百合ヶ丘女学院理事長の居室に忽然と出現した川添美鈴の姿を、結梨は確かに視認した。
その姿は以前、深夜の霊園で結梨の前に現れた時と全く変わりなかった。
「あの時と同じ……でも、あの時は美鈴とすれ違ったはずのリリィには、美鈴の姿は見えてなかったってロザリンデと碧乙は言ってたけど」
自分だけでなく、高松祇恵良理事長にも美鈴の姿が見えている。
それなら、今自分の目の前にいる美鈴は、幻ではなく物理的な肉体を持って存在しているのか――
だが、結梨の疑問は、その内心を見透かしたかのような祇恵良の言葉によって否定された。
「一柳さん、あなたにも川添さんの姿が見えているのね。
でも、故人である彼女が生き返ったわけではありません。
彼女の姿が私たちに見えているのは、あなたと私のマギが共感現象を起こすことによって、あなたの無意識に存在する川添さんの情報が視覚化されているためです。
つまり、私たち二人は揃って同じ幻を見ているということです」
「でも、私は美鈴が生きてる時に会ったことはないけど……」
「彼女が死の直前に術式を書き換えて契約者となったダインスレイフ。
それはヒュージによって甲州から紆余曲折の末に由比ヶ浜ネストへ移動し、ネストから発生するヒュージを特異化させる原因となりました。
あなたはダインスレイフの影響を受けた由比ヶ浜ネストのマギを、戦闘時にエネルギーとして体内に取り込んだ。
またその後、あなたがヒュージの爆発に巻き込まれて海没し、蘇生と回復を行った際にも、由比ヶ浜ネストのマギを利用しています。
由比ヶ浜ネストのヒュージが、ダインスレイフを経由して川添さんの人格と能力に影響を受けたように、あなたもまた由比ヶ浜ネストのマギを通して川添さんの情報を体内に吸収したのです。
その情報が基になって共感現象が引き起こされることにより、彼女の姿が私にも見えているというわけです」
「美鈴が現れたんじゃなくて、私と理事長先生が美鈴を呼び出したの?」
「おそらくは。意識的にではなく、私という極めて特殊なリリィが傍にいることで、一柳さんの無意識が川添さんの情報を引き出して、知覚化するためのエミュレーションを始めたのでしょう。
これは私にとって僥倖でした。
川添さん、せっかくですから、この機会に改めてあなたに聞いておきたいことがあります。
――何のことか分かっていますよね?」
結梨と祇恵良の会話を黙って聞いていた美鈴は、そこで初めて口を開いて言葉を発した。
彼女の表情は、生前と変わらない一種の不敵さを秘めた微笑を湛えている。
「『御前』――白井咲朱が一柳隊のリリィに告げた内容について、でしょう。
彼女が何処からその情報を得たのか知らないが、内容自体は真実に相違ありません。
……それで、理事長は僕をどうなさるおつもりですか?」
祇恵良は美鈴の質問に直接答えることはせず、順を追って美鈴の過去についての言及を開始した。
「白井咲朱さんが一柳隊に語った内容を検証することから、あなたについての再調査は始まりました。
あなたはかつて甲州撤退戦で致命傷を負い、自分が間もなく死ぬことを悟った。
『あなたはすぐに依存する』と、咲朱さんは東京での戦いで白井夢結さんに言ったそうです。
自分が死ねば、シルトである白井夢結さんの依存対象が、自分から実の姉である咲朱さんへ移り、自分への愛は永遠に失われてしまう――あなたはその想像に耐えられなかった。
そして、あなたは死の淵で一つの決断をした。
夢結さんの記憶から咲朱さんの存在を抹消し、自分の死後も夢結さんの愛が自分だけのものであり続けるようにと。
記憶の消去は成功し、夢結さんの愛は故人となった川添美鈴さん――あなた一人だけに向けられ続けることになりました。
ですが、その代償として、あなたの死という事実に加えて、自我の形成に深く関わっていた咲朱さんの記憶を抹消したことにより、夢結さんの精神は著しく不安定になりました。
それと同時に、夢結さんはレアスキルであるルナティックトランサーを制御することもできなくなりました。
幸い、今は一柳梨璃さんというシルトを得たことによって、夢結さんの精神は安定を取り戻しつつありますが」
「知っています。梨璃はカリスマ持ち――いや、今はラプラス持ちか――だから、ルナティックトランサーの使い手である夢結との相性は良いはずだ。
……梨璃の存在を持ち出したということは、僕のレアスキルについてもお見通しなのですね?」
「ええ。あなたは甲州撤退戦の前から、自身の欲望を夢結さんに悟られないように、都合の悪い記憶を一度ならず消していた形跡があります。
そして、その事実を察知されないように、自らのレアスキルについての情報も、ガーデンの教職員と生徒全員を対象に偽装していたことも分かっています。
あなたはサブスキルであるカリスマを、ブーステッドスキルのエンハンスメントを使うことによって、あたかもラプラスであるかのように見せかけていました。
自身が強化リリィであること、レアスキルがラプラスではなくユーバーザインS級であること、そしてシルトの記憶を恣意的に喪失させたこと――あなたはこれらの事実を隠蔽していました。
これは重大な処罰に値する行為です。
本来であれば長期間の謹慎あるいは除籍処分を課されても当然です――事実、G.E.H.E.N.A.のスパイであったことが発覚したルドビコ女学院のリリィは、ガーデンから追放されたと聞き及んでいます。
ですが、あなたは既にこの世の存在ではなくなっています。
いわば被疑者死亡のため、あなたが罪に問われることは無くなりました。
事の真相を知っているのは、東京で白井咲朱さんから直接それを告げられた一柳隊のリリィたち。
そして一柳隊から報告を受けた百合ヶ丘の理事会と教導官、生徒会長、特務レギオン……今のところ、情報が開示されているのはここまでです。
とても全校生徒に聞かせられるような内容ではありませんからね」
射貫くような祇恵良の視線を浴びても、美鈴は身じろぎ一つせず、表情を変えることもしなかった。
「御配慮に感謝します、とでも言えばいいのですか?
僕は自分がした行為の結果について、その責を負う覚悟はできていました。
記憶を操作することが夢結の精神に悪影響を及ぼすとしても、僕はそれを止めることはできませんでした。
それは理事長がおっしゃったように、夢結の愛を失うのが怖かったからです。
夢結が僕に依存していたように、僕もまた夢結の愛に依存していました。
夢結の愛を失うことは、僕にとって生きる意味を失うことと同義でした。
だから、それが人の道を外れた行いであっても、僕は夢結の愛を繋ぎとめておきたかった。
それが罪であると分かっていても、僕はその罪を犯さざるを得なかった。
――僕自身の命より、夢結の愛の方が僕には価値があったのです」
告解とも言うべき心情の吐露を終えた美鈴の顔からは、既に微笑は消え、その端正な顔立ちには深い苦渋の色が満ちていた。
そのコントラストは、人として、シュッツエンゲルとしてのあるべき姿と、現実の自分の感情に引き裂かれた彼女の精神を如実に表していた。
同様に、先程まで美鈴を追及しようとしていた祇恵良の顔からも、彼女を問い詰めようとする勢いは失われ、慈愛とも憐憫ともつかない感情が、その瞳に宿っていた。
「……愛は盲目とはよく言ったものです。
あなたのような冷静沈着なリリィが、愛という感情に支配されて、自覚していながら倫理を逸脱した行動を取ってしまうのですから。
あなたの歪んだ愛は自分と世界を呪い、結果として由比ヶ浜ネストのヒュージに影響を与えただけではなく、シルトの心までも半ば壊してしまいました。
死者になったあなたが、夢結さんに対して罪を償う行動を取ることは、もはや叶いません。
疑似的な意識のみの存在となったあなたが、これからどうするかは――」
祇恵良が言葉を途切れさせた時、その視界の端を人影が横切った。
人影の主は、座っていた椅子から立ち上がり、美鈴のもとへと歩み寄った結梨だった。
結梨はベッドを挟んで反対側にいる美鈴の傍まで近づくと、その手を両手で握った。
美鈴の姿が目に見え、声が聞こえるだけではない。
手に触れることもできる。体温を感じることもできる。
それが幻の感覚だとしても、今自分の前に立っている美鈴は、生きている人間と何も変わらなかった。
「美鈴は苦しかったんだね。
大好きなシルトが本当の自分の心を知ったら、自分のことを嫌いになるかもしれないって」
「結梨……」
「私には美鈴の本当の気持ちは分からないかもしれない。
でも、美鈴が夢結のことを愛していて、ずっと一緒にいたかったってことは分かる。
だから、いつか私が夢結に会える時が来たら、美鈴の代わりに私が美鈴の気持ちを伝える」
結梨の言葉を聞いた美鈴は僅かに表情を緩めて、苦笑いに似た笑みを浮かべた。
「まさか、自分よりずっと幼い君に頼る日が来るとは思わなかったな。
……分かった。君にお願いすることにしよう。
もし君がいつの日か夢結に会える日が来たら、『君を苦しませてすまなかった』と川添美鈴が言っていたと伝えてほしい。
そして、僕が消してしまった夢結の記憶を戻してやってほしい」
「私には誰かの記憶を戻すなんてできないよ」
困惑した表情を浮かべる結梨の手を、美鈴は少しだけ力を込めて握り返した。
「ダインスレイフを取り込んだ由比ヶ浜ネストのマギ――それを君は自身の身体に二度も入れている。
僕の本当のレアスキルであるユーバーザインS級の情報も、ダインスレイフを経由したマギを媒介に、君の中に記憶――正確に言えば記録かな――されているはずだ。
僕が消した夢結の記憶についても、記憶の情報そのものが消失したわけではなく、記憶情報にアクセスする神経回路のルートが遮断されている状態だろう。
だから、君の心が望めばユーバーザインS級を発動して、記憶の回復ができる可能性はあると僕は考えている」
「そうなんだ……」
「無理難題を押しつけることになって申し訳ないが、よろしくお願いするよ」
「うん、任せてなんて言えないけど、できるように頑張ってみる」
夢結に会うということは、必然的に梨璃に会うことにも繋がる。
その日が訪れることを目標としているのは、これまでもこれからも変わらない。
手を握りあう結梨と美鈴の横で、ベッドの上で身体を起こしている祇恵良が小さく咳払いをして、自分の方へ二人の意識を向けさせた。
「川添さんのことはひとまず落着したとして、本題である一柳さんの相談を再開しましょうか。
せっかくだから、あなたも同席していただけるかしら?」
「僕は結梨の保護者でもシュッツエンゲルでもありませんが……」
「あなたが過去に白井夢結さんに対してしたことは認めるわけにはいきません――ですが、あなたが優秀なリリィであること自体は間違いありません。
客観的な立場であれば、あなたは判断を誤ることは無いはずです」
「――分かりました。僕でよろしければ、ご相談に加わらせていただきます」
美鈴が空いていた予備の椅子に腰を下ろし、結梨も元の椅子に戻って座り直した。
「では、白井咲朱さんが一柳さんに語ったことのうち、まず岸本教授について今後どう対応するか、お話ししましょうか」
祇恵良は手元にあった報告書に一度視線を落とした後、ゆっくりと結梨の顔を見つめ直した。