あなたは感じるだろう。声、そして温かさを。
まるで花咲くように。
まるで気泡が水面に向かうように。
山に注いだ雨が川に流れるように。
意識という物体が、何かよくわからない核を中心に円を描いている。地球の衛星、月と同じように。
「起きて。ねぇ、あなた、起きてよ」
誰かの声がする。それは不思議なことに、まるで耳元で囁いているようであった。鼓膜が愛撫されるが如く甘美な感覚が背筋を濡らし、首回りに鳥肌が立つ。
あなたは、起きたくない衝動に駆られた。なぜ起きなくてはいけないのか? 起きる必要が分からない。
手を握り締めて初めて己に手があることに気が付く。そしてその手が何やら温かいことも。血潮だろうか。いずれにせよ、目を開かなくては、温かさの理由もわからない。
そこで貴方は目を開く決心をしたのだ。
最初はそっと。
あなたがいたのは、白い箱のような部屋だった。飾り気を徹底的に排除した正方形の三次元的な広がり。天井中央に輝く簡素な蛍光灯。ドア。そしてあなたが眠るベッドに至るまでが定規で線を引いたかのようなシンプルさだった。
あなたの手を、誰かが握っていた。傍らにある椅子で身を前のめりにしてあなたの手を握る茶色を基調にした落ち着きある服装をした誰かが。
あなたが身を起こす前に、その誰かが言葉を再度発した。
「ようやく起きたのね。もう二度と目覚めないかと思ったわ」
その人物は服装こそごく普通であったが、体の末端だけが常識から外れていた。顔には白一色の能面が被さっており、手にゴム手袋が嵌っていたのだ。ゴム手袋単体ならば理解できなくもないが、白一色の能面もとい仮面は不可解にもほどがあった。
あなたがベッドから身を起こすのも忘れて仮面の人物を見つめていると、仮面の奥で明白に微笑の吐息が漏れた。
その人物はあなたの背中に手をやると、腕を掴んで姿勢を起こす手伝いをした。動きの手慣れ方はあなたに違和感を覚えさせない見事さであり、文句を挟む隙間がなかったであろう。
あなたは人物に興味を抱くと、じっと見つめた。仮面、手袋、服装。いずれも身体的特徴を隠匿する服であるが、骨格や肉そして声の高さなどから女性であることを理解するだろう。また、左手の薬指にシルバーの指輪が光っていたことも要素の一つとなった。
人物は、あなたがベッドから上半身を起こしたのを確認すれば、傍らの木製の椅子からゆっくりと腰を上げた。
あなたは状況が飲み込めず、質問をするだろう。ここはどこだ。君は誰だ。
「私に名前は無いわ。あえて名乗るなら………ビーチェ。あなたは?」
人物――ビーチェと名乗った女性が僅かに首をかしげて逆に問うた。
だがあなたは答えられない。記憶が抜け落ちてしまったように、自分の名前が出てこないのだ。正確には名前が出てくることは出るが、どれが本名か特定できない。幼いころに目を通した絵本をおぼろげな記憶を頼りに図書館で探すかのようだ。
ビーチェは仮面を俯かせた。仮面に模様も文字も一切無かったが、光の加減で、まるで陰鬱な表情を浮かべているようだった。その仮面から覗く毛髪の色さえもわかるようである。ただし髪は仮面と衣服で厳重に隠されているため、全容を伺うことはできないが。
「あら………わからないの………そ、そうだ。外に出かけてみない? あなたの疑問が解決できるかもしれないわ」
あなたはなぜか、彼女の言葉に強い説得力を感じて同調した。
ビーチェはおもむろに、壁に立てかけてあった杖を手に取ると、胸元で抱くようにした。そして差し出そうとしたが、あなたは拒絶するだろう。首を横に振って。杖が必要な歳ではないからだ。布団を除け、白い床に足をつける。石でも鉄でも樹脂でもない、柔らかく、温かみのある感触が足裏に触れた。
ところがあなたの足はふらつき、力が入らない。一歩よろめいたところでビーチェが腕を掴んで支えるだろう。
しばらくすると、あなたは足に力が戻るのを感じ取った。先ほどの感覚に首をかしげながらも、注意は払わないはずである。ベッドから身を起こした際の一時的な貧血であると断定して。
ビーチェは杖を元の場所に戻すと、ドアの傍であなたに手の平を緩く振って見せた。
「行きましょう。外の世界は恐ろしいけれど、引きこもっているわけにはいかないわ」
あなたは彼女の後についていった。
ビーチェが扉を開く。あろうことか、その先に広がっていたのは廊下や地面などではなく、永延として底の無い暗闇であった。部屋から漏れる蛍光灯の光さえ粉微塵に噛み砕いて闇に消化してしまうような黒一色が扉の外のすべてを支配していたのだ。
あなたは、足がすくんで動けなかった。暗闇は恐ろしい。部屋から出るというのは、暗闇の世界に一歩を踏み出すのと同意義なのだ。
あなたは、ビーチェに不安を口にした。酷く恐ろしい、と。
そんなあなたに対して、ビーチェが救いの手を差し伸べた。彼女は暗闇に足を置いたのだ。すると彼女の足は不可視の土台に支えられた。遥か下方から闇に溶けて輪郭も定かではない丸型の何かがせり上がってきたのだ。室内の蛍光灯が発する光がその足場と暗闇の違いを辛うじて区別していた。
ではもし次の足場が無かったら? あなたは途端に怯えで足が竦んでしまった。足場がなければ落ちてしまう。果てしない暗闇を落ちていけば、死ぬかもしれない。
ビーチェはまた一歩を踏み出した。足を持ち上げ、降ろす。その短時間で次の足場が暗闇の下方から出てきているようであり、彼女は落ちていない。
ビーチェはあなたに手を伸ばしたまま、緩やかに振り返った。
「行きましょう」
あなたは思い切って彼女の手を握ると、部屋を出た。途端に部屋に灯っていた蛍光灯がふっと陰り白亜の正方形が黒に沈んだ。光がなくなったことで白い部屋は視界から消え失せた。足場の輪郭も消滅し、あたかも暗闇の真っただ中に浮遊しているようであった。
暗闇の中を宛ても無く旅をすることに不安を覚えたあなたの傍らで、彼女がカンテラに火を灯した。上品な金の細工がなされたそれに柔らかい光が宿る。暗闇の領域が、ぽっかり二人分退いた。
カンテラが生み出す光が、ビーチェの白仮面に表情を描き出す。
「光はここに。とても小さいけれど、目先を照らすだけなら十分よ」
そしてあなたは足を踏み出してみた。確かに足場はあった。先に目撃したことが確かなら漆黒色をした足場が真下からせり出してきているのだろうか。
暗闇を歩くうちに、あなたは大胆になっていくだろう。ビーチェに先導される立場から、横に並んで歩く、等しい立ち位置へ。
ビーチェが鼻歌を紡いでいた。リズムが単調であり、一定の拍をもった、そよ風のような優しい音色である。
何の歌なのか。あなたが訊ねた。
ビーチェは答えなかった。
カンテラの光は徐々に強くなっていった。はじめ、二人分を開拓するので精いっぱいだった淡い光は、二人並んで歩くころには周辺の風景を映し出すまでになっていた。
長方形の箱が均一に並んだ町並みである。街灯。街路樹。いつしか不安定な足場は舗装されたコンクリートの道路へと姿を変えていた。
だが、その町には人気が無かった。人類が滅んでしまったかのようにがらんどうで、鳥や虫の姿も無い。信号機がひたすら無駄骨を折っているだけである。空を見上げても雲一つ、それどころか星も、あろうことか空自体がない。まるで空に黒いボウルをかぶせたようだ。
あなたは、人がいないことを指摘した。
「常に誰かがいるとは限らないものよ」
ビーチェはそう口にしたのだった。
しばらく歩くと、交差点に差し掛かった。異様なまでに信号機の多い交錯である。横式縦式に歩行者用信号機。一方通行、速度制限、駐車制限、脈絡のない標識達。横断歩道も斜めに引かれていると思いきや途切れて、擦れている。
「………見て!」
ビーチェが引き攣った声を上げた。あなたはつられて聞き返そうとするだろうが、叶うことはない。ビーチェがあなたの手を引っ張って、すぐそばのゴミ箱の影に連れ込んだからだ。
信号機が赤に変わった。歩行者用を除いて。
刹那、コンクリートの上をやかましい大音響を率いて交差点に突っ込んできた巨大な物体が、街灯を根っこからヘシ折り、横滑りしながらビルの外壁にぶつかって止まった。
鋭利な歯。流線型でありながら凶暴な造形をした細長い体。ヒレ。ナイフで刻んだようにぎらつく瞳。
鮫がいた。
その鮫は重力に逆らって人間の街を泳いでいたのだ。外壁にぶつかっては後退し、徐々に向きを変えると、その咢から涎を垂らしながら、獲物を探す。瞳は煌々と光り輝いて道路を照らしていた。
暗闇に漕ぎ出すことが恐怖ならば、鮫がまじかに居ることは発狂である。極度の緊張で手先が震え、冷や汗が額から鼻の横を伝うだろう。
あなたはごみ箱の影から飛び出して一目散に逃げたい衝動にかられた。
ビーチェがあなたの手を優しく包むと、その肩に頭を預け、囁く。甘いシャンプーの香りと、ゴム手袋の嫌な臭いがするだろう。
「落ち着いて。見られなければ大丈夫。静かにしていれば大丈夫」
彼女の言葉の通り、鮫は交差点をぐるぐると徘徊したのち、地面に僅かな白煙を残していずこに去った。
あなたは、ほっと胸を撫で下ろすと、彼女に問うた。
あの化け物を倒す術はないのかと。
彼女は首を横に振った。
「無い。それにあれを殺しても鮫は一匹だけじゃないから……どこにでもいるの。けれど鮫に構って隠れたままじゃ、いつまでも行きたい場所にも行けないわ」
あなたは黙りこくった。隠れていれば安全なら、ずっと白い部屋に居ればよかったのだ。戻れるだろうか? きっと戻れるだろう。彼女のカンテラがあれば闇は退くのだ。
そのことを主張すると、ビーチェは仮面越しに溜息を吐いた。
「戻ることは可能よ。けれど、いいの?」
あなたは彼女の言葉に躊躇いを覚えたのだった。白い部屋のベッドは居心地が良いが、外の世界は見えないし感じることが出来ない。退屈で単調な日々が繰り返されるだろう。
外の世界は鮫のような危険があるが、面白いかもしれない。彼女のような人に逢うことも叶うからだ。
あなたが黙ってしまったのを見遣り、ビーチェはカンテラの火を見つめ始めた。揺らめく火は暗闇に溶け込んでしまいそうだが、秘める力はすべてに勝る。
あなたは進んでもいいし、引き返してもいい。
あなたが出した答えは、彼女の手を取り、ゴミ箱の影から道路へと移動することであった。
「よかった」
ビーチェは嬉しそうに声を弾ませると、道路の奥を指さした。まだカンテラの光が届かない漆黒の幕が道路を塞いでいた。
「この先に答えが待っているの。行きましょう」
そしてあなたとビーチェは旅路を辿りだした。
この作品は私の好きな作品やゲームなどの影響を受けています。