「じゃあ、結梨ちゃんはヘルヴォルのリリィがいる前で、咲朱さん――『御前』からの電話に出たんですか?」
「うん、一葉と千香瑠はびっくりしてた。
藍は不思議そうな顔してたけど」
東京の品川区にある戸越公園のベンチに、結梨はLGロスヴァイセ主将の北河原伊紀と並んで腰かけていた。
土曜日の昼前、空はよく晴れ渡り、趣のある広い公園の池の上を、緩やかに風が吹き抜けていく。
結梨と伊紀は戸田琴陽がこの場所に現れるのを待っていた。
待ち合わせに指定された時間までは、あと十分ほどある。
買い物をしていた琴陽が百合ヶ丘のリリィから鰻を譲ってもらったので、そのお礼として結梨を食事に招きたいと言っている――そう咲朱は結梨に電話口で伝えたのだった。
いったん電話を切って、一葉と千香瑠の顔を見た時のことを結梨は思い出していた。
「――うん、分かった。またね、咲朱。
……どうしたの?二人とも」
通話を終えた結梨の顔を、一葉と千香瑠が驚いた様子で見つめている。
「今、咲朱って……」
「うん、夢結のお姉さんからの連絡」
「夢結様のお姉さんというと、まさか、さっきの電話の相手は『御前』ですか?」
「そうだよ。咲朱のこと、一葉たちも知ってるの?」
「知っていますとも……忘れようはずもありません」
新宿で外征中の一柳隊の前に仮面を着けて現れ、白井夢結を自分のものにしようとした謎のリリィ。
自らを『御前』と名乗ったそのリリィの正体が、戦死したはずの白井夢結の姉である白井咲朱だと、戦いの後で一葉たちは一柳隊から知らされたのだった。
その『御前』が結梨に電話で連絡を取ってきたという事実は、一葉と千香瑠を驚かせて余りあるものだった。
「結梨さんは普段から『御前』と連絡を取りあうような関係なのですか?」
「ううん、咲朱から私に電話がかかってきたのは、これが初めて。
百合ヶ丘のリリィに鰻を譲ってもらったお礼をしたいって、琴陽が言ってるんだって」
「う、鰻ですか……」
新宿で一柳隊と共に白井咲朱や戸田琴陽と対峙した一葉としては、彼女たちの姿と鰻が結びつかず、どうにも妙な気分だった。
「結梨さんは咲朱さんの連絡先を知っていたの?」
やや心配げな表情で千香瑠が結梨に尋ねると、結梨は至って自然に頷き返した。
「うん、咲朱が私にキスした後に、咲朱の端末の番号が分かるようになったの」
「まあ、二人はそんな関係だったの。意外と進んでるのね」
思わず両手で口元を抑える千香瑠。
「キスって言っても、唇じゃなくておでこだけど……」
結梨は咲朱が百合ヶ丘女学院を訪れた帰り際に、自分の額に口づけをしたことを思い出していた。
あの時の接触で、自分と咲朱の間に色々な情報のやり取りがなされたのかもしれない――咲朱なら、そのような普通ではありえない力を持っていても不思議ではないと、結梨は考えていた。
「……そ、そうだったんですか。唇じゃなくて額ですか。そうですよね。安心しました」
動揺を隠せない一葉は、落ち着かない様子で制服のポケットからハンカチを取り出して、額に浮いた汗を何度もぬぐっていた。
一葉と千香瑠にとっては、白井咲朱は一柳隊との戦いの末に夢結を諦めて去って行った、どちらかと言えば敵対的な人物として認識されている。
結梨は一葉たちに、咲朱と琴陽が自分たちの敵ではなく、進もうとしている道が違うだけなのだと説明した。
「らん、知ってる。ことぴは悪いリリィじゃないって。
だから、ことぴと一緒にいるさあやも悪いリリィじゃない」
新宿での戦いで途中から一柳隊と行動を共にし、咲朱や琴陽の言動を間近に見てきた藍は、概ね結梨と同じ認識を持っていた。
「分かりました。二人がそう言うのであれば、私たちも咲朱さんと琴陽さんに対する見方を変える必要がありそうですね」
「ええ。今は彼女たちはG.E.H.E.N.A.とは無関係で、G.E.H.E.N.A.には関心が無いとも言っていたわ。
だから、私たちが一方的に敵視するのは間違っているのかもしれないわね」
しかし、咲朱が何を目指しているのか、具体的な事がまだ分からないのも確かだった。
結論として、より詳しい情報が得られるまで、咲朱と琴陽に対しては中立的な態度で臨むことで四人の認識は一致し、その場は解散することとなった。
「ゆり、ことぴとさあやに会ったら、らんは元気だって伝えて。
一葉、千香瑠。ことぴって、らんと来夢のこと『姫』って呼んでたんだよ。
変なの。らんも来夢もお姫様じゃなくてリリィなのに」
「姫」――それが「ヒュージの姫」を意味することを、藍はまだ理解できていないのかもしれない。
その意味を知った時、藍は何を思い、どう行動するのか。
それを確かめるためにも、咲朱と琴陽に会っておく必要が結梨にはあった。
結梨と伊紀が東京で琴陽と待ち合わせをしている頃、百合ヶ丘女学院の生徒会室では三人の生徒会長とLGロスヴァイセのロザリンデ、そして石上碧乙が集まっていた。
生徒会長の一人であるジーグルーネの内田眞悠理が、結梨を誕生させる契機となった人造リリィ計画について、知らせたいことがあると連絡したためだった。
「今日はお集まりいただいて恐縮です。
お伝えする内容が内容なだけに、理事長代行に報告する前に、私たちで認識を共有しておきたいと思いまして」
話を切り出した眞悠理に、彼女と同じ2年生のオルトリンデ代行である秦祀が頷いた。
「ええ、分かっているわ。私たちの意見が分かれた状態では、理事長代行への報告も一貫性を欠いたものになってしまうものね」
「ところで、伊紀さんの姿が見えないけれど……」
全員が席に着くと、ブリュンヒルデの出江史房がロザリンデと碧乙を見て、疑問を口にした。
「伊紀なら、結梨ちゃんの付き添いで東京へ外出しているわ」
答えたのはロザリンデだった。続けて事情を説明する。
「結梨ちゃんが、ある人から食事の招待を受けているの。
その件については、百合ヶ丘と御台場のガーデンから外出許可が出ているわ。
でも、一人だけで行かせるのは不安があったので、伊紀に一緒に行ってもらうことにしたのよ」
「一人では不安って、その食事に何か危険な要素があるの?」
「結梨ちゃんを招待した人がね……」
ロザリンデは小さく溜め息をついて、隣に座っている碧乙を見やった。
碧乙はロザリンデの途切れた言葉を引き継いで、史房に答えた。
「夢結さんのお姉さんなんですよ」
「白井咲朱さんが?どんないきさつで?」
「何でも、戸田琴陽さんが剣持乃子さんから鰻を譲ってもらったそうで、そのお礼とのことです」
「乃子さん?鰻?まるで要領を得ない話ね」
事情をよく理解できずに首をかしげている史房に、碧乙が更にその時の状況を説明する。
「何でも、琴陽さんは鰻が大の好物だそうで、遠路はるばる東京からこの近くまで、天然物の良い鰻を求めに来ていたようです。
そこで買い物中の乃子さんと一尾の鰻をめぐって、ちょっとしたやり取りがあったと」
「つまり、乃子さんと琴陽さんの二人とも、リリィの任務とは全く無関係の出来事だったというわけね」
「はい、二人とも私人として行動していた時に起こったことです。
ですから、今回の食事の招待も、その流れの延長線上にあります。
咲朱さんは一般のリリィに正体を明かしたくないので、乃子さんを招くわけにはいかなかったのでしょう」
「そうだったの。それならいいんだけど……」
碧乙の説明を聞いて、一応は納得した素振りを見せた史房だったが、やはり『御前』だった人物をすぐに信用することは出来なかった。
「普通なら、ちょっといい話で終わるところだけど……相手が相手なだけに、素直に額面通り受け取っていいものかどうか、判断に迷うわね」
新宿での夢結をめぐる一柳隊と『御前』との戦闘について、生徒会でも一通りの報告は受けている。
最終的に『御前』こと白井咲朱は夢結を諦めて建物を破壊し、撤退したが、彼女の思惑については不明な点も多く残されている。
史房の言葉に乗っかる形で疑念を口にしたのは祀だった。
「罠じゃありませんか?
養子縁組して結梨ちゃんを自分の義妹にしようと考えてるとか。
そうよ、白井結梨なんて出来すぎてるネーミングじゃない。
そして咲朱さんは義姉として教育の名の下に、結梨ちゃんにあんなことやこんなことを――」
「祀さん、それは心配するところがズレてると思うわよ……」
ロザリンデは頭を抱えている祀を横目に、史房と眞悠理に説明を続ける。
「少なくとも今のところは、白井咲朱は百合ヶ丘女学院に対して敵対的な態度は取っていないとガーデンは判断しているわ。
その認識に基づいて、結梨ちゃんが白井咲朱と戸田琴陽からの招待を受けることが許可されたのよ」
「まあ、百合ヶ丘のガーデン――実質的には理事長と理事長代行だけど――がそうお考えなら、一任するしかないわね。
――それでは、私たちは今日の本題に入りましょう。
眞悠理さん、説明をお願いできるかしら」
「はい、説明に入らせていただきます。
結梨さんが生まれるきっかけとなった人造リリィ計画と、ルドビコ女学院の強化リリィ実験を巡る一連のプロジェクト。
双方に関わっていた人物について、このガーデンで閲覧可能なすべての資料に目を通して調査した結果、一人の研究者が捜査線上に浮上しました」
「何だか刑事ドラマみたいになってきたわね……」
「その研究者とは――」
眞悠理は手元の資料に視線を落とすと、当該の人物の名を口にし、生徒会室は長い静寂に包まれた。
「あそこにいるの、琴陽じゃない?こっちだよ、琴陽」
結梨がベンチから立ち上がり、大きく手を振って合図すると、その視線の先にいた黒い服の少女が手を振り返して答える。
「ごきげんよう、結梨さん。遅れてすみません。
お連れの方も、ご足労頂きありがとうございます。
私は白井咲朱様にお仕えさせていただいています、戸田琴陽と申します」
手合わせを挑む時以外は至って礼儀正しい態度の琴陽は、近くまで駆け寄ってくると、結梨と伊紀にぺこりと頭を下げた。
琴陽が頭を上げると、今度は伊紀が立ち上がって琴陽に一礼した。
「百合ヶ丘女学院の特務レギオン、LGロスヴァイセで主将を務めています、1年生の北河原伊紀です。
本日はお食事にお招きいただき、ありがとうございます」
「特務レギオンの主将……あなたが」
伊紀の言葉を聞くと琴陽の瞳が妖しく輝き、口角がわずかに持ち上がった。
同時に、何も持っていない琴陽の手が、目に見えないCHARMを握りしめるかのような動きをするのが、結梨の視界に入った。
「琴陽、私たち今日はCHARMを持ってきてないから、手合わせはできないよ」
「そうでしたね、残念です……」
心の底から残念そうに琴陽は肩を落としたが、すぐに気を取り直すと二人に出発を促した。
「ここからしばらく歩いた所に咲朱様のお住まいがあります。
私が案内しますので、後について来て下さい」
結梨と伊紀は琴陽に先導されて公園を出た。
三人が細い路地を何度も曲がりながら進んだ先に、一件の邸宅が姿を現した。
広大な敷地は武家屋敷さながらの白壁に囲まれており、木製の大きな門の前で三人のリリィは歩みを止めた。
「どうぞ、お入りください。この中で咲朱様がお待ちです」
琴陽は門の脇にある勝手口のような小さな扉を開け、二人を招き入れようとした。
扉の向こうには玉砂利が敷き詰められた日本庭園に似た空間が広がっており、その先に平屋建ての古式ゆかしい和風建築が目に入った。
あの屋敷の中に白井咲朱が自分たちを待っている――結梨は無言で、ただ静かに一歩を敷地の内側に踏み入れた。