咲朱に伴われて結梨が百合ヶ丘女学院へ帰還してから、数日が経過していた。
生身でケイブに入ったことによる心身への影響の有無を確認するため、結梨はメディカルチェックを受けた上で、当面の間は御台場に戻らず経過観察が必要――と、百合ヶ丘のガーデンは判断した。
また、結梨が装備していたエインヘリャルのユニット――それは咲朱の言葉通り、架空の発送元から百合ヶ丘女学院に届けられた――についても、ハードウェアのオーバーホールとソフトウェアのセキュリティチェックは必須だった。
エインヘリャルは解析科と工廠科で秘密裏に確認作業が行われた後、改めて製造元である天津重工へ送られる予定になっている。
エインヘリャルの予備機は製造工程の途中であるため、今のところ代替機は結梨の手元には無く、非常時には琴陽から譲り受けたトリグラフを使って戦うことになる。
結梨自身は普段通りの生活を送るようにと、ガーデンから指示を受けていた。
ただし、原則として一人での単独行動は禁止され、経過観察のためにロスヴァイセあるいは生徒会長のリリィが常時帯同することが義務付けられた。
経過観察中であるという点を除けば、いつもの日常とほとんど変わらない生活ではあったが、帰還後の結梨にはそれまでとは違った明確な目的意識が芽生えていた。
それは岸本教授の研究が、ヒュージとの戦いを終わらせる手がかりとなる可能性があるという、一種の確信めいた考えだった。
結梨が咲朱と一緒に百合ヶ丘のロスヴァイセ控室に戻ってきた時、話したいことがあると言ったのは、岸本教授についてだった。
既に咲朱は結梨に別れを告げて百合ヶ丘のガーデンを去っており、その時点で控室には結梨、ロザリンデ、碧乙、伊紀の四人だけが残っていた。
「来夢のお父さん――岸本教授は、ヒュージがいる世界でも人が生きていけるように、人の身体を変えようとしたの」
それがヒュージから仲間と見なされ攻撃されず、さらにはヒュージに自分を守らせることすら可能にした岸本・ルチア・来夢であり、ヒュージと戦うためのあらゆる能力を先天的に備えて生まれた一柳結梨だった。
来夢や結梨のような人間が新たな人類の姿となれば、もはやヒュージの存在は脅威ではなくなり、熊や虎のように人の力で危険を抑え込める程度の猛獣扱いになるだろう。
だが、岸本教授の考えは余りにモデル化され過ぎ、理想主義的に過ぎた。
確かに彼女たち個人のみを考慮するなら、それはヒュージとの戦いを終わらせる究極的な人類の姿に見えるかもしれない。
しかし、人類の一定割合を来夢や結梨のような人間が占めるためには、全世界規模での大規模な遺伝子操作が必要となり、これが生命倫理上の大議論を巻き起こす事態は容易に想像できる。
議論が決着するまでどれほどの時間を要するか、全く想像もつかない。
その上、遠い未来にその方針が認められたとしても、今度は「新しい人類」と「従来の人類」の間で様々な摩擦が生じるのは、火を見るよりも明らかだ。
「従来の人類」は「新しい人類」に庇護されなければ、生存することはできない。
ちょうど今の世界で、リリィが戦わなければ一般市民はヒュージから身を守れないように。
現在の時点では、強化リリィを除けばリリィは人工的に生まれるものではなく、その能力も年齢によって減衰する限定的なものだ。
それゆえにリリィの存在は決定的に危険視されることを免れている面がある。
しかし、遺伝子操作によって生涯その能力を維持できる「新しい人類」が、人類の数十パーセントを占めるようになった時、その社会的な対立構造は人類同士の戦争すら引き起こしかねない。
それは以前、伊東閑が一柳梨璃に話した危惧と同種のものかもしれなかった。
「だから、人を作り変えることは無理だって、岸本教授はそう考えるようになったのかもしれないって、私は思ったの」
それはシエルリント女学薗の大図書館「ビブリオテカ」で、結梨が限られた時間で一心不乱に岸本教授の文献に目を通した結果、得られた考えだった。
「それとは別の方法で、岸本教授はヒュージとの戦いを終わらせるための何かを考えてるんじゃないかって」
現在、ヒュージとの戦いは、世界各地に点在するヒュージネストと、その主であるアルトラ級ヒュージの討滅を戦略的な目標に据えている。
これらのヒュージネストとアルトラ級を全て討滅することができれば、人類はヒュージとの戦いに戦略レベルで勝利したことになる。
だが、地球上にマギが存在し続ける限り、あらゆる生物はヒュージに変異する可能性があり、必然的に新たなヒュージネストとヒュージが絶えず生まれ続けることになる。
この原理的に解決不可能な構造こそが、ヒュージとの戦いが「終わりなき戦い」と言われることの根底に存在しているのだ。
岸本教授はそのような「ヒュージとの終わりなき戦い」以外の戦略で、ヒュージとの戦いを終わらせる方法を考えようとしている――結梨は自らの意見として、そのように提案した。
そして、その手がかりとなるものこそが岸本教授の研究ではないか――という趣旨の発言を結梨がした時、その場にいたロザリンデ、碧乙、伊紀の三人は、複雑な表情で顔を見合わせた。
岸本教授は元々、親G.E.H.E.N.A.主義ガーデンであるルドビコ女学院に所属していた研究者であり、実子である岸本・ルチア・来夢の、胎児段階でのヒュージ細胞埋め込みにも関与していた可能性が指摘されている。
当時の詳細な状況は、未だに完全には明らかになっていない。
しかし、岸本教授本人の人間性がどうであれ、彼が結梨や来夢と同じく、今なおG.E.H.E.N.A.の監視対象となっている人物であることには違いない。
その上、彼は結梨が誕生することになった人造リリィ計画にも、グランギニョル社の研究員としてコアとなる技術を開発していた――中原・メアリィ・倫夜と白井咲朱はその事実に辿り着き、結梨にそれを告げたのだった。
岸本教授が研究者として極めて優秀であることは、結梨と来夢の超越的な能力を鑑みれば、疑いようの無い事実だ。
しかし、それは同時に生命倫理面での大問題を引き起こし、さらには社会での彼女たちの立場を危うくし、社会から排除される可能性すらもある諸刃の剣だと言える。
もし岸本教授が親G.E.H.E.N.A.主義的な思想の持ち主でなければ、百合ヶ丘や御台場のような反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンに協力してもらうことも可能かもしれない――その考えがロザリンデの脳裏をよぎった。
とは言え、結梨の捕縛命令を巡る一連の騒動の後、彼はグランギニョル社を出奔して再び行方知れずになっている。
岸本教授に対してどのような姿勢で臨むか、ということの前に、まずは彼の安否と居所を知ることが第一の課題だった。
「毒を以て毒を制す……か。
もし彼の身柄がG.E.H.E.N.A.――特に旧ルド女のような過激派の手に落ちれば、
またリリィがG.E.H.E.N.A.の野望達成の手段として利用されることになりかねないわ」
ロザリンデの考えに同意するように、碧乙が答えを返す。
「岸本教授の真意がどうであれ、やはり彼をこのまま放っておくわけにはいきませんね」
「そうすると、どうやって岸本教授の所在をつきとめるか、考えなくてはね」
グランギニョル社から失踪した後の岸本教授の消息は、依然として不明。
フランスに留まっているのか、既に出国して他の国に潜伏しているのか、それすらも判然としない。
いかに特務レギオンとはいえ、海外まで行方不明のG.E.H.E.N.A.関係者の捜索に乗り出すことは容易ではない。
ロザリンデと碧乙が頭を抱えていたところに、伊紀が声をかけた。
「私に考えがあります。
岸本教授の件は私に一任していただけるでしょうか」
「それは構わないけど、何か勝算があってのことなのね?」
「自信があるわけではないですが、試してみる価値はあると思います」
あくまでも控えめな言い方の伊紀だったが、ロザリンデは伊紀に任せてみることに迷いは無かった。
「いいわ、やってみなさい。
私と碧乙は、これと言った策は持ち合わせていないのだから」
「ありがとうございます。
さっそく準備に取り掛かりますので、私は先に失礼します」
伊紀はロザリンデたちに軽く礼をして、いそいそと控室を出て行った。
その後ろ姿を見送って、碧乙がロザリンデに小声で囁いた。
「珍しく浮き足立っていましたね。
よほど妙案を思いついたんでしょうか」
「果報は寝て待て、ではないけれど、私たちは私たちにできる事をしておきましょう。
結梨ちゃん、もう少し岸本教授の研究について聞かせてくれる?」
「うん、岸本教授はもともと、どうして生き物がヒュージに変わるのかっていうことを研究してたみたいで……」
結梨の説明にロザリンデと碧乙は時間が経つのを忘れて聞き入り、三人の話し合いは小一時間ほども続いたのだった。
数日後の放課後、百合ヶ丘女学院の校舎を見下ろす高台にある霊園。
その敷地内に一人の人影――それは少女のものだった――が佇んでいた。
西に傾いた午後の太陽が、彼女の横顔に美しい陰翳を描き出している。
百合ヶ丘の制服に身を包んだ少女は、自分の周囲を埋める墓の数々をゆっくりと見回した。
現在はノインヴェルト戦術の確立によって、戦死者の数は以前に比べて劇的に減少している。
だが、それまでは突如出現したギガント級に対抗する戦術は存在せず、結果としてこれほどの犠牲者を出すに至ったのだ。
ヒュージは今も絶えず変異と進化を続けている。
複数回のノインヴェルト戦術によっても撃破できない個体が出現した時、過去の悲劇が繰り返されない保証はどこにも無い。
そして皮肉なことに、今では特異な変異を遂げた個体の多くが、おそらくはG.E.H.E.N.A.の実験体である――その事実が彼女の心に影を落としていた。
(人が人を支配するためにヒュージを利用するなんて、ブラックユーモアここに極まれり、ですわね)
少女は赤みを帯びて緩やかにウェーブした髪を、海から吹く風になびかせている。
その視線の先には、かつて巨大な竜巻の如くそびえ立っていた由比ヶ浜ネストは無く、ただきらきらと海面を輝かせる水平線が伸びているだけだ。
(……ヒュージネストも討滅したことですし、このガーデンも最前線基地としての役目を終えましたわね。
ゆくゆくは中等部のある場所に移転するのかしら)
少女が物思いに耽っていると、霊園の入口の方から誰かが駆けてくる足音が聞こえてきた。
その足音の主もまた、百合ヶ丘女学院の制服を着た少女だった。
「遅くなってすみません、教導官への事務連絡に時間を取ってしまって」
「お気になさらず。
私は一向に構いませんことよ、李組の学級委員長さん」
息を切らして走ってきた「李組の学級委員長」に返事をした少女は、余裕に満ちた態度で微笑んだ。
「それにしても、随分と乙な所に呼び出してくれますわね」
「今日お話しすることには、この場所が一番適していると思いましたので」
「それで、特務レギオンの隊長であるあなたが、こんな所でこの私に何のお話しですの?」
「グランギニョル社トップの御息女としてのあなたに、お尋ねしたいことがあります。
――楓・J・ヌーベルさん」
1年李組の学級委員長にしてLGロスヴァイセ隊長の北河原伊紀は、目の前に立つ楓の顔をまっすぐに見据えていた。