数少ない武器を手に入れたあなたは、進めば進むほどに原型を失っていく街の奥底へと足を踏み入れた。
街はもはや現実味を喪失しておとぎ話かくや形を変えており、ビルというビルは捻じくれだった尖塔と化ししていた。街灯も同じである。道路も蛇行し、直線がまるでない。
そして不思議なことには、いままでカンテラしか頼る光源が無かったのが、街灯に光が灯り、遥か上空からうっすらと光のカーテンがオーロラのように揺れ始めたのだ。
ふと気が付くと、街にはまるで水没した都市が如く色とりどりの魚たちが満ち、息づいていた。
この変化をどう見るのか。少なくともビーチェは喜びを隠しきれないようで、己の周囲を揺らめく小魚に時折手を伸ばしてみたり、空を仰いだりしていた。
あなたは、ビーチェに仮面のことを尋ねてみた。穴も開いていない仮面で視界が確保できるのかと。
「愚問よ。もし見えないなら、私はあなたと歩くことさえ危ないわ」
それもそうか。あなたは深く考えずに納得した。
「隠れて!」
ビーチェが背後に目をやった刹那、あなたの襟首掴んで物陰に引きずり込んだ。あなたは気道が締まりうめき声をあげた。
次の瞬間、猛烈な勢いで鮫が突っ込んでくるや、小魚の群れを蹴散らした。逃げ遅れた数匹が跳ね飛ばされ地面を転がるとビル壁にぶつかり動かなくなった。
あなたは、鮫に怒りを覚えると同時に、無力感を抱いた。鮫は強く、速い。隠れなければ殺されてしまうだろう。
では、ベルは通用するのか?
ビーチェが否定した。仮面の奥からくぐもった囁き声が漏れる。
「鮫にベルは無力。説明しなくても、なんとなくわかってるんじゃない?」
ベルがあるなら、ほかの武器もある筈であるとあなたは考えた。
「無いことも無い。けれど、取りに行くには時間が必要だわ」
あなたは悩んだが、鮫を撃退する術があるならと頼み込んだ。
「待っていて」
ビーチェがあなたにカンテラを渡して姿を消した。
あなたは恐怖に、物陰から出ることすらままならなかった。鮫は鋭き眼球から光の帯を垂れ流しつつ周辺へと意識の糸を張っており、口からは断続的にハッハッと白い息を吐いていた。そして、まるであなたが潜んでいることを知っているように道路上に留まっていた。
もし声をあげれば、鮫に喉元を食い破られるであろう。生命に関わることほど恐ろしいものはない。
鮫は小魚の死体を食らおうともせず、ただその場にとどまっていた。奇妙に体を震わせながら白い息を吐き、ぎらぎらと大地を睨みつけて。
鮫の魔の手にかかった小魚は、ぐったりとして動かない。ただ空間に漂っているだけである。
鮫は周囲をじろりと一瞥した後、街灯と標識数本をまとめてなぎ倒しながら去っていった。
あなたは、ほっと息を吐くと、物陰から顔を出して様子を窺った。鮫は獰猛であるが感覚は決して鋭くない。隠れる機会さえ見逃さなければ生き残れるであろう。
ビーチェが戻るまで、どれだけ待てばいいのか定かではない。外よりも中が安全であろう。
あなたは、手ごろなビルに入ってみることにした。途中で二回折れ曲がっているビルの歪んだ扉をこじ開けて中へ入る。不思議なことに内部に歪みは微塵も無く、ただ平然としたオフィスがあった。
エントランスには受付があり情報を記したプレートがかかっていたが、肝心の会社名が擦れて判別できない。文字の輪郭が水性絵具で描かれ雨に打たれたように滲んでいた。
内部に異常はないと認識したのは早とちりであり、文字が狂っていたり、時計の時針が十本以上あるなど、酷く現実離れしていた。
あなたは、オフィスの中に足を踏み入れ、そこで新聞を拾った。新聞名も、日付すら不可思議なその紙切れが役に立つとは思えなかったが、とにかく拾ってみたかったのだ。
新聞の中で唯一読める記事があった。あなたはそれを読もうと、手ごろな椅子に腰かけた。
刹那、安全なはずのオフィスに外から強烈な衝撃が襲い掛かった。あなたは新聞を取り落とし、泡食ってカンテラを握った。扉を壊して机を砕きながら鮫が目を爛々と輝かせあなたに強襲をかけたのだ。
あなたは、鮫の突進を間一髪で横っ飛びに躱すと、ビルの外へ駈け出した。
鮫がコンピュータ類を積んだ机を踏みつぶしながら身を反転させるや、牙をむき出してあなたの背中を追った。
ビルから外に飛び出す。
鮫が扉の残骸を観葉植物を巻き込みながら吹っ飛ばし、S字状にくねる路上へと身を横滑りしながら進出すれば、必死に逃げるあなたをあざ笑うかのようにその場で息を整えだした。ぐるる、と唸り声を吐き、その双眸にいやらしい感情を浮かべて。
あなたはカンテラを右手に、左手にベルを握った。ビーチェの言葉が正しければ、両手の武器は武器たりえない。
猛獣が眼前に居るのに有効的な手立てを持たないという無力感に、あなたは打ちひしがれるだろう。逃げるしかないのだ。
だが無情にも鮫が静止をやめて加速に移行した。地面に二条の線を描きながら、あなたを追う。血走った眼球が確かにあなたを睨んでいた。
「こっちよ!」
ビーチェの声がした。しかし、暗すぎて見えない。カンテラの及ぶ領域が狭すぎる。声だけを頼りに歪な道路をかける。あなたの背中に、鮫の目から発せられる強烈な光がかかった。
あなたの目の前に、突然、ビーチェの姿が現れた。その手にはやや古風なインスタントカメラを握っていた。
「あいつを撮って! 早く!」
あなたは言われるがままインスタントカメラを取り、レンズを覗き込んだ。鮫の獰猛なる姿が見る見るうちに接近してくる。
そして、シャッターを切った。
激しい閃光が咲き誇るや、その光が鮫の進行を挫き身を瞬時に焼いた。ジー。間抜けな音を立てて撮影完了した写真がせり出てくる。あなたはそれを取ると、さらにシャッターを切った。光が鮫の表皮を焦がす。
鮫は苦痛の声をあげて頭をもたげると進路を変更して一目散に逃亡していった。
「おまたせ」
ビーチェが言った。