ギルデロイ・ロックハートのピクシー騒動───そんな、まるで彼の新しい本のタイトルにでもなりそうな呼び方と共に、初授業の噂は瞬く間にホグワーツ全体に広がった。
良い意味ではない。全く、これっぽっちも。少なくともハリエットは散々な授業だと思った。凶暴なピクシーを二年生のひよっこたちに解き放ち、自分で収集がつけられず、生徒に後始末を任せてとっとと退散したなどという話を、一体どうやって良い風に語れるというのだろうか。
実際には生徒の中では、擁護半分批判半分であるらしいが、正直ハリエットにはそれも信じられないことだった。
体験学習をさせたかったのよ、と擁護派ハーマイオニーは言っていたけれど、だとしても後片付けくらいやって欲しかったとハリエットは思う。暴れ回るピクシーを小さな籠の中に全部戻すのは酷く疲れた。
ニンニク臭いクィレルの方が、授業としてはずっとマシだった。例のあの人の配下だったし、ハリエットにとってはトラウマそのものではあったけれど、授業としては彼の方がずっとわかりやすかったと思う。なんなら普段の学校生活はおどおどと大人しかった分、ハリエットはひっそりとシンパシーすら感じていた。
自分を殺しかけたクィリナス・クィレルよりもハリエット・ポッターから苦手意識を持たれているギルデロイ・ロックハートであったが、当の本人は全く気付かず、むしろハリエットを見かけるたびに話しかけてくるあたりが、苦手意識を増長させるばかりだった。
・
黒い蝋燭が輝いている。
玄関ホールに出る階段への道を突っ切って歩く。足音に混じって聞こえる這いずるような声。以前も聞いた声だった。酷く冷たく、残忍な色の声。
よろよろとして立ち止まり、石の壁に身を縋る。仄暗い灯りに照らされた通路を隅から隅までじっと見渡す。
殺してやる、と声が言う。確かに聞いた。壁づたいに廊下を駆け抜ける。三つの足音と荒い呼吸が廊下に響いた。
叫び声。視線が走る。
松明が揺らめいた先に、何かが見えた───石になった生き物と、その隣に塗りつけられた、仰々しい大きな一文が。
・
「……リー、起きて、ハリー、起きて…… 」
そんなこんなでやっと週末になった時、ハリエットは夜明けと共にアンジェリーナに揺り起こされた。目を擦って見上げると、朝の薄光に照らされたアンジェリーナは、クィディッチのローブに身を包んでいた。
「アンジェリーナ……? なに……」
「ごめんね、まだ眠いわよね……ウッドの馬鹿がいきなり、こんな朝っぱらからクィディッチの練習だって……」
アンジェリーナの顔はとても不機嫌に歪んでいたが、それでも睡魔の方に勝てずどこかぼんやりとしている。もぞもぞと毛布から起き上がると、窓の外ではもう鳥が鳴いているようだった。
「アリシアとケイティと談話室で待ってるから、一緒に行きましょう……十五分後に競技場ですって……ホントあの馬鹿、クィディッチのことになるとイカれてるんだから……」
アンジェリーナはそう囁いてハリエットの髪を撫でると、ぶつくさとウッドへの不満を垂れながら部屋を出ていった。ハリエットは静かに深紅のローブに着替えると、まだ眠りこけている友人達への置き手紙を残し、箒を持って階段を駆け下りた。アンジェリーナが言っていた通り、女子三人は談話室で最年少を待ってくれていた。アンジェリーナは大きなあくびをしていて、ケイティは暖炉の壁の煉瓦に頭を預けて目を瞑り、アリシアに至っては談話室のソファで箒を枕にすやすや寝息を立てている。誰も全く目が覚めていない。何ならハリエットもまだ眠い。
足取りもおぼつかないまま、四人は手を取り合って競技場に向かった。ケイティがアリシアのローブを、アリシアがアンジェリーナのローブを掴み、アンジェリーナは右手にハリエットの手を、左手に自分の箒を握って、なんとか先頭を歩いている状態だった。
霧を抜けて、朝露のつもった草を踏み締めて、やっと更衣室に辿り着いた時には、もう他のチームメイトが揃っていた。とはいえ、フレッドとジョージはくしゃくしゃ髪のまま、夢見心地に座り込んでいる。ばっちり目が覚めているのは、仁王立ちするウッドだけだった。
「遅いぞ女性陣!!」
「そのうち殺すわよ、あんた……」
アンジェリーナのドスの効いた脅しを無視して、ウッドはピッチの全体地図を開き、黒板に貼った。彼が杖を振るうと、地図に描かれた矢印や文字がうようよと蠢き出す。
新しく考えたらしい練習方法を意気揚々と語るウッドの姿は、とても夜明け前まで眠っていたとは思えない。実際、もしかしたら徹夜でもしていたんじゃないだろうか。
一枚目の説明に二十分程度かけて、その下から新たに二枚目が、更に二十分後にその下から三枚目が出てきた。皆、話の半分もまともに聞いていなかった。ハリエットもなんとか起きようとして必死に目を擦っていたけれど、どうしても船を漕ぐのを止められずにいた。
「と、いうことで───諸君、わかったか? 質問は?」
「質問、オリバー───今言ったこと、どうして昨日のうちに、俺たちが起きてるうちに言ってくれなかったんだ?」
ジョージが不満げに問いかけると、ウッドはむっと顔をしかめた。
「いいか諸君、よく聞けよ。我々は去年クィディッチ杯に勝つ筈だったんだ。間違いなく最強のチームだった。残念ながら我々の力ではどうにもならない事態が起きて……」
「おい、オリバー」
フレッドが苦々しそうに呟き、俯いてしまったハリエットの頭に手を置く。心配そうに覗き込んでくるけれど、ハリエットはフレッドの顔を見られなかった。
昨年のシーズン最終試合、ハリエットは医務室で意識不明になっており、グリフィンドールは選手が一人足りない状態で試合に臨んだ。その結果として大敗北を喫したのだから、ハリエットは責任を感じずにはいられなかった。
ウッドはしかめっ面を濃くしたまま、深く息を吸った。
「……何も責めたいんじゃない、去年は仕方なかった。それはわかっている……でも、だからこそ、今年は今までより厳しく練習したい。後輩一人足りなかったくらいであのザマだった僕らの力不足も問題だったんだ!」
ウッドは力強く叫び、ぐいと自分の箒を掴んだ。
「さぁ、行くぞ! 新しい戦術を実践するんだ!」
そう言って、ウッドが先頭を切って更衣室を出ていく。他の選手たちもそれに続き、ハリエットも俯きながら後を追った。申し訳ない気持ちでハリエットの目はすっかり覚めたけれど、他の皆も昇りきった太陽を浴びて、ようやく意識がはっきりしてきたようだった。
箒に跨り、地面を蹴る。冷たい風が気持ち良くて、頭がすっきりし始めた時、不思議そうにフレッドが言い出した。
「なぁ、何かカシャカシャッて変な音しないか?」
ちょうどピッチのコーナーを曲がったところだった。ハリエットも首を傾げて耳をすませてみると、確かに聞こえる気がする。くるりと辺りを見回してみると、ちょうどスタンドの座席で何かが煌めいたのが見えた。最後部の座席に、ブロンドの少年がカメラを掲げてこっちを見ていた。
ハリエットは彼を覚えていた。コリン・クリービーだ。音の正体はシャッター音に違いない。ハリエットが自分の方を見ているのに気が付いたのか、コリンは急にカメラをローブの下に隠した。遠目にしか見えないけれど、何やらもじもじとしていた。
「誰だ? あいつ」
「ハリーのファンか?」
「ジニーみたいな?」
「ジニーみたいな」
双子のお喋りに、ハリエットは何も言わなかった。認めるのが恥ずかしかったからだ。箒に添えた指先に力を込めて俯いていると、三人の方にウッドが箒を寄せてくる。
「何だ、あの一年坊主は。さっきまで写真を撮ってたのか? まさか僕らの新しい練習方法を盗みに来た、スリザリンのスパイじゃ……」
「別に、そんな必要ないと思うけど」
ジョージがそう言うと、ウッドはしかめっ面のまま彼を見た。
「なんでそんなことが言えるんだ?」
「よく見ろ、あいつグリフィンドールだぞ」
コリンを指さし告げて、「それに」とジョージは続ける。ちらりと、ジト目で視線を落とす。
「ご本人たちがお出ましさ」
ハリエットは、ウッドと一緒に目を見開いた。ジョージが指さした方を見ると、確かに暗いグリーンのローブを着込んだスリザリンの選手数人が、箒を片手にピッチに入ってくるところだった。
そんな筈はない、とウッドが怒りで震えながら囁く。
「このピッチを今日予約しているのは僕だ。話をつけてくる!」
ウッドはスリザリンチームにまっすぐに突っ込んで行く。双子がその後を追ったので、ハリエットも慌ててそれに続いた。
「フリント!」
勢いよく突っ込んでいったウッドの怒鳴り声に、スリザリンチームのキャプテンであるマーカス・フリントがじとりと首を回した。
「我々の練習時間だ、その為に特別に早起きしたんだ! 今すぐ立ち去ってもらおう!」
「ウッド、俺たち全部が使えるくらい広いだろ」
それはそう。
けれど、ウッドはそれでは納得していないようである。空にいた筈のアンジェリーナ、アリシア、ケイティの三人が集まってくる間にも、彼は顔を赤くして叫んでいる。
「いや、今日はグリフィンドールが予約している! 僕が予約したんだ!」
「どっこい、こっちにはお墨付きがある」
ぱち、とウッドは目を瞬かせた。
「お墨付き?」
「あぁスネイプ先生が特別にサインしてくれたメモがあるぞ」
フリントはにやにやしながら、ローブの裾からひとつの丸めた羊皮紙を取り出した。ウッドは困惑しながらそれを受け取ると、怪訝そうな顔で紐を解いて中身を確認する。
「───『私、スネイプ教授は、スリザリンの新しいシーカーを教育する必要を認め、競技場の使用を許可する』───新しいシーカー? 誰だ?」
羊皮紙から顔を上げてウッドは問いかける。心当たりがないようだった。
すると、六人の大柄なスリザリン生が後ろから、小さな七人目が現れた。青白い肌にプラチナブロンドの髪、得意気に笑んだブルーグレーの瞳が、ハリエットの緑色の瞳と同じ高さにあった。
「マルフォイ……?」
「やぁ、ミス・ポッター」
ドラコ・マルフォイはにっこりとハリエットに笑いかけた。二人の間に立ち塞がるように双子が彼女を背に隠しても、微笑みは変わらない。
「ルシウス・マルフォイの息子が新しいシーカーだと?」
「新しいのはそれだけじゃないぞ、ウィーズリー」
まるでそれが合図かのように、スリザリン生たちは同時に自分たちの箒を突き出してみせた。突然、一番前にいたウッドが狼狽えた声を出したので、慌ててジョージの後ろからハリエットも顔を覗かせてみる。新品の漆が煌めく柄に、金文字の銘が刻まれていた───『ニンバス2001』。
ぽかん、とハリエットは目を丸くして、思わずそっと呟いた。
「本物……?」
「本物だよ。触ってみるかい?」
「おいやめろ! うちのお姫様誑かすな!」
むぎゅ、とフレッドが大袈裟にハリエットをローブで隠すように抱き竦めた。
兄弟でハリエットをサンドするように挟みながら、しかめっ面でジョージも口を開く。
「だいたい、そんなもんどこからそんなに手に入れたんだ? ノクターン横丁で闇の代物と交換でもしたのか?」
「ドラコのお父上がくださったのさ」
「どこかの家と違って、父上は良いものが買えるからね」
一瞬、ハリエットはどきりとした。隠れ穴とダイアゴン横丁で感じた小さな居心地の悪さをどうしても思い出したからだ。遺産の黄金で埋もれた金庫、子供たちの為のやりくりに苦心するウィーズリーおばさんの姿。きっとフレッドとジョージも、そんな親の様子を思い出したのだろう、言葉に詰まって固まってしまっている。
グリフィンドールの誰も言葉が出てこないようだった。そんな彼らが面白いのか、スリザリンがけらけら笑っている。
「───おーい、ハリー!」
スリザリンのいやらしい笑い声を切り裂くように、遠くからハリエットを呼ぶ声がした。ロンとハーマイオニーが、芝生を横切ってこちらに走ってくるのを見て、フリントが失笑する。
「一体どうしたの? 何で練習しないのさ───それに、あいつ、こんな所で何してるんだ?」
じろりとロンがドラコを睨むと、ドラコはまたあの得意気な笑みでロンを睨み返した。
「父上がくださった箒を賞賛していたところだよ。グリフィンドールじゃ到底手に入らないだろうってね」
漆色のニンバス2001を見て、ロンがあんぐりと口を開けた。
「それとも、皆でポッターに資金提供でも頼むか? ポッター家の財産を使えば、クリーンスイープを真っ当な箒に買い換えるくらいはできるだろうさ」
フリントの言葉に、どっとスリザリンが湧き上がった。ドラコの笑い声も混ざっていた。
ハリエットはとにかく酷い気分だった。隠れ穴の時よりも、金庫の中を見た時よりも、ずっとずっと嫌な気分だった。 スリザリンチームの喧騒がいやに頭に響いて、血が頭に集まって熱くなる。俯いて下を向いたまま、芝生を踏む爪先を見つめるしかできずにいた。
「ハリエットはお金で選ばれたんじゃないわ」
そんな中、騒ぐスリザリンの声を切り裂いたのはハーマイオニーだった。
「ハリエットだけじゃない、グリフィンドールは誰一人お金で選ばれたりしてないわ。皆、純粋な才能で選手に選ばれてるのよ───貴方と違ってね」
ハリエットは顔を上げて、ハーマイオニーのことを見た。
ハーマイオニーはまっすぐに、ドラコを見つめてそう言っていた。睨むでも、皮肉げに微笑むでもなく、淡々と、普遍的な当たり前のことを口にするように、キッパリと言い放った。
ドラコの笑顔がちらりと歪む。彼はハーマイオニーの方に向き直ると、忌々しげな表情で彼女を睨みつけ───そして、吐き捨てた。
「誰もお前の意見なんか求めていない───この『穢れた血』め」
ただでさえ張り詰めていた空気は、ドラコの一言を引き金に一気に破裂した。非難の声が轟々とグリフィンドールから溢れ、フレッドとジョージがドラコに飛びかかろうとし、フリントがそれを食い止める為に立ち塞がる。アリシアの金切り声が聞こえた。スリザリン生がグリフィンドールを罵倒する言葉を吠えた。
ハリエットは動けなかった。
ただ呆然とその場に立ち竦んで、グリフィンドールとスリザリンの乱闘騒ぎを見つめる。動かなければいけなかったのかもしれない、けれど、どうすれば良いのかわからなかった。ドラコが酷いことを言ったのは肌で理解できたけれど、それが何を意味するのかわからなかった。ハーマイオニーも、自分に向けられた言葉より、周りの怒り具合に押されて困惑しているようだった。
「マルフォイ、思い知れ───!」
閃光が輝いた。
同時に大きな音が轟いた。視界の外からドラコの体が吹っ飛んできて、芝生の上にごろごろと転がった。スリザリンチームの動きが一斉に止まる。
転がった芝生の上で、ドラコは身を捻って起き上がろうとして、静止した。一度目の嗚咽、二度目の深い息が溢れ、そして三度目にドラコの口からボトリと塊がこぼれ落ちた───大きなナメクジだった。
双子が歓声を上げた。フリントの慌てたような声に覆い被さって、彼らは弟への賞賛を口にし始めた。
「やったぜ、ロンがやりやがった!」
「俺らが教えたナメクジ喰らえ!」
「「ざまぁみろマルフォイ!」」と重なる双子のご機嫌な声。ドラコが二人を睨みつけ、またナメクジを吐き出す───だが、大変な目にあっているのはドラコだけではないようだった。
「ロン! ロン! 大丈夫!?」
声のした方に振り向くと、ロンが芝生の上に蹲って、同じようにげえげえと唸っていた。ハーマイオニーが必死になって背中をさすってやると、ロンの口からボタボタと、ドラコと同じようにナメクジがこぼれ出した。
それを見て、ハリエットはようやく動いた。ハーマイオニーとは反対の方に座り込む。横から覗き込むと、くしゃくしゃに歪んだ顔がげっそりと青ざめていた。
───ハグリッドのところに。
咄嗟にハリエットはそう思い、苦しそうなロンの腕を掴みあげた。ハーマイオニーが困惑した表情でハリエットを見上げている。
「ハリー?」
「ハ、ハ、ハグリッドのと、ところに……」
声がどもるが、きちんと伝わったらしい。ハーマイオニーは頷いて、逆側のロンの腕を持って引っ張りあげた。
芝生を抜けて競技場を出ようとしたその時、入口を出たばかりの真横から、バシャリとシャッター音が明るいフラッシュと共に響いた。驚いたハリエットが光った方を見ると、カメラを掲げたコリンがそこにいた。
「貴方を許可なく撮ろうとしたんじゃないです!」
コリンは慌てて叫びながら、カメラを下ろしてロンの方を見た。
「ただ、何だか大変なことになってそうだったから、気になって───それに、それ、凄い───ナメクジが次々口から出てくるなんて!」
コリンの頬は興奮して赤く色ついていた。ボトリとロンがまたナメクジを吐いたのを見て、コリンがもう一度カメラを掲げようとする。ハリエットは慌ててハーマイオニーと一緒にもう一度歩き出した。背後でシャッター音がしたけれど、振り向かない。
コリンはとても楽しそうだった。ナメクジを吐いて苦しそうなロンを見て、写真に撮りたいと思うくらいには興奮しているようだった。
フレッドとジョージもそうだ。苦しそうなドラコを見て喜んでいた。酷い言葉を吐いたから、ハーマイオニーを侮辱したから、自分たちの親を馬鹿にしたから、ドラコ・マルフォイだったから───だから、彼が苦しむ様子を見て、彼らは笑っていた。
ロンの腕を引っ張りながら、ハリエットはひっそりと唇を噛んだ。ぐるぐると巡る思考から、必死になって逃れようとした。
ハグリッドはいつも通り小屋にいた。ドアを開けて最初は眉間に皺が寄っていたのが、ハリエットたちを見下ろしてきょとんとした後、ロンを見て中に入れてくれた。
「全部出しちまうしかねえなあ」
バケツをロンの前に差し出しながら、困ったようにハグリッドはそう言った。受け取った端からナメクジがその中に落ちていく。
ロンのナメクジは止まらなかった。ボトリボトリ、次から次へと溢れ出て、バケツの中にはもう数匹。ハリエットもハーマイオニーも、ロンを運ぶのに必死で気を配れなかったから、自分たちが通った後は今頃ナメクジでわかりやすい軌跡を描いていることだろう。
「ゔぅ……うまくやれたと、思ったのに……ヴエッ」
「振り方か、杖の調子が悪かったんだろう。たまにあるんだ。今度フリットウィック先生にでも見てもらったらええ」
なよなよしいロンの呻きに、ハグリッドが笑って言う。
事実、ナメクジはドラコも吐いていたから、呪いそのものはうまくかけられたのだろう。何故か自爆もしてしまっただけで。
「あの呪いってただでさえ難しいのよ! ちゃんとマルフォイに当たっただけ幸運だわ……」
「何だ、マルフォイに呪いかけたんか?」
ハグリッドが目を丸くしてそう言うと、ロンはナメクジと一緒に下に向かって頷いた。ハグリッドは大きなソファにどしりと腰掛け、顎髭を撫でながら「それで」とこぼす。
「まーた、何だって、マルフォイに呪いをかけようとしたんだ?」
「彼が穢れた血って言ったのよ」
ハグリッドの問いにハーマイオニーが答える。
「そんなこと、本当に言いよったのか!?」
「言ったわよ。でも、どういう意味だか知らないの。皆が一斉に怒っていたから、多分、物凄く失礼な言葉なのはわかったけれど……」
「反吐が出るよ……」
文字通りナメクジの反吐を吐きながら、ロンが囁いた。
「穢れた血って、マグルから産まれたって意味の───両親とも魔法使いじゃない人を蔑む最低の呼び方なんだ……うっ、ゔぅっ」
げぇ、とロンが唸りながらナメクジをバケツに落とすのを見つめて、目を見開く。ハーマイオニーが絶句していた。多分、ハリエットも同じような顔をしている筈だった。
「そんなこと、どんな本にも書いてなかったわ!」
「あたりめえだ」
ハグリッドは言った。
「そんなことが書いてある本がホグワーツの図書館にあってみろ。連中のような───マルフォイ一族みたいに、純血だから偉いって思っとるような奴ら以外は、なんてことだって大騒ぎするぞ。今どき魔法使いのほとんどはマグルの血が入っちょるってのに」
あぁ、と。
ハグリッドの言葉を聞いて、ハリエットはようやく思い至った。
ドラコ・マルフォイが優しい理由。どうしてハリエットにだけ親切で、ハーマイオニーには酷いのか。事ある事に気にかける仕草を見せるのか。そしてなにより彼の父親が、書店で初めて会った時に、ポッター家について話したのか。
由緒正しい家柄だと、ルシウス・マルフォイは言っていた。純血のマルフォイ一族がそう言うなら、きっとポッター家もまた、そうであったのだろう───純血。
ならば、例え母親がマグルであっても───ハリエット自身が、そのマグルの家族に育てられたのであっても───彼らにとってハリエットは、半分が純血だから。だから優しくしてくれる。
ハリエットが半分、仲間であるから。たったそれだけの理由で。
「───それに、俺たちのハーマイオニーが使えねえ魔法はひとっつもねぇぞ───ハリー?」
どうした、とハグリッドが声をかけてくれたけれど、ハリエットは顔をあげられなかった。今日はなんだか、ずっと下を向いているような気がする。
「……わ……わ、私のお父さん、も……」
純血だったの、と。聞きたかった。けれど声が出ない。震えてか細い吐息がこぼれるだけだった。
仮に、父が純血だったとして。どんな人だったのだろう。マルフォイみたいな人だったのだろうか。ハーマイオニーのような人に、酷い言葉を投げかけるような、そんな───。
「お前さんの父親は良い奴だったぞ」
まるでハリエットの考えを読んだみたいに、ハグリッドはきっぱり言った。
顔を上げる。少しの沈黙、合間にロンの嗚咽。ハグリッドは真剣な表情をしていた。
「ええかハリエット。お前の思っとる通り、ジェームズ・ポッターは純血だった。けどな、マルフォイなんかとは全っ然ちげぇ───でなけりゃハリー、お前はリリーから生まれとらんぞ? リリーはそりゃあもう優秀な、マグル生まれの魔女だったんだからな」
それは慰めだったのだろうか。けれどハグリッドが下手な慰めの嘘をつけるとは思い難い。ならそれは、きっとほっとするような真実なのだろう。ハリエットの胸に固まりつつあった緊張のしこりが、突然ごそりと崩れていく。
「……ハーマイオニー」
呼びかけると、ハーマイオニーはきょとんと丸い目をしてこちらを見た。
「……ご、ごめん、さっき……ま、マルフォイが、『穢れた血』って、い、言った時……」
何もしなくて、止められなくて、ごめんなさい。
それを聞いて、ハーマイオニーは驚いたように目を見張り、それから呆れたようにため息をついてから、ハリエットの隣に座って、優しく笑った。
「良いわよ、気にしないで。私、ハリエットにちっとも怒ってないわ。謝るべきなのも、最低最悪だったのも、全部マルフォイの奴なんだから」
「そうだそう、ゔえっ」
いっとう大きなナメクジを吐き出しながら、ロンも後ろで頷いていた。