これで、よかったのかな。
何も見えず、何も聞こえない。
結梨の五感はすべて失われていたが、なぜか意識が海中をゆっくりと沈んでいくことだけは感じられた。
このまま深さ数百メートルの海底まで沈んでいくのだろうか、それとも、この意識もやがて五感と同じように消えてしまって、何も無くなるのだろうか。
だとしても、もう自分にはどうすることもできはしない。
海の中を泳ぐための体が存在しているかどうかさえ、分からないのに。
でも。
もう一度、みんなに会いたいな。
その感情が結梨の意識に浮かんだ時、
君は皆の所に戻りたいんだろう?
なら、そうするべきだ、いや、そうしなくちゃならない。
知らない女性の声が何処からか聞こえた。
落ち着きのある澄んだ美しい声だった。
しかし、声が聞こえてきた方向も距離も分からない。
もとより今の結梨には視覚も聴覚も機能していない。
それどころか自分の体の存在さえも感じられないのに、なぜかその声ははっきりと結梨の意識に届いていた。
あなたは、誰?
結梨の意識だけの問いに一瞬の間を置いて、先ほどと同じ声が答えた。
そうだな……言うなれば、君のお姉様のお姉様の、そのまたお姉様、というところかな。
まあ僕のことはどうでもいい。
僕が今、君に伝えたいのは、君が望むなら、君にはそれが出来る力があるかもしれない、ということだ。
あくまでも可能性の話で恐縮だが。
遠くに膨大なマギの存在を感じるだろう?
ネストのマギは今なお健在だ。
そのマギと沈みゆく君の体を、君の意識、いや意思で繋げれば、君の望むことができるはずだ。
君は皆の所に戻りたいと思い、皆は君に戻って来てほしいと思っている。
つまり、君には還るべき場所がある。
理由はそれだけで十分だ。他に何も必要ない。
……ありがとう。やってみる。
でも、どうして私に教えてくれるの?
君はまだ死ぬべき運命ではないという、僕の独善だよ、そうとしか言えない。
残酷な話だが、今ここで君が死んでしまったとしても、世界は変わらず動き続けるだろう。
でも、君がいない世界よりも、君がいる世界のほうを、梨璃も、夢結も、皆も望むだろう。
僕のお節介と君の意思でそれが叶うなら、そうしない理由なんて何処にもない。
君の意思が君の未来を創り、皆の意思が皆の未来を創るんだ。
だから、君は生きろ。
皆の所へ戻って、皆と一緒に、この世界を救ってくれ。
それが僕の願いだ。
君の力なら、それができるはずだ。
それが結梨に聞こえた最後の言葉だった。
あの声が言った通り、離れた場所に巨大な魔法エネルギーの存在を感じることが確かにできる。
それを意識だけで手繰り寄せ、形を留めているかも定かではない自分の体に、いや、体と思われるものに繋いでみる。
すると、それまでのゆっくりとした沈降が止まり、暫くしてやがて上昇に転じたことが、はっきりと分かった。
相変わらず体の感覚は無く、ただ意識が海中を揺られながら、ごくゆっくりと浮上していることが分かるだけだ。
海面までどのくらいあるのか、数十メートルか、数百メートルか。
何も分からないが、不思議と何も不安は無かった。
海流と波の揺らぎのためか、しだいに眠気のような感覚が襲ってくるようになった。
少しだけ、眠ろう。
そう心の中で呟くと、結梨の意識はゆっくりとまどろみの中へ沈んでいった。
かすかに人の声が聞こえた気がした。
また知らない女の人の声だ。
……さま、みつ……した
……やく……ちらへ……
意識が朦朧として、声は途切れ途切れにしか聞こえない。
間もなく、砂を踏んで足早に近づいてくる音が、しだいに大きくなってきた。
足音は結梨のすぐそばで止まり、誰かに上半身を抱き上げられる感覚が生じた。
結梨を抱き上げた足音の主は、まるで自分の子に話しかけるかのような口調で、愛おしげに結梨に囁いた。
よかった、生きてるのね。
その安堵した声に反応して、結梨はわずかに眼を開いた。
太陽が逆光になって、顔がよく見えない。
銀色の長い髪が、陽に透けてきらきらと輝いて見えた。
梨璃じゃない……誰?
結梨が小さく呟くように問いかけると、その女性は喜びの感情を抑えながら、努めて冷静に答えた。
「私は百合ヶ丘の特務レギオン、ロスヴァイセ所属のロザリンデ・フリーデグンデ・フォン・オットー。あの日から、ずっとあなたを探していたの、一柳結梨ちゃん」