雲間から光条が差す現象を学術的には薄明光線と呼ぶが、「天使の梯子」と言った方が伝わりやすいだろう。主にラテラーノ人が信じるところによると、天使がそこを伝って天へと昇るのだそうだ。
今、俺の眼をその梯子が突いた。余りの眩しさに口から大量の気泡を吐き、ようやくここが水中だと知った。首を回してもがくと顔の周りが炭酸水のように泡立つ。
古代魚が目の前を横切って、そのグロテスクな横腹を見せた。肺から解放された球形の呼気が次々と天へ昇っていくが、反対に体はどんどん石のごとく重くなって沈んでいく。
力が抜けたのか、それとも海藻でも巻き付いたのか、脳が送る必死の生体電位に反して、足先はずっと沈黙している。手も腕もだ。もう瞼すら動かなくて、ただただ天上の光だけを受け入れていた。
より深いところから声が聞こえる。
「キーズ」
誰の声だ? それは海の声だ。または大地の声でもある。大地の声? 思考が皮膚から外へ溶けだしていき、もう一切まとまらない。
声はわんわんと増幅されて大きくなる。そうだ、あれらは何時も呼んでいる。俺たちは目を閉じて耳を塞いで、あれを認識しないようにしているだけで。
右脳は応と言う。左脳は否と言う。身体は日和見だ。四肢は動かない。
視界がどんどん歪んで、酸素と血が抜けて、脳みそが混ざってぐちゃぐちゃになって────
「おい、もうよしてやれ」
頭皮が引っ張られる感覚と共に俺はバケツから勢いよく引き上げられた。
荒い呼吸を繰り返す。肺胞が一気に膨らむ感覚がする。遠ざかっていた意識が駆け足で戻って来た。滴り落ちた水がカーキ色のズボンとコンクリートの床に黒い跡を付ける。
今までどうしていたっけ? マフィアに襲われて、ケーを庇って、肩に銃弾を食らって。そこまで思い出して、俺は勢いよく顔を上げた。
「っ!」
至近距離で二つの紅い眼が、俺の眼を覗き込んでいる。咄嗟に立ち上がろうとするが、手足が変に強張って動かない。ぎちり、と音がして、身体が縄か何かで椅子に固定されていることを痛みと共に教えてくれる。
「目が覚めたか」
「最悪の目覚めだ……こういう台詞一度言ってみたかったんだよね」
そして言わないといけないような状況がそもそもとても不愉快だという事を今知った。
「ふざけやがって」
「あんたの客人の対応よりはふざけてない」
赤い眼の女が手を上げて合図すると、椅子の近くの地面が子気味良い音と共に吹き飛んだ。細かく砕けたコンクリートの粉塵と硝煙の匂いが横から流れてくる。
「銃弾高いでしょ? 随分金がかかったもてなしをありがとう」
今度は逆の地面が銃撃された。さっきのバケツに穴が開いて辺り一面が濡れていく。
「映画スターになり切ったつもりか? 安心しろ、お前が死んだらフィルムに包んで火葬してやる」
「ご丁寧にどうも。感染者だから焼くときは気をつけてね」
「感染者になったのか。私と同じだな」
紅い眼に同色の髪の女は、ふと何かを思い出したかのように目を細める。鼻から口までを覆うガスマスクの下は窺い知れないが、微笑んでいる、と直感した。
「だがその子供じみた減らず口は相変わらずだ。キーズおじさん」
「おじっ」
キーズおじさん? まだまだ全然お兄さんで通せる外見だと思っていたけど、今おじさんって言われた? あまりのショックに再び意識が遠くなり、椅子ごと後ろへ倒れそうになる。マフィアたちによって新しいバケツが運ばれてきて、二人がかりで顔にぶっかけられた。シラク―ザの硬水が鼻に入って激しくむせる。肺炎になったらどうすんだ。これってもしかして気つけのつもりなのか? しばらく俺の意識はあちらとこちらを行ったり来たりする羽目になった。
「あーっ! キーズ!」
俺が拷問まがいの歓待を受けていた部屋は厨房の奥にあった。並べられた食器や調理器具の群れを抜けてその先の食堂へ出ると、テーブルに大量の食器が積まれているのが真っ先に目に入る。白磁の塔の背後から耳になじむ同行者の声が聞こえた。
「お腹が減ったって言ったらね、お姉ちゃんがこれ全部食べていいって!」
山の一部が崩れて輝く笑顔が見えた。口はトマトソースでべちゃべちゃに汚れているが、俺が今まで見た中で一番の笑顔だ。
「日頃ちゃんと飯を食わせているか? 凄まじい食いっぷりで心配になったぞ。コックはさっきダウンしたからしばらくはファミリーで外食だな」
「面目ない………」
ケーちゃんの食欲はマジで際限がないし、彼女の辞書に遠慮と言う言葉は存在しない。
「さっきは悪かったな、事故とはいえうちの人間をはっ倒してまわられちゃ顔がつぶれる………」
「ショーって訳か?」
「そんな露悪的な物じゃない。お前達は肉切り包丁で少ししごかれて、うちに従順になった。そういうことにしただけさ」
促されて俺もテーブルに着く。しばらくして一枚の皿が差し出された。
蒸気で視界が曇る。真っ赤なスープだった。カブやたまねぎ、その他の野菜が浮いていて、真ん中に帽子を被るようにサワークリームが盛られている。
「これは」
「私にも一品くらい作れる。毒は入れてない」
「そうじゃない………どうしてウルサスの………」
気付いたら口に運んでいた。温かい液体が喉を通り、身体へ流れ込んでいく。
赤いかぶは煮込まれていて柔らかい。サワークリームを匙で崩して溶かすと、口当たりがさらに優しいものになった。
「キーズ、どうしたの? 痛いの? おめめになんか入っちゃった?」
「え? ケーちゃん、どうしたって?」
ケーが皿を覗き込むのを止めて、こちらを心配そうに見てきた。
「キーズ、泣いてるよ?」
咄嗟に目元に手をやった。さらさらとした液体で、確かに濡れている。
「どうして」
掬ったスープに一滴、涙が落ちた。涙の塩味はスープに広がって、甘いサワークリームに希釈される。
脳内にいくつもの光景がよぎる。それはビジョンと呼ぶには曖昧すぎる、匂いとか感触とか温度とかの情報だ。
雪が降りしきる灰色の街の匂い、素っ気ないマンションの感触、窓の中の、飾りつけされた室内の温度。特別な日。
「どうして………覚えていない筈なのに」
棄ててしまった記憶の残滓が、まだ此処にいると、必死に心の中で訴えていた。
「キーズ、悲しいの? ひどいことされた?」
「いや、ケーちゃん」
涙が止まらなかった。
「懐かしくて………懐かしくて、たまらないんだ」
ケーは不思議そうに耳を動かした。
「なつかしいと悲しいの? ………おいらわかんないや」
食卓の夫婦、招かれたもう一人。足元に寄ってきた小さい女の子は、父と同じ髪色の────。
「なんでだろうね、懐かしいと涙が出ちゃうのは………なんでだろうね」
俺も分らなかった。
でも多分、その理由が分っていても、きっと涙は止まってくれなかっただろう。
「改めて挨拶しておこう。私はこの村のマフィアのボスをやっている者だ。ファミリーの名前を借りて『クラウン』と呼ばれている」
「もう知ってるみたいだけど一応。キーズだ。こっちは」
「ケーだよ!」
クラウンは俺の背後でぴょんぴょん跳ねているケーへ目を向けた。
「『K』? コードネームか?」
「ちょっと訳ありなんだ」
「私と同じだな」
ファミリーの本部は村の中央近くにあった。二階のテラスから、宵の青色に沈んでいく古めかしい作りの建物たちが一望できる。大きい家はどれも皆高い塔を備えていて、そこだけに地平線の向こうから夕陽が当たっていた。
俺は言葉を交わしながら、何気なく肩を気にした。着替える時に確認したが、シャツの下に傷口らしきものは一切無い。ただ打撲した時のようなじんわりした痛みが残っているだけで、全く問題なく動かすことが出来る。障害が残るよりよっぽどいいのだが、まるで撃たれたことが全て無かったことになったようで釈然としない。あの黒い影も霧の中で見た夢だったのだろうか?
クラウンは口元を覆うマスクを外して風を吸い込んだ。一瞬だけ首元の大きな黒い結晶が見える。
「この村の歴史は相当古い。村役場に掲げられた紋章が見えるか?」
「うん」
夕陽の残照に、村役場の塔の上部に彫られた模様が浮かび上がっている。意匠化された花冠にも見えなくもないが、それにしては奇妙な造形をしている。
「あれは………骨の王冠?」
「ああ。あれが彫られたのはおよそ五百年前と言われている。この村の歴史に関わっているらしい。ファミリーの名前の由来があれだ」
「随分古いな」
「天災に対して移動都市化を選ばなかった共同体もいた………その代わりに家々は競うように高い塔を立て、視力や探索系のアーツ能力に優れた見張りを置いたそうだ。天災からいち早く逃れられるように」
「それで逃げられる物なのか? 逃げたとして汚染された土地に住むことは?」
「効果はよくわからないが、この村が未だに存続しているのがひとつの答えかもな」
単に運がいいだけかもしれない、とクラウンは呟いた。
「随分前から不安定なんだ。テキサス家………大きな家が滅んでから、シラク―ザの力関係は以前にも増して動的な物になった。新天地を求めて国を出る家すらある。うちの構成員もこの所散発的に襲われることがあってな、緊張しているんだ」
「だから俺達は絡まれたのか」
「すまない、感染者の風当りは裏社会でも強い………。不安定じゃなかったら余所者で感染者の私がクラウンのトップになることもなかっただろう」
「そんなものか」
俺達がシリアスな話をする横で、ケーはテラスの壁に開いた四角い穴へ顔を突っ込んでいる。室内から弓矢を射かけるための昔ながらの防衛機構だ。軍隊の出てこないマフィア同士の小競り合いなら、今でも充分現役なのだろう。
「おーいケーちゃん、何か見えた?」
「うーんとね、家! あとバイク走ってくるよ! すごく速い」
「お~良いね、景気がいい」
確かに軽快なエンジン音が村に響いている。それは段々と近づいてきた。
クラウンは煙管を使って煙を吐いていた。不思議な煙草を燃しているようで、匂いの類が一切ない。だが彼女は唐突に煙管を取り落とした。
「まずい、伏せろ!」
沈む太陽がグリーンフラッシュを放った。
瞬間、突き上げるような振動と轟音が俺達をめちゃくちゃに揺さぶった。
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