確かに、空気が死んだ。
周囲が闇に包まれ、全ての音が掻き消された無音の世界に迷い混んだと錯覚するほど、不気味な程に静かだった。けれども不幸中の幸いは、その世界も永くは続かなかった事だろう。
次第に闇は晴れ、そして消える世界に比例するように、そいつはゆっくりと禍々しい気配を放ちながら俺の意識に入り込む。
そいつの登場は計算外。一切考慮されていない埒外にあり、黒ポンチョを目視した瞬間、悪寒と表現することすら生温く感じる恐怖が全身を貫いた。渓流沿いに吹く風が、本来なら感覚的なものである筈の死臭を運ぶ。不可避の絶望を叩き付けてくる。
見た目だけなら右手でエストックを弄び、大岩に背を預けて傍観の姿勢を取る髑髏マスクの方がおぞましい。けれども吐き気を催すほどの雰囲気を放ち俺の足を恐怖で縫い止めるのは、間違いなくゆっくりと歩いてくる黒ポンチョの方だ。
一瞬たりとも視界に入れたくないのに、奴から目を逸らせられない。全身から吹き出す冷たい汗が服を濡らす。あの男の愉快気に緩まった口許を見れば見るほど、その右手に持つ血色のダガーに蹂躙されるビジョンしか思い浮かばない。
フードの影に隠れて辛うじて見える口許は、確かに楽しそうに嗤っていた。
――秋人。強くなったね。父さん、ちょっと危なかった
――ふんっ、余裕綽々にガードしてる人に褒められても実感ないっつーのっ!
ふと、ワシャワシャと頭に乗っけられた、父ちゃんの大きな手の温もりを思い出した。
――姉ちゃん、今日のご飯は? あとお願いしたコーラ頂戴
――今日はお鍋だよー、でも秋人、今じゃないとダメ? ちょっと料理に使いたいんだけど
――コーラを料理に使う……って、これコーラじゃなくて甲羅……
――希望通り美味しいお鍋を作るからもうちょっと待っててね
――あー、うん。楽しみにしてるよ……スッポン鍋
ふと、優しくて、天然だった姉ちゃんのほんわかとした笑顔を思い出した。
(……何で……何で今、おれ……)
――何故、こうも無性に父ちゃんと姉ちゃんに逢いたくなるのだろう
二人の顔が見たかった。二人の声が聴きたかった。
大きな手を頭に置かれ、背後からぎゅっと抱き締められて温もりを感じたかった。
懐かしさに視界がボヤける。普段以上に寂寥感が込み上げて胸が締め付けられた。
「……ッ!?」
じゃりっという黒ブーツが砂利を踏む音を聞き、声にならない悲鳴を上げて遠ざかっていた意識を覚醒させる。頬を伝っていた涙にも気付かなかった。
これも一種の走馬灯なのだろうか。もしくは現実逃避。死への恐怖が無意識の内に平和だった頃を求めたのかもしれない。
実際には数秒にも満たない時の最中、永遠にも似た感覚で思考の迷路をさ迷っていたようだ。
それも、目の前の《死》を意識してしまった瞬間に現実へ引き戻されたが。
そして改めて現実を受け入れた途端、感情が噴火した。
(……何だよ、ふざけんなよ、折角……折角終わったと思ったのに、何でっ!?)
声無き悲鳴で不条理を嘆く。
今までの悪者達とは次元が違った。
目の前のソレを見ただけで膝が笑う。頬を伝う汗を拭う手が小刻みに震える。カチカチと鳴り出す歯を止めようとして失敗する。
殺気じゃない。敵意でもない。
悠然とこちらに歩み寄る男が内包するのは、ただの悪意に満ちた遊び心。
それは子供が持つ残酷な性分に近いものがあった。
――目の前に蟻の巣があるから水を流してみよう
――蝶がいるから翅を千切ってみよう
純粋で無邪気故の残酷さ。溢れ出る好奇心からくる無意識の搾取。
その子供特有の衝動を、あの男は理解しながら自重せずに行っている。
大人の頭脳を駆使し、明確なる悪意を持って子供の特権をより残酷なものへと昇華させる。
人の皮を被った底知れぬ恐怖。息をするだけで不幸をバラ撒く者。
このSAOのせいで箍の外れた狂人からは、戯れに昆虫の足を毟る子供以上に性質の悪い愉悦の昂りを感じた。
初対面である筈なのに、あの男は常軌を逸した印象を植え付けた。
勝てない。それを本能で理解する。
(……ダメだ……ダメだダメだっ! このままじゃ死ぬ! どうする……どうしたら……)
人間とは現金なものだ。
今俺の脳を占めるのは仲間を失った悲しみでも無く、ただ《死にたくない》という生への欲求だったのだから。
一度は諦め、再び掴み取った命。
復讐に駆られた精神は一先ず落ち着きを見せ、代わりに嘔吐する寸前まで込み上げてくる悪寒と恐怖、一気に積もったストレスに過呼吸を引き起こす一歩手前まで、精神が不安定になるのを自覚する。
だから俺は再度の精神安定を図るため、一度掴んだ命を絶対に手放したくないため、沸き立つ生存本能に従いただ生き残る道を思案。この生への渇望/執着心が瓦解しそうな精神を繋ぎ止める。
一向に治まらない悪寒を骨の髄まで味わいつつ、混乱する頭を最大限働かせて現状把握に取り組んだ。
(か、かくにん、確認だ。……こんな時だから冷静にならないとっ)
震える身体を叱咤して意識を無理やり相手に向ける。
敵は二人。強者特有の重圧感と装備から見るに実力は攻略組クラスと仮定。
闇をそのまま貼り付けた様な艶消しのポンチョでは下の装備は伺えないが、金属製防具特有のガチャガチャといった音がしないことから、相手は革や布製防具を好むスピードタイプの可能性が濃厚。不安定な足場で接近を悟さなかった足運びから推測するに、非金属製防具装備者のみが習得可能の《忍び足》スキルを所持しているかもしれない。
そして髑髏男が襤褸切れの下に纏うのは軽金属のライトアーマーだ。得物は刺突特化のエストック。軽量装備と得物から推測するに相手はスピードタイプと確定。
二人の殺人鬼は共にスピードタイプ。つまり足で逃げきるのは確実性に欠けてしまう。この砂利道を裸足で駆けても、十秒もせずに捕まってしまうだろう。
闘争にまみれて培った経験が、実力も装備も最凶最悪だと警鐘を鳴らしていた。
対して俺の装備は予備として用意していた《黒羽》に普段着、そしてただのアクセサリーと化しているモンスターボックス。ブーツすら無く、いつぞやのクエスト途中に手に入れた敏捷力UPのアミュレットすら持っていない現状ではスピード勝負に持ち込まれたら勝ち目は薄い。
アイテムどころか所持金も全て無くした今、現在身に付けている物だけが戦略物資の全て。
何より今のHPは残り45。回復手段は無し。相手にとっては撫でる程度の攻撃で儚く散る程の命しか残されていない。
将棋の飛車角落ちどころの話では無かった。完全な無理ゲーだ。
(闘っても勝てない。逃げることも出来ない……くそっ!)
圧倒的な危機的状況に唇を噛み締めた。
(でもっ……まずはなんとしてもあそこに辿り着かなきゃ始まらない!)
視線を、残り十五メートルまで近付いたポンチョ男から左に逸らす。
そこに点在すのは《完全オブジェクト化》で周囲にバラ撒かれたアイテム達だ。
流石の取り巻き達も俺を殺す前に悠長に物品漁りをするつもりは無かったのか、まだ幾つかのアイテムが無造作に放置されている。
残念ながら結晶アイテムの類いはグルガに奪われた物が全てで、今やそれはポーチごと既に消滅している。取り巻き達が生き生きと収納した装備品達にストレージの肥やしになっていた武具、果ては所持金の全てまで、三人の命と共に散ってしまった。
もしくは黒ポンチョ達がグルガ達を殺害する前にアイテムと所持金を強奪しているかもしれないが、取り戻せるなど高望みはしていない。実は装備品に限り他者に奪われても手元に戻せる方法があるのだが、実行に移した瞬間に殺されるのは明白だ。その手法を取る余裕も無い。
よって、あそこにあるのはグルガ達が興味を示さなかった食料が大半。しかしポーチに入りきらなかったポーションも幾つか顔を覗かせている。
なんとか隙をつくってあそこまで辿り着ければ回復出来る。そう、まずはHPを回復させなくては、逃げるにしろ最後まで抵抗するにしろ、全てはあそこに行かなくては始まらない。
ここから二十メートルは離れた大岩の直ぐ傍。
あそこまで行ければ――、
「……ッ!?」
しかし一か八かで駆け出そうとした瞬間、先手を打つように死神の凶刃が牙を向いた。瞬く間に十五メートルの距離を殺してみせた黒ポンチョの刃が喉元に迫る。
それは禍々しい気配を放つ紅の一閃。
血の様に赤黒い刀身が宙を裂く。
「く……ッ!」
その横薙ぎの紅閃を回避出来たのは殆ど偶然だった。急な接近に恐怖し、反射的に上体を仰け反らせた際に踏ん張りが利かず、そのまま転倒。首を閃断する筈だった凶刃は鼻先スレスレを通過する。あと数ミリで鼻先を削がれていた。
(やばっ!?)
死に物狂いで横に転がり瞬時に体勢を整えた途端、第六感が緊急回避を促してくる。屈んだ体勢のまま足をバネに後方へと跳び去った直後、強烈な蹴りが今いた空間を薙いだ。
「――ほう、流石は攻略組の魔物王様。なるほどねぇ」
思考を蕩けさせる冷やかな美声に、人を馬鹿にした様でいて称賛もしている口笛が耳朶を打つ。追撃の姿勢も見せず考え事に耽る男から視線を逸らさず、荒い息を繰り返した。危なかった。何もかもがギリギリのやり取りにドッと冷や汗が吹き出した。
歯を食い縛って崩れそうになる足に力を込める俺に、男は陽気に笑いかける。
「――よし、ここは一つゲームでもしようじゃないか。死ぬほど楽しいゲームをな」
「……げー、む?」
逃げる算段を付けていた所に、この提案。訳が分からず混乱する俺に黒ポンチョは愉しそうに首肯する。髑髏男は俺達のやり取り――先程の宣言通りショーを見物するつもりなのか。大岩に片膝を立てて腰掛け、観客に徹していた。
「――ざけんなっ」
その姿が、態度が、提案が、
「ふざけんなっ!」
俺の感情を刺激する。
彼等の存在から一挙一動に至るまで、その全てに我慢なら無かった。
恐怖や混乱よりも、今ばかりは俺自身忘れていた積もりに積もった怒気が勝ったのだ。
「何なんだよ……何なんだよさっきからっ!? いきなりやってきて、いきなり攻撃してきて、いきなりゲームとか言いやがって! 何なんだよお前達は!? いったい何が目的なんだよ!? 」
疑問と、それに付随する怒りが爆発する。俺とこいつ等は初対面だ。グルガやクロノスと違って関わりなど欠片も無い。それが何故、こうも一方的に理不尽な目に遭わされなくてはならない。
しかも登場時の会話から察するに、おそらくこの二人がグルガ達を焚き付けた張本人であり、もしかすればクロノスの言っていた《彼》もこの男かもしれない。
グルガの実力に不釣り合いな毒ナイフといい、全てを観察していたような台詞と登場のタイミング。
その全てが、こいつ等が事件の黒幕だと示していた。
勢いに任せて死神に噛み付く。そうでないと再び恐怖がぶり返してしまう。
黒羽の切っ先を突き付けながら、今までの鬱憤を晴らす意味も込めて喚き散らす。
すると男は綺麗に笑った。
聴くだけで自意識や不安を無くすような、妙なカリスマ性を帯びた笑い声だ。
「目的? おかしな事を言う。俺達は真っ当に、このゲームをプレイしているだけだぜ?」
それは今日で何度目になるか分からない、理解不能な言動の一つだった。
全身が強張ったのがよく分かる。
「ゲームをプレイ? まっ、とう?」
普通に声を出そうとして失敗する。
辛うじて絞り出した、実に細々とした呟き声に、男は『ああ、そうだ』と優雅に首肯する。
その両手を広げながら美声を紡ぐ姿は、舞台に上がった一流の役者より様になっていた。
「ネトゲの面白さ、VRMMOの醍醐味ってのは何だと思う?」
男は問い掛け、自らプレイ要素を言い連ねる。
モンスターを狩る。クエストをクリアする。武具を製作する。ダンジョンに潜る。美味い料理を食べて、飲んで、仲間や友人と騒ぎ遊ぶ。そして、
「フィールドで他プレイヤーを襲撃する。アイテムを強奪する。トレインしたモンスターを押し付ける。そして――」
相手を殺す。
俗にプレイヤーキル、PKと呼ばれる行為。
確かに、それも楽しみの一つだ。中には公式でPKを認めるゲームも多数存在する。あくまで、従来の一般的なMMOに限り。
「システムでPKが禁止されていないってことは、このゲームでも肯定されているって事だ。ほら、真っ当にゲームをプレイしているだろ?」
「そんな……だってコレはただのゲームじゃない! 死んだら現実でも死ぬんだぞ!? それが分かっててPKするなんてどうかしてる……狂ってる」
「そうか?」
その時、何故か俺は抱いていた恐怖を一瞬忘れてしまった。
疑問を口にする男の美声はどこまでも静かで、混乱する子供を宥める様に優しかったからだ。
「けどよ、死ぬなんて茅場晶彦が言っているだけなんだぜ? 本当に、たかがゲームで人が死ぬと思うか? 茅場晶彦がそこまでイカれていると思えるか? 本当に殺す事に、奴に何のメリットがある?」
「それ、は……」
確かにそれは、俺が今まで疑問に感じていた事だった。
あの始まりの日、茅場晶彦は言っていた。これは大規模なテロや営利目的の誘拐ではなく、この世界を観賞するためにのみ世界を作ったと。
死ぬとは言ったが殺すのが目的だとは一言も言わなかった。
言い淀む俺に、男は見惚れる程の笑みを深める。
「なあ、よく考えれば分かるだろ? わざわざ殺人を犯すメリットが奴には無い。HPの全損はただ単にコレ以上ゲームで遊ぶ資格は無いっていう、まあ、一種のペナルティみたいなもんさ。このゲームに何らかの決着が着くまで、ゲームオーバーになった奴等は別空間に隔離されているんだろうよ」
一人でも犠牲者を出せば罪状の重さは跳ね上がる。
逮捕された事を考えれば殺人を犯すなど最も愚かな行為だ。
男の美声は、正に毒だった。
聴き手を惑わし、容易く意思を溶かして全身に回る洗脳の言葉。
自意識の保てていない俺に、男は内心で口角を吊り上げる。
あと、一息。
「上手い手段だ。彼の制作者様のありがたい御言葉のお陰で、俺達は本気でゲームに取り組んでいるんだからな。現実での死ってのは、そのための嘘だ」
斯くして毒は全身に回りきった。
威圧し、怖がらせる素振りは一切見せず、友好的に歩み寄る。
男は語る内に予定を変更していた。
あとはいつもみたいに言葉巧みに誘惑し、自我を惑わせば、他の奴等の様に心の枷を外し、禁忌に走らせる事が出来る。
「で、その推測の証拠は?」
男は、ふと歩みを止める。
問い掛ける俺に、明確な強い意思を感じ取ったからだ。
この時の俺を第三者視点で見たならば、その目は強い眼光を発していたに違いない。
「……残念ながら無いが、けどよ――」
「――ならさ、そんな仮定の話、ああそうですかって納得する訳無いじゃん。少なくとも、俺はお前と違って楽観的じゃない」
そう、そうなのだ。
八割以上同意仕掛けていたが、男の言葉もまた茅場晶彦の言と同じで根拠も、そして確証も無い。
しかし、否定する材料は存在した。
このSAOはどこまでもリアルを追求した仮想世界。並々ならぬ制作者の拘りが感じられる第二の世界。現実に近付けるからこそ――ここでの死が現実になっても不思議は無く、それ処かむしろ死なない事に疑問を抱くほどリアルな世界。
その事を無意識に理解していたから、俺達はこんなにも必死に生き抜いてきた。
だから、
「俺は……俺は、お前の話なんか信じない! 仮に本当に死ななくても、人の想いを踏みにじって絶望に浸らすことに快感を覚える奴の言葉なんかに惑わされない! 例えお前の言っている事が正しくても、お前みたいな奴に殺されるのは真っ平御免だ、くそったれのクズ野郎!」
ああ、うっかり騙されるところだった。
少なくとも俺は目の前の性格破綻者よりも、業腹だが茅場晶彦の方が信じられると思う。
現実での生死があやふやでも、狂喜に満ちた計画殺人という行為自体に多大な忌避感が募る。
誰が、あいつの言葉なんかに賛同してやるものか。
最後の最後、僅かに残った正義感と反骨精神がギリギリの領域で踏み止ませた。
そして、指を突き付けられ全否定された男は――、
「…………Suck」
「ッ……!?」
その小さな罵りの言葉に、封印した筈の恐怖が高らかに産声を上げた。
男の言には、今までの優しさや温かさは欠片も感じられない。あるのはただ、思い通りにならなかった事に対する不満と苛立ち。その感情は、原因たる俺に向けられた。
「無駄に感情的になったガキほど面倒なものはねぇな。場合によっては、お前もこっちに引き込めるかと思ったがよ」
子供という立場はそれだけで犯罪行為の隠れ蓑になる。予定を変更し、これからPK行為の正当性を説き、更には法的に殺人罪が適応されない事を論理的に説明するつもりだった男から、はっきりと得体の知れない悪意が迸る。
体感的に、この場の気温が零度以下まで低下した気がした。
本当なら、賛同する意思を見せて尻尾を振るのが賢い生き方なのだろう。
取り入る方が生存確率がだいぶ上がる。
(そんなもの……そんなもんはクソ食らえだ!)
そのような方法は取らない。犯罪行為を認めてまで生きる訳にはいかない。
奴を少しでも肯定すれば、悪逆卑劣な犯罪に散っていったポチ達を裏切る事に繋がるのだから。
もう惑わされない。そう敵意満々の視線で告げる俺。対して男は、一つ舌打ちを打ってから語りだす。初めは、俺への肯定。
「ああ、お前の言う通りだ魔物王。確証も無いのに死んでも大丈夫だなんて、あんな戯れ言で納得する奴は馬鹿を通り越してそれ以下のナニカだ。思考停止にも程がある」
奇しくも男も俺と同じ考え。そしてベクトルは違うが男も一種の狂人だからこそ、シンパシーの様なものを感じ理論的ではない確信を持たせた。
「茅場晶彦は紛れもない狂人だ。そんな奴に常識だのメリットだの、そんなもんを期待し、推測する方が間違ってる。理由なんて無い。だからこそ、ゲームオーバーになった奴の脳を焼き切っても、なんら不思議はない。むしろ、だからこそ頭をレンジで沸騰させられるって話が現実味を帯びてくる」
先程の安心させる意見とは違い、今度はこちらの恐怖を煽る様な発言が目立つ。
それこそが、奴の狙い。
不機嫌だった口許が、愉快そうに吊り上がるのが見えた。
「つーことは、だ。どういう事か分かるか?」
「…………何がだよ」
嫌だ、聴きたくない。
絶対に録な事じゃない。
しかし、
「この世界での死が現実での死を意味するんなら――お前、今からやるゲームに勝たないと本当に死んじまうな」
「……っ」
けれども、耳を塞ぐ事なんて出来はしなかった。
消えかかった死への恐怖を再度煽り、恐慌する俺に溜飲を下げた男は最初の頃に話を戻した。
「いいか、三分だ」
そう言って、男は空いた手で指を三本立てた。
「三分間、俺達はお前に攻撃しない。その間に、お前は一ダメージでも俺に与えてみろ。三分後、見事俺のHPが一ドットでも削れていれば見逃してやる。あの馬鹿共がお粗末だった分、楽しまなくちゃな。アイテムを貰っただけだと割に合わねぇ」
(くっ。こいつ……ッ!)
名案だと、そう最悪の遊び心を見せる男にとって、俺の命など暇潰しの道具程度にしか価値が無いことが嫌というほど伝わってきた。右手の大型ダガーをだらりと下げながら仲間にカウントを指示する男には、余裕はあっても油断は無い。否応なしに伝わる実力差に、ガリっと奥歯が軋んだ。
相手が約束を守る保証など何処にも無い。なら、ここは一か八かの賭けに出る。話ながら逃げる算段を付けていた。幸いなことに渓流を背にしている今なら――、
「ああ、一つ良い忘れていた」
しかし、俺の考えなど浅はかで無駄な抵抗でしか無かった。
「もし逃げようとしたり、知り合いに救援を求めるような事をしたら、その時点でゲームは終了だ。例えば、その川に飛び込むとかな」
「くそっ!」
行動を読まれていた事に悪態を吐く。
《圏外》に指定されているフィールド下で水に潜る場合、プレイヤーは一定のHP消費を対価に潜水をする事が出来る。残りHP45の身では完全に諸刃の剣だが、渓流の勢いと完全習得した《隠蔽》を駆使すれば姿を眩まし、その隙に助けを呼ぶなり逃げ出すなり出来たかもしれない。
その作戦が、木っ端微塵に打ち砕かれた。
「――さあ、ゲーム・スタートだ。Good-Luck」
そして戸惑う姿にもお構いなしに、俺にとってのデスゲームが開始される。
男は俺から十五メートルほど距離を置いて出方を窺っている。得物を構えてすらいない。髑髏男はウィンドウの時刻表示でカウントしながらニマニマ笑っている。
完全に遊んでいた。
「……オイ」
「メッセージじゃない、黙って見てろ」
男の剣呑な呟きに気丈に振る舞ってから、手元に視線を戻す。メッセージを打てば手の動きで分かるからか。それとも助けを呼んでも到着前に俺を始末して逃走する自信があったからなのか、男は警戒する素振りは見せてもそれ以上咎めなかった。
(ありがたい)
最初の関門を突破出来た事に安堵しつつ作業に集中する。メニュー画面の深い階層に潜り、目当てのボタンを八つ当たり気味に力強くタップした。
その項目は《所有アイテム完全オブジェクト化》。
既に所有アイテムがオブジェクト化されていてもやる理由。それは装備アイテムの所有者権限にあった。
他者に装備可能アイテムを手渡すか拾われたりした場合、そのアイテムの所有者情報が上書きされるまでに掛かる時間は五分と短い。しかし、それが装備フィギュアに登録されていた武具となると、時間は一時間に延長される。
その間は、例え敵に奪われアイテムストレージに埋もれていても、どこにあろうと俺のアイテムとして認識される。
一見無意味に見える完全オブジェクト化は、手元に装備を引き寄せ――、
「え、そんな……何でっ!?」
装備は手元に現れなかった。アイテムを貰っただけだと割に合わない、そう言っていたにも関わらずだ。呆然としていると、途切れ途切れの掠れた声が耳に入る。
「俺が、殺す前に、奪ったのは、貴様の装備品以外、だ」
「だとよ。残念だったな」
奴等は、こうなる事を想定していた。だからこのタイムゲームを持ち出したのだ。気付けば、唇を強く噛み締めていた。そして、
「――三十秒、経過」
「くそッ!」
無情に告げられる時間経過に悪態を吐き、無我夢中で駆け出す。目指すは少し離れた所にあるアイテム群だ。意図が分かったせいか男達も邪魔しない。
鍛えた俊敏性を生かして散らばったアイテムの元へ辿り着いた俺は、刻一刻と迫るタイムリミットに戦々恐々としながらハイポーションの小瓶を発掘して瞬時に飲み干す。次第に命が回復していく感覚に浸り、浮かれる余裕も見せないまま、猛然と黒ポンチョの男目掛けてダッシュした。
(やる……やってる、死なない、死んでたまるかっ!)
このゲームに勝てば見逃すと奴は言った。例え勝利出来ても約束を守るとは思えないが、万に一つ、億に一つはあるかもしれない。現状ではゲームに乗るしか無いのだから、全身全霊を込めてアイツを倒す。
それこそ一ダメージどころか致命傷を負わせ、あの時のグルガの様に心を折って退散させてやる。恐怖の代わりに、闘争本能を持って心を震わせる。その意気で飛び出した俺の右手が黄色のライトエフェクトに包まれたのは直ぐの事だった。
短剣上位ダッシュ技《ミラージュ・ファスター》。
緩急をつけた動きで敵を惑わし、すれ違い様に高速で三連撃を放つ技。トップスピードから一瞬だけ減速、コンマ数秒以下で急速し、また減速するのを繰り返し目を欺く。手が霞む勢いで宙を踊る刃は袈裟懸けと降り上げのラインを一瞬で刻み、すれ違った瞬間、瞬時に逆手に持ち替えた刃が無防備な背中を襲った。
人間には不可能の速さで繰り出す最速の連続攻撃に、男はその場から足を動かす事も出来なかった。
「Wow、速い速い」
――否、足を動かす必要が無かった。
「……そ、んな……アレを防ぐなんて……」
称賛の言葉も耳には届かない。先程の攻防が信じられず目を見開く事しか出来なかった。
あの瞬間、男は俺の動きに惑わされず正確に姿を追い、最初の二連撃を完璧に受けきり、背後からの一撃を身体を僅かに逸らす事で完全に避けきってみせた。
しかもソードスキルも使わずにだ。
男とは十メートル程の距離を置いて立ち竦む俺に、掠れた声が届く。
「あと、二分、だ」
瞬間、
「あ…………うぁああああぁあああぁッ!?」
予想に違わぬ圧倒的な実力差に精神の均衡が保てなくなり、獣の様に雄叫びを上げながら無我夢中で突撃をかます。我武者羅に繰り出したソードスキルが相手に当たる筈もない。冷静さに欠けた単調な一撃を、男は難無く防いでいく。
降り下ろしの一撃は大型ダガーの刃に阻まれ、数々の連続技もその都度ダガーが閃き、互いの間で火花を散らすだけに止まる。《体術》スキルによる攻撃も、男の回避能力の前には意味を成さなかった。相手は一度もソードスキルを使わずに攻撃を回避する。
それは更なる絶望をその身に刻ませる。
避けられた技は周囲にあった大岩を打ち砕き、瓦礫を量産して広場を作りながら不発に終わっていく。
残り一分、五十、四十、三十、ニ十。刻一刻と迫る終焉の時。
その中、
(これがラストチャンス!)
俺は虎視眈々と仕掛けるチャンスを窺っていた。自暴自棄になったと見せ掛けて単調な攻撃を繰り返したのも全ては最後に賭けたため。そして慎重に仕掛けた伏線が功を成す時がきた。
「チッ……」
初めて男は驚愕の顔を露呈させた。顔面目掛けて蹴り上げられた瓦礫を鬱陶しげに手で払い、叩き落とした時には、既に俺は男の背後に回っていた。しかも相手は姿が見えないことに動揺したのか、瓦礫に足を滑らせて僅かに体勢を崩している。その隙は逃さない。
短剣上位連続技《スター・クリムゾン》
紅く煌めく刃は袈裟懸けに振り上げられ、直後逆袈裟に降り下ろされる。そのまま瞬時に逆袈に振り上げ、横一文字を敵に刻み、ラストは袈裟懸けに降り下ろす。紅色に染まる星を描いた。
だが、しかし、
「残念だったな」
時間にして僅か二秒にも満たずに閃いた刃を振り向き様に防いでみせるのだから、本当に人間離れした反射神経と超絶技術だ。火花を計五つ散らし、金属音を五回響かせ、黒羽からは紅い光が失われる。迎撃したせいで男の右腕は後方まで伸ばされ、対して俺は勢い良く刃を降り下ろした事で前屈姿勢みたく上半身が傾いている。
だから男は、俺が笑っている事に気付かなかった。
「これで終わりだぁああああああああっ!」
降り下ろした勢いを止めず逆らわずに上体を捻り、左足を浮かせる。ハイキック気味に放たれた渾身の回し蹴りが、急な体勢での迎撃着後で動けない男の脇に襲い掛かった。
「どうだ! 一撃入れたぞ馬鹿野郎ッ!」
反射的に左手を挟まれたが蹴りを殺しきれていない。HPを数ドット分減少させて三歩後方によろめいた男から距離を取りつつ、現実を突き付ける。残り時間は十二秒。余裕を持って俺の勝ちだ。
「……くっくっく、なるほど」
男は、笑う。
心底楽しみ、感心した様に笑い、一撃を入れた俺を褒めてくる。
そして残り時間が二秒になった時、
「だがしかし――惜しかったな」
――HPが、自動で回復した。
「あ……」
茫然自失というのはこの事を言うのだろう。髑髏男のタイムアップ宣言にも反応を見せず、満タンまで緑のゲージで満たされたHPバーを呆然と見詰めていた。
(そうだ……何で俺は……)
俺は馬鹿だ、大馬鹿だ。
その場で笑うだけだから油断していた。
一撃を叩き込む事に夢中になり失念していた。そのスキルの存在を。
「戦闘時……回復スキル……」
十秒毎に一定量のHPを回復させる高等スキル。
そして愉快に嗤う男の口許。左方から聴こえる笑い声に確信した。
足を滑らせたのはわざとであり、元々軽くだが一撃は貰うつもりだったのだ。
俺は、まんまと掌で踊らされていたのだ。
実力も、頭脳も、その全てが俺の遥か上を往く。
「さて、三分だったが……Wow、残念ながら俺のHPは満タンだ」
心を凍り付かせる美声にビクッと肩が震え、次いで手から黒羽がこぼれ落ちた。
カランッという音を魂の抜けた表情で聴きながら膝から崩れ落ち、正座する様に項垂れ、両手が力無く垂れ下がる。
――今度こそ、心が折れる音が聴こえた。もう、立ち上がる気力も湧いてこない。
「ぁ……ッ!?」
直後、涙で濡れる視界を紅の閃光が染め上げ、同時に両肩と胸に衝撃を受けて吹き飛ばされ、後方にあった大岩に当たり背を預ける形で停止する。
同じ短剣使いだからこそ分かる。あれは敵を横一文字に切り裂く短剣上位技《ラインダスター》だ。
装備とレベル差から見る見る内にHPが減少し、その減少は全損する僅か手前で停止する。
その様を、俺は両手足を投げ出しながら他人事の様に眺めていた。
死神が一歩ずつ近付く度に寿命が縮まる。それでも、もう逃げる気力も無かった。
(…………そういえば、前にもこんなことあったっけ)
男の姿が巨大な骸骨剣士と被る。あの時はそう、女神様が助けてくれた。
(……アスナさん……逢いたいなぁ)
アスナさんだけではない。当然ながら父ちゃんと姉ちゃん、サーシャ先生に教会家族、師匠、シリカ、クライン、風林火山の皆、そして――、
「仲直り……出来なかった」
呟きはソードスキルの輝きと効果音に掻き消される。
短剣上位技《グランファル・エッジ》。
三秒というチャージ時間を経て短剣にしては絶大な破壊力を繰り出す高威力技。目の前でダガーを振り上げる男の手元に紅い光が集い、ついに臨界を迎えた。そして、無情にも凶刃が降り下ろされ――、
――降り下ろされる直前、ガツンッという衝撃音を耳にした。
発信源はダガーの根元。そこに重たい衝撃音のした通り、何か黒くて細い物体が青い光を帯びてぶつかっていた。
(あれは……ピック?)
記憶違いでないのなら、あれは投擲用の使い捨てピックで、知り合いが使っていた筈だ。
投剣スキルの一撃で技を解除された男は憎悪を込めて悪態を吐いた後に頭上を見上げ、直ぐにその場から跳び退く。直後、同じピックが何本も男がいた場所を貫いた。その内の一発は、見事相手の頬を掠めてHPを減少させている。投擲した人物は、後にこう語っている。上手く当たって良かった、と。
(誰だろ)
そう疑問に思い頭上を見上げようとして、影が射した。その影はどんどん大きくなり、それに応じて聴こえてくる雄叫びも大きくなる。ああ、男が迎撃せずに逃げたのは、誰かが近くに飛び降りているからだったのだと、なんとなくそう思った。それなら警戒して距離を置いても不思議はない。
その人物はピックを投擲しながら崖を飛び降りたらしく、また黒くて細長い槍を所持していた。あれの名は確か《シャドウ・オブ・ニードルランス》。二十九層のボスドロップ品にして、長さが三メートル程のユニーク品。名前に相応しい彼の人物が手に入れた槍。
そこまで考え、その姿を目にした途端、先程とは違う意味で涙が溢れた。
二十メートルの高さからから飛び降りた人物は頭から地面に突っ込み、激突する前に端っこギリギリまで握った槍の矛先を強く地面に突き刺す。
刺した瞬間に当然身体は減速し、そのまま慣性に逆らわず、勢いを殺さぬまま両手を放し、限界まで身体を丸めて宙返りをし、そして着地。
その僅かな間に目の前の黒剣士は手元のウィンドウを操作して《クイックチェンジ》をタップ。槍の代わりに業物の片手剣を背中に出現させている。
強引に無傷のまま二十メートルを飛び降りた男は黒髪で中肉中背。けれども黒コートの裾をはためかせている背中は大きく、絶体絶命のピンチに颯爽と駆け付けた彼――俺にとって永遠のヒーローで、兄貴分で、友人でもある黒の剣士キリトは、
「お前達――シュウに何をした」
燃え上がる激情の業火に身を委ね、勢い良く剣を抜き放った。
短くまとめるつもりがかなり長くなりました。添削の力が欲しいです。
短くする詐欺ですね。そして予定をオーバーして申し訳ありません。
あと何度推敲しても誤字脱字が無くなりません……何故でしょう。恥ずかしいけど音読までしているのに……
PoHさんの口調がいまいち分からない。こんなので良いのでしょうか。
日に日に執筆作業がより難しくなっている気がします。
今後は、なんとか一ヶ月以内には更新したいと思ったりしてます。