階下の天井に設けられた出入り口から姿を現した閑は、屋根裏部屋の床に立つと、二人に向かって折り目正しく一礼した。
「ごきげんよう、ロザリンデ様、眞悠理様。
乃子様が部屋にいらっしゃらなかったので、こちらに来られているのではと思って来てみたんですが……あてが外れたみたいです」
室内に乃子の姿を確認できなかった閑は、少し声の調子を落としてロザリンデと眞悠理に事情を説明した。
「乃子さんなら食材の調達に出かけているから、夕方までは戻らないと思うわ。
戻って来たらここにも顔を出すはずだから、閑さんもそれまでお茶でも飲みながらここで待ってみる?」
眞悠理の提案を断る理由は、今の閑にはどこにも無かった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。
――ところで、お二人は何のお話をされていたのかお尋ねしても構わないでしょうか」
「そうね、少し大げさに言えば、人類とリリィの未来について……かしらね」
結梨のことを閑に話すわけにもいかず、ロザリンデは抽象的な答えを閑に返した。
すると、ロザリンデの言葉を聞いた閑の瞳は大きく見開かれ、その輝きを何割も増したように見えた。
「人類とリリィの未来……」
気分の高揚を抑えきれない様子の閑は、早口にロザリンデと眞悠理に向かって話しかける。
「もしお邪魔でなければ、そのお話の続きに私も加わらせてもらえないでしょうか?」
「閑さんはそういう話題に興味があるの?」
ロザリンデの確認に、閑は二度三度と大きく頷いた。
「そうだったの。眞悠理さん、シュバルツグレイルのレギオンでそういう話をすることは無いの?」
「はい、私たちのレギオンは
するとしても、せいぜい国定守備範囲や外征レベルの議論までで、国家間や世界全体についての話をすることまでは、ほとんどありません」
「そうなんです。だから、ロザリンデ様と眞悠理様がそのようなお話をされていたのなら、こんな貴重な機会を逃す手はありません。
後学のために、ぜひ私にもお話を聞かせていただきたいんです」
伊東閑とはこんなにも幼い表情をする子だったのかと、子供のように目を輝かせている閑の顔を見ながら、眞悠理は意外な気持ちになった。
眞悠理が知っている普段の閑は、冷静沈着を絵に描いたような性格で、それが高じて「氷帝」という二つ名までつけられている。
その閑が感情を露わにするところを目の当たりにして、眞悠理は自分がまだ知らない彼女の一面に触れていることを自覚した。
(閑さんの能力を
それにしても、これほど興味を示すということは、平素からそういうことを考えていても、議論をする相手がいなかったのかしら。
……まあ、ルームメイトの梨璃さんは明らかにそういうタイプではなさそうだし、シュッツエンゲルの乃子さんも家庭的な人柄だから、無理もないかもしれない)
眞悠理がそのようなことを考えてる間に、その隣りまで来ていたロザリンデは、少し困ったような顔で閑に微笑んだ。
「そんな御大層な内容では無くてよ。
たかが高校生の空想みたいなもの、期待外れに終わって肩透かしを食うだけかもしれないわ」
「いえ、ご謙遜なさらずとも、お二人の博識ぶりはよく存じ上げているつもりです。
私も末席に加えていただければ、これに勝る幸運はありません」
ロザリンデと眞悠理が政治哲学に傾倒していることを知ってか知らずか、閑は二人の知識や思考能力について全く疑いを持っていないようだった。
三人は先程までロザリンデと眞悠理が向かい合って話をしていた机に戻り、閑は眞悠理の隣りの椅子に腰を下ろした。
眞悠理が閑のために紅茶を一杯淹れ、閑の前に静かに置いた。
閑は軽く頭を下げてお礼の言葉を言うと、眞悠理が自分の隣りに座ったのを見て、ロザリンデの発言を待った。
ロザリンデは一口だけ紅茶を喉に流し込むと、仕切り直したように閑に向かって、先程までの話の続きを再開した。
「私と眞悠理さんは、人類がヒュージを滅ぼせなかった場合の、シミュレーションじみた考えを話していたの」
そのような未来を想定して生み出された新しい人類が結梨と来夢である――その事実を閑が知ったら、どんな顔をするだろうか。
しかしそれは現段階で極秘扱いの情報になっている以上、ここで閑に打ち明けるわけにはいかなかった。
「そうだったんですか。
私は人類が全てのヒュージを滅ぼした後の世界についてばかり考えていました。
ヒュージがいなくなった世界で、人類はリリィを兵士として人間同士の戦争に利用するのではないかと」
「今の世界からヒュージがいなくなれば、確かにその可能性は否定できない――いえ、むしろ高い確率でありえる話だと思うわ」
「やはりロザリンデ様も同じお考えなのですね」
閑は我が意を得たりと表情を緩めたが、ロザリンデの考えは閑の思考とは違う方向へ向いていた。
「ええ。でも、実際には地球上からヒュージを全て駆逐できる日は永遠に来ないかもしれない」
聞く者によっては敗北主義者と見なされかねない発言だったが、閑は全くそのような表情は見せず、逆に興味の度合いを増した様子でロザリンデに尋ねた。
「なぜ、そうお考えになるのですか?」
「一つには、ヒュージは既存の生物種がマギの影響を受けた結果、その体組織が変化して生まれる存在だということ。
だから少なくとも理論上は、ヒュージを絶滅させるということは、必然的に地球上の生物すべてを絶滅させることと同義になってしまうわ」
ロザリンデの説明を聞いた閑は黙って頷くだけだった。
早く話の続きを聞きたいのか、真剣な表情でまっすぐにロザリンデの目を見つめている。
それに促されるように、ロザリンデは形の良い唇から言葉を再び紡ぎ出した。
「しかも今のところ、ヒュージは絶え間なく変異を続け、次々と新しい能力を持つ個体が出現している。
エリアディフェンス崩壊時に新宿に出現したエヴォルヴや、最近都内で存在が確認されたスプリットなど、特型に分類されるヒュージは増加の一途をたどっているわ」
もっとも、それらの特型ヒュージの少なからぬ割合がG.E.H.E.N.A.の実験体だろうとロザリンデは考えていたが、この場でそれを口に出すことはしなかった。
「この世界にマギがある限り、生物はヒュージに変化し、人はリリィになる。
裏を返せば、マギを地球上から無くすことができれば、生物がヒュージ化する現象は起こらなくなるわ。
でも、マギは世界にあまねく遍在する空気のような存在。
それを人の手で無くすことは事実上不可能よ」
「……確かに、それはその通りですね。
それなら、ヒュージの存在しない世界を想定すること自体が、無意味な仮定だという考え方にも納得できます」
閑は得心した様子で頷き、言葉を切ったが、ロザリンデの話はそこで終わりではなかった。
次にロザリンデは、始めに閑が考えていた未来の世界像に関連して、自らの思うところを述べ始めた。
「でも、閑さんの想定と全く同じではないけれど、リリィが人類に相対する存在として、代替的に機能する可能性は想定しておくべきかもしれないわね――ヒュージが存在しているか否かにかかわらず」
「それはどういう意味でしょうか?
リリィが人類の敵となるような……いわゆるリリィ脅威論のことですか?」
「リリィ脅威論とは少し違っているわね。
正確には、リリィが他の人類から独立した存在になる可能性と言うべきかしら」
結梨と来夢の存在を念頭に置いたロザリンデの言葉は、閑の関心を
このエピソードは今回で終わるつもりでしたが、遅筆のため半分しか書けませんでした。
なお、閑さんの敬語が妙に仰々しくなっているのは、「鎌倉殿の13人」を視た後で書いたことが影響しています。