続・プレイボール ーちばあきお「プレイボール」続編ー 作:物語の記憶
野中:中陽高校野球部エース。威力ある快速球と多彩な変化球を持ち味とする右の本格派投手。バッターとしても四番を務める実力者。今夏で三季連続の甲子園出場。昨夏四強、今春は八強で敗れており、今夏こその全国優勝を目指す。
小山:中陽の正捕手。負けん気の強さと冷静さを併せ持つチームの扇の要。打者としても五番を務める強打者。
中陽監督:中陽高校野球部を率いて過去何度も甲子園の土を踏んできた名監督。智将として知られ、知略で墨高バッテリーを追い詰めていく。
常盤:中陽の三番を務める強打者。右翼手としても好守が光る。
秦野:中陽の控え投手。変則投法で相手打者を幻惑する。
柴田:俊足巧打のトップバッター。中陽不動の遊撃手。
1
甲子園球場には、なおも厳しい日差しが降り注いでいた。
三塁側ベンチ手前。これから四回表の攻撃へと向かう墨高ナインは、キャプテン谷口を中心に円陣を組む。
「当たり前のことだが、野球はプレーヤーがやるものだ」
朗らかな表情で、谷口は話を始めた。
「いかに中陽の監督が手ごわいといっても、戦うのは監督じゃなく選手だ。相手を間違えることなく、われわれが今まで身につけてきた力を発揮すれば、必ずばん回できる。いいかみんな!」
谷口は語気を強めて言った。
「ここからが本当の勝負だ! 臆することなく、自分達の力を相手にぶつけよう! いいな!!」
キャプテンの檄に、ナイン達は「オウヨッ」と力強く応えた。
一方、一塁側ベンチ。絶好機を逃した中陽ナインの面々は、一様に目を宙に泳がせ、明らかに落ち着きなさげだ。
「さ、さあ。しまっていこうよ!」
キャッチャー小山の声掛けに「オウッ」と応えるも、どこか覇気がない。
「まて、おまえ達!」
ベンチ後列より、監督が腕組みしたまま怒鳴った。グラウンドに向かいかけていた中陽ナインは、立ち止まり振り向く。
「深呼吸しろ」
指示に従い、ナインはその場でフースーと数回深呼吸した。
「よし、もういいようだな」
監督は穏やかな口調で言った。ナインは神妙な表情で、監督の言葉を待つ。
「そうカンタンに、甲子園の準々決勝を突破できると思うな」
ハッとしたように、小山と野中、中陽ナインは互いに目を見合わせた。監督はさらに話を続ける。
「かといって、あせる必要はない。相手どうこうより、まず自分達のプレーをすることだ。いつもどおり、しっかりとな。いいかおまえ達!」
語気を強めて、監督は言った。
「われわれは優勝するためにここに来た。今こそ中陽の力を見せつけてやれ! いいな!!」
指揮官の檄に、中陽ナインは「ハイ!」と声を揃えた。
「三番からだ。しっかり守っていこうよ!」
キャッチャー小山がホームベース手前に立ち、掛け声を発した。すでに守備位置に就いていた中陽ナインは「オウッ」と快活に応える。
三塁側アルプススタンドでは、反撃を期して墨高応援団の応援が始まっていた。
―― フレー、フレー、すーみーこう! フレー、フレー、すーみーこう!!
数人の応援団員が学ラン姿で前列に立ち、汗だくになりながら懸命にスタンド全体の応援をリードする。
マウンド上。野中は、左手にロージンバッグをパタパタと馴染ませていた。
「野中。リキまずいこうよ!」
小山が声を掛けると、野中は「む」とうなずく。そして小山はマスクを被り、ホームベース奥に屈む。
(ノーアウト一、二塁から無得点たあ、ちと嫌な雰囲気だな。ここは三人でおさえて、また流れを戻さねえと…)
ネクストバッターズサークルでは、先頭打者の三番倉橋が、マスコットバットと通常の硬式用バットで素振りしている。カキ、カキと小気味よい音が鳴った。
やがてウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 四回の表、墨谷高校の攻撃は…三番、キャッチャー倉橋くん!
倉橋は右打席に入ると、足下をガッガッとスパイクで固めた。それから「こい!」と気合の声を発し、バットを短くして構える。
(まず、これで様子を見ようか)
小山が右手の指でサインを出す。野中は「なるほど…」とうなずき、すぐにワインドアップモーションから投球動作を始めた。グラブを突き出し、左足を踏み込み、右腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
外角低めの速球。倉橋は「おっと」と一瞬バットを出しかけるも、見送る。ズバン、と小山のミットが鳴った。
「ボール!」
アンパイアのコール。小山は「うーむ」と、渋面になる。
(打ち気にはやってくると思ったが、しっかり見きわめやがったか)
しかたない、と小山は次のサインを出す。
(ちと揺さぶっていくか…)
野中は「む」とうなずき、テンポよく二球目の投球動作へと移る。左足を踏み込み、右腕をしならせる。
今度は外角のカーブ。くくっと弧を描くように大きく曲がる。
「いまだ!」
倉橋はスイングした。パシッ、と快音が響く。
「なにっ」
野中が顔をしかめた。痛烈なライナーがファースト頭上を襲う。しかし打球はスライスし、ライト線の外側でバウンドした。
「ファール、ファール!」
一塁塁審がコールしながら、両手を一塁側アルプススタンド側へ掲げる。ホッ、と小山は安堵の吐息をつく。
(あぶねえ。こいつ、カーブをねらってやがったのか…)
一塁へ走り出していた倉橋は、「くそっ」と唇を歪めつつ打席へと引き返す。
(ねらってたのに、ちと振り遅れちまった……)
それでも三塁側ベンチの墨高ナインは、惜しい当たりに活気づく。
「おしかったぞ倉橋! その調子でねらっていけ!!」
戸室が前列で叫ぶ。傍らで、横井も声を枯らす。
「遠慮するこたあねえ! 墨谷の底力、見せてやれ」
さらに後続の谷口が、ネクストバッターズサークルより檄を飛ばす。
「それでいいんだ倉橋! ねらいダマをしぼって、打ち返せ!」
仲間達の声援に、倉橋は「おうっ」と力強く応えた。そして打席に戻り、再びバットを短くして構える。
沸き立つ相手に、小山はマスクを被り直し「フン」と鼻を鳴らす。
(たかがファールで騒ぎやがって、おめでたいやつらだぜ!)
そして右手の指で、三球目のサインを出す。
(また速球で、おどろかせてやろう)
ところが、野中は首を横に振った。
(おまえがムキになってどうする。やつらの思うツボだぞ)
あ…と、小山は苦笑いする。
(すまん、打たせていくんだったな)
小山が「じゃあこれで」とサインを変える。野中はうなずき、またもワインドアップモーションから投球動作を始めた。左足を踏み込み、右手の指先からボールを放つ。
スピードを殺したボールが、真ん中低めに投じられた。さらにホームベース手前ですうっと沈む。
「う…」
倉橋は上体を泳がせてしまう。それでもバットをはらうようにして、辛うじて先端をボールに当てた。ガッ、と鈍い音。打球は三塁側ファールグラウンドを転がっていく。
「フウ、あぶねえ…」
今度は倉橋が安堵する。傍らで、小山が「ちぇっ」と舌打ちした。
(ファールにされたか。三番だけあって、なかなかいい反応しやがる)
倉橋は一旦打席は外し、二回素振りした。ビュッビュッ、とスイング音。
(たいしたピッチャーだ。速球と変化球の腕のふりが、まるでちがわねえんだから…)
アンパイアに「どうも」と合図して、倉橋は打席に戻る。
その後、倉橋はさらに三球続けてファールにした。打球は一塁側スタンドと三塁側スタンド、三塁側ベンチにそれぞれ飛び込む。
(こいつ……)
マウンド上で、野中は唇を歪める。
(何度もファールに逃げやがって。どうせ打てないのなら、おとなしくアウトになりやがれ!)
すかさず小山が「野中!」と声を掛けた。マウンド上のエースは、ハッとして我に返る。
(まったく、調子がくるうぜ…)
横目で打者を眺めつつ、小山は胸の内につぶやいた。
(リードこそしてるが、どうにも思うようにいかない雲ゆきだな……)
束の間思案の後、小山は六球目のサインを出す。野中が「えっ」と目を見開く。
(が、外角高めの速球だと?)
そうだ、と小山は目で返事する。
(ちとキケンだが、変化球はカットされるし、ボール球は見きわめられる。打ち取るには、速球をストライクに投げこむしかあるまい)
野中は「うむ…」と渋面ながらもサインにうなずき、投球動作へと移る。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角高めの速球。倉橋はバットをおっつけるようにしてスイングした。
パシッ、と快音が響く。ライナー性の打球が右中間を襲う。三塁側ベンチの墨高ナインが「オオッ」と沸きかける。
しかしライト常盤が斜めに背走しながら、グラブの左手を目いっぱい伸ばし捕球した。今度は一塁側アルプススタンドの観衆が、ワアッと沸き立つ。
「くそっ」
走り出していた倉橋は、唇を歪め引き返す。三塁側ベンチとスタンドから「ああ…」と落胆の声が漏れる。
マウンド上。野中はホッと吐息をつき、「ナイスプレーよライト!」と声を掛けた。常盤は返球し、「やれやれ…」と苦笑いした。
「これで少しは、さっきのホームタッチアウトの埋め合わせができたってもんだぜ」
一方、小山はマスクを被り直し、一人渋面になる。
(手こずらせやがって…)
小山の視線の先。凡打に倒れた倉橋が、ネクストバッターズサークルに控える次打者の谷口に声を掛ける。
「わりい谷口、出塁できなくってよ」
「しかたないさ。ありゃ向こうの守備がうまかったんだ」
谷口はそう言って微笑む。
「うむ。カーブをねらってたんだが、速球がストライクにきたもんで、つい手が出ちまって…」
「なーに。あれだけねばってくれただけで、じゅうぶんさ」
「たのむ谷口。なんとか反撃のチャンスを作ってくれ」
倉橋の激励に、谷口は小さく右こぶしを突き上げた。
「よしきた!」
マウンド上。小山は右手にロージンバッグをパタパタと馴染ませる。
―― 四番、サード谷口くん!
ウグイス嬢のアナウンスが響く。そして谷口が右打席に入ってきた。
「さあこい!」
気合の声を発し、バットを短くして構える。
(四番か…)
小山は横目で打者を観察する。
(さっきヒットされてるし、ここは慎重にいこう)
しばし考えた後、右手の指でサインを出す。
(まずこれよ)
む、と野中は前屈みでサインを確認し、すぐにワインドアップモーションから投球動作へと移る。グラブを突き出し、右手の指先からボールを放つ。
外角低めの速球。谷口は一瞬ピクッと体を動かすも、バットは出さず。ズバン、と小山のミットが鳴る。
「ボール!」
アンパイアのコール。小山は立ち上がり「ナイスボールよ!」と野中に声を掛け、ホームベース奥に屈む。そしてまた打者をチラッと見やる。
(手を出してくれりゃ、もうけもんと思ったが…さすが。いい目してやがる)
小山の傍らで、谷口も「やはり」と思案を巡らす。
(速球は見せダマにして、変化球で打ち取ろうとしているようだな。さっき倉橋にカーブをねらわれてるし、つぎ投げてくるのは…)
谷口の眼前で、野中が二球目の投球動作を始める。またもワインドアップモーションから、左足で踏み込み、右腕をしならせた。
スピードを殺したボールが真ん中低めに投じられる。それがホームベース手前ですうっと沈む。
「いまだっ」
谷口はバットをすくい上げるようにしてスイングした。パシッ、と快音が響く。低いライナーが二塁ベース上を襲う。
「う…」
野中が顔を歪め、振り向く。打球は飛びついたセカンド小倉のグラブを掠め、外野の芝の上で弾んだ。前進してきたセンターが、シングルハンドで捕球する。
センター前ヒット。オオッ、と球場全体が沸き立つ。
(しまった……)
小山はホームベース手前に立ち、険しい顔で右こぶしを握りしめる。
(今度はチェンジアップをねらわれた。墨高のやつら、打たせて取ろうっていう、こっちの意図に気づいてやがったのか…)
マウンドでは、野中が苛立たしげにガッガッと足下をスパイクで固めていた。
「へ…へい、ラクにいこうよピッチャー!」
「打たせていこーぜ!!」
周囲では内野陣が声を出すも、どこか表情が硬い。
「タイム!」
その時、中陽監督がメガホンを手に、一塁側ベンチから出てきた。そして「野中、小山! ちょっと来るんだ!」と、バッテリー二人を呼んだ。
野中と小山は互いに目を見合わせ、戸惑いながらもベンチへと向かう。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!
墨高応援団の大声援が降り注ぐグラウンド。野中と小山は一塁側ベンチ手前にて、監督と向かい合う格好になる。
「どうも計算どおりにいかないようだな」
監督は腕組みして、バッテリーに言葉を掛ける。
「変化球で打たせて取るつもりが、今度はそれをねらわれ出したか」
「そうなんです」
小山が渋面で返事した。
「といってチカラ押しにいけば、また速球をねらわれますし…」
「その二者択一じたい、考え直すべきじゃないか」
指揮官の言葉に、バッテリー二人はハッとして目を見上げる。
「どんな時でも正しい作戦なんてものはない。チカラで押すか、それとも打たせて取るか。どちらを選ぶかは相手と状況によって変わる」
静かな口調で、監督は話を続けた。
「必ずこうしようと決めてかかるんじゃなく、もっと相手や状況を考えて、そのつど判断すればいいんだ」
「ええ。それは分かりますが…」
なおも小山は腑に落ちない表情だ。監督が「小山」と、諭すように声を掛ける。
「おまえが野中の体力を心配して、球数をおさえたいのは分かる。だが、おまえ達の力をもってしても計算どおりにいかないのが、甲子園の準々決勝なのだよ」
「は、はい」
まだ渋面の小山。
「なんだい。おまえ、おれを心配してたのか」
野中のとぼけた発言に、小山は「れ」とずっこける。
「あ…当たりまえだろ! おれがテキトーにサイン出してるとでも思ってたのか!!」
「まあまあ、そうリキむなって」
正捕手をなだめるように、エースは言った。
「墨谷にちょっと揺さぶられたくらいで、おれがくずれるわけねえだろ」
「ほれ、その心がけがいかんのだ」
監督にたしなめられ、野中は「は、はい…」と表情を引き締める。
「げんに二点取られたし、その後も向こうの打線を完全におさえたとは言いがたい。気を引きしめてかからないと、やられるぞ」
「分かりました」
野中は神妙な顔でうなずく。監督はさらに続けた。
「むずかしい試合だが、その分勝てば大きな糧(かて)を得られる。おまえ達ならやれるはずだ、いいな!」
指揮官の檄に、野中と小山は「はいっ」と快活に返事する。
「よし。いくぞ野中」
「おうよ」
声を掛け合い、中陽バッテリーはグラウンドへと駆けていく。その背中を、監督は腕組みしつつ厳しい表情で見守る。
(小山が戸惑うのもムリはない。これほど思うようにいかない試合は、今までなかったからな…)
その小山がポジションに戻ると、アンパイアが声を掛けてきた。
「練習ダマはいいかね?」
「はい。じゃあ一球だけ」
小山はホームベース奥に屈み、マスクを被りミットを構えた。そしてマウンド上では、野中がセットポジションから投球動作を始める。左足で踏み込み、右手の指先からボールを放つ。
ズバン。快速球が小山のミットに飛び込む。
「ナイスボールよ!」
小山はエースに一声掛け、さらに野手陣へ檄を飛ばす。
「ワンアウト一塁だ! ここから、しっかり守っていこうぜ!!」
中陽野手陣は「オウッ」と力強く応えた。
2
―― 五番、ショートイガラシくん!
ウグイス嬢のアナウンスの後、墨谷の五番打者イガラシが、ポーカーフェイスで右打席に入ってきた。こちらもバットを短くして構える。
(フン。一年生のくせに、すました顔しやがって…)
横目で打者を観察し、小山は右手の指でサインを出す。
(緩い球を打たせて、ダブルプレーにしとめてやろう)
しかし野中は首を横に振った。
(ここは全力でいこう。イガラシが打つと、墨谷は勢いづいてくる。こいつをチカラでねじ伏せれば、やつらを意気消沈させられるはずだ!)
なるほど…と、小山は野中の意図を察し、サインを変える。
(じゃあ、こいつでどうだ?)
野中は「む」とうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角低めの速球。イガラシはバットをおっつけるようにスイングした。
カキッ、と快音が響く。痛烈なライナーがサード筒井の頭上を襲う。筒井がジャンプするも及ばず。野中が「う…」と顔をしかめる。しかし打球はスライスし、レフト線の外側で弾んだ。
「ファール!」
三塁塁審が両腕をアルプススタンド側へ掲げる。ホッ、と野中は安堵の吐息をつく。小山も「フウ…」と短く息を吐き出す。
(あぶねえ。こいつ、ねらってたのか…)
小山はマスクを被り直しつつ、横目で打者を睨む。一方、イガラシは「くそっ」と顔を歪める。
(外の速球をねらってたんだが、ちとふり遅れちまった)
一旦打席を外し、一度素振りした。ビュッ、と風を切る音。
(かく実にミートしねえと。三点負けてるし、なんとしても出塁…)
その時、一塁ランナーの谷口が「イガラシ!」と呼んだ。イガラシはハッとして顔を向ける。
「後ろにつなごうなんて考えなくていい! おまえのバッティングで、正面から野中を打ちくずせ!!」
谷口の挑戦的にも聞こえる発言に、野中は「なにいっ」と青筋を立てる。
(身のほど知らずなやつめ。思い知らせてやる!)
相手捕手の傍らで、イガラシは内心戸惑う。
(谷口さん、いつになく強気だな。そういや谷口さん、さっきおれに、いちバッターとして野中に挑んでみろって……)
打席に戻りバットを構え直し、イガラシはフフ…と含み笑いを漏らす。
(ここで野中を打ちくずせば、きっとやつらは動揺する。ようし…いっちょねらってみるか!)
意気込むイガラシを尻目に、小山は次のサインを出す。
(カーブで腰を引かせてやれ!)
野中は「うむ」とサインにうなずき、目で一塁ランナー谷口を牽制してから、二球目の投球動作を始めた。左足を踏み込み、右腕を振り下ろす。
内角のカーブ。打者の背中を巻き込むようにして、小山の内角低めに構えたミットに吸い込まれた。イガラシは微動だにせず見送る。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。イガラシは「へえ…」と感嘆の吐息をつく。
(なんて鋭いカーブなんだ。しかもコースいっぱいに決めてくるとは。さすが甲子園でも名のとおった投手なだけあるぜ…)
一方、小山はひそかに顔をしかめた。
(やれやれ。腰が引けるどころか、すずしい顔で見送りやがって。こいつ野中のタマをなんだと……)
マウンド上。野中はロージンバッグを拾い、右手にパタパタと馴染ませる。
(チカラでねじ伏せるんだったな…)
小山はエースと目を合わせ、三球目のサインを出す。
(インコース低めの速球。おまえの一番のボールだ!)
野中は「む」とうなずき、ロージンバッグを足下に放った。そしてセットポジションに着き、またも一塁ランナーを目で牽制してから、投球動作へと移る。右腕を力強く振り下ろし、指先からボールを放つ。
快速球がうなりを上げて、内角低めに飛び込んでくる。
イガラシはバットを強振した。パシッ、と快音が響く。野中が「なにっ」と顔を歪め、後方を振り向いた。大飛球がレフト田中の頭上を襲う。
「ばかな…」
小山はマスクを脱いで立ち上がり、呆然とした。その視線の先で、白球は観衆のひしめくレフトスタンド中段に飛び込む。
「や、やった!」
二塁ベース手前で打球の行方を追っていた谷口は、小さく右こぶしを突き上げた。
さらに三塁側ベンチ。前列の丸井が「すげえぞイガラシ!」と、身を乗り出して叫ぶ。
「まさかホームランとは…」
呆れたふうに笑う倉橋の背中を、戸室が思い切り叩く。
「つれないやつめ。こんな時ぐらい、素直によろこべって!」
「う…ゴホゴホ」
咳き込む倉橋。戸室は「あ、すまん」と苦笑いする。
「これで一点差! まだまだ分からないよ!!」
記録員の半田も立ち上がり、ペンを握ったまま珍しく声を上げた。その傍らで、井口がヘルメットを被りながら、「ようし!」と気合の声を発す。
「もう一発、おれがたたきこんでやる!!」
盛り上がる墨高ナイン。彼らを後押しするように、三塁側アルプススタンドの応援団の声援が勢いを増す。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!
周囲の喧騒をよそに、イガラシはポーカーフェイスのままダイヤモンドを一周する。カチャカチャとスパイクの音が鳴る。そして谷口に続き、ゆっくりとホームベースを踏む。
ツーランホームラン。スコアボードの一枠がパタンとめくられ、墨高の得点が「4」と表示される。
ホームベースを踏んだ後、イガラシはチラッとマウンドに目をやった。野中が呆然と立ち尽くしている。
「あ…あの内角低めの速球が、まさかフェンスオーバーされるなんて……」
さらに小山も、腰に右手を当て「くそっ」と吐き捨てる。
(イガラシをおさえて、墨谷の連中を意気消沈させるつもりが、ぎゃくに勢いづかせてしまうとは…)
動揺を隠しきれない中陽バッテリー。イガラシは「フフ…」とほくそ笑む。
(あそこまで動揺するとは、よほど自信のあるタマだったらしいな。この回…まだまだ取れるぞ!)
一方、谷口はネクストバッターズサークルの横井のもとへ駆け寄る。
「横井!」
おう、とバットを手に応える横井。
「決めダマをホームランにされて、あのピッチャー、かなり動揺してるぞ」
「そのようだな」
「ああなっては、なかなか気持ちを切りかえられるものじゃない。だからおまえのことは、力任せにおさえにくるぞ」
横井は「分かってる」と、笑みを浮かべうなずいた。
「カッカして投げこんできた速球をねらい打てと言いたいんだろう?」
「そのとおりだ。さ、いけ」
「よしきた!」
谷口と言葉をかわし、横井は意気揚々打席へと向かう。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ! かっとばせー、よーこーい!!
ますます盛り上がる墨高応援団。そしてウグイス嬢のアナウンス。
―― 六番、レフト横井君!
横井が右打席に入ると、キャッチャー小山がぎろっと睨んできた。おやおや…と、横井は胸の内につぶやく。
(ピッチャーをなだめる役目のキャッチャーまでもが、一緒になってカッカするとは。なんだか打つのが気の毒になってくるぜ…)
その時、一塁側ベンチの中陽監督が前列に出てきて、メガホン越しに叫ぶ。
「野中! 小山!」
二人はハッとして、ベンチの監督に顔を向けた。
「こんな時こそ落ちつくんだ! ムキになればなるほど、墨谷の思うツボだぞ!!」
監督の言葉に、小山は「そうだった…」と一人つぶやく。
(ちゃんと相手や状況を考えるんだったな)
そして「野中!」と、マウンド上のエースに声を掛ける。
「ここから下位打線だ。ムキにならず、一人ずつ打ち取っていこうぜ」
野中も我に返ったように、「む…」とうなずく。
ほどなく監督はベンチ後列に引っ込み、腕組みしてなおもグラウンドへと厳しい視線を注ぐ。
(まさか野中が真っ向勝負でやられるとは。警戒を怠ったわけじゃないが…この墨谷、はかり知れない可能性を秘めたチームなのかもしれん……)
監督の視線の先。グラウンド上では、小山が右手の指でサインを出す。
(アウトコース低めの速球。ただしボールにするんだ)
野中は「なるほど」とうなずく。
(こいつを見せダマに、変化球で打ち取ろうってことね)
サインの意図を察した野中は、すぐに投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、左足で踏み込みグラブを突き出し、右腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
外角低めの速球。横井は「おっと」と一瞬バットを出しかけるも、見送る。ズバン、と小山のミットが鳴る。アンパイアが「ボール!」とコールする。
「あぶねえ。きわどいトコ突いてきやがる」
横井は苦笑いした。三塁側の墨高ナインは「ナイスセン横井!」「よく見たぞ!」と声援を送る。しかし谷口は、一人渋面になる。
(力任せにくるかと思いきや、ボールから入ってきた。監督のかけ声で落ちついたのか…)
打席にて、横井も「うーむ」と束の間思案を巡らす。
(速球をボールにしたつうことは、変化球で打たせて取ろうってんだな。カーブかチェンジアップか…いっちょヤマをはってみるか……)
横井の眼前で、野中が二球目の投球動作を始めた。左足で踏み込み、右腕を思い切りしならせる。
スピードを殺したボールが、真ん中低めに投じられた。それがホームベース手前ですうっと沈む。
「き、きたっ」
横井はバットをすくい上げるようにしてスイングした。カキッ、と快音が響く。ライナー性の打球がピッチャー野中の横を襲う。
「う…」
バシッ。野中の差し出したグラブが打球を弾く。ボールはマウンド手前に転がった。
「させるか!」
野中は慌ててマウンドを駆け下りる。小山の「投げるな!」という制止も聞かず、野中はボールを拾うと、すぐさま一塁へ送球した。
小山が「あっ」と声を上げた。送球はショートバウンドしてファースト後藤のミットを掠め、ライトファールグラウンドへと転がっていく。それを見て、横井は「しめた!」と一塁ベースを蹴り、二塁へと向かう。
「しまった…」
野中は呆然として、マウンド手前で棒立ちになる。
「くそうっ」
カバーに入ったライト常盤がボールを拾い、急いで中継のセカンド小倉に返球した。だがその間、横井は二塁ベースに手から滑り込んでいた。小倉は返球を受けただけで投げられず。
ワンアウト二塁。同点のチャンスに沸き上がる三塁側スタンド。そして、ますます活気づくベンチの墨高ナイン。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!
対照的に、グラウンド上で棒立ちになる中陽ナイン。棒立ちのまま、うなだれるエース野中。ホームベース手前で腰に右手を当て、顔を歪めるキャッチャー小山。一様に困惑顔の野手陣。
両チームの選手達を、真夏の日差しが容赦なく照りつける。