光結晶の洞窟。
その名の通り赤、青、緑、様々な光を発するクリスタルが至る所に点在する洞窟は《ユートフィール》の西門を出て直ぐの岩石地帯を一時間ばかり闊歩して、その最奥でぽっかりと大口を開けてプレイヤーを待ち構えていた。
入り口の両脇には巨大なクリスタルが聳え立ち、鮮やかな色彩を放つ光は優しさも含んでいるため目を傷めるような強烈さは感じない。
洞窟から吹き込んでくる冷たい風を全身で受け、俺達はダンジョンの入り口に立っていた。
「さーてと、どこら辺にいるんだか」
足首より少し上までを覆うカジュアルな革製ブーツ。
敏捷力補正の付いた《ヴェーチェルライ》のつま先でトントンと地面を叩き、大きく伸びをする。
この四ヶ月で俺の装備もかなりの変化を見せていた。
まず、今着ているのは六層クエスト品の《フェルザー・コート》ではない。袖口が大きく裾の長さは膝下までの、どこぞの魔法使いが着るようなフード付きの灰色ローブ。
《グレイブル・ハーミット》は現在手に入る防具では最上に位置するレアドロップ品だ。
二十六層の《幻惑の森》に出現する錫杖を持った人型レアモンスターがドロップするコレを、商品集め中に偶然ゲットしたエギルから購入出来たのは幸運だったのだろう。防御力が高いだけでなくフェルザー・コート以上に隠蔽ボーナスが付くのも嬉しい誤算。
そしてインナーシャツの上に着ている淡い紫色の服は《ミスリルウェア》。
履いている黒革の長ズボンは《ナイト・オブ・ブラックレザー》。
指ぬきの手袋は《グローブシーフ》。
どれもこれも現在手に入る物では最上級品の装備を手に入れた経緯を思い返しながら、俺は右手に持つ愛剣《黒炎+27》に視線を向けた。
「コイツには一番お世話になってるよ、ホントに」
五つある武器プロバティの内《正確さ》と《鋭さ》に重点を於いて強化してきた自慢の相棒。《強化試行可能数》の許される限り強化を続け、三回の失敗を経て強化可能限界値に達したのは二週間前。
二十七層ではまだコレで頑張れた。しかし二十八層ではキツくなり、この二十九層では更にキツくなっている。
洞窟に来るまでの戦闘で火力不足の現実を痛感した今、黒炎を見る度に複雑な心境に陥ってしまう。
「今までありがと」
太陽の照り返しで刀身が紅く光り、まるで返事をされたようで。
寂しさを帯びた笑みが生まれる。
分かっていたことだ。下層の武器を限界まで強化してもいつか通じなくなる事くらい。
もう代わりの武器はとっくの昔に準備して、何回かの強化も終えている。
それでも愛着のある武器を変える行為に踏ん切りが付かなかったが、どうやら現実逃避の時間は終わりを迎えるようだ。
数日中に武器を変え、どうせなら有終の美を飾る戦闘をしよう。
そう新たな決意を胸に灯し、洞窟への第一歩を踏み出した。
「そういえば初めてか。ダンジョンに一番乗りするのって」
今まで踏み込んできたダンジョンは迷宮区を含み、ある程度マッピングされた状態で冒険していた。
今のトッププレイヤー達は迷宮区を目指して次の街へと旅立つか。アルゴによれば目ぼしいクエストは殆どが森林系ダンジョンの方に集中しているため、光結晶の洞窟へ向かう人は今の所いないらしい。
それでも何人かはこちらに流れてくるだろうが、まだ街開きが起きて数時間しか経っていないので少ない筈。
もし既に洞窟へ入り込んでいる人がいるのだとしても先着順で言えば一・二位を争う速さの筈だ。
「でもすっげー。これが現実にあったら観光名所入り間違い無し。アスナさんにも見せてあげたいくらい」
天井、地面、岩壁。至る所に生えている虹色の結晶達に目を奪われる。
迷宮区のような人工感溢れる迷路ではなく、剥き出しの地面に岩土の壁という自然系のダンジョン。安全マージンも充分取れて頼もしい仲間もいる俺は、未知のダンジョンでも《嗅覚再生エンジン》から送られる自然の匂いを満喫し、幻想的な光景を楽しむ心的余裕がある。
そしてダンジョン内という事も少し忘れ、とりあえず道成り進むこと五分。
肌がチリチリするような第六感が働くのと、ポチの索敵網に敵が入り込むのは同時だった。
「……さっそく襲撃。空気読めっての」
ポチが威嚇する方向は横幅が一〇メートルくらいある通路の先に見える曲がり角。
数は二。
黒塗りの鞘から愛剣をゆっくりと抜き出しながら、その場でジッと身構えた。
少なくとも、俺は。
「あ、こらタマ! 待てってばっ!」
獰猛な鳴き声と地面を蹴る音が隣で起こる。曲がり角から敵が姿を見せる前にタマは駆け出した。
ポチやクロマルとは違い、戦闘中のタマは俺の言う事を聞かない時がたまにある。
それは俺のレベルが低いのか、それとも魔物王の熟練度の問題か。理由は沢山思い浮かぶので断定出来ない。
その野生感溢れる好戦的な態度に黒髪を掻き毟る。
「ああ、もう。ポチは右の奴! クロマルは俺に続け!」
例え最前線でもタマなら数分は持つだろうから、三人がかりで一匹をまず仕留める。
ポチが先行して走り、クロマルは俺の邪魔にならない一定の距離を保ちながら後を追う。数秒も経たない内に、洞窟内での初戦闘が勃発した。
「まずは一体!」
曲がり角から出て来たのは体長一メートル程の狼が二頭。
ただ二十八層のフィールドダンジョン《狼ヶ原》で相手にしたような獣ではなく、全身がガラス細工のような光沢を放つ紫水晶。
《アメジストウルフ》。
ユートフィールでの情報収集で耳にした単語が記憶の海から浮上した。
(見た目からして毒系統の技は無い。考えられるのは、爪と牙、それに何本か背中から突き出しているクリスタルの……やっぱり!)
見事に予感的中。走り寄る俺達を迎え撃ったのは先の尖った小さな紫水晶達。
前屈体勢を取り、固定砲台と化したアメジストウルフの背中からバラ撒かれた結晶弾が、もう直ぐそこまで迫っていた。
「ふん! そんなの当たるか、ってのっ!」
このSAOは自立型ゲームバランサー機構《カーディナルシステム》に管理されており、リアルさを追及した結果、全てのモンスターは攻撃箇所に視線を向けるという本物顔負けの動作を再現している。
よって視線からある程度の攻撃予測を立てる事も可能。
次々に射出される弾丸を紙一重で避け、時には黒炎で弾き、時にはクロマルにガードしてもらいながら敵との距離を詰める。
視線から攻撃箇所を予測するシステム外スキル《見切り》はプレイヤーだけでなくモンスターにも適応されるのだ。
そして耳を劈くようなガラスの割れるみたいな悲鳴が洞窟内に鳴り響く。優れた敏捷力を持って弾丸を掠める程度に留めたポチの爪撃がアメジストウルフに炸裂した。
「ナイス、ポチ!」
敵の注意がポチへと向く。お返しと言わんばかりにポチへ向って噛み付き攻撃をかまそうと背を向けた瞬間、黒炎の切っ先が水晶狼の背中を抉った。
密着する俺達の間に放たれる青色の閃光。
短剣突進技《ランドソニック》の直撃を受け、敵のHPが見る見る内に減損していく。
あと、もう少し。
「クロマル!」
ポチ、俺に続く第三撃。
本来なら攻撃スキルを持たないクロマルが盛大な体当たりをかます。
スキル特有の金色に光るライトエフェクトを身に纏った突撃は、鉱物系モンスター共通の高い防御力を突破し、HPを確かに削り取る。
魔物王攻撃技《グレイヴアタック》。
現段階で戦闘外使い魔でも戦闘に参加出来る攻撃手段。
射程は四メートルと短いが、それでも速攻と呼ぶに相応しい速度での攻撃を使い魔に行使させる事が出来る。
スキルによる攻撃なため、ちゃんと決まれば体当たりという捨て身技でもHPが欠損する事は無い。
そしてクロマルの体当たりをまともに受けて悶絶している敵に、これからの攻撃を避けるのは不可能だ。
「これで終わりだ!」
青い閃光を迸らせながら瞬く間に右手が動き、起き上がろうとする狼に死の三角形を刻む。
短剣三連撃技《トリプルバイト》。
高速の三連閃はアメジストウルフを蹂躙し、背後からポチの爪撃が三本の裂線を生んだ。
「次!」
弾け飛んだ敵の残骸と周囲の淡い光。
目が眩むような光の粒の中を疾走する。
視界に表示される経験値とドロップアイテムには目もくれず、次なる敵にカーソルを合わせた。
同時に仲間達三匹の身体が金色のライトエフェクトに包まれる。
「突撃!」
魔物王連続突進技《パレード》。
先程の《グレイヴアタック》よりも威力は弱い。それでも使い魔全員に同じような体当たりを強いるそれは、間を空けない質量の暴力と化して敵の動きを阻害する。
タマが、ポチが、クロマルが。金色の流星となってアメジストウルフに雪崩れ込んだ。
衝突音。鮮血のように飛び散る赤いエフェクト。轟く悲鳴。そして、クリスタルの輝きを塗り潰す紅の閃光。
短剣単発重突進技《ゲイルストライク》。
疾風の如く大地を駆けながら力を溜め、衝突の瞬間に全力で短剣を突き出し、即座にエネルギーを解放。
切っ先は敵の口内に潜り込み、鋭い爪が頬を掠める。
光の奔流が収まりHPが一割削れた途端、アメジストウルフは甲高い悲鳴を残しながら爆散した。
こうして十秒も経たずに最後の敵を狩り終えた俺達は未知のダンジョンを更に進む。
何処かにいる、鍛冶屋のマーカスを探すために。
「待ってろよ、迷子のNPC!」
戦闘後の余韻を感じながら気合を一発。
幸先の良い戦闘に満足する。
――そう、この時の俺は、このクエストをまだ甘く見ていたのだ。
◇◆◇
世の中そう上手くいかない。
あの全てが始まった日にも感じた事を再度思った。
「……直ぐに見付かると思ったんだけどなぁ。分かりやすい所に居ろっての、半永久行方不明者め」
つい、朝食時には相応しくないこんな愚痴を零してしまった。
第二十九層が解放されて四日目の早朝。
まだ太陽が完全に昇りきっていない時間帯にも関わらず暑いくらいの陽射しを振り撒き、『梅雨はどこ行ったんだよ』と暴言を吐いてしまう程の、少し白さが残る雲一つ無い晴天がアインクラッド全土を照らしている。
現在の心境とは逆天気な世界に理不尽な怒りを向けるのも致し方ないだろう。
そのご機嫌斜めな俺を呆れながら見るのは、体面に座っている大切な人の一人。
「なによ、まだ見付かんないの?」
「……イエス」
頬杖を着き、ご愁傷様と言いたげな表情をしながら、行儀の悪い手付きで朝食を口に運ぶ師匠。そして不貞腐れながらフォークをサラダに突き刺す俺。
イライラオーラを周囲に振り撒き、普段と比べて十倍増しに空気が悪くなる。
自分達の他に客がいないのが幸いしたが、やはり辛気臭い光景に参ったのは一緒に食事をしている人物だ。
「ほらもう、ちょっとは落ち着きなさいっての」
マーカス探しに進展が無くて苛つく俺を宥めようとソーセージを差し出してくるので、サラダを飲み込んでからフォークにパクついた。
主街区東側の片隅にある宿屋は端から見ても潰れる寸前のオンボロ宿屋といった風だが、料理は今までと比べるとップクラスで当たりの部類。
口内に広がる肉の旨味とジューシーさは客のニーズに充分応えているだろう。
美味しい料理と気遣いのお陰で少し溜飲が下がったのを雰囲気で察してから、ホッとした様子で師匠は口を開いた。
「そんなに探しても見付からないんなら他の人に任しても良いんじゃない?」
あたしは特に急いで無いし、と付け加えてから残りの食事を平らげる師匠の提言には、正直言えば心を動かされた。
昨日フィールドボスである大蜥蜴が倒されたので、開通した迷宮区や最寄の村のクエスト等、非常に気になる事が多々あるのは事実だ。
この鍛冶師のクエストは一人しか受けられない類のもの。クエスト受理を破棄すれば別の誰かが受けるだろう。
俺達はそれを待てば良い。そっちの方がずっと楽だし時間だって有意義に使える。
けれども俺には悠長に待てない理由があった。
「そりゃそうだけど……やっぱり、出来るだけ早く欲しいんだ」
結局《魔物王》を対価に様々な情報をアルゴから買った俺は、現在とても《モンスターボックス》を欲している。
《モンスターボックス》。
マジックダイト・インゴットを用いて作られる箱は使い魔専用の収納箱。
使い魔を携帯出来るようになるアイテムの存在、そして手に入れるのにマジックダイトが必要になるという所まで情報を得ていた俺は、肝心のマジックダイト入手後にどうすればモンズターボックスを入手出来るのか知らなかった。
どうやら前層のサーカス団に所属する猛獣使いに話しかけると、マジックダイトや複数のアイテムと引き換えにモンスターボックスを渡してくれるらしい。
その情報は十三層の農村で入手したらしいので、確かに今後自力で知る可能性は凄く低いだろう。
よってアルゴには素直に感謝している。
「『新スキル発覚! その名も《魔物王》』か。ついにバレちゃったわね」
二日前の号外新聞のタイトルを口にする師匠は残りの水を一気飲みし、それでも足りないのかテーブル上に置いてある水差しを手に取った。
ゴクゴクと豪快に飲み干す様は、とても姉御という形容がよく似合っている。
「でもさぁ、まさか光結晶の洞窟に鍛冶師がいないなんて思わなかった。くそっ、紛らわしい」
想像以上に洞窟が狭く、そして武器製作や強化に必要な新素材を手に入れるために職人の雇ったプレイヤー達が大勢押し掛けたからこそ、たった三日で洞窟内の探索は終わってしまった。
それでもマーカスが見付からないのだから怒りのボルテージが少しずつ溜まっていく。
今日からは仕切り直し。アルゴから買ったのは同層にある《濃霧の森》のマップデータで、今日からの活動地点がそこだ。
地図無しで洞窟内を歩けるほど隅々まで散策した今、もはや森の中に隠しダンジョンがあるとしか考えられない。
荒野を模した見通しの良いフィールドや町中よりは、まだ森林型の方が可能性があると思えるから。
「そう。……まあ、死なないように頑張りなさい」
「……あれ、今日の仕事は?」
食事を終え、励ましの言葉を俺に浴びせてから二階の自室に向かおうとした師匠は、階段を上り途中で足を止める。
今気付いたが、振り返った師匠の目には隈が出来ていた。ついでに目も据わっている。
完璧に女を捨てている表情を見せつける師匠は、掠れた声で、そして凄く億劫そうに声を絞り出した。
「満腹になって、更には久しぶりに休憩した所為か疲れがドッと押し寄せてきたのよ。……流石に寝ないと……死ぬ……」
「もしかしてアレから一睡もしてないっ!?」
二十九層が解放されて一番歓喜したのは何を隠そう職人プレイヤーの人達だろう。
主街区の北区に密集した、職人のためだけに用意された高性能な設備達。
ハンマーや裁縫針といった職人の必須アイテムも店に充実。
何よりモンスターがドロップする素材アイテムが今までの層に比べて種類が多く、またドロップ率も軒並み高い。
職人のメッカという異名で呼ばれ始めたユートフィールに職人の誰もが浮かれていた。
師匠も当然その一人だ。
俺以外にも顧客が付き始めた師匠は資金が潤沢し始めた事もあって前々から独立を考えており、街開きでユートフィールの全容を知った途端、即座にホームをユートフィールに移し、専用工房をNPCから借り付けた。
時間に縛られる事も無く好き勝手に一人占め出来る工房での作業は楽しいらしく、また新たに多くの金属系素材アイテムが登場したため武具製作のバリエーションも広がり、新しい玩具を手に入れた子供の如くハイテンションな師匠が不眠不休で暴走するのにそう時間は掛からなかった。
「……あ、そうだった。すっかり忘れてたわ」
眠気に負けて自然と落ちる瞼を堪え、ウィンドウを出現させる師匠。
手摺りに肘を付きながら気だるそうに操作し始めて数秒後、俺の眼前にトレード・ウィンドウが出現した。
送られてきたアイテムの名称は《黒狼牙+12》。
ブラックシリーズ――俺命名――の一つで、新しい相棒。
その劇的な変化に目を丸くする。
「あれ、でもこれって……」
「我ながら一回も失敗無しってのは運が良かったわ、ホント。強化素材集めだって苦労したんだから」
記憶にあるのは+7という試行回数。
毎回強化成功率を上げるために強化素材をフル投入すれば、経費や素材集めだって大変だった筈だ。
知り合いの商人や職人から素材をかき集めた師匠には本当に頭が上がらなくなる。
これが工房を借りる際に資金提供をした恩返しという事は分かっても、費用と軍資金を考えれば師匠の支出の方が激しい。
直ぐにトレード欄に金額を入力し、かなりのコルを師匠に送った。
そして師匠への好感度は青天井に上昇。
「流石だ師匠! よっ、実力ナンバーワンの美少女鍛冶師! 愛してるっ!」
「はいはい、あたしも大好きよー」
最大級の感謝とノリが入り混じった発言におざなりな対応をした師匠は、今度こそ「頑張んなさい」と手を振ってから二階に消える。
二日前の昼頃から「漲ってきたぁああ!」とテンションMAXで叫びながらハンマーを振るう姿には色々と思う事が多々あれど、その甲斐あって新しい武器がグレートアップしたのだから文句は無い。
それでも趣味と仕事に情熱を注ぎ過ぎてはいけないというお約束を再認識。
師匠の間違った姿は反面教師として記憶に刻み込まれる事だろう。
真似しちゃダメ、絶対。
「……でもまあ、やっぱり何事も程々が丁度良いってことか。感謝感激だけど、ああならないように気を付けよう」
しかし巷では経験値中毒者の異名を持つ俺も同じ穴の狢かもしれないことに、結局気付く事は無かった。
◇◇◇
《濃霧の森》はその名の通り濃い霧が支配する森だ。
二十九層の東を陣取る巨大な森。
主街区から一時間ほど歩けば到達するこの森の視界は途轍もなく悪かった。
まるで雲の中を歩いていると錯覚すら起こす霧が纏わり着く。
五メートル先も見えないほど視界が悪ければまともに探索を行う事も出来る筈が無く。プレイヤー達は全員、主街区で売られている《霧払いの珠》を使って何とか探索を進めていた。
「うわ、深っ」
頭上に青白い珠を浮かばせて半径二〇メートル内の視界を確保し、原生林の中をひたすら歩くこと二時間。
学校で例えれば最初の授業が始まる時間帯に、俺達は森林内にあった崖淵へと立っていた。
深い、とても深い崖。しかし崖下にも霧が満ちているため本当は浅いかもしれない。
それでも試しに拳大の石を落としてみても、参考にはならなかった。
「これってこの珠が無かったらアウトでしょ。下手したら気付かずに落ちる」
下から風が吹き上がり、ローブの裾が翻って幽霊が出てきそうな不気味な風音に冷や汗が垂れる。
アンデッドはまだしも、実は俺は幽霊の類があまり得意では無いのだ。
何と言うか死体系ではなく、霊体みたいな実態が無いのが苦手。
ゾンビ系映画は見れてもホラー映画を見れないのと似たような理由だ。
実は昔観たテレビ番組がトラウマだったりする。
「えーと、ここが森の南東だから……くそっ」
マッピングデータから現在の位置を参照。
未探索の場所を重点的に探したが行き止まりらしく、仕方が無く引き返そうとしたその時。
耳入るのは、何千と聴いた相棒の唸り声。
敵の存在を察知した瞬間にポチを見て方向を確かめてから襲撃に備える。何度も踏んできたプロセスを無意識に行う。
それでも俺はポチの方を見て、今までにはない戸惑い顔を晒してしまった。
「え、その方向って……」
ポチが睨んでいる方向は目の前に広がる原生林でも無ければ左右でも無い。
背後の崖。それも崖下に向ってポチは唸り声を上げている。
それが意味するのは、つまり――。
「崖下に道がある?」
でなければ索敵網に引っかかる筈が無い。
下へ降りる方法がある。
この世界を生き抜いた経験が、その情報がアタリだと告げていた。
「とはいえ降りるって言っても一体どこから降りれば良いのやら」
とりあえず崖沿いをひたすら歩く。
その間にもモンスターの襲撃が止む事は無く度々爬虫類型のMobと戦闘をこなし、レベルを1上げていく。
都合三回目の襲撃を生き延びて直ぐの事だ。
一〇センチほどの雑草が生い茂る崖淵で金属製の何かを踏んだのは。
「お、よっしゃ!」
しゃがんで確認してみると、そこにあったのは金属製の杭だった。
短くて太く、地面から飛び出している先端が輪になっている。
登山などで使われる年季の入ったハーケンを見つけ、思わず歓声を上げた。
「問題は深さだよなぁ。果たしてこれで足りるのか……」
両手にオブジェクト化した長いロープの束を見て首を傾げた。
プレイヤーにはアイテムを持てる限界重量が定められており、それはプレイヤーのステータスやスキルに依存している訳だが、今オブジェクト化したのは二十層のダンジョンで使用したロープだ。
長さ三〇メートルのザイル。
不安を覚えながら登山用に使われるロープの先端フックをハーケンにセットした途端、今まで見た事の無い変化が起きた。
「破壊不能オブジェクト……変化したってこと?」
淡い光を発し、その光が収束した途端に浮かび上がった文字を読み上げる。
プレイヤーの所有権を離れてゲームシステムの一つとなったザイルを考えるに、このロープを使ったのは正解だったようだ。
おそらく複数あるロープ候補の一つだったらしい《レッドロープ》の先端は、崖下に広がる霧の海へと消えていった。
「よし、そんじゃさっそく下へと降りて……あ」
念のため両手で引っ張り強度を確かめてから崖下へ身を乗り出そうとして、ふと思う。
「……ポチ達どうしよう」
正面に座り、つぶらな瞳で「置いていかないでくれ」と言わんばかりの目で俺を見ている相棒達。
ポチやクロマルは運んでやれそうなのだが、問題は中型モンスターであるタマだ。
この巨体を持ちながら降りるなど論外。かといって切り立った崖にはタマが体重を預けられそうな凹凸が無いので自力で降りる事も不可能。
そして安全エリアでもないこの場所に長時間放置するのもありえない。
少しだけ全員一緒に降りられる方法を考え、数秒後、静かに溜め息を吐いた。
「もったいないけど仕方ないか。……お前たちはここで待機」
《意思伝達》で命令してから身体を宙に投げ出す。
崖淵を蹴り、数メートルを一気に下りてからロープをしっかりと掴み、振り子の原理で身体を叩きつけるようにしながら岩壁に着地。
そして再度足を離す。
現実では命綱無しには絶対に真似出来ない方法で下降して地面に着地したのは、下り始めて一〇秒後の事だった。
「無事到着っと……って、そういうことか」
ブーツがボロボロのロープが踏んでいる事で事態を納得する。
マーカスが行方不明になった背景が如実に想像でき、その芸の細かいストーリー設定に感嘆してしまった。
そして横幅が数十メートルの崖下を見渡して敵がいないのを確認してからアイテム・ウィンドウを開く。
百近いアイテムが列挙される中、目当てのモノにカーソルを合わせて作業をする。
そのあと初めてのロッククライムに悪戦苦闘しながら、数分かけて三〇メートルを上りきって皆の元へと返り咲いた。
「ただいま」
待っていた皆を見渡してから手元を操作。
アイテム・ウィンドウを開いて右手に握られるのは、一つの結晶アイテム。店では買えない稀少アイテムの一つだ。
まだ一度も使用したことのないアイテムに興奮を覚えると共に、しょうもない理由で稀少アイテムを消費する事を悲しく思う。
泣く泣く、断腸の思いで、そのアイテムを使用した。
「コリドー・オープン」
起動言語を口にした事で手中の《回廊結晶》が砕け散る。その代わりに出現したのは青い光の渦。
一度行った事のある地点を記録し、任意の場所に移動出来る転移門を開くクリスタルは、見事に役目を果たして俺達を崖下へ誘ってくれた。
「……マーカスを見つけるまで絶対に帰らない」
この一度の探索でマーカスを見つけなければ割に合わない。これで何も無かったのなら赤字も良いところだ。
迷宮区の宝箱かモンスタードロップでしか手に入らない回廊結晶の在庫は無いので、この一度きりのチャンスで隅々まで探索するしかない。
瞳にメラメラと決意の炎を燃やし、予想外の出費に辟易している所為か。
出現する《ダストリザード》や《スカーヴァイパー》といったモンスター達は鬱憤晴らしの八つ当たり対象でしか無かった。
この姿をアスナさんやキリトが見たのなら苦笑いを浮かべるに違いない。
自分でもどうなんだと思うほど怒りの咆哮を上げながら探索すること数十分。
目の前に人ひとりが入れるくらいの洞窟を見つけ、漸く少しだけ溜飲が下がった。
「どこだマーカス! さっさと出て来いコラぁあああっ!」
ここまで手間を掛けさせてくれたNPCの名を叫ぶ。
入り口は狭いが中に入ると十倍以上のスペースがあり、歩く分には不自由しない。
岩壁には所々に松明が掛かっているため光量は充分。
ツルツルで手触りの良い立派な鍾乳石と石筍が立ち並ぶここは、洞窟というよりも鍾乳洞と呼ぶのに相応しいのだろう。
外よりも冷え切った外気が肌を刺激し、ローブの襟元を手繰り寄せた。
「うわ、雰囲気あるなぁ……」
どうやら敵も出現せず通路も一本道なため、探索は拍子抜けするほど簡単なものだった。
そして、
「あ」
そして俺達はついに探し人と対面を果たす。
巨大な岩に背を預け、力なく手足をだらけさせる五十代前後の男を発見し、全速力で駆け寄った。
「ちょっとオッサン! もしもーし」
その憔悴した姿を見れば、散々手こずらせてくれた憎き相手でも怒りを僅かに鎮火させてしまう。
それでもやはり恨みは消えないのでかなり強めに頬をビシバシ叩き、むりやり意識を浮上させた。
「み……水、を……飲み物……を……」
薄汚れた作業着を着た髭面の男がか細く呟く。
唇が乾き、掠れた声を聞けば、長時間水分を取っていないのは見て明らかだった。
「オーケー。ちょっと待ってて」
即座に手持ちの飲み物をオブジェクト化。
しかし昼食用に購入しておいた飲料水の入った小ビンを差し出すが、水を欲していたマーカスは一向に受け取ろうとしない。
こちらを見ず、うわ言のように「水を」と呟くマーカスは、身体の陰になっていた右手をゆっくりと前に突き出した。
「……これで、水、を……」
「ああ、そういうこと」
震える手で小さな水筒を手渡され、面倒臭い事態に頬が引き攣るのを抑えきれない。
そして通路の奥を指差してから、マーカスは直ぐに意識を手放した。
おそらくこの鍾乳洞の奥に水場があり、そこの水を汲んで来いという意味だろう。
本当に、未だ嘗て無い程、とてもとても面倒なクエストだ。
「…………水場って、ここ?」
鍾乳洞内を更に十分ほど歩いて開けた場所に出た訳だが、その光景に圧倒されてしまう。
ちょっとした広場が丸々入りそうなほど広い最奥には、
「これが地底湖ってやつか。……って、日が射しこんでるし地底じゃないかも」
眼前に広がる澄み渡った湖は神秘的な雰囲気を醸し出していた。
それは何千、何万年という年月の積み重ねを感じさせる巨大な鍾乳石と石筍の数々。天井の切れ目から射し込む陽射しの帯達が、地底を優しく包み込んでいるからこそ。
俺もそうだが神聖さを漂わせる湖にポチ達も心を奪われているようだった。
しかし、その束の間の感激も直ぐに驚愕へと変わることになる。
「……は?」
――ポチが低い唸り声を上げて直ぐ、湖の中央に巨大な水柱が立ち昇った。