音、そして鮫への対抗手段を得たあなたは、最初よりも大胆に足を進めていた。
ビルの森は過ぎ去った。歪にゆがんだ建物だけが狂ったように並ぶ場所はある地点を区切りにしてふっつりと切れてしまった。カメラのフラッシュに身を焼かれた鮫は街を出ても姿を現さなかった。
あなたは、はじまりと同じようにビーチェと横に並んで手を握りながら歩いていた。
不思議なことに、あなたは心音を聞いた。弱弱しい浪打である。浜辺に作られた砂の城を徐々に懐柔していく甘い水の動きである。その音に敵意はなく、温かさだけがあった。
あなたは、ビーチェの顔を窺った。仮面に隠された表情は見えない。
ビーチェが、あなたの方に顔を向けた。カンテラは彼女の手にある。
「私を見つめるのも……嬉しいけれど、気を付けて。足元が転びやすいわ」
ちゃぽん。あなたは間抜けな声をあげて驚くだろう。なぜなら足が突如として水の中に浸かったのだから。いつしか風景は街から森へと移り変わっており、鬱蒼と茂った木々が直立していた。
あなたの鼻を、潮の香りがくすぐる。森というのに足元のそれは海であった。
街で出会った小魚たちが、あなたの両脇を抜けてはるか前方の暗闇に飛び込んでいく。
あなたは、小魚たちの後に続いて森を走り出した。ビーチェが遅れるもなんとか追いついて手を握れる位置を維持する。あなたの心は興奮しているだろう。不思議なことにあなたはまっすぐ進んでいるのに木にぶつからない。木が脇に仰け反って、あなたとの干渉を避けているからだ。あなたの主観では木々が横に遠ざかっているように映るだろう。
もっと不思議なのは、あなたが足を取られないことである。木の根っこも海水も、あなたの進行を妨げない。むしろ海水はあなたの足を後押ししてくれるように感じるであろう。まさに海水はあなたの後方から前方へと流れ始めていた。
ビーチェの持つカンテラが俄かに瞬くや、眩いばかりの光を纏う。その光は森に潜んでいた暗闇を根こそぎ洗浄していき前方への通路を拓いた。
木という木がざわめいて、潮流によって生じた風に葉を渡す。
海水、風、小魚、葉っぱ、それらがあなたの背中を押す。海水は楽し気に木の間をすり抜けて、風が渦巻きながら前へ、小魚たちはカンテラの光に鱗を煌めかせつつ尾を振り泳いで、葉っぱはあなたを守護するように流れていく。
嫌な気配がする。あなたが振り返ると、鮫が猛然と唸りながら迫ってくるのが見える。
直感で武器も光も通用しないとわかるだろう。鮫にとってあなたを食い殺すことだけが使命であり武器に怖気づくことをやめたからだ。
けれどあなたは知っている。鮫は絶対にあなたに追い付けないことを。
鮫は海水や風の流れによって足止めさせられる。どんなに尾を振っても追いつけない。ギラギラと目を光らせても。破裂音にも似た彷徨をあげても。地面に白煙が残るほど速度を上げようとしても。絶対にできない。理由はわからない。まるで子供が自分は転ばないと思っているように。
「見て!」
ビーチェが言う。すぐ先には暗闇に浮かんだ小さな家がある。赤い屋根の煉瓦の家。郷愁を覚える優しい庭。見覚えのあるポスト。
家が近づくと風や海水や小魚たちは姿を消していった。鮫も家には近づけない。家に近づけば近づくほど暗闇が消えていく。ランタンの光がなくなった。カメラの冷たい感触も消えてなくなってしまうだろう。ふと気が付けばあなたは手ぶらだ。
唯一感触が残るのは、ビーチェのしわしわの手だけ。
あなたはビーチェを導くように家の扉を開く。鍵はあらかじめポケットに入っているから、正面から堂々と扉を潜れる。
あなたがビーチェにここに答えがあるのかと訊ねてもビーチェは答えないだろう。
ただ微笑むだけだ。仮面越しというのに、あなたは表情がわかった。
そしてあなたは見知った家の中で己の寝室を探り当てる。そう、ここはあなたの家だ。寝室に何があるかなんて知らない。けれど入らないといけない気がしてたまらない。塗装の剥げたノブを捻る。光が全てを包む。あなたの体が消えてなくなる。家も光に包まれて掠れていく。ばらばらになった家や暗闇は光の地平線の彼方にフェードアウトしていった。
あなたが振り返ると、ビーチェが佇んでいた。ビーチェの身長は少し伸びている。腰も曲がっているしゴム手袋もない。しわしわの手が覗いている。指に光る指輪がある。あなたは自分の手を見る。同じ指輪。
ビーチェが、仮面を取る。
あなたはビーチェが何者かを悟った。
ハッと目を覚ます。口を覆う酸素マスクが酷く息苦しさを感じさせた。体を起こそうとして筋肉が言うことを効かないことを悟った私は、己がどこにいるのかを探るべく、眼球を動かした。見知った天井。すぐ横には酸素装置。脈を計測する機械。下を見る。大型ベッドの縁。
記憶が彼方から染み出してくる。そう、私は車にはねられた。大型トラックにはねられ意識不明の重体となった。記憶にはないが誰かが身近で世話をしてくれたことだけを覚えていた。
私は、誰かの息遣いを感じ取った。温かさも。私の手を誰かが握っている。
目だけを動かすとビーチェがいた。
幼いころに一目惚れした快活そうな少女の姿ではなく、ブロンド髪から色素が抜けてしわしわの肌となった老いた妻の姿で。妻は私の手を握り背中を丸め微睡んでいた。
私は声をあげようとした。できない。声帯をしばらく使っていないばかりか、思うように肺が空気を送り出してくれない。私はせめてもの足掻きとして精一杯空気を吸い込むと吐き出す。
「………ィ、チ………ェ」
「………あなた、今日もいい天気で……あら?」
妻が目を開くなり世間話を始めようとした。きっと、私が昏睡状態のままと思い込んでいたのだろう。だが私の瞳が明白に開かれピントを合わせているのを見つけるや、いまも陰ることのないバラのような魅力的な笑みを浮かべたのだ。私の視界が緩んだ。そう、これは涙に違いない。
私は刹那、夢について思い返した。あれはなんだったのかと。単なる情報整理のための映像だったのか。それとも。
―――まぁ、いい。
私は、考えるのを放棄した。けれど“彼女”に一言感謝を述べた。
私を連れ出してくれてありがとう。“ビーチェ”。
人称を意図的に変更してみました。
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