朝に吐いた息が、透明から白く変わる頃。教室では静かな熱気が渦巻いていた。
高校三年の冬。それは入試の冬。
「ねー、瑞季はさ。美術部だし美大いくの?」
「んー? そのつもり」
「つもりって……自信持ちなよ。この前もコンクールで入賞してたじゃん」
からっと晴れた冬の空を眺めている。浮かぶ雲が心を吸い込んでいく。
この切羽詰まった時期に、エンジンが掛かりきっていないのは、単純にそう。
「自信がない、んだよねぇ」
ほぅ、と帰り道に息を漏らす。幾度も辿った帰り道の小石を蹴り飛ばす。なんだかわからないけど最近もやもやとするのだ。
白い息が大人が吸っている煙草の煙に見えて、手をあてがってみる。
「あ、画材買わなきゃ」
平等に時間は流れていく。いつの間にか蝉の声は過去に、紅葉もまた話題にすら上がらなくなった。
うかうかしていたら、入試はすぐそこだ。勉強と平行して実技もしないといけない。あと、もう一つ。
「卒業制作かぁ……」
美術部でもエースとして称された私は、卒業アルバムの扉絵を任された。この三年間を210mm ☓ 297mmの大きさに落とし込まないといけない。
受験にかまけていてもそろそろ期限が迫ってる。
時間が刻々と背中を押す。
見えない焦燥感に駈られるように、画材の買い出しで山手線に乗って上野に出た。
割り箸に刺さったパインを噛りながら、アメ横を歩く。
相変わらず雑多な街。なんて思いながら制作のヒントを探していると暗がりに見覚えの無い店を見つけた。
色屋、ただそれだけを掲げた木彫りの看板。誰もいない路地裏。怪しい気配がぷんぷんする。
「あーあ、変な店」
触らぬ神に祟りなし。そんなことを思いながらいきつけの店の画材を漁りにいく。──いつも通りに。
冬が深まっては、マフラーやカイロを持ち出す生徒の姿がちらほらと見えてきた。
デッサンは出来た。躍動する鳥の意匠と、放つ人のモニュメント。先生にも太鼓判を貰ったし、問題はない。ただ、それを彩る色が見当たらない。
「色かぁ……わからん」
昔から色をつけること。それが苦手だった。デッサンで現実を抜き出すことも、脳内の形を浮かび上がらせることも出来たのに、色を描く。それが苦手だった。
はぁ、とため息を一つ吐いて、後片付け。がらんとした部室をあとにする。
時計の音が、やけに耳についた日だった。
気分転換にまたアメ横に。ガヤガヤとした空気の中、ハロウィーンからクリスマスへ移っていくのを見る。
コンクリートの色が空に写る。よくある冬の空だ。
いつものところを漁っても何もない。
こちこち、とおじいさん店主頭上の時計が音を立てる。こちこち。そうやってはまた私の背中を押す。
「もうクリスマスだもんね」
寒空の下で息を吐く。白いもやが霧散していくのを眺めている。
「色……色……あっ」
以前に行った路地裏を思い出した。色屋とついた看板。そこに行ってみることに。
暗がりにぽかりと空く一本道。パイプが蛇のように蛇行している壁を真横にその店の戸を叩いた。
「おや、いらっしゃい。久しぶりの来客だね」
戸をあけると、一面の壁に時計が張り巡らされている。油絵の香りと、埃っぽい匂い。
その真ん中に老婆が一人。安楽椅子に腰掛けては本を読んでいた。
「どんな色をお求めかい? ここには全ての色があるよ」
ぎぃ、と板張りの床が軋む。
「あの、絵の具は?」
「あぁ、うちのはね。ちょっと特殊なんだ」
「特殊?」
少し身を引く。やっぱり怪しい。なんて思っていると老婆が立ち上がる。
「どれ、実演してみせようかね」
「え?」
老婆がいつの間にか目の前にいて、クリーム色の目がこちらを覗き込む。
じぃ、と見つめる瞳から逃れる為に、身じろぎをしていると、時計がおかしなことになっているのに気づく。
「なに、これ」
時計回りなんて言葉があるように、ほとんどの時計は右回りになるように世界が決めている。ただ、今この時、この場所では違うらしい。ゼンマイ仕掛けのおもちゃを回すように逆回転している。壁を埋めている時計全てがだ。
「そしたら、いくつか見せてあげるよ。水彩でいいかね」
老婆が、使い古されて艶がある筆とパレット、そして、空のチューブ。
ささくれた指が淀みなく、チューブを押し出す。すると空っぽだと思っていたものからは、橙と青の入り交じった絵の具が顔を出す。
「これは朝焼けの色。ずいぶんと早い時間に出るんだね。朝練かい?」
魔法のような光景が目に写る。次々と色が展開されていくのだから。
遠くに写る、青みのかかった山の色。紺碧と、青、そして波の白が混ざる海の色。燃えるような紅葉。そして、今年も見ることになるであろう桜の色。
世界を塗り替えるように、一筆でそれが展開されていた。
「さて、こんなもんかね」
老婆の声で我に返る。ぽかん、と口が開いていたことにようやく気づいた。
「これはアンタの記憶の色さ。ずいぶんと素敵なものを見てきているね」
「魔法………ですか?」
馬鹿な質問だとは思う。この時代になってそんな言葉を口にするのは思わなかった。
お婆さんはからからと笑う。
「こんなもんはまだ魔法の内に入らないさ。ただ、お嬢さんの知らないことがある」
この世界にはね、たくさんの秘密があるんだ。
「まぁ、これから色んな事を知っていく過渡期の最中じゃないか。楽しみな」
「そう……いうものですかね」
「世界には秘密があるし、色んなものがある。だからこそ、だからこそだ。そのなかで自分の色を見つけないといけないんだよ」
さて、買うかい? そう老婆は聞いてきた。
夕暮れを眺めながら電車を待っている。沈む夕日と、燃えるような空。視界がどこか煌めいていた。
「どうしようかな、これ」
結局、私はその店で買うことはなかった。自身の中から出てきたのであれば、自身で再現可能なはずだろう。少し違う。再現をしてみたかった。
視界を落すと、右手にはお婆さんが持っていた絵の具のチューブが目に入る。
「……そうかい」
いらないと告げたとき、そういってにっこりと笑うお婆さん。そしておもむろにチューブを押し付けるように手渡してきたのだ。
「あの、これは?」
「あぁ、もちろんお代はいらないよ。大抵ここにくる人は何かしらを買っていくからね。アンタの答えが気に入っただけさ。応援代わりとして使っておくれ」
一回は使えるだろうね、とそう言っていた。
不思議なお店だった。そんな事を思い出しながら部室へと通う。
何も用意せずに画用紙の前に座り、目を閉じる。
何気ない教室の談笑。暖かい色。体育館の足音、階段でのすれ違い、窓から入る光。
眠気交じりで聞いた授業の色。テスト前の緊張感。
校庭で白い息を出しながら陸上部が走ってる。長い廊下のどこかから吹奏楽の音が聞こえてくる。夕焼け混じりの放課後の色。
その全部は、自分が見て書いてきた色だから。
「描ける……」
筆を手にとって、絵の具をパレットに。色が交わり変わっていく。
成長して、変わっていく。それはまるで私たちのようで。それがいつの間にか楽しくなっていた。
全て描き上げた頃には、もう日が傾いていて部室に長い影が差していた。
紙面では鳥が旅立ちの時を迎えようと、必死に羽ばたいている。そして、放つ人。
そこには、私の三年間が詰まった色が塗られていた。
「あぁ……こんな色だったかな」
そんな事を呟いては、空になったチューブを弄ぶ。
これで、もう終わり。やる事が終わって何かがスッと抜けていく。
「思ったよりも、鮮やかじゃない」
透明な様で、けれど、絶対になかった事にならない日常の色。
混ざりあって、綺麗な色もそうでない色も、全てが思い出になっていく。
そんな色を置いて、私達は巣立っていく。
「でも……これが私の色」
一つ、水滴が落ちた。
「さて、と帰りますか」
随分といたような気もする部室に、お辞儀をする。ふと、三年間を濃縮した匂いが、鼻を擽って通り過ぎて行った。
あとは受験だけ。でも以前程怖くはない。だって、ここに確かにあったものが、見た色が、私を支えているのだから。あとは、やるだけ。
「行ってくるね」
そう告げて私は部室を出た。廊下には吹奏楽の音が遠く、遠く響いていた。
受験がひと段落したあとに、卒業制作のコピーを携えてあの色屋を探す。けれどそれらしい場所は見つからず途方に暮れていた。
「せっかく、見せたかったのになぁ」
「律義な子だね。お代を返しにくるとは思わなかった」
どこからか聞こえた声に視線をさ迷わせると、突風が丸めていたコピーを攫う。まるで魔法のようにだ。
貰っておくよ、と聞こえた気がしたから、空高く舞い上がった集大成に手を振る。
「ありがとうございました。私、ちゃんと自分の色、探しますからっ!!」
そう言って、突風に乗って飛び立つ鳥たちを、ずっと眺めていた。