『愚弟、おはよう』
誰かに呼ばれて、ようやく思い出した。この日の為に多くの時間と犠牲を払ってシステムを構築してきたのに、肝心の当日に仮眠室で眠りこけているわけにはいかない。
くちゃくちゃのジャケットを羽織ってすぐに部屋を出た。
影が二つ分、くすんだターコイズの床に落ちる。円/楕円/歪な形。
影は光源の位置に影響されて伸びたり縮んだりする。下を向きながら歩くと、いつも自分の落とす半透明の影と直面することになる。
『今日だね』
白い息を吐きながら廊下の手すりを触ると温かい。施設中央部に据えられた源石ボイラーが常に建屋全体へ温水を循環させているから、施設の温度が一定以下になることは少ない。
だが廊下はその中でも最も重要度が低い場所とされた。いわば半野外の扱いであり、温水の配管が極端に少ないから、こういう日はどうしても寒くなる。
配管を血管、温水を血液とすると、人間で言う耳朶。血が通っていないひんやりとした部位。
『深淵はここよりも冷たい場所なのかな、姉さん』
手を止めて、飲んでいた炭酸水を下ろして、彼女は赤い眼で俺を見た。
血の色だ。
それは重なる死体の白衣に滲んだ血の色。
またはエラーメッセージの警告色。
一面ピカピカジリジリして、クリスマスツリーと年の瀬のオーケストラみたいになった計器群。
炎の紅蓮。チェルノボーグを焼き溶かすあの太陽の様な熱。
瞼の裏に明るさを感じて目が覚めた。
夢を見ていた事は覚えている。だけどもその内容までは、何時ものように思い出せない。なにか特別思い出すことなんてあったっけ? 夢は記憶領域の自己メンテナンスと良く言われるが、真っ新なハードディスクをクリーンアップする事ほど無駄なことは無い。
砲塔のハッチが壊れてから、この棺桶も随分風通しが良くなった。見上げる空はブルースクリーン。雲がふんわりと流れて、円に切り取られた向こうへ消えていく。あれこれ考えるのがアホらしく思えてくる天気に、欠伸が一つ出た。
外へと身を乗り出すと、エンジン直上の平たい車体に、オレンジ色をした塊が干してあった。一人のペッロ―が彼女のコレクションと共に気持ちよさそうな寝息を立てて転がっている。耳が僅かに動いて、ゆっくりと目を開けた。
「えっと、おはよう?」
地表を滑るように心地いい風が吹いて、鋼鉄の車体を撫でていく。
「おはようでいいよ」
目覚める時の挨拶は多分おはようでいい。
少し腰元に目をやると、ケーはさりげなくナイフから手を離した。俺に対して警戒心があるのか、それとも今まで警戒しないで寝たことがないのか。
「そろそろ飯にしよう」
俺がフライパンを取り出すと、ケーの顔がぱっと明るくなった。
食事は腹が満たされるし、なにしろ調理には彼女のナイフが必要だからだ。
彼女は調理を知らないが、俺では源石に汚染された生物を安全に解体できない。ダモイは彼女の物だ(ということにしてある)が、彼女では戦車を動かすことができないし、一方俺だけでは具体的な目的を持つことができない。俺とケーは奇妙な共生関係を続けながら移動を続けていた。
風に草花が揺れている。どこからか鳥の声がする。なにもない荒野から景色は段々と変わって行き、早くも新緑の香りがする地帯に入ってきていた。しばらく漫然と進んで来たが、これだけ穏やかな地帯なら、どこかに集落があるはずだ。移動都市の庇護を受けずその足元に隠れるようにして住んでいる、地に降りた人々の寄り合いが。
組み立て式のガストーチを用意しながら、今後の事について思考を巡らせる。
まずは集落を見つけなければ、今いる位置さえ把握できない。戦車の源石だって限界が見えてきたし、天災から逃げた時の無理が祟って車体はガタガタの要介護状態で、間違ってもエンジンを吹かす事はできない。剥がれかけたロケット弾防護金網を積まれていた幅広のテープで止めているような状態で、今は戦闘機械というよりは走る打楽器といった有様だ。
立ち寄った先で戦車のデータリンクをネットワークへ接続できればそれ以上のことは無いが、この車両が以前の持ち主から捜索されていた場合、追跡網に捕まってしまう可能性がある。慎重に行う必要があるだろう。
先ほどから視界の端になにかがチラチラ映ると思ったら、ケーが剥がし飛ばしたオリジムシの外殻だった。オリジムシに含まれる源石成分は主にその外殻に濃縮され、岩のように硬い装甲を産み出す。かつて深海にいたはずの生物にも同じ原理で金属の装甲を産み出す生物がいるし、河岸の背の高い植物は土からガラス分を吸い上げることで茎を固くしている。
オリジムシはこの外殻を持ってして地上の生態系を一変させた。ある意味このテラの大地で最も進んだ生物と言える。感染者になれば死ぬしかない人間よりもずっと。
「考えてる?」
「え?」
突然ケーから話しかけられて、慌ててそちらを振り向いた。彼女は外殻を外して頭と内臓を落としたオリジムシを手から下げている。腹に付いた無数の足が、まだ残る運動神経に従ってうねうねと顫動しているが、だんだんと元気を失っていく。生物のひとつの死。
「むずかしい顔してた」
「え、そんなに?」
思わず自分の顔に手をやった。驚いて広がった眉間がつるつると手にあたる。
「いまはしてないよ。焼く?」
「いや、このままだと食べにくいし火も通らない。今日は一口大に切り分けてみようか」
「一口大」
「あー、食べやすい大きさってこと」
「わかった」
彼女は多くの事を知らない。このテラの大地で生き抜くための直感的な感覚は並みの人間を遥かに凌駕するものだが、その代わりに著しく社会常識を欠いている。牙を持った狼にナイフとフォークが必要無いように、社会に属さないものに社会常識は必要無い。
きっと荒野で一人で生きていくために、一口大の大きさを知る必要は無かったのだろう。
ところで、暫くして差しだされたケーの手には、手のひらほどもある肉片が数枚乗せられていた。「一口大?」と聞くと彼女は口を大きく開けて見せる。尖った犬歯が光る、大きな大きな口だ。彼女の一口の大きさに恐れ入りながら、ナイフを借りて自分の分だけ四つに切り分けた。
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相変わらず心地良い風が吹いている。砂も源石も混じっていない、緑の匂いを孕んだ風を、ゆっくり前進する車体が全身で受け止める。天災がそのエネルギーを解放して去ったからかここ数日源石受信機の機嫌がすこぶる良い。軽快なロックが風に乗って後方へ流れていく。
「ケー、そんなところに座って落ちるなよ」
運転手席から声を掛けると、ケーの手が上から伸びてきてゆらゆら揺れた。わかっているのかわかっていないのか分からない返答に、苦笑してハンドルを握りなおした。
ダモイ運転手席の視察窓が付いた前面ハッチは、装甲板ごと上へと跳ね上げる事ができる。当然砂塵が激しい荒野や戦闘中などは閉じておくのだが、今日みたいな日に野山を走る分には、上半身を外気に曝すこともやぶさかではなかった。こちらの方が視界を広く保つことができて事故のリスクがうんと減るし、なにより息苦しくない。ケーは砲塔の前に腰かけ、地面と水平になったハッチの上に足を投げ出して武器の手入れに忙しい。アーツユニットの柄をクルクル回して分解する音、詰まっていた砂が上からパラパラと落ちてくる。
これまで寝食を共にする中で思ったことは、彼女は度々分解整備を行う程度に武器の維持に熱心だということだ。持っているのは杖やパイプのようなアーツユニット数本と斧やナイフなど無数の斬撃武器。クロスボウや銃が殆ど無いのは扱いが分からない他にも、弾薬が手に入らなくて維持できないからか。
「ケーはさ、なんで武器に執着するんだ?」
落石でもあったのか、整備されていない道の中でも特にガタガタな路面に差し掛かる。重い図体を支えるサスペンションがキシキシ音を立て、肩が若干縦に上下する。
「しゅうちゃく?」
「ごめん、なんで武器をそんなに持ってるのかって思った」
ジャンク屋もかくやという大量の武器に飽き足らず、今度は戦車とその搭乗員まで拾った事になる。いくらこのテラで戦車という存在が希少だったとしても、二週間前のあの日、天災で死ぬリスクを背負ってまであの荒野へコレクションしにやって来たとしたら、いくらなんでも正気じゃない。
「武器はねー」
びよんと彼女のブーツが目の前に投げ出された。
「あ、ちょ、前が見えない」
「武器はおいらをまもってくれる」
俺は足の隙間から必死に前を確認しながらハンドルを切る。ハンドルを切りながら聞く。
「守ってくれるって、じゃあそんなに沢山必要ないんじゃ?」
「もっとほしい」
「もっと欲しいって、そんなに運べないぞ」
「じゃあダーちゃんに持てるだけ」
ダーちゃん、ダモイのことか。
この無骨な棺桶も、随分可愛らしいあだ名がつけられたもんだ。ちょっと羨ましく感じてしまうのは春の陽気のせいか。
「ケーちゃんケーちゃん、俺の呼び方は?」
「キーズ」
「えっそれだけ?」
「うん」
やがて道の向こうに、ゆっくり回る六枚羽根の風車と、まるで山間に隠れるように作られた集落の三角屋根たちが、その姿を現した。
感想ありがたい 続きます