第十話 モンスターボックスⅠ
このデスゲームに囚われてから半年以上が経過した。
現実では丁度六月の初め頃。そろそろ梅雨に突入しようかという時期でも、俺達は変わらず剣を振るってアインクラッド攻略に励んでいる。
この世界は現実と四季が同期しており天気や気温も気候パラメータに支配されているが、大抵は現在の季節を参考に天気諸々が設定されている。
よって今までは珍しかった雨もぼちぼち増え、肌に感じる湿気も日に日に増している気がしないでもない。
相変わらずこの世界は無駄なほど高いクオリティの上で成り立っていた。
「……ハァ……」
「急にどうしたのよ?」
それでもまだ気温的には穏やかな日が多く、また今日も清々しい晴天が天蓋に映し出されていても、俺の心には分厚い雲がびっしりと埋め尽くされている。
場所は転移門に近い広場の南東。時刻は昼を少し過ぎた頃合。
隣で開店準備に駆られている鍛冶師――リズベット師匠が品物を並べる手を止めて、クエスチョンマークを頭上に浮かべていた。
あの十層での死闘から約四ヶ月あまりが経ち、現在の最前線は二十九層、つまりここだ。
最初の頃は攻略のペースも手探り状態で行き当たりばったり感が否めなかったが、二十五層攻略戦での一件で軍が弱体化。
それに伴い実質最強ギルドに上り詰めたヒースクリフ率いる《血盟騎士団(Knights of the Blood)》がまとめ役になり、今ではより徹底して偵察隊等の情報収集を用いてから、緻密な作戦を立ててボス戦に望んでいる。
そのため戦死者数もグッと減ったのは大変良い事だ。
けれどもそれとは別に新たな問題が俺に重く圧し掛かっていた。
「周囲がもう本当にうるさくてうるさくて……」
「そりゃあんたねぇ、周囲が騒ぐのも無理は無いでしょ」
茶色や灰色が大体の生地面積を占めている作業着に紺色の前掛けエプロンを着けている師匠は、疲れたようにぐったりしている俺に同情の視線を送った後、顔を正面に戻す。
例の如く絨毯のような露店販売用の敷物が敷かれた上には、伏せの状態で丸くなっているポチ。販売品に混じって置物のように直立不動のクロマル。そして、
――番犬のように店前に座っている豹の姿があった。
「前代未聞の三匹目の使い魔。色々と勘繰られるのは当然よ、と・う・ぜ・ん」
「まったく、他人事だと思って師匠は……」
からかうような発言には思わず鼻を鳴らす。
そう、武器強化の素材集めをするために潜った階層で、俺は一昨日三匹目の飼い慣らしに成功していた。
二十七層の中型モンスター。赤黒い体毛に鋭利な眼光を発する一対の金眼。ピンと立つ耳と刃物のような爪牙は、間違いなく肉食動物の証。
ただでさえ色々と目立つ俺が《レッドパンサー》を、それも今までにはない体長一メートル以上の中型モンスターをテイムした事もあって、ついに情報屋が動き出した。
まだ魔物王とは感付かれていない。それでも似たようなエクストラスキルを俺が所持していると睨んだ者達は、こぞって俺を質問攻めの嵐に放り込んだ。
その中には馴染みの情報屋も含まれており、大金を積まれ口八丁で手玉に取られ、うっかり喋ってしまう所だったのはよく覚えている。
寸前で気付いて誤魔化した所、当人の目の前で舌打ちをかました鼠の姿までもハッキリと脳裏に焼き付いていた。
「でもね、やっぱりこれだけは納得出来ないわ」
商品を並べ終わった師匠が片手を腰に当て、余った方で俺の鼻をぐいっと人差し指で押してくる。
その剣幕に胡坐をかいたまま思わず後退してしまう。
直ぐに詰め寄られてしまったが。
「何で……何でそいつの名前がタマなのよ!?」
「だって猫科だよ師匠。どこに不満が――」
「大有りよ!? 猫科だからって体長一メートル以上の豹に付ける名前じゃないわよ!? イメージってもんがあるでしょうがっ!」
師匠は熱の篭ったツッコミをしながらビシっとタマを指差す。
その姿に自然と欧米並みの大袈裟リアクションを取ってしまい、分かりやすい青筋が彼女のこめかみに浮かび上がった。
「その反応が滅茶苦茶ムカつく……ッ!」
「ダメだな師匠、全っ然ダメ」
師匠は分かっていない。確かにタマは豹だ。
それも二十七層でも強い部類に入る中型モンスター。
それでも今のように胸元に頬ずりしてくる愛らしい姿は飼い猫も同然。
タマ以上に適切な名前なんて無い。
そう力説して見せると童顔な鍛冶師は片手で両目を覆い、大量の溜め息を量産しながら天を仰ぐ。
疲れが周囲に伝播しそうな程の疲労っぷりは、少し珍しい。
「まったく、このガキンチョは……それにしても、中型モンスターまでテイムするなんて凄いわね、アンタの《魔物――」
「師匠ストップ!」
うっかり口を滑らしそうになった師匠に飛び掛り、無理矢理口を塞ぐ。
周囲の販売人や通行人は会話を聞いていないのか、『ハハ、仲が良いこって』という優しい目をしているので問題ないだろう。
問題なのは、うっかりと最大秘密を洩らしかけた師匠の発言なのだから。
「静かにしてよ師匠! それはトップシークレットなんだから」
最後の部分だけは耳元で囁くように呟く。
そう、師匠は魔物王スキルを知っていた。
とあるアイテムの情報を二十八層で入手し、それについての相談を持ちかけた際、話の流れから教えてしまったからだ。
未だに極一部しか知らない秘蔵のスキル。
それはある意味信頼の証とも言い換えられるが、教えてしまったのは早計だったのかと少しばかり後悔の念が浮かぶ。
もしバレるとしても情報屋に売るのではなく今のように言葉にし、もし誰かに聞かれて噂でも流された日には泣くに泣けない。
メリット無しで生命線のスキル情報を渡してなるものか。
「場所を考えてよ師匠。『うっかり洩らしちゃった、てへ?』なんて事になったら困る」
「――、――――!」
あからさまに『教えたのは間違いだったか』という視線を浴びせる事で自責の念に耐え切れず視線を逸らした師匠だが、次の瞬間、俺の拘束を振り切り、凄い剣幕で怒鳴り声を上げた。
「……わ、悪かったわよっ! そしてとっとと降りなさいよこのエロガキ!」
「え? ……あ、ごめん師匠、うん、本当にごめんなさい。だからその笑顔でトンカチ振り被るのはマジで勘弁してください!?」
どんな体勢、どんな風に口を封じていたかは知るべからず。
とりあえず、師匠が俺を子供扱いしていなければハラスメント行為で即牢獄行きとだけ言っておく。
ワザとでない上にきっかけは師匠だとしても、やはり男の立場というのは弱いもの。
しかも師弟関係にあればそれが顕著で。とにかく平謝りしなければ俺の命は無かったかもしれない。
顔を真っ赤にして殺人鬼の目をしている師匠は、眼前に鍛冶用の《ブルーアイアン・ハンマー》を突き付けた。
「無自覚なセクハラかましてる余裕があるんならさっさと宣伝に行ってきなさい!」
「………………師匠、俺って二時間前まで二十八層ボスの巨大狼と死闘を繰り広げて――」
「だ・か・ら?」
普通なら文句無しの言い分に絶対零度の視線を向ける師匠。
容赦が無い。本当に自重する気が無い。
乾いた笑みを貼り付かせる俺に師匠が渡すのは、紐で繋がれた手作り感が溢れる二枚の板だ。
身体を前後で挟むように首から吊るせるようになっている板には、シンプルながらも目立つ文字で『魔物使いのシュウ御用達! リズベット武具店!』という宣伝と、露店の位置情報が板の右下に記載されている。
街開きが起こる度に毎回こんな客寄せピエロを演じていれば、俺の名前が一段と世間に伝播するのも、そして街開きの風物詩と化すのも当然だった。
毎度の事ながら心の中で涙を流す。
反抗的な目付きをする俺に、師匠は笑顔のまま指を折って何かを数え始めた。
「格安価格での武器強化。無料で行う研磨作業。相談サポート。さっきのセクハラ。他には――」
「うぐっ……師匠の鬼! 鬼畜、外道、悪徳職人っ!」
「ふっ、褒め言葉よ」
そのドヤ顔に神経が逆撫でされるも、そう弱みを突かれると嫌とは言えない。
いつ如何なる時でも研磨をタダでやってもらい、超良心価格で武器強化をしてもらう。
その分素材アイテムを沢山提供しているとしても、装備品やプライベートでも多大な恩がある師匠の言葉は絶対だ。
そういう逃れざるヒエラルキーが形成されてしまっている。
素直に通常料金を払う方がマシだと思ってしまう程、彼女の言葉は絶対服従強制命令権を持っていた。
分かってやっているのだから師匠は歴とした悪女である。もはや詐欺に近い。
そんなのだから同い年の異性の友達が出来ず、年齢=彼氏いない歴の悲しい青春を送っているのだと邪推してみる。すると、
「なーにを考えてんのかしらねー? このガキンチョは?」
「ごれんらふぁい……らふぁらはらしふぇ!」
俺でも反応出来ない、確実に動作システムの限界を超越したと思ってしまう動きで、女性らしい柔らかな両手が俺の頬に伸びていた。
鍛冶屋兼メイス使いとして完全な筋力値寄りのビルド、そして高度な読心まで披露するのだから性質が悪い。
その戦闘技術は兎も角ステータスだけなら攻略組に近い実力を持つお陰で両手を引き剥がすのも一苦労。
最近、このように俺をいたぶる時の師匠の笑みに寒気と危機感を覚えてしまう。
親しみを込めた悪口や冗談を言えるほど仲が良くなった事を喜ぶべきか。理不尽な暴力の捌け口と化している現状を悲しむべきか。
正直なところ、判断が付かなかった。
「たくっ、ほら、さっさと宣伝してきなさい。そんなに嫌なら別にアンタが着けなくても良いから」
「…………あ、そういえばそうだ」
よく考えれば俺以上に目立つ奴がここにいる。体格的にも問題ない。
タマを呼び、その胴体を横から挟むように板を引っ掛けた。
そして取れないように腹の下で糸を結べば準備万端。
こうするとパッと見て文句無しの凶暴認定を受けるレッドパンサーの姿も、随分と可愛く、そして親しみやすくなった気がするので不思議だ。
「ほら、早く行ってこい! 今日はあんたの生還祝いで美味いものを奢ってあげるからっ!」
「アイ・マム!」
ダンジョンに潜り、夕方になったら二・三日に一度の頻度で師匠の下を訪れて武具の整備を行い、夕食を共にする。更に数週間に一度の頻度で先生達の所に帰る。
それがここ数ヶ月で恒例化してきた日常サイクル。
「晩飯か、何を奢ってくれるんだろ」
早くも浮かれながら、お祭り状態の二十九層主街区《ユートフィール》の街並みを走り出した。
◇◇◇
タマに看板を掛け、一時間前に開かれたばかりの街で晒し者になる俺は、宣伝をしつつも情報収集を忘れていなかった。
目ぼしいクエスト。出現するモンスター。手に入る装備。
この弱肉強食の世界を戦い抜くために必須の情報は時として商売にもなりえる。
コレを機にアルゴへ恩を売るのも視野に入れつつ情報を漁る俺だが、実は目的が存在した。
「《マジックダイト・インゴット》。絶対に手にいれてやる」
前層のサーカス団のNPCから入手した金属素材の名前を口ずさむ。他のプレイヤーには反応せず俺だけに友好的な態度を取った事からも、おそらくビーストテイマーが直接出向くのが情報を入手するためのフラグだったのだろう。
そして、同時に入手したとあるアイテムの存在。それが俺の関心を煽る。
その目的目掛けて情報収集に徹すること数十分。
漸く、値千金な情報にありつく事が出来た。
「じゃあ、ここがマーカスさんのお宅?」
「ええ、そうよ。主人とここに住んでいるわ」
中世ヨーロッパ風な街並みの《ユートフィール》。
その北側にある工房の密集地域にその家は存在した。
薄汚れた煙が僅かに漂う、煤けた一軒屋。
その玄関先で妙齢の夫人と対話する。
この家は贔屓目に見ても綺麗とは言えない。しかし、ずっと探していただけにゴールであるここは宮殿にも勝らない豪邸に見える。
鍛冶屋のマーカス。
それがこの層――いや、おそらくアインクラッドで唯一、マジックダイトの製鉄に成功したNPCの名だ。
「……何かお困りですか?」
なにやら困り顔な夫人の頭上にあるのは金色のクエスチョンマーク。
これがクエスト発生の証であり、今口にした台詞は幾つかあるNPCクエスト受諾フレーズの一つ。
どうやらマーカス邸かと尋ねるのがクエスト発生フラグだったらしく、僅かに皺の目立つ手を頬に当てながらご夫人は語り出した。
「実は、主人がもう何日も帰ってこないの。怪我でもしていなければいいのだけれど……
やっぱり不安で。ボウヤ、主人を探してきれくれないかしら?」
これがNPCだというのは分かっている。
しかし大事な人の安否を気遣う姿は現実と比べて大差無い。
改めて思う。気味が悪いくらい、この仮想世界はリアルだと。
「分かった。任せて」
クエストログのタスク更新が視界左端に表示されたのを確認。
嬉しそうに顔を輝かせる夫人の依頼を承諾した。
「確か主人は洞窟に行くと言っていたわ。悪いけどお願いね、ボウヤ」
頭を撫でられ、NPC相手に若干の恥ずかしさを感じながらもマーカス邸を後にする。
ポチを抱えて二匹の動物を両脇に侍らす俺は、大通りへ出るための狭い路地を歩きながら今までに入手した情報を整理していた。
(洞窟……多分だけど、《光結晶の洞窟》の事だよなぁ)
聞き込み中に出てきたダンジョン名を思い出す。
その中でも一番有力なのは主街区の西にある洞窟型ダンジョンだった。
というより情報収集した結果、ダンジョンは迷宮区と光結晶の洞窟を除けば東にある森林型ダンジョンしか現段階で確認されていないため、他に選択肢が無い。
探索中に出会った商人のエギルからポーションの類を買っていたので準備は万端。
タマの背にある看板をアイテムストレージ内に収納し、俺達は街の出入り口を目指す。
「そうだ。師匠にも一応報告しないと」
マジックダイトは師匠も欲しがっていたので職務放棄?しても許されるだろう。
そう考えながら師匠にクエストの旨をメッセージで伝え、その数分後に夕方までに帰って来いと母親的小言を言われてウィンドウを閉じる。
その時だ。
メッセージ確認で注意が散漫していたため、俺は曲がり角から出てくる影に気付かなかった。
「うわっ」
「きゃっ!」
相手は女性だった。
肩上で切り揃えられた黒髪と右目下にある泣きぼくろが特徴的な、高校生くらいの女性プレイヤー。
プレートアーマーの上から黒のマントを羽織っている彼女の目はぶつかった衝撃で閉じられているが、目を開ければおそらく穏やかで優しげな双眸を見せてくれるのではないか。
お姉さんの発する雰囲気が、なんとなくそう予見させた。
「え、あ、えっ?」
そして硬い石畳に尻餅を着いたお姉さんの目尻にはうっすらと涙が溜まっている。
女性を泣かすな。
師匠に教えられた三大禁止事項の一つに抵触してしまった事実は、俺を狼狽させるには充分だった。
「だ、大丈夫っ!?」
直ぐに立ち上がって手を差し出す。
ポチを地面に放り出す結果になったけれど、今回ばかりは勘弁してもらいたい。
幸いにも――《圏内》なので当然だが――お姉さんに怪我は見当たらない。
「うん、大丈夫。君こそ大丈――きゃっ!?」
目を開け、俺の方を見た途端に悲鳴を上げて後ずさる彼女。
いや、正確には俺ではなく隣を見て怯えていた。
直立すれば俺とほぼ同じ大きさの、中型モンスターであるタマに視線を向けて。
「あ、コイツは俺の使い魔だからっ!? お姉さんを襲うことも無ければ獲って食う事も――」
「サチ! どうかしたのか!?」
必死に宥めようと奮闘している所に響く男性の声。
曲がり角の陰になっていて見えなかったが、どうやらお姉さんは誰かと一緒に行動していたらしい。
なにやら走っている振動音が石畳を伝わってくる。
(……あれ? この声って)
とても聞き覚えのある声が引っ掛かり、曲がり角から顔を出した。
「なんだ、やっぱりキリトだ」
いつもの皮製防具に黒コートの出で立ちではなかった。しかし何度も共闘を重ねた兄貴分を見間違うほど記憶力は死んでいない。
膝下まで裾のある彼女と似たような黒マントを着込み、付属のフードですっぽりと顔を隠した不審者ルックのキリトは、彼女に追い付いて俺を視界に納めると驚き混じりに足を止めた。
表情は陰になっていて良く見えない。
おそらく、きっと、多分。かなり驚いていると思う。
「シュウ!?」
「へえ。お姉さん、キリトと知り合いなんだ」
フードを取って驚きの声を上げたキリトは酷く驚き、そしてバツが悪そうな表情を見せながら顔を背けた。
最近最前線でたまにしか見かけなくなったのと何か関係があるのだろうか。
数時間前のボス戦時にキリトのレベルを訊いてみたが明らかにレベルアップのペースが落ちている。
ボス戦くらいにしか顔を出さず、攻略に消極的な態度が少し気がかり。
もしかしたら攻略組を止めるつもりなのだろうか。
(……なんてね。無い無い)
ありえないと、ふと思った可能性を瞬時に破棄する。
一緒に強くなりゲームをクリアするという約束を反故にするとは到底思えないから。
しかし、最近は極短時間、それも夜にならないと前線に出てこないキリトの事情を知らない俺からすれば、そう考えるのも仕方の無いことかもしれない。
「……いったい何があったんだ?」
「曲がり角でぶつかっちゃって、それでタマを見て驚いたんだよ。お姉さんも、驚かしてごめん」
そんなキリトと俺を交互に見て、今まで黙っていたお姉さんが徐に口を開く。
「キリト……この子と知り合いなの?」
「あ、ああ。コイツはシュウ。魔物使いのシュウって言えばサチも分かるだろ?」
逡巡、サチと呼ばれたお姉さんはシンキングタイムに陥るも、唐突にハッとした表情を作った。
どうやら俺の事はかなり広まっているらしい。まあ、色々とネタに成りやすいから当然かと嘆息する。凄く不本意だ。
表はポーカーフェイス、内面で号泣していると、納得した顔でお姉さんは何度も頷いていた。
「そっか、この子が噂の看板チビっ子なんだ」
「チビっ子……看板チビっ子……」
ニーヴァのショタっ子に続き抹殺対象が増えた瞬間。
一体誰なのだろう、この馬鹿なあだ名を付けている愚か者は。
――このとき、どこかにいるカタナ使いがクシャミをした事を、当然ながら俺は知らない。
「でも、キリトって顔が広いんだね。攻略組の子とも顔見知りなんて」
「顔見知りも何もキリトは俺と……現実世界でも知り合いなんだ。近所に住んでる兄ちゃん」
俺と同じ攻略組。そう言おうとした途端キリトの眼光が鋭くなり、剣呑さが五割増す。
そして何やら懇願も混じっている奇妙な視線を向けられため、即座にでっち上げた嘘を口にする。
多分、攻略組という情報は伏せてくれっていう意味だと思ったからだ。
膝を曲げて俺と視線を合わせるサチさんの後ろでホッと息を吐いているのを見る限り、推測は当たりっぽい。
それならフード付きのマントで姿を隠すのも頷ける。顔見知りである攻略組との遭遇を恐れての変装だ、きっと。
「……そういえば、よく君はこの不審者っぽい人がキリトだって分かったね」
「え、だって声と動きがキリトだったから」
「不審者って単語にツッコミは無しか!?」
ボス戦、そして迷宮区でもたまに共闘を重ねる俺がキリトの声と動きを見間違う筈が無い。それでもこの見極めは普通技能では無かったらしく、だからなのか、とっても凄いよとサチさんに称賛された。
戸惑いを覚えると共に照れくささも感じてしまう。
少なくとも褒められて悪い気はしなかった。
「そんなことよりさ、サチさんとキリトの関係は?」
『そんなこと』発言で更に落ち込むキリトはほっといて、先程から気になっていた事をサチさんに尋ねてみる。
デート、という雰囲気では無いような気がしたからだ。
当然の質問に、サチさんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「キリトはね、私と同じギルドなの。《月夜の黒猫団》って言うんだ」
聞いた事の無いギルド名だった。
少なくとも攻略ギルドではない。現時点で、という単語が頭に付くけれど。
しかし俺はサチさんの説明を少し聞き流し、別の事を意識してしまう。
(キリト……ソロプレイヤー止めたんだ)
それが正しい選択だと分かっていても、同じソロがどんどん消えていっている今を考えると少し寂しさを感じる。
あのラグナードですら血盟騎士団に加入し、他のソロ達も《双頭龍》や《聖剣》、《ドラゴンナイツ》などのギルドが合併した《聖龍連合》に加入している。
このデスゲームではソロ活動時のメリットなど大して無い。
挙げられるのは経験値の入りが良いのと、アイテム類を一人占め出来ること。
後は俺みたいに対人トラブルを防ぐ目的ぐらいしか良い点はない。
現にゲーム開始時の死亡率はソロプレイヤーが圧倒的に多いのだから、安全面は全く考慮されていない捨て身の生き方。それがソロだ。
(一人で行動するよりも仲間を作って団体行動する方が良いに決まってる。そりゃそうだ)
スキルだって仲間がいれば渇々にならず安全だってある程度保障される。
キリトみたいに高レベルなら他の人達とレベリングの足並みを揃えても今のレベル差をある程度まで維持出来るだろう。
そう考えればキリトがギルドに所属するのは全然アリだ。
(そっか、だからか)
これでキリトのレベルリング効率が落ち気味なのも合点がいった。
「シュウ君、確か君もソロなんだよね? ……良かったらどう? 君もギルドに入らない?」
「…………え?」
その勧誘は不意打ちだった。
反射的に身体を引き、戸惑いと恐怖が混じった視線を彼女に浴びせ、軽く表情を曇らせてしまう。
グルガの件から数ヶ月が経った今、俺の人間不信は少し回復の兆しを見せている。
とりあえず近寄って来た大人を問答無用で拒絶する事は無くなった。
聞くところによれば《月夜の黒猫団》はサチさんの所属するリアルでのパソコン部の部員+キリトという構成らしく、高校生という事もあって多少は信頼出来るだろう。
――それでも、迷う事は無かった。
「……ごめん、俺はソロのままプレイするから」
「……うん、そっか。無理に誘ってごめんね」
謝罪の意味も込めらた手で頭を撫でられながら、込み上げてくる罪悪感を無理矢理無かったことにする。
俺が選択するのは独りの道。
黒猫団がいつか攻略ギルドの仲間入りをするとしても今はただの中層レベルのプレイヤーが集まったギルドと同義。つまりキリト以外の面子の実力は俺より下。
そして俺のレベルは41。
他の人に構っている余裕が無い俺は、ギルド全体のレベルアップに時間を費やす暇なんて無かった。
そういうのはキリトみたいな最強野郎の仕事なのだ。
(……それに大丈夫だ、俺はやっていける)
独りであって独りではない。プレイヤーの仲間はいなくても、絶対に裏切らない仲間がいる。繰り返し行う自己暗示にも似た確認で不安と迷いを消し去った。
そう、魔物王たる俺は、たった独りでもパーティープレイを可能とする。
ボス戦以外でパーティーを組むメリットは殆ど無い。ボス戦や何らかの理由が無い限り、パーティーやギルドを組む事は無いだろう。
そのように閉鎖的な考えを抱いている間に、キリトはウィンドウに表示されている時刻を確かめていた。
この微妙に暗くなってしまった空気から抜け出すためにも。
「サチ、そろそろ時間だ。ケイタ達も待ちくたびれるぞ」
「あ……本当だ。結局、買い物の筈がただの街見物になっちゃったね」
「掘り出し物も無かったしなぁ、こればっかりは仕方が無いだろ」
「うん。でも、また南通りのアイスを食べたいな」
「そんなに食ってると太るぞ」
「ぶー、残念でした。この世界ではそんな事はありえません」
仲睦まじく談笑している姿を見せ付けられ、思うことは一つだ。
(完全にただのデートじゃん)
そう思う俺の脳は正常稼働中。
このまま二人がゴールインすればアスナさんファンクラブの人々は拍手喝采で二人を祝福するだろう。
自覚無しだと思うものの、キリトと話す時のアスナさんはどこか嬉しそうだから、アスナさん狙いの攻略組プレイヤーはキリトを危険視しているのだ。
どうやら第一層攻略戦の辺りから色々と交流があるらしく、アスナさんがキリトに恋心を抱いても不思議じゃない。
(……ハァ……)
二人が付き合う。
そう思うと心の中のモヤモヤが増量し、表現出来ない痛みが心を蝕む。
アスナさん――血盟騎士団に所属し、《閃光》の二つ名を持つプレイヤーの憧れにして、命の大恩人。
(師匠はずっと初恋初恋って馬鹿みたいに騒いでるけど、実際どうなんだろ)
アスナさんと接する内に自己を見詰め直し、整理する時間も増えてくる。
それでも結論は出てこない。
なにせ誰かを好きになるなど人生でも未体験ゾーン。どんなクイズよりも難解で、全くの専門外。
これが本当に恋だとしても、他にも憧れや友情など、様々な要素が複雑に絡み合ってくる。
人生経験漸く二桁の俺には、まだ良く分からなかった。
「じゃあな、シュウ」
「またね、シュウ君」
こんなどうでも良い事を考えている内に二人はギルドメンバーと合流する事に決めたらしい。
キリトはウィンドウを出してメッセージを書いていた。
「うん、キリトもまた。サチさんも、ぶつかってごめん」
最後に彼女に頭を一撫でされ、ポチ達を連れて踵を返す。
――まさか、彼女とはもう会えないとも知らずに。
◇◆◇
ユートフィールの西門は大通りを抜けた先、広場の中に存在した。
まだ当然ながらお祭り騒ぎが抜けず所々で陽気な声が響き、心地良い喧騒が街を満たす。
人通りが多いから、という理由もあるが、なるべく一目に触れずにいたかったため、少し迷いながら迷路のような裏道を通っている時だ。
背後に気配が生まれた。
「シー坊、こんな所で奇遇だナ。オネーサンは嬉しいゾ」
両脇を乳白色の民家に囲まれた路地裏。
背後からの声に脊髄反射で反応する。
《軽業》スキルまで駆使した壁を利用した三段跳びは一瞬で彼女との距離を空け、着地と同時に思わず臨戦態勢を取ってしまった。
度重なる情報屋やプレイヤーの魔の手に晒され、思いのほか敏感になっていたらしい。
「アルゴ! いったいどっから沸いた!?」
対峙するのは馴染みの情報屋。
語尾が特徴的で、どこかコケティッシュな鼻声っぽい口調に全身を覆う灰色の外套。
頭をすっぽりと覆うフードから覗く巻き毛は金褐色で、最も特徴的なのは、頬にペイントされた左右の三本線。
小柄でコソ泥や浮浪者を連想させる外見とオリジナリティ溢れる髭メイクから《鼠》の二つ名を持つアルゴは、両手を目元へ持っていく。
それはどこからどう見ても、過剰反応した俺を見て泣いているようにしか見えない。。
「随分な反応だナ。シー坊はオレっちの事が嫌いなのカ? 友達だと思っているのはオネーサンだけだったのカ……」
「自分の行いをよーく振り返ってみろ。それに友達って単語には『飯の種』とか『金のなる木』とかってルビが振ってあるんじゃない?」
ジト目を送れば案の定。
悲観染みた声から一転、「よく分かったナ、にひひ」と楽しそうな笑い声が返ってくる始末。
相変わらずな女を捨てた一人称と笑い声を量産するアルゴは、疲れたように嘆息している俺に笑いながら近寄ってきた。
流石に今度は逃げたりしない。それでも僅かに身構えているが。
「で、何でストーカーの真似事なんてしてんの?」
「どうやら誤解があるようだナ。オレっちがシー坊を見かけたのは本当に偶然だゾ? まあ、後で顔を見に行こうとは思っていたけどナ」
「……何度も言ってるけど、俺は別に特別なスキルなんて持ってな――」
「ところでシー坊。ある耳よりな情報があるんだケド、気にならないカ?」
人の興味心を擽る強引なカットイン。
普段の口調なのにどこか極秘性や怪しさを含んだ声は、俺の興味を引くのに充分だった。
怖いもの見たさ、みたいなモノだと自己分析する。
嫌な予感しかしないのに、どこか気になってしまう不思議な雰囲気。
この空気を出せるかどうかが情報屋としての適正を示しているのかもしれない。
「………どんなん?」
このタイミングで話を繰り出すということは十中八《魔物王》を見返りに求められる。
(…………ハア、しょうがないか)
度重なる質問の嵐に、「あいつは何かレアスキルを持っている」というプレイヤー達の決め付け。
なら情報次第では散々ぼったくって教えてやるのも考慮に入る。
どうやら俺は意外と隠す事に疲れ、辟易しているらしい。
この先ずっと探られるぐらいなら皆が話題に飽きるまでの数日間を堪え忍んだ方がマシ。
よく考えれば嫉妬ややっかみには馴れている。それならユニークスキルだという情報を隠した上で魔物王の習得方法をアルゴに流して貰った方が良いかもしれない。
二体以上の使い魔を獲得など、よほど運が神がかってない限り検証不可能なのだから。
その事を今更ながら考えさせられる。
「漸く興味を持ってくれたナ」
もったいぶるアルゴに不満の眼差しを向け、眉間にも皺が寄る。
先程の意趣返しか知らないが、かなり時間を掛ける彼女に文句を言う直前、彼女の口から発せられたのは。
「――――《モンスターボックス》というアイテム入手に関するクエスト情報、知りたくないカ?」
――それは、今の俺が一番知りたい情報だった。