雪は空気の振動を吸収し、音を消してしまう。雪の日の朝が静かに感じるのはそれが原因だ。
だから、例え世界の全てが停止したとしても、雪は世界を覆い、静寂をもたらす。そういう理なのだ。
静寂。真っ暗に近い感覚の中、僕は目覚めた。
キーンと耳鳴りのような音が響く。
浮き上がった意識を視界に向けると、果てまで伸びた銀世界が広がっていた。
「あぁ、起きたのね。起きてしまったのね。おはよう」
燃えるような赤。初めにそれが目に入った。その赤は少女の髪の毛で、炎のようなそれが風に靡いていた。
「ようこそ、終わってしまった世界に」
身の身まで凍えるような景色なのに、彼女は薄着。
もう一度、風が吹く。雪が舞い上がった。
「その身体はどう? 寒くない?」
身体。と言われて初めて自分を注視する。そこには、くたびれたタスキみたいにコードが垂れ下がり、絡まっている。どう見ても生身ではない。
驚いて口を開こうにも、どうやら口はついていないようだ。身振り手振りしようにも、不格好な腕のようなものは即座に反応してくれない。
「そう、驚いているのかしら。いいことね。まだ、あなたが人間であるということだわ」
少女は平然と言い放ち、平坦な銀世界に視界を向ける。生身のはずなのに彼女は寒がる様子はない。
しんしんと降り積もっていく雪。それに手をかざす彼女は、とても綺麗だった。
白くて透明なままに、彼女は笑う。
「何が起きたか知りたい?」
戦争があったの。と彼女は言う。
一つの国が爆弾を撃って。それが始まりで、終わり。端的に、とても端的に説明された。
「周りを見てごらん? 建物だったものがたくさんあるでしょう?」
雪に紛れた灰色のビル群。窓の無いそれらが先端だけを突き出していて、墓標のように立ち並んでいる。
棺桶のように、直立したままに雪に埋もれる瞬間を今か今かと待っていた。
本当に人類は滅んでしまったのだろうか。少なくともここには少女と僕しか居なかった。
だとするならば、僕は何者だろう? 何故ここに立っているのだろう?
「あなただけじゃないの、見て」
少女が何かを指を差す。その先は何もない虚空、その筈だった。
しかし、チロチロと降る雪が何かをすり抜けていく。それは半透明のぼやけた何か。よく見ると、人間のようにも見えなくもなかった。
いつかの陽炎が立ち上り、彷徨している。それは死ぬことを忘れてしまった人間なのだろう。
まとも身体があったのなら身震いをしていたに違いない。
「あなたはその中の一つ。偶然、私が作った容れ物に入った魂なだけ」
この子は命の恩人なのかもしれない。目の前の亡者の群れに混ざりたいとは思えないから、掬い上げてくれたのは感謝しかない。
せめてもと身体を揺すると、彼女は笑う。
「感謝してくれるのね。こちらこそありがとう。目覚めてくれて」
笑う姿はどこか懐かしく、儚げであった。身体がこんなのだからかもしれない。剥き出しの心が動いていた。
それからというもの、彼女との生活が始まった。
彼女の住処はボロボロのコンクリートの箱と称するにふさわしいような場所。そこに二人で逃げ込んだ。
炭になってしまった食べ物からマシなもの、缶詰を探しだしては彼女に差し出す。その度に喜んでくれる顔が、充実感を与えてくれる。それが僕の毎日。
物を作る才能が彼女にはあった。ガラクタを組み合わせて、テーブルを、二人分のイスを、ベットを、次々と創り出していく。
ここにアナタが来てから楽しいわ。と笑っていて、それがまた僕の心をときめかした。
けれど、そんな幸せな日は、長くは続かなかった。
ある日、吹雪がやってきた。唐突な雪の暴威がすべてを白に塗り替えていく。背の低いビルの廃墟が覆われて小高い丘のようになる。半透明の彼らが飲み込まれて消えていく。
白く、白く、残虐な津波。猛吹雪は僕と彼女の隠れ家まで及んだ。
容赦なく窓から雪がなだれ込み、作ったテーブルもイスも全てが白へと帰っていく。幸せな日々が雪の下に埋まっていく。なんとか自分たちが埋まる事は避けられたが、その他は全てが終わっていた。
必死に掘り出そうとした。けれど、掘っても掘っても、降りしきる雪が努力を消してしまっていた。
「もう、いいよ」
そうやって彼女は言う。痛々しい笑顔が浮かんでは僕の心を締め付ける。
そんな笑顔が見たくなくて、僕は彼女の手を取る。
「何処かへいくの?」
驚いた顔でもいい。とにかく悲しい表情をさせたくないから手を引っ張る。
もっと別のいい場所があるはずだ。そう確信して彼女と歩く。何もなくなってしまったけど、彼女がいる。
その先を信じて歩いていた。
もう、どれくらい歩いたかわからない。
だんだんと彼女のペースが落ちて、休憩を多くとるようになってきた。同じように僕も意識が飛ぶ時間が増えていく。
半透明の影もぽつぽつと減ってきて、人類のモラトリアムが終わる時が近いと、確信に変わっていった。
──急がなければならない。
彷迷うだけの日々に、焦燥感が募っていく。
彼女は眠り、すれ違う影が消える。
世界の本当の終わりが近い。
そして、影を見なくなって幾ばくか、ついに終わりが来た。
糸が切れたように、彼女が倒れたのだ。
「ごめんね、もう……置いていってもいいよ」
それは嫌だ、と不格好な腕を伸ばす。
「もう、充分だから」
彼女が雪に埋もれてしまう。それだけは避けたくて近くの建物に入る。
どこかのデパートだったようだ。華やかだった頃を想像させるような通路を抜けて、屋上庭園の看板を横目に彼女を引きづっていく。
背負っている彼女が語りかけてくる。私もね、と。
「たまたま肉体が滅ばなかっただけ。あなたと一緒。私の死体という容れ物に、私が入っているだけ」
分かっていた。吹雪に埋もれた家から手付かずの缶詰が大量に見つかったから。
それでも良かった。彼女は彼女だから。
少しでも暖かいところへ探していると、突然視界が開けた。
それはまるで天国のようで、僕たちが目指した『もっといい場所』に違いなかった。
旅の終わり、終着点。
辿り着いたのは、色とりどりの花が咲き乱れる美しい花園。
この情勢下で、どんな天文学的な数値上の奇跡はわからない。ただ、これだけは言える。これは人類の建物が覆い守っていた最後の楽園だった。
その花園に、彼女を横たえる。
「ほんとはね、ずっと待っていたんだ。ずっと、君のことを待っていた」
こんな世界に、たった一人で待っていたの。
「覚えていない? この身体を守ってくれたのは、あなただったんだよ?」
ずっと探していた。呼び掛けて、声が枯れるまで呼び続けて、それで応えてくれた。
手が凍って、ボロボロになってもあなたの容れ物を作った。その甲斐はあった。充分過ぎる程に。
「幸せな日々だった」
満足そうに彼女は笑う。
風もないのに、周りの花が揺れる。
──駄目だ、彼女が消えていく。
「もう一度、だけ、お礼が言いたかったの。助けてくれてありがとう、って」
彼女を構成する何かが抜けていく。彼女が終わっていく。
光の束が彼女を包む。
「こんな、幸せな日々を、終わりを与えてくれて、ありがとう」
──愛しているわ。
そう告げて、彼女は眠るように目を閉じた。
涙は出ない。出せる機能はない。
ただ、ただ、彼女のもとに行きたかった。
ボロボロと身体が崩れていく。彼女が作ってくれた身体が解けるように壊れていく。きっと繋ぎ止めていた何かが切れたのだろう。急速に僕の体は鉄屑に変わっていく。
だが、それでよかった。これで一緒に行ける。
消えてしまった光を追いかける。
ふと、気がつくと、眼下には花園に彼女と僕がいた。
重なりあうように、横たわっていた。
終わってしまった世界と、彼女は言っていた。
けれど、違う。確かにここに幸せな日々があった。ここに僕と彼女がいた。
ここにあったから。確かにここに、幸せはあったのだから。
「幸せだった」
例え、雪が全て覆っても、確かにここにあった。何も消えないし、何も無くならない。
それは、僕と彼女の幸福な日々。
追いかけて、追い付いて、また始めよう。きっとそれは、幸福に溢れているから。
「また、応えてくれたね」
「今度は言葉も交わせるようになった」
「そうか……それは」
──幸福なことだね。