続・プレイボール ーちばあきお「プレイボール」続編ー   作:物語の記憶

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第53話 どうした谷口!?の巻

1.かみ合わない攻守

 

 

 二回裏。左打席には、東実の七番打者中井が立つ。

「……あ」

 カーブを投じたはずの松川のボールが、すっぽ抜けた。うっ、と倉橋は顔を歪めた。ボールはそのまま打者の脇腹に当たる。

「デッドボール! テイクワンベース」

 アンパイアのコール。山井は痛がる素振りも見せず、無言で一塁へと駆け出した。

「た、タイム」

 倉橋はアンパイアに合図して、マウンド上に駆け寄る。

「おい松川。なんだよ、いまのフォームの崩し方は」

「あ、いえ……」

 二年生投手は苦笑いした。

「ちょっと雨が強くなってきたので、ボールがすべっちゃうような感じがして」

「なんでえ……てっきり指のマメが、つぶれたのかと思ったぜ」

 一つ安堵を吐息をつき、倉橋は後輩を叱り付ける。

「しかし、その足下はなんだよ」

「あっ」

 先輩の指摘に、後輩は苦笑いした。マウンドの土は、スパイクの跡で荒れに荒れている。

「すみません、うっかり均すのを忘れてました」

「む。それもあるが……おまえさっきから、ロージンバックを触るのも忘れてるだろう」

「そ、そうでしたね」

「しっかりしろよ松川」

 倉橋はポンと、松川の左肩に手をのせた。

「気合が入るのはいいけどよ。さっきから雨も強くなってきたし、これで失投して点を取られたら、元も子もないじゃねえか」

「は、はい。すみません」

 松川はバツの悪そうに、右手で軽く自分の頬を引っ掻く。

「あのな、松川」

 やや声のトーンを落とし、倉橋は話を続ける。

「東実がおまえに球数を投げさせて、疲れさせようってハラなのは、分かってんな」

「え、ええ」

「だったらおまえは、もう少しゆっくり投げろ」

 そうだな……と、吐息混じりに言った。

「少なくとも三球投げたら、一回は間を取れ」

「ボールを長く持つとかです?」

「ああ。しかし、毎回同じだと、相手に読まれてしまうぞ」

「えっ、じゃあどうすれば」

 谷口は「なんだよ松川」と、苦笑いした。

「いつもやってることじゃないか。ロージンバックを手に取ったり、わざとけん制球を何度も投げたり」

「あ、ああ……なるほど」

 松川は一度息を呑むようにして、数回うなずく。

「うむ。要は、少しでも時間を稼げってことさ」

 倉橋がポジションに屈み込んだ時、すでに次打者の八番鶴川が、右打席に入っていた。鶴川は、アンパイアが「プレイ!」とコールすると同時に、バットを寝かせて構える。

 ちぇっ、と倉橋はひそかに舌打ちした。

「やつらめ。まだ谷口と岡村を疲れさせるのを、諦めてねえな」

 初球。松川の投じた速球は、インコース高めに投じられた。谷口と岡村、さらに松川までもバント守備にダッシュする。鶴川はやはりヒッティングに切り替えるも、始めにバントの構えをしていた分、振り遅れてしまう。

 ガッ。小フライが、倉橋の後方へ上がった。

「くっ……」

 倉橋は斜め後方へ跳び付いたが、ミットの数十センチメートル先にボールが落ちる。

「あ、あぶねえ」

 打者はそうつぶやくと、その場で二、三回素振りしてから、右打席に入り直す。今度はバットを寝かせず、どうやらバットを短く握り直したようである。

「くそっ、もう少しだったな」

 一方、倉橋は悔しがりながらも、マウンド上へ「ナイスボールよ!」と声を掛けた。

「へへ、どうしてどうして。松川のやつ、だいぶウデを上げてきやがったな」

 その松川は、ロージンバックを左手に馴染ませながら、落ちつき祓った表情で次のサインを待つ。

「まさかあいつが、タマの球威で相手をねじ伏せられるようになるとは、思わなかったぜ」

 二球目も同じコース。インコース高めの速球を、鶴川は空振りした。

「ようし、この調子で」

 しかし敵もさる者である。続く三球目のカーブは体勢を泳がせながらファールにすると、以降の速球、シュート、カーブと投じられたタマをことごとくカットし、僅かに外れたボールは見逃す。

「……やれやれ。そうカンタンには打ち取らせてもらえないか」

 倉橋はわざとボールを長く持ち、少しでも松川を休ませようとした。やがて「そろそろいいか」と、マウンド上の後輩と目を見合わせサインを出す。

 松川はサインにうなずくと、すぐさま投球動作を始めた。左足を踏み込み、その指先から放たれた速球は、初球と同じくインコース高めを突く。

 ガッ。鈍い音がして、打球は三塁ベース近くのファールグラウンドに高々と上がった。

「オーライ!」

 谷口が周囲に一声掛け、顔の前で難なく捕球する。

「また松川の球威に助けられたぜ」

 溜息混じりに、倉橋は言った。

「しかし今の八番にも十二球。またこの回だけで、もう三十球近く投げさせられてる。そろそろ何とかしねえと」

 ほどなく次打者の九番倉田が、左打席に入ってきた。バントの構えはしないものの、かなりバットを短く握っている。

「まさか東実。九番バッターにまで」

 倉橋の予感は当たった。倉田はどの球種をどこのコースに投げられても、ストライクであればすべてカットしてきた。

「く……こいつ、まるで前へ飛ばす気がねえんだから」

 マウンド上。松川は膝に超手を突き、ハァハァ…‥と息を荒げる。倉橋は「ま、マズイ」と唇を歪め、アンパイアに合図してから後輩のところへ駆け寄った。

「バカ。もっとテンポを遅らせろと、さっき言ったじゃないか」

「す、すみません」

「いい加減分かったろう。やつら、マトモに打ち返す気ねえぞ」 

「は、はい……」

「ほれ。ゆっくりと、深呼吸するんだ」

 松川は両腕を水平に上げ、スーハーと深呼吸を繰り返す。

「も、もうだいじょうぶです」

 少し呼吸が落ち着いてきたらしく、松川はいつもの口調で言った。

「すみませんでした」

「……なあに」

 ふと倉橋は、苦笑いを浮かべる。

「すまねえのは、こっちの方だよ」

 正捕手が珍しく、弱気な言葉を吐いた。

「向こうのねらいが分かっていて、何ら対策を打ち出せずにいるんだからな……」

「なにをおっしゃるんです」

 ふっと微笑んで、松川は応える。

「まさか東実クラスのチームが、うちの投手陣を打ち崩すことより、球数を使わせて疲れさせようとしてくるなんて、思いもしませんでしたからね」」

 ですから、と二年生投手は囁く声で言った。

「どうすればいいのか、一緒に考えましょう。ほら、よく『三人寄れば文殊の知恵』と言うじゃありませんか」

 倉橋は、思わずククと笑い声を上げる。

「な、なにか?」

「いーや」

 訝しがる松川。その左肩を、倉橋はポンと叩く。

「ありがとうよ」

 

 

 倉橋がポジションに戻り、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。

「カウントはツーエンドツーだったな。ただ、つぎで何球目だったか」

 そう胸の内につぶやき、「つぎはコレよ」とサインを出す。

 マウンド上。松川は素直にうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。左足を踏み込み、グラブを突き出し、指先からボールを放つ。

「……あっ」

 インコース低めをねらったボールが、真ん中付近に入ってくる。明らかな失投だ。九番打者の倉田は、これを待っていたかのように強振した。

 パシッ。鋭いライナー性の打球が、右中間を襲う。

「まかせろ!」

 この日初めてセンターに入る久保が叫ぶ。そして斜め後方へジャンプし、背中をフェンスにぶつけながらも、大飛球を捕球する。

「……あ、アウト! チェンジ」

 駆け寄っていた二塁塁審が、右こぶしを高く掲げる。

 すでに一塁ベースを回り、二塁へと行きかけていた倉田は「ああ」と、悔しそうに天を仰ぐ。一方、倉橋は「やれやれ」と溜息混じりにつぶやく。

「速球のサインを出すべきだったな。しかし……あの松川が、こんな大事な時にコントロールミスするとは。やはり雨の影響か?」

 倉橋はふと、頭上を睨んだ。すでに上空は、隙間なく仄暗い雨雲に覆われている。

「ちぇっ。通り雨かと思いきや、むしろこれから本降りになりそうだな。かといって、ちょっとやそっとの雨じゃ中止にしてもらえないし……」

 ようやく立ち上がり、ベンチへと引き上げる他のナイン達の輪に加わる。

「それにしても……こんな悪天候の中、また四十球以上も投げさせられちまった。早く対抗策を考えねえと、後に響いちまう」

 

 

 

 

2.意地の足攻

 

 

 

 

「……ようし」

 三回表。この回先頭の八番松川は、右打席でバットを短めに握り、そしてホームベース寄りの白線ギリギリに立った。

「これで少しは、インコースに投げにくくなるはず」

 しかしマウンド上の松川は、構わず速球を内角に投じてきた。

「……うっ」

ズバン。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。

「ふふ、ありがちな手を使っちゃって」

 東実キャッチャーの村野が、小バカにするように言った。

「これぐらいでコントロールを乱すほど、うちの投手陣は甘くないぜ」

 挑発的な物言いに、松川は唇を噛む。

 マウンド上へ、村野が「つぎはココよ」とサインを出す。倉田はすぐにうなずき、テンポよく二球目の投球モーションへと移る。

 インコースのさらに高め。しかし倉田がボールを指から放った瞬間、松川はバットを斜め横に寝かせた。

「せ、セーフティバント!?」

 マスクを脱ぎ、村野は叫んだ。ボールは三塁線を緩く転がる。

「おおっ」

 墨高ベンチより歓声が上がる。

 倉田は慌ててマウンドを駆け下りるが、間に合わず。しかしサード中井が「まかせろっ」と、鋭いダッシュから左手のグラブだけで捕球する。そして素早いフィールディングから、一塁へジャンピングスロー。

 打者走者の松川は、ヘッドスライディング。間一髪のタイミング。

「……あ、アウト!」

 塁審のコールに、一塁側ベンチとスタンドから「ああ……」と溜息が漏れる。

 村野はマスクを左手に、マウンド上の倉田と目を見合わせる。あぶなかったぜ、と声にならないつぶやきを漏らすと、倉田も苦笑いで応じる。

 その時だった。

「タイム!」

 ライトのポジションより、エース佐野が塁審に一言合図してから、険しい表情で駆け寄ってきた。

「村野、倉田。ちょっとくるんだ」

 バッテリー陣の三人が、マウンド上に集まる格好となる。

「おまえ達、セーフティバントはまったく予想してなかったようだな」

「は、はい。すみません」

「まあ中井のおかげで、事なきを得たがな」

 正捕手の返答に、佐野は「バカいえ」とさらに厳しい顔つきになる。

「村野。きさま、何年キャッチャーやってんだ。向こうはここまでノーヒット、しかも打順が下位となれば、何らかの奇襲(きしゅう)を仕かけてくることぐらい、予想できたろうが。それでなくても、相手はあの墨谷なんだぞ!」

「……す、すまん」

 ややうなだれて村野が応えると、佐野は「なあ村野」と、今度は穏やかな口調になる。

「この試合は、一点の重みがきのうまでとは全然ちがう」

「う、うむ」

「ちょっとした気のゆるみが、命取りになりかねん。だから村野。おれと同じく墨高の連中を知りつくしてるおまえには、がんばってもらわなきゃ困る」

 いいな、とエースは付け加えた。

「おれがリリーフするまで、この試合の要はおまえなんだぞ!」

「……わ、分かった!」

 激励の言葉を受け、村野の顔に再び闘志が灯る。

 

 

 一塁側ベンチ。その左奥のドアから入ってきた井口は、他のメンバーの様子を気にしながら、試合開始よりずっと相手投手を観察している、半田の背後に腰を下ろした。

「おや、半田さん」

 軽口で声を掛ける。

「珍しいっスね。スコアブックを書かないなんて」

「うん。今日は鈴木君が書いてくれると、約束してくれたんだ。おかげで、ぼくは東実バッテリーの攻りゃく法を探すのに集中できるよ」

「な、なるほど。そりゃ何よりで」

「……ところで、井口くん」

 ふいに半田が、声のトーンを落として言った。

「ずいぶん長いトイレだったね」

「えっ」

 童顔な先輩の予期せぬ一言に、井口は思わず慌てる。

「あ……心配かけちゃいましたか。実はおれも、今朝からおなかを壊し気味で」

「へえ、そりゃ大変だ」

 なぜか感情のない声で、半田はこちらに振り向く。

「だったらすぐ医務室に行かないと。あっ、交代はだいじょうぶ。根岸君もいるし」

 井口はつい口をつぐむ。すると、半田はやがて「知ってるよ」と、囁き声で言った。

「きみもまだ、右足が痛むんでしょう?」

「あーっ、それはちょっと……」

「心配しないで。気づいてるのは、ぼくだけだから」

 そう言って、ようやくいつもの優しげな笑みを浮かべた。しかしすぐに、その表情を引き締める。

「は、半田さん。なにを……」

 パシッと、鋭い打球音が響いた。ベンチの数人が「おおっ」と立ち上がる。九番打者久保が放ったライナー性の打球が、左中間を襲った。

「やったぁ!」

「いけ、抜けろ……ああ」

 一瞬抜けるかに思われたが、レフト鶴川が駿足を飛ばし、左腕を目一杯伸ばしてグラブの先で捕球する。これでツーアウト、ランナーなし。

「ちぇっ。きのう村井からサヨナラホームランを打っている久保だから、ちと期待したんだが。やはり倉田、タマの伸びがちがうぜ」

「でも球種が分かってれば、井口くんなら外野の間を割れるんじゃない?」

「……えっ」

 またも思わぬ一言だった。井口は半田の正面に回り、屈んで囁き声で尋ねる。

「どういうことスか? まさか……半田さん、やつのクセを」

「シッ!」

 半田は唇の前に人さし指を立て、早まる井口を制す。

「……まだ確証があるわけじゃないんだ。でも、井口くんならできると思ってね。きのうだって、谷原のバッターのクセを見抜いたわけだし」

 そう言うと、半田は「ちょっと耳を貸して」と大柄な後輩に促した。

「は、はい。こうスか?」

「うん。それでね、確かめて欲しいことというのは……」

 井口の耳元で、半田は何事か囁く。

「……ほ、ほんとスか?」

 後輩は目を丸くした。

「だから、まだ確証はないんだってば」

 苦笑いして、童顔の先輩は応える。

「もし間違っていたら、周りに変な期待を持たせちゃうことになるし。でもぼくの考えが正しければ、あの倉田を一気に攻りゃくできる。試してみる価値はあると思うのだけれど」

 よっしゃ、と井口は鼻息を荒くする。

「まかせてください。あの涼しそうな顔、昨年と同じく泣き顔にしてやりますよ!」

「うん。たのもしいのは、いいんだけど……」

 半田は苦笑して、話を付け加えた。

「それで右足をもっといためたら、キャプテンに交代を進言しなきゃいけなくなるから、よくよく気をつけてね」

 あらっ、と井口はずっこける。

 

 

 

 

 一塁側ベンチ前列にて、キャプテン谷口はひそかに溜息をついた。

 彼の周囲では、チームメイト達がグループになったり、二人組になったりして、何やら話し込んでいる。

「あのスピードとコントロールだな」

「いや……速球とカーブに、まるでフォームのちがいが見られないのが厄介だぞ」

 会話に出てくる言葉から察するに、誰もが東実バッテリー攻略の足掛かりを探しているようだ。なにやってんだおれは……と、つい独り言をつぶやいてしまう。

「この決勝戦という大舞台でも、みんな自分のやるべきことを見失っていない。それに引きかえ、おれはチームの足を引っぱっているだけじゃないか」

 その時、ふいに「キャプテン」と声を掛けられる。顔を上げると、二番打者の丸井がバットを手に、生真面目な表情で立っていた。

「どうした丸井?」

「ちょっと提案なんスけど。向こうのバッテリーが、つぎのイガラシを敬遠したら、ぼくへの三球目にラン・エンド・ヒットのサインを出してもらえますか」

 グラウンド上では、そのイガラシがゆっくりと右打席に入っていく。そして丸井の言葉通り、東実のキャッチャーは立ち上がり、眼前の倉田へ「敬遠」の合図をした。

「くそっ、やっぱりそうくるか」

 丸井は一瞬忌々しげな顔になるも、すぐにまた生真面目な視線をこちらに向ける。

「向こうがイガラシを簡単に歩かせるのは、足攻をさせない自信があるからだと思うんスよ。でもそれを崩せば、やつらにダメージを与えられます」

 四球目の山なりのボールが、村野のミットに収まる。

「うむ、分かった」

 後輩の提案を、谷口は首肯する。

「しかし丸井。おまえの言うように、何かしらの手を打たないと、向こうのペースに引きずりこまれるだけだろう。だから……いいか、失敗してもいい。怖れず思いきりいけ!」

 キャプテンの言葉に、丸井は「分かりましたっ」と快活に返事した。

 

 

 一塁ベース上。イガラシの視線は、谷口と丸井が何事か打ち合わせする様子を捉えていた。なるほど、とつぶやき離塁していく。

「いくら倉田のけん制がすばやいと言っても、それでまったく足を使わなくなれば、向こうのバッテリーの思うツボになる。バッターとの勝負に集中されちまうからな」

 マウンド上。セットポジションに着いた倉田の体が、くるっと回る。

「……うっ」

 矢のような牽制球が低く投じられた。捕球したファースト中尾のミットが、流れるような動きでタッチにくる。イガラシはこれを掻い潜り、辛うじて帰塁した。

「まいったな」

 ポーカーフェイスを貫いているものの、胸の内につぶやいてしまう。

「こんな牽制がくるんじゃ、リードすらカンタンじゃねえぞ」

 それでもイガラシは立ち上がると、果敢に一歩、二歩とベースから離れていく。だがすぐさま、倉田がまたも素早い牽制球を投じてきた。

「おっと」

 中尾のミットから、ボールがこぼれる。しかしすぐに拾い直されたため、スタートを切るには至らず。

「フフフ」

 ベースタッチしながら起き上がろうとする頭上に、中尾の声が降ってくる。

「さしものアンタでも、あれだけのけん制をされちゃ、おいそれと走れないだろう」

「まあな」

 あっさり認めた後、毒を吐く。

「今のけん制。もうちょいスタンド近くまで転がってくれりゃ、話は別だが」

 中尾は無言ながら、青筋を立て「こんニャロ」とひそかにつぶやく。

 ほどなく、倉田は再びセットポジションに着いた。イガラシはまたも離塁したが、倉田は今度こそ本塁へ一球目を投じた。

大きなカーブが、アウトコースいっぱいに決まる。丸井はぴくりとも動かず。

「ナイスボールよ、倉田」

 村野からの返球を捕ると、倉田はちらっとイガラシを見たが、すぐさま投球動作へと移る。今度はアウトコース低めの速球。僅かに外れ、ワンボール・ワンストライク。

「さすが丸井さん。いい目してるぜ」

 感心しつつ、イガラシが再び離塁しようとした、その時だった。一塁側ベンチ前列の谷口より、手振りでサインが送られる。

「……む、ランエンド・ヒットか。たしかにあのボールじゃ、丸井さんでもミートするのは難しいだろう。しかし転がしてくれれば、コースによっては一気に三塁まで……」

 帽子のつばを摘まみ「了解」の合図を送る。右打席では、丸井も同じ仕草をした。

 だがその時、村野がこちらに目をやり、ニヤリと笑った。イガラシは唇を噛み、しまった……と胸の内につぶやく。

「サインがバレちまった。向こうのバッテリー、丸井さんの苦手コースを知ってる」

 何か合図しなきゃと、イガラシは束の間思案した。しかしすでに倉田は投球動作を始めており、間に合わない。

「くそっ……丸井さん、せめて当ててくれ」

 そう念じながら、イガラシはスタートを切った。

 一方、右打席の丸井。イガラシが駆け出すのを横目に、バットを短く構える。しかし投じられたのは、苦手なインコースの速球だった。

「やっぱりか。けど、それくらい読んでらいっ」

 丸井はオープンスタンスに切り替え、上から叩き付けた。

 カキッ。高いバウンドの打球が、ショートがベースカバーに入りがら空きとなった三遊間へ転がる。そのままレフト前へと抜けていく。

「う、うまい!」

 イガラシは二塁ベースを蹴り、さらに加速する。その間、東実のレフト山井が前進してようやく捕球し、そのまま三塁へ送球。しかし走者は、悠々と右足で滑り込んだ。

 ラン・エンドヒット成功。ツーアウト一・三塁となる。

「へん。苦手コースに投げりゃ、おさえられると思ったか」

 一塁ベースにて、丸井は鼻息を荒くする。

「おれっちを、墨高を、ナメんなよ!!」

 

 

 他方、東実。バッテリーと内野陣に加え、この日はライトを守るエース佐野の七人が、マウンド上に集まっている。

「すみません。ちょっと計算外でした」

 倉田が帽子を取り、頭を下げる。

「なーに、おまえだけのせいじゃねえよ。おれも、ちと安易だったぜ」

 キャッチャー村野が、倉田の右肩をポンと叩き、慰めるように言った。

「あの二番、インハイが苦手という情報だったが。まさかそれを逆手に取って、あえて打ちにくるとは」

「ハハ。二人とも、うろたえることはないぜ」

 妙に朗らかな声で、佐野が口を挟む。

「かえって好都合じゃねーか。こっちのねらいを、早いうちに達成するためにはな」

 エースの言葉に、他のメンバー達は目を見開く。

 

 

3.不振のキャプテン

 

 

 ネクストバッターズサークル。谷口は片膝立ちで、自分の打席が回ってくるのを待っていた。手前に転がるマスコットバットには、触れてさえいない。

「……うっ」

 前日に傷めた左足首が、また痛み出していた。フフ、と自嘲的な笑みが漏れる。

「これじゃ、まともにスイングするのは難しそうだ」

 視線の先では、ちょうどマウンド上に集まっていた東実ナインがタイムを解き、それぞれのポジションへ散っていくところだった。

そして次打者の三番倉橋が、ゆっくりと右打席へ入っていく。

「たのむぞ倉橋。おまえなら、ここで一本……えっ」

 次の瞬間、谷口は驚嘆の声を発した。それは彼だけでなく、周囲へもざわめきとして驚きや戸惑いの感情が広がっていく。

 東実のキャッチャー村野は、何とここで立ち上がり、打席を外したのである。

「け、敬遠だと!?」

 そしてマウンド上の倉田が、山なりのボールを四つ放る。敬遠四球、ツーアウト満塁。

「……くっ」

 谷口は、奥歯を強く噛み締めた。

「東実め。今日のおれは打てないと、踏んでいるのか」

 思わず勇んで立ち上がったが、またも左足首がズキズキと痛んだ。結局素振りすらできず、谷口は患部を庇いながら小走りで右打席に入る。

「さ……さあ、こいっ」

 バットを短く握り、精一杯の気合の子を発した。

「なんとしても、ここで先取点をもぎ取ってやる!」

 

 

三塁側ベンチ。東実監督は、小さく溜息をついた。

「まったく……佐野のやつ。あの谷口が左足を傷めているのを知ってて、酷なことを考えやがる。しかし双方の力量を考えれば、やつが正しいと言うほかない」

 眼前では、今しがた敬遠で出塁したばかりの倉橋が、三塁と一塁のベースコーチャーへそれぞれ声を掛ける。

「おい高橋、鳥海。分かってるだろうが、ツーアウトなんだ。ゴロが転がったら、すぐスタートを切るように合図するんだぞ」

「は、はいっ」

「分かってます」

 三人の会話に、東実監督は小さくかぶりを振った。

「気合はいいが……果たしてあの状態で、倉田のタマを打ち返せるかな」

 

 

 第一球。倉田は速球を、何と真ん中高めに投じてきた。

「く……」

 谷口は左足を踏み込んで打ちにいくが、その瞬間に激痛が走り、振り遅れてしまう。バットは空を切り、ワンストライク。

「谷口、ムリに強振しようとするな!」

 一塁走者の倉橋が声を掛ける。

「ピッチャー方向へバットを合わせていくだけでいい。おまえなら、それぐらいワケないはずだぞ」

「あ、うむ……」

 しかし続く二球目。東実バッテリーは、谷口の意図を見透かしたように、速球を今度はインコース高めに投じてくる。

谷口はまたも振り遅れ、ボールに掠ることもできず。そのまま尻もちをつき、一つ大きな溜息をつく。

「……た、谷口」

 今まで見たことのなかった相棒の姿に、倉橋は思わず口をつぐむ。

 ほどなく倉田はセットポジションに着く。そして牽制球すら挟まず、三球目の投球動作を始めた。今度はアウトコース低めへのカーブ。

「あっ……」

 谷口は、外への緩い変化球を追いかける格好になった。そのまま斜め前方へつんのめり、バットは空を切る。

「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」

 アンパイアのコールが、どこか遠くに聴こえた。

 

 

 二塁ランナーの丸井は「キャプテン……」と悲しげにつぶやく。また一塁ランナーの倉橋は、無言で小さくかぶりを振った。

 一方、三塁ランナーのイガラシは、谷口が三振に倒れた瞬間、ポーカーフェイスのままベンチへと駆け出す。

 ナイン全員がダッグアウト手前に集まると、谷口は開口一番「みんなスマン」と頭を下げた。

「二度もチャンスをもらっておきながら、むざむざと……」

「キャプテン!」

 ややきついとも思える口調で、イガラシが話を遮る。

「そういうのはいいので。このウラの守備で、大事なことを確認しましょうよ」

「あ……そっ、そうだな」

 キャプテンは表情を引き締め、改めて全員の顔を見渡す。

「東実は三回までのファール攻めで、松川にかなりの球数を投げさせている。それでも松川は、ここまでよく踏んばってくれているが、そろそろ疲れが出てくる頃だろう」

 その松川は肩を上下させつつ、黙ってキャプテンの話を聞いていた。さすがに疲れていることは否定できないらしい。

「彼ががんばってくれた分、ここからは守備で何とかして助けよう。そして、なるだけ良い形で、イガラシに継投できるようにしよう。いいな!」

 ナイン達は「オウッ!」と、いつも通り元気よく応えた。

 

 

「おいイガラシ」

 ショートのポジションに着こうと駆けていくイガラシに、丸井が明らかに憤りのこもった声を掛ける。

「丸井さん、なにか?」

「なにか、じゃねーよ」

 そう言って、後輩を睨み付ける。

「さっきの言い方、ちとキャプテンに失礼じゃねーか。あの人なりに、おれらに気を使ってくれたってのによ」

「あの人が気を沈めてちゃ、ダメなんですよ」

 イガラシはきっぱりと言って、さらに付け加える。

「キャプテンを気落ちさせることも、東実の作戦なんですから」

 その一言に、丸井は「なんだって」と目を丸くする。

「まあよく考えてますよね。ぼくら一、二番がチャンスを作っても、クリーンアップで得点できない。そうなると、他のバッターが凡退するよりも、チームとしてずっとダメージを喰うことになりますから」

「……おいおい、ちょっと待て」

 イガラシの説明に、丸井が顔を引きつらせた。

「やつら始めから、キャプテンをねらい打ちに」

 ええ、とイガラシはあっさり答える。

「前の試合で足をケガしたのは、やつらも分かってたでしょうからね。ターゲットにもしやすかったでしょうし……何より、うちは谷口さんが作り上げてきたチームです」

「な、なるほど」

 顔を引きつらせたまま、丸井は言った。

「谷口さんが大事な場面で打てなくなれば、単にチャンスを逃すというだけじゃなく、それ以上におれっちらの士気を下げることができるというわけか」

「そういうことですよ」

 イガラシは、厳しい表情で答える。

「だから……さっきみたいな場面で、ぼくらが動揺してちゃいけないんですよ。他のメンバーで、あの倉田と佐野を攻りゃくするくらいの気持ちじゃないと」

「……わ、分かったよ」

 最後は神妙な顔つきで、丸井はうなずいた。

 

 

 

 三塁側ベンチ。東実監督は、レギュラー陣をベンチ奥に集めた。

「この三回裏より、早打ちを解禁する」

 束の間ナイン達がざわめく。ベンチ内が再び静まり返ってから、監督は話を続けた。

「松川は疲れてくると、速球が高めに浮く。それをねらい打て。いい塩梅に、四回は上位打線からだ。ピンチをしのいだ直後でもあるし、ここで得点できれば、墨谷に大きなダメージを与えることができるぞ」

 そう言って、監督はさらに付け加える。

「おまえ達も分かってるだろうが、ねらいはもう一つある。これを実行するためには、そろそろ松川をマウンドから引きずり降ろさなきゃならん」

 監督はふと、小さく溜息をつき苦笑いを浮かべた。

「正直……あまり気持ちのよい作戦ではないと思う。それもこれも、最後に勝利を手にするためだ。はっきり言って、墨谷は強い。かといって、そう簡単に甲子園切符をゆずるわけにはいかんだろう」

 今度は深く溜息をつき、監督は少し声を大きくして言った。

「もう一度言う――墨谷は強い。しかし最後に勝つのは、われわれだ。いいな!」

 指揮官の檄に、東実ナインは「ハイ!」と力強く応える。

 

 

 

 キャッチャー倉橋は、なおもしとしとと雨が降り続ける神宮球場の上空を、恨めしげに仰ぐ。

「ちぇっ、中途半端な降り方しやがって。いっそ土砂降りになってくれた方が、グラウンド整備も入るし、その間休めるんだがな」

 この回、東実の先頭打者は、五番中井である。ゆっくりと打席に入り、バットを短く握って構える。

「まあ……バント攻めがなくなった分、守りやすくはなったが」

 そう胸の内につぶやき、倉橋はマウンド上の松川とサインを交換する。

「今のところ、松川のボールの威力がまさってる。この調子でいきたいが……」

 初球。松川はワインドアップモーションから、速球をインコース低めに投じた。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。

「フウ。まだ指先のマメは、だいじょうぶそうだな」

 倉橋はひそかに安堵して、二球目のサインを出す。

「つぎはココよ」

 む、と松川はうなずき、テンポよく投球動作へと移る。

 今度はアウトコース低めの速球。しかしボールは、要求した高さよりも僅かに浮いてきた。倉橋が唇を歪めた、次の瞬間だった。

 中井がおっつけるようにスイングする。

 パシッ。打球は低いライナーで、一・二塁間の真ん中を破った。ライト前ヒット、ノーアウト一塁。

「な、なんだと」

 倉橋は立ち上がってマスクを脱ぎ、東実ナインの陣取る三塁側ベンチを睨む。

「やつら、もうファール攻めはやめたってのか」

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