーにモリーと飛び込んでいく。
「じゃあ、お先。君も早く来なよ」
頷く。そうして、ロンも壁の向こう側に消えていき、これで残るはハリエットだけになった。ヘドウィグの籠を載せたカートを両手でぎゅっと握り締め、前進する。去年と同じように、九番線と四番線の間に向かって駆け出して───。
がっしゃーん、と、駅のホームにひび割れるくらい大きな音が響いた。カートがもんどり打って転がり落ち、勢いだけ残った車輪がガラガラ鳴っている。籠の中のヘドウィグがばさばさと跳ねていた。
突然のことに、周囲の視線が一気に倒れたハリエットに集中する。すると、人だかりの向こうの方から駅員がやってきて、散乱した様子を見て大きく目を見開いた。
「君、一体何をやってるんだね? こいつは───」
「ご、ごめんなさ、い……」
ハリエットはぶつけたところを抑えて立ち上がり、籠の中で大騒ぎするヘドウィグを拾いながら答えた。
「カートが、い、言うこと聞かなくて……す、すみ、ません……」
駅員は怪訝な表情のままだが、言い分に納得はしたらしい。転がったカートを立て直してやりながら、気を付けたまえよ、と忠告を残してそのまま仕事に戻っていった。
ヘドウィグの籠をカートの上に戻して、そっと壁に手を添わせてみる。やはり、壁は何の変哲もない、ただの冷たい石の壁だった。ぺちぺちと軽く叩いてみても同じだ。
訳のわからない混乱で、ハリエットの頭はいっぱいになった。ウィーズリー家の人々はハリエットの目の前で通っていったし、去年はハリエットだってきちんと通ることができたのに。もしかすると、あまりに時間がギリギリすぎたせいで、入口が閉ざされてしまったのだろうか。
頭上の大時計を見上げる。途端にハリエットの表情は暗くなった。きっかり十一時を指している時計の針が、汽車に乗り遅れたことを示している。今から壁を通り抜けたところで、意味がないことはわかりきっていた。
大時計から視線を落とすと、まだハリエットをちらちら見ている人が何人かいた。ヘドウィグがずっと不機嫌そうに鳴いているからだろう。ハリエットは俯きながらカートを押して、キングス・クロス駅のホームを出た。
脇道にとめられたフォード・アングリアの傍までやってくると、周囲に人の気配はない。カートが滑らないよう気を付けながら、石垣の低い段差に座り込む。
どうして向こう側に行けなかったのかはわからないけれど、ここにいればウィーズリー夫妻がいつか帰ってくる筈だ。そう思いながら、ハリエットは膝を抱え、自身の手首や手の甲を落ち着きなく撫でた。
……けれど、いくら待ってもウィーズリー夫妻は車に戻ってこなかった。気になってカートを置いて駅の大時計を見に行くと、汽車が出発してから二十分は経っているようだった。
もしかしたらウィーズリー夫妻は、帰りは車ではなく、九と四分の三番線から直接『隠れ穴』に戻るつもりなのかもしれない。車に関しては魔法使いなのだから、自力で戻れるようにしたり、あるいはマグルに見えないようにしたり、色々工夫もできるだろう。だとすると、ハリエットにできることがもう何もなくなってしまった。
ハリエットはすごすご車とカートの傍に戻ってきた。また石垣の上に座り込もうとすると、ズボンのベルトに突き刺していたヒイラギの杖が、ハリエットの腰と冷たい石の間に引っかかって、みし、と小さく嫌な音を立てる。慌てて杖を引き抜いて見てみると、特に傷も見当たらないようで、ほっと息を吐いた。
指先で杖をそっと撫でながら、ぶらりと伸ばした腕を膝に寝そべらせる。もう一本のサクラの杖はトランクの中にしまわれていて、ヒイラギに比べるとあまり握ることもない。たまに取り出して手入れはしているけれど、授業の時さえ振るうことは少なかった。
杖を手まさぐる最中、杖先が誰もいない道路に向いて、ハリエットはそのまま動きを止めた。特に意味はなく、ただぼんやりしながらそうしただけだった。
その時だった───突然、耳をつんざくような大きな音が轟いて、強い風がハリエットを覆った。
思わず目を瞑り、ぎゅっと身が縮こまる。風が弱まった頃に恐る恐る目を開けると、何もなかった筈の道路の真ん中に、大きなバスが停まっていた───三階建てで、紫色の派手なバスだ。
ぷしゅー、と、バスの扉が開く。すると、バスと同じ紫色の制服をまとった車掌が、手すりを掴みながら気怠そうに姿を現した。大きな耳とにきび顔が特徴的な彼は、地面に座り込んでいるハリエットを見て、怪訝そうにしかめっ面を浮かべた。
「……なァにすっ転がってんだ?」
ハリエットは慌てて立ち上がった。声まで気怠げな彼はハリエットよりずっと背は高かったけれど、年はそこまで離れすぎているようには見えない。せいぜいウッドやパーシーの同年代か、彼らよりも少し上と言ったところだろうか。
そんな年若い車掌は、立ち上がったハリエットをしかめっ面のまま見下ろし、更にハリエットの傍に佇むカートを───ひいては、カートの上に乗ったトランクやヘドウィグを見て、更に眉間に皺を寄せた。
「おめぇさん、いくつだ?」
ハリエットは困惑しながらも、おずおずと質問に答えた。
「十二……」
「てぇことは、ホグワーツか?」
頷くと、車掌が首を傾げながら鼻で笑う。
「じゃあなんでそんなとこいやがるんだ? キングス・クロスは目の前だってのに」
ハリエットは思わず両の手のひらをきつく握った。別に責められている訳ではない筈なのに、なんだか心臓がぎゅっと縮まるようだった。
「マ、別にどうでも良いけどよ。おめぇさん、駄賃はちゃんとあんのかい」
突然そう言われて、 ポケットの中から財布の革袋を取り出す。じゃら、と少女の手のひらでコインの重い音が響き、車掌は満足気に頷いた。
「んじゃ、さっさと乗れよ」
体を端に寄せ、顎でバスの中を示される。今度はハリエットが困った表情で車掌を見る番だった。立ち尽くすままのハリエットに、車掌がまた訝しげな顔をする。
「なんでぇ、乗らねぇのか? ん?」
ハリエットは一瞬躊躇ったけれど、何も言わず、黙って彼の言う通りにすることにした。
カートの上から荷物を引っ張り出す。トランクは車掌が運んでくれるというので、ハリエットはヘドウィグの籠だけを持ってバスに乗り込んだ。
バスと言っても、中はハリエットが知る普通の───もとい、マグルのそれとは随分違う。座席がなく、代わりに、窓際のカーテンで軽く仕切られただけの寝台が六つほど並んでいる。奥の方のベッドで年老いた魔法使いが一人、ベッドに横たわって寝こけているのが見えた。
「おめぇさんはここだ」
ハリエットに用意されたスペースは、運転席の真後ろにあるベッドだった。ベッドの下にトランクが押し込まれ、ハリエットも腰を下ろす。横にヘドウィグの籠を置いて、ふと目の前の運転席の方を見つめた。白髪だらけの年配の魔法使いだった。
「こいつぁ運転手のアーニー・プラングだ。アーン、こっちは───ァー……」
苦い顔をしながら、車掌がハリエットの方を向いた。
「おめぇさん、名めぇはなんつった?」
「ハリ───」
はっと、ハリエットは口を噤んだ。自分の名前が自分が思う以上に有名であることは、もう嫌になるくらいわかっている。一年生の新学期に浴びたたくさんの好奇の目に、大袈裟なくらいにハリエットを褒め称えたあの奇妙な屋敷しもべ妖精。フローリシュ・アンド・ブロッツ書店での不本意な撮影会も記憶に新しく、思い出すだけで重苦しい気分で押し潰されそうになる。
ハリエットは目立つのは得意な方ではないし、持て囃されることもあまり好まない。それなのにこの名前は、ハリエットが得意ではないその両方を課してくる。
「
「ハ……、ぁ、の……」
とにかく何か、何か言わなければいけない。うまく言葉にできないながら、ハリエットはなんとか真っ先に思い浮かんだ名前を口走った。
「ダ、ダーズリー……ハリー、ダーズリー」
ふぅん、と目の前の年若い青年の車掌が頷き、帽子のつばをつまみながら呟いた。
「俺はスタン。スタン・シャンパイク───本日、『
きょとん、とハリエットは瞠目した。一瞬、どうしてそんなことを聞かれたのか、よくわからなかった。しかし、スタンの短い言葉からでも、ピンとくることはある。
───このバスには、決まった目的地がないんだ。
ハリエットの頭に思い浮かんだのはそんな結論だ。バス停にいた訳でもないハリエットを迎えに来てくれたことからして、きっとこのバスには特定の待ち合わせ場所や中継地点のようなものがないのだろう。マグルの世界と魔法界との、薄く似通って深く異なった違いが、しみじみと感じられる。
「あ、あの……ホグワーツには、行けますか?」
ハリエットが尋ねると、スタンはまた鼻先で笑いながら答えた。
「行けねぇことはねぇが、まちげぇなく日が暮れっちまうぜ。だから皆、揃って汽車に乗ってくのさ」
スタンはそう言って「他にはねぇのか」と別の候補を聞き出そうとするが、そう簡単には出てこない。ぱっと思いつく心当たりといえば『隠れ穴』とダイアゴン横丁くらいだけれど、そこからホグワーツまで行けるかどうかもわからない。
少ない心当たりを消去法で頭の中から消していく。最終的に残った心当たりは一つだけだった。その最後の一つさえ、正直に言うと不安が過ぎる。どうしよう、良いのかな。なんて思ってみるけれど、どうしようもない。だって、他に思いつけないのだから。
ちっぽけな子供であるハリエットには、どうしようもできないことだった。
「……あ、あの……」
それじゃあ、とハリエットが改めて望む行先を告げる。気持ちは進まないけれど、消去法で残った唯一の選択肢。今度は特に何を言われることもなく、スタンは無言で運転席の隣に腰掛けると、首だけを捻ってハリエットの方を振り向き、言った。
「駄賃は十一シックル。十三出しゃアツアツのココアもついてくらぁ。どうするよ」
ハリエットが首を横に振ると、スタンは前に向き直し、コンコンと自身の肘掛を指の骨で叩いた。
「アーン、バス出しな」
若い相棒の言葉に、老齢の運転手がハンドルを握り、大きな音と共にバスが動き───次の瞬間、ハリエットの体が勢いよくベッドの上に放り投げられた。
・
「ついたぜ、
ようやくバスが停まって、ハリエットはもぞもぞと目を開いた。閉じていたのは眠いのではなく、気分の悪さと疲れのせいだ。
「おめぇさん、こういうの耐性ねぇんかい」
スタンはけらけらと愉快そうに笑い、ベッドの下からハリエットのトランクを引っ張り出しながらそう言った。フクロウの籠を掴みながらベッドで丸くなる子供なんて、別に面白くないだろうに。
ハリエットにしては珍しくも、心中で悪態を思いながらベッドをおりる。うぅ、と喉の奥で嗚咽じみたものが小さく漏れそうになるのはなんとか堪えたが、ヘドウィグは我慢せず不満そうにきーきー泣き喚いていた。
揺れに耐性がない訳じゃない。ただ、このバスの運転が思った以上に酷かっただけなのに。もしもこれが自分の箒だったなら、こんなにがたがた動かないし、右往左往もしない。そもそもこんなに揺れるものとわかっているなら、せめてベッドは動かないようきちんと固定するべきだ。マグルはどんな乗り物だって、一応ベルトはつけるのに……。
けれどスタンがマグルの乗り物のことなんて知る由もないだろうし、そもそもどうでも良いのだろう。酔った風もなくけろっとして、ハリエットのトランクを歩道に降ろしている。常々思っていることだけれど、やっぱり純粋な魔法族というものはマグルよりずっと頑丈なのかもしれない。もしくは、スタンが職業故に慣れて気にならなくなっただけか。
「ほらよ、荷物はこれで全部だぜ」
降りるハリエットとすれ違うようにスタンがバスに戻っていく。日中の見通しの良い場所に停まっている筈なのに、バスの周りには人っ子一人の気配もない。これも魔法の力なのだろうか。
アスファルトの上に立ち、ハリエットがひっそりとした声で「ありがとう」と告げると、スタンはにきび顔をにんまりさせながらふたつ指を揃えてぴっと格好付けようとして───ぷしゅー、と扉はそのまま閉まっていった。
ばーん、と行きと同じく大きな音と共に、バスは出発した。強い風が周りの木の葉を軽く吹き飛ばす。しばらくして、しんと静まり返っていた周囲に、さわさわと緑の囁きだけが戻ってきた。やはり何か、マグル避けのような魔法を使っていたのだろう。そんなことを思いながら、トランクを手に歩き出す。不平不満を泣き喚きながらもまだ大人しくしてくれるヘドウィグの為にも、いい加減落ち着いて足を留めるべきだ。
見慣れた街並みをがらがら歩く。なんとなく足が重い。最後にここにいた時は、昼日中から子供の声が溢れていたけれど、今は随分と静かだった。
それも当然で、九月一日が新学期なのは何もホグワーツだけでなし。駅で見た以来時間を確認してはいなかったが、もう良い時間だろう、学校に辿り着いた子も中にはいる筈だ。
そうしているうちにハリエットが立ち止まった。
どきどきしながら視線を上にしようとして、やっぱり落とす。今更ながら心臓が、悪い意味でうるさくなってきた。
それでも、もうここまで来てしまったから、そう自分に言い聞かせてブザーを押す。ばたばたと音がして、思ったより早く扉が開いた。
「はぁい、どちらさ、ま……」
最初に務めて明るい声が聞こえて、次第にそれが強ばっていく。ぎゅっと服の裾を掴んで、俯いている視線をゆるりと上げるが、食い入るようにこちらを睨む目が見えて、またすぐにぱっと落とした。
「…………ハリエット?」
あぁ、やっぱり、止しておけば良かったかもしれない。
「───どうして、お前がここにいるの」
久しぶりに聞いたペチュニア・ダーズリーの声は、少し震えているような気がした。目の前のことが信じられないような、そんな様子だった。
ごめんなさい、とハリエットが囁くと、ペチュニアはきゅっと唇を閉じた。それが困った時の彼女の仕草だとハリエットは知っている。いつも困らせているのが自分だったからだ。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。きっと、酷い顔をしているに違いない。
「…………、とにかく、入りなさい。こんなところ、よそ様に見られたらたまったもんじゃないわ」
ハリエットはすぐにトランクと籠を持った。周りも人の気配は少ないけれど、無人という訳じゃない。ペチュニアがダドリーと一緒に学校まで行っていないみたいに、家に残っている人もいるだろう。なるべく目立つのは避けたいのは、ハリエットもペチュニアも同じだった。
ハリエットが玄関をくぐると同時、ペチュニアは即座に扉を閉じた。
最後の文だけ修正しました。何か個人的に気に入らなかったので。