ジルが向かった場所は首都クロッカスより、北東部に位置する小さな村に訪れた。いや、村
すでに寂れていて、村全体が廃墟と化し、村人が一人もいない。アラン・デグスビーはここが教団の本拠地だと供述した。
偽情報を掴まされた? ほとんどの者はそう思うだろう。しかし、ジル・ギルティはこの地に踏み入れた瞬間から
彼は懐から懐中時計と
──
ホルスターに収まっている黒い魔導書を手に取り、ページをめくる。
目当てのページで止めると、虚空に向かって低い声で呟いた。
「
すると、異変が起こった。
ジルの目の前にある空間がぐにゃりと歪み、溶けて消えた。
何もなかった場所に、薄汚れた石造りの建物が姿を現した。不可視化の結界を張っていたのだ。これだけで相手はかなり高位の魔導士であることが窺える。
──さて…結界を破ったから当然向こうは異変に気付く。
ジルは思考を巡らす。
このまま踏み込んでも良いが、そうすると拉致した町人を人質に取ってくる可能性が出てくる。
町人も教団連中も誰一人として死なせることなく、事態を収拾することがベストだ。
──…わざと捕まるか。
ジルがそう判断したときに建物の窓から閃光が閃いた。
額に衝撃が走る。魔力の弾丸による一撃であると認識したときには、彼は意識を手放した。
◇
ジルが目を覚ますと、石造りの天井が視界に飛び込んだ。背中と後頭部に感じる感触がやたらゴツゴツとして硬い。ベッドなどではなく、儀式に使う祭壇なのだろう。血液特有の鉄臭い臭気が鼻腔を不快にくすぐる。
手足を動かそうとしたが、枷が填められていて動かない。
「やあ、目が覚めたようだね」
黒衣のフードを
「教団の司祭様ですか?」
ジルは静かに質問する。手足を拘束され、今まさに儀式の生き贄にされそうになっているにも関わらず、彼はひどく落ち着いていた。
その不気味さに全く気付かず、司祭は大きく頷いた。
「いかにも。私は何十年も、ゼレフを信仰する黒魔術教団の司祭だ。若い君には、ゼレフと聞いてもいまいちピンと来ないであろう? 黒魔導士ゼレフとは、この穢れた世を死と破滅によって払い清める救世主であり──」
仰ぎながら、聞いてもいない説法を始める司祭。その間、ジルは無感情な瞳で周りを見渡す。司祭の他に、黒衣を纏った教徒が数名佇んでいた。恐らく全員魔導士なのだろう。魔法を補助するための長い杖を持っている。
「長い年月をかけて、数百名の生贄を捧げた甲斐があった! 今日、君の持っていたゼレフ書が我々の前に現れた!」
突然、司祭は興奮した様子で漆黒の魔本を出した。ジルの持っていた魔導書だ。
「この退廃的で、陰鬱な魔力! 間違いない! ついに我々はゼレフを復活させるための鍵を手に入れたのだ!!」
──…ゼレフ書ではないんだがな。
言葉にしたところで聞きはしないと思い、ジルは心の中で訂正した。そんな喜んでくれるのであれば、今すぐに曰く付きの記念品として贈呈したいところだ。
だが、しかし。その魔典は、たとえ狂信者であっても決して希望などというものを与えてはくれない。そして、何も生み出さない。
人間を効率良く殺戮するための、呪いの箱でしかない。
そんなジルの考えなど露知らず、司祭はまるで悪魔に憑りつかれたかのような高揚感で高らかに宣言する。
「君は本当に運が良い!! 我々にゼレフ書が降り立った、この聖なる日に贄となるのだ!! 穢れきった全人類を
司祭は懐からナイフを取り出した。儀式用の刃物なのだろう。粗末なものではなく、見るからに豪奢な作りをしている。
ジルが冷静にそんなことを思っていると、司祭が何やら低い声で怪しげな呪文を唱え、白刃を振り下ろした。
狂信の刃が肉薄する。しかし、今まさに自分の命を奪わんとする刃が差し迫っても、ジルは何の抵抗もせず、無表情のままじっと見つめた。
そして、ナイフは美青年の左胸を正確に刺し貫いた。喪服が赤く弾ける。根元までしっかりと刃を突き立てられ、ジルの唇から鮮血が迸る。
喪服に包まれた長身がびくびくと痙攣した後、青年の灰色の瞳が白目を剥いた。
絶命したことを確認し、司祭と教徒たちは一斉に両手を組み、贄となった命に祈りを捧げた。
その時であった。
《腹袋に詰まった千匹の蟲。百足は赤く染め上げられ、蛭は黒く舞い上がる…》
突如として、儀式部屋全体に漆黒の声が木霊した。嫌な空気が張り詰める。禍々しく、不吉な情調。
《子を贄にする狂った神父…首を括られて嗤う罪無き老婆》
本来であれば、ゼレフを信仰する教徒たちは肝を冷やしながらも、歓喜するところであろう。しかし、どういうことだ?
〝恐怖〟しか感じない。黒魔術に身を捧げたときから捨て去ったはずの、元来の感情。
死の凶兆を感じ取りながら、司祭はふと先程自分が殺したばかりの生贄の顔を見下ろした。
《指折りで数えよ…血溜まりの祝福はすぐ足元に》
口が、動いていた。
心臓にナイフを突き立てられ、絶命したはずの麗人の唇が不気味な言葉を紡いでいた。
そして喪服の死人は、司祭がゼレフ書と呼んでいた魔典の本当の名前を口にした。
《〝エルの書〟ページ96──アヴァンの腕》
次の瞬間、司祭の持っていた魔導書がひとりで開き、漆黒の怒涛が迸った。全方向に波打った衝撃波が司祭と教徒たちを大きく吹き飛ばす。そのまま壁に叩きつけられ、骨を何本か砕かれた。
いったい何が起こった!? フードの下で苦悶の表情を浮かべながら司祭は呻いた。教徒たち全員は気絶したが、高位の魔導士だからか司祭だけは何とか意識を保っていた。
そして、彼は見た。
喪服の死体がぎこちなく腕を動かしている。自分の左胸に突き刺さっているナイフを引き抜き、床に放り投げた。血にまみれた刃が金属音を立てる。
「ごふッ、ごふッ…!!」
美しい死体が血反吐を吐きながら、咳き込んだ。
喪服の男──ジル・ギルティが不気味な復活を遂げたのだ。
「おお…! おお…!!」
全身の痛みを忘れて、司祭は歓喜の声をあげた。
普通であれば、恐怖で顔が引きつるはずなのだが、黒魔術教団の司祭は目の前で今起きた光景を──世界終末の時に復活した聖人の〝奇跡〟と捉えた。
心臓を刺されてなお、蘇える人間などいない。それはどんな魔導士であっても不可能だ。彼こそ、彼こそが自分たちが求めていた存在なのではないか!?
「あなたは…! あなた様は…! 黒魔導士ゼレフか、ゼレフの生まれ変わりなのですか!?」
狂気じみた面持ちで司祭は問う。
だが、返ってきた言葉はどこまでも淡々とした口調であった。
「いいえ…違います」
祭壇に横たわったまま、喪服の男は答えた。
言い終わると共に、床に落ちていた魔導書が再びひとりでに開く。ページに刻まれた解読不能な不可思議な文字が発光すると、ジルの周りに魔力の光球がいくつも浮かぶ。
「私の持っている魔導書の名は〝エルの書〟──ゼレフ書の
漆黒の魔弾が一斉に司祭に襲い掛かった。
◇
「では、教団による拉致事件は解決されたのですね」
場所は某喫茶店。鮮やかな金髪と童顔が特徴的な少女──マーサ・デグスビーは前の席に座っている喪服の麗人に安堵の表情を見せた。
「ええ。全て、あなたが協力してくれたおかげです。教団の人間は全員捕縛し、拉致された被害者も救出できました」
喪服を着た美しい青年──ジル・ギルティは満面の笑みを浮かべた。もちろん、相手に気に入られるためだけの営業スマイルである。場合によっては、デグスビーから情報を引き出すために、目の前にいる少女に危害を加えることも躊躇しない男だ。
しかし、マーサはジルとは昨日会ったばかりなため、彼の本性を見抜けないのは当然であった。
「それで父は…アラン・デグスビーはどうなるのですか?」
彼女がわざわざ父親のことをフルネームで呼び直したのは自分を捨てた男を恨んでいるからだ。
母を失って、父は変わってしまった。職を失い、酒に溺れ、最終的に我が子を施設に押しつけた。しかも、その理由が黒魔術教団という怪しげな団体に入ったからと知っては、呆れてものも言えない。ましてや、拉致や殺人事件に関わっていたなどと…。
ただ、自分の父親がどのような裁きを受けるのかは一応気になった。拉致事件で数十名もの人間が犠牲になった聞く。恐らく死刑か、終身刑だろう。
だが、喪服の青年の口から返ってきたのは予想だにしない言葉であった。
「あなたのお父様は、獄中でお亡くなりになりました」
笑顔を消してから、ジルははっきりと答えた。
つい数時間前のことである。デグスビーが格子に衣類を巻き付けて首を吊っているのを看守が発見し、そのまま死亡が確認された。
デグスビーは最後まで黒魔術の狂気から抜け出すことができなかった。不本意とはいえ仲間を売り、黒魔導士ゼレフの御心に背き、今までの努力が水泡に帰してしまったのだ。
死者に執着し、過去の幸せな家庭を取り戻そうとした男の哀れな最期であった。
「本当に申し訳ありません…何と申し上げたらいいか…」
ジルは悲し気に顔を伏せた。だが、心の中では全く悲嘆に暮れていないし、自分がきっかけを作ってしまったことに微塵も罪悪感を覚えていない。されど、自業自得とも思ってもいない。
彼は、良くも悪くも他人に興味がないのだ。ただ一つ、デグスビーに対して思うことがあるとすれば──、
「いえ…ジルさんが謝ることではないので…」
憎き男の訃報を聞かされたマーサは複雑な表情でジルをフォローした。父とジルの間でどのようなやり取りがなされたか、彼女は全く知らない。
そして、これから先知ることはない。余計な火種を作らぬよう、ジルがすでに手を打っている。
「そう言っていただけると助かります…」
ジルは悲し気な雰囲気を残しつつ、少しだけ安堵の表情を作った。彼のことをよく知っている人間が見たら、いったい猫の毛皮を何着用意しているんだと罵倒していることだろう。
そんなことなど露ほども思わず、マーサはふと疑問に思った。父が評議院に捕まり、獄中で死んだのなら、何故評議院ではない魔導士のジルが報告してくるのだろうかと。
アラン・デグスビーが亡くなったことが発覚した後、遺族のマーサに報告するのを名乗り出たのはジルだった。
本来であれば、評議院の隊員が報告するべきなのだが、ジルは不自然なほどに頑なに拒否した。それが事務的によるものなのか、せめてもの罪滅ぼしのつもりなのかは、彼をよく知るジークレインでさえもその真意を掴めずにいた。
「…おっと、もうこんな時間だ。申し訳ございません、ミス・マーサ。次の仕事があるのでこれで失礼致します」
「え、あ、はい…」
ちゃんと別れの挨拶をしようとしたマーサであったが、それよりも早く喪服の麗人が御代を置いて足早に立ち去っていった。
少し素っ気なく感じたが、何となく気を遣われたんじゃないかと思い、マーサはもう二度と会わないであろう男の背中を見送った。
◇
店を出たジルはふと、窓からマーサが座っている席の方へちらりと視線を送った。
父を亡くした少女が手で顔を覆いながら涙を流している。自分を捨てたことを憎みながらも、父が戻ってくるのを心のどこかで待ち望んでいたのだろう。
「…ふん」
その姿を見て、喪服の男は何を想ったのであろうか。
彼は素の顔で小さく鼻を鳴らし、細長い煙草を口にくわえた。マッチで火をつけ、紫煙をくゆらせながら街を歩き始めた。