目覚めの世界で   作:キサラギ職員

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音とベルの章

 あなたは、ずっとビーチェと手を繋いでいた。なぜ初対面の女性と手を繋ぐのかという疑問が頭をもたげるだろうが、解決することはない。ビーチェに質問をしても答えず、手がかりとなるのはあなただけだからだ。悪いことに、あなたの記憶は魔女の鍋のようで、ビーチェと手を繋ぐような間柄だったかもわからない。

 ただ一つ言えるのは、彼女の持つカンテラの力が及ぶ範囲は狭いということだ。手を繋がないでも必然的に近距離でいることを求められた。

 街には相変わらず人がいなかった。表道路に面したパン屋にはコックの姿どころかパンが一つも無い。放置された自転車は乗り手がいない。電話ボックスは閑古鳥。人どころか動植物さえ皆無であった。風の流れさえも滞っており、音という音が居場所を失っていた。

 ある筈のものがないことを、人は不気味に感じ取るという。

 あなたがそう口にするとビーチェは首を振って見せた。

 「ある方が怖いかもしれないわ。少なくとも、鮫がいない」

 それもそうか。あなたは深く考えずに肯定した。

 街は当初の装いを徐々に失い始めた。直立していたビルは斜めに傾いていき、標識なども垂直を損なっていったのだ。街灯などに至っては真ん中でぐるり一回転して結び目を作っているのさえあった。

 奇妙にねじれた街には、得体のしれない音が潜んでいた。

 それは目覚まし時計で、囁き、キータイピング、ガラスの砕ける瞬間、ノックであった。

 あなたが音の方角に目をやれば、音は直ちに止んでしまう。まるでみられることを恐れるように。

 「気になるの?」

 ビーチェが顔を正面に向けたまま問うた。カンテラという僅かな光が彼女の仮面に陰影のグラデーションを彩っていた。

 音は意識すれば遠ざかり、意識しなければ近づいた。まるで見えぬ追跡者がいるかのようで不安が増大した。あなたは頷くと、後ろを振り返った。音が止んだ。

 ビーチェはカンテラを僅かに揺らすと、歩調を速めた。そして語った。あなたが追う。音が強くなった。

 「音は危険よ。適切な音を選べなければ、あなたは一歩も進めなくなってしまう」

 あなたは困惑するだろう。音に区別をつけて聞く聞かないを選択するなど不可能だからだ。ではどうすればいいのか?

 ビーチェが答えた。

 「意思を強く抱いて。先に進みたい、その気持ちをしっかり持って」

 意思で音が振り払えるとは到底思えなかったが、ビーチェが言うのだから間違いはないと確信できた。音が文字通り背後への引力として働くのを、あなたは感じ取るだろう。音が進路を遮ろうと渦巻きながら暗闇から染み出すと、あなたとビーチェを取り込もうとする。

 あなたはもがく。音の中で。

 音が見えるという感覚は共感覚や麻薬によって実現するというが、あなたはそのいずれでもない。しかし、音が見えた。暗闇という歪みから、波動となって伝播する音が人の手の形へと変貌して迫り肉体にしがみ付くのが。

 あなたがもがく隣で、ビーチェはじっと立ち尽くしていた。音の魔の手は、あなたにだけ執拗に迫るだけで、ビーチェには触れようともしない。まるでビーチェなどいないかのように。

 音は、光を恐れずにあなたを締め付ける。手足、腰、背中に抱きつき、後ろへと引っ張っていくのだ。更には、体に力が入らなくなってきた。音が筋力という貯蓄を貪っているように、足腰が弛緩し、体勢を保つことさえ困難となっていく。

 音は、様々である。最初の遭遇時には雑音に過ぎなかったそれらは次第に人の会話などに変わっていた。ぞっとするほど温かく、しかし気味の悪く歪んだ猫なで声。罵声、怒号、咽び泣き。狂ったような笑い。囁き声。

 共通しているのは、それらがあなたを先に進ませまいとあの手この手で妨害していることである。あなたは、先に行きたい。音は、先に進ませまいとする。

 あなたは苛立ちを感じた。したいことを取り上げられて酷く腹が立った。だが苛立ちで音は怯まない。執拗に粘ついて足を止めんとする。

 あなたは助けを求めた。ビーチェに。

 「無理。私はあなたを助けられない……直接的にはね。時間さえあれば“武器”を持ってこられるわ」

 武器。それは戦いの道具。音という存在に一向に活路を見いだせず、ただ振り払おうともがくことしかできないあなたは、彼女にそれを持ってくるように要請した。

 ビーチェはあなたの手にカンテラを押し付けると、靴で暗黒の地面をかつんと鳴らした。

 「とってくるから待っていて。光さえ離さなければ、音に殺されることはないから」

 カンテラの光が届かない領域にビーチェが歩み、そして視界から瞬時に消えてしまった。彼女の言葉の通り、音はひたすらまとわりついて行動を阻害するだけで、首を絞める、殴る、などの攻撃はしてこない。それでも息苦しい。あなたはカンテラを振り、抵抗をした。

 どれだけ時間が経ったろうか?

 ひたすらまとわりついて動きを封じんとする音の軍勢に、あなたはうんざりしていた。直接的に危害を加えてこないとはいえ、動きを制限され続けるのがどれだけ不快で重荷であることか。ただ動きを止めようとするならまだしも、気を抜くともと来た道へ戻そうとするのだから。

 音が、口を塞がない程度に視界を奪おうとした刹那、遠方より波状となりて伝わってきたベルの音色が音の群れを打ち払った。

 カンテラの光が届く範囲にビーチェの姿が現れ、再びベルを鳴らした。ベルが発する透き通った音が、あなたの体を拘束する音を砂浜に作られた砂の城が波にさらわれるが如くさらったのだ。

 「おまたせ」

 遅い。あなたが文句を言った。

 ビーチェは唇を尖らせて――ただし仮面で見えないため想像である――あなたの傍に寄ると、ベルとカンテラを交換するように促した。あなたはカンテラを渡すと、そのベルを受け取った。所々塗装の剥げた、とって付きのベルである。不思議なことにそのベルは、あなたの手によく馴染んだ。あなたが握るとベルは燐光を宿した。

 ベルについて質問をすると、ビーチェは口を濁した。

 「とにかく、それが武器。あの音を追い払える数少ない道具よ」

 ともあれ、武器さえあれば音に悩まされることはないだろう。

 あなたはビーチェとともに、奇妙に捻じ曲がった街の先を急いだ。

 




予定より1、2話多くなるかもしれません
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