ローテーブルを挟んで、結梨は岸本教授と向かい合う形でソファーに座った。
目の前の岸本教授は、不惑に差し掛かるかどうかという年齢に見えた。
その顔には本来の彼――ヒュージが出現する以前の生態系を回復したいという理想を持っていた研究者――には似つかわしくなく、深い苦悩の影が差していた。
しばらくの沈黙の後に、先に口を開いたのは岸本教授の方だった。
彼は覚悟を決めたかのような落ち着きで、ゆっくりと結梨に話しかけた。
「北河原ゆり――いや、本名は一柳結梨ということは知っている。
君は私を恨んでいるだろう。
この場で君が私を殺そうとしても、私は抵抗するつもりはない。
もっとも、君の力をもってすれば、成人男性一人の抵抗など紙人形にも等しいだろうが」
「どうして、私が岸本教授を恨んで殺そうとするの?」
「私は君を生まれながらのリリィという、一種の人造人間として誕生させた。
それもヒュージの幹細胞からヒトの遺伝子を抽出するという方法で」
その事実は既に結梨も知っている。
それゆえ、今さら驚くようなことではなかった。
「言うなれば、君はヒュージから生まれたヒトだ。
君は私にとっては理想と希望の象徴だったが、私以外の人間には、ヒトとして扱われない実験体の一つに過ぎなかった。
そのような存在として君を生み出した私を、君が許さなくてもおかしくはない」
「でも、私は人で、リリィだよ。
梨璃が私を連れて百合ヶ丘のガーデンから逃げてた間に、百由と理事長代行先生が私を人だって証明してくれたの」
自分の力だけではできなかったことを、何人もの仲間が助けてくれたおかげで、自分はG.E.H.E.N.A.に引き渡されずに済んだ――そのことを結梨は決して忘れるわけにはいかなかった。
「生徒会の人たちも、今はみんな私を人だって思ってる。
だから、私は誰のことも恨んでなんかないし、とっても感謝してるよ」
至って明快な結梨の考えは、眼前に座っている岸本教授にも向けられた。
「岸本教授だって、私を実験に使うために生み出したわけじゃない。
人がヒュージと戦って必ず勝てるように、ヒュージのいる世界で必ず生き残れるように、新しい人類として私を作ったんだって」
岸本教授は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに事情を理解したと見えて、無表情と紙一重の、元の冷静な表情に戻った。
「その通りだ。
君がどのように生まれ、その力の何たるかを正確に理解すれば、その結論に至る他は無い。
本当は誰もがそれを正しいことだと心の中で認めていると、私は考えていたのだが……これについては後で話すことにしよう。
ところで、ヒトであるリリィがマギを利用してレアスキルを使ったり、CHARMを振るえたりするのはなぜか、君は知っているだろうか?」
教授の質問に対して、結梨はこれまでの経験とシエルリントの大図書館で読み込んだ文献から、一つの考えを導いていた。
「人と人以外の生き物は、根っこは同じだから、どっちもマギを使うヒュージの力とリリィの力も同じもの。
でも、ヒュージと違ってリリィには人の心が残ってる。
だからヒュージみたいにただ暴れるだけじゃなくて、その力を使って誰かを守るために戦うことができる。
それがリリィがヒュージと違うところ……たった一つの違い」
結梨の言葉を聞いた岸本教授は黙って頷いた。
彼の反応は、結梨の考えが教授のそれと食い違ってはいないことを示していた。
そして彼は次に、結梨に対して講義を開始するかのように、説明口調で話し始めた。
「生物がマギによってヒュージ化するのはなぜか。
私はマギが生物の体組織に及ぼす影響を研究し、その仕組みを解明することに、ある程度成功したと考えている。
少し長くなるが、はじめにその内容をごく簡単に説明しよう」
岸本教授はローテーブルの上の書籍を脇に押しのけて、空いたスペースに白紙を置いて書き込みを始めた。
結梨はその書き込みに目を走らせながら教授の説明に耳を傾けている。
「まず、マギは生物の体内に入ると、放射線と同じく細胞組織の構造に変異を引き起こす。
放射線の場合は、その強力な電離作用によってDNAの二重螺旋を切断するはたらきがあり、これが様々な放射線障害や突然変異を引き起こし、また発癌の原因にもなる。
一方、マギは細胞内のミトコンドリアに作用し、ATPによる通常の代謝とは異なる、きわめて特殊なエネルギー代謝の経路を作り出す。
端的に言えば、マギがミトコンドリアを変異させることによって、生物が活動するためのエネルギーとしてマギを利用できるようになる。
こうして生物がマギをエネルギーとして利用することによって、これまでの常識では考えられなかった体細胞の変異と、それに伴う劇的な代謝構造の変化が起こった。
また、その影響は脳組織にも及び、個体の行動は極端な攻撃衝動に支配される。
これが生物がヒュージ化し、既存の生物学や物理学を超越した体躯と破壊力を持つ、異形の生命体となる理由だ。
そして、ヒュージの能力は潜在的に全ての生物種に共通して備わっている――もちろんヒトもその中に含まれる。
ヒトの場合、マギのエネルギー代謝は、ATPによるエネルギー供給効率を遥かに上回り、通常ではありえない筋力と骨密度などの上昇、更にはレアスキルと呼ばれる超物理的な能力の発現を可能にする。
ただし、君が先ほど指摘したように、ヒトは他の生物種と異なり、理性を保ったまま姿を変えることもなく、ヒュージの潜在的能力を選択的に使用することができる。
これがリリィが持つ能力の本質であり、マギによって駆動するCHARMの機能の源であることは言うまでもない。
ヒトがなぜ完全にヒュージ化せず、部分的なヒュージの能力の発現に留まるのかは、現在のところ不明だ。
一説によれば、他の生物に比べて格段に発達した大脳新皮質が、マギの代謝を抑制し、理性を保つ役割を果たしているという。
一方で、これとは逆に、ヒトの感情の源となるA10神経の活性化によって、マギの代謝レベルが一時的に励起され、その結果リリィがレアスキルに覚醒するとも言われている――だが、この仮説は現時点で推測の域を出ていない。
いずれにせよ、他の生物に比して発達した大型の脳を持つ人類については、マギが特異なパターンで心身に影響を及ぼしている可能性が高いと考えられている。
また、男性より女性にマギの影響が顕著に表れる理由については、染色体の差異が関係していると思われるが、これは科学的にはまだ解明されていない。
――差し当たっての説明としては、こんなものだろう。
ここまでの内容で疑問に思うところは?」
岸本教授の確認に対して、結梨はまるで彼の生徒であるかのように、軽く右手を挙げて質問した。
「私以外の人を、私みたいな力を持ったリリィに変えることはできないの?」
「それは原理的に不可能だ。
既に誕生したヒトの遺伝子を組み替える技術は、現在の科学では確立されていない。
人工的に先天的なリリィを生み出せるのは、あくまでも発生初期の幹細胞でのみ可能な技術だからだ」
あるいは、胎児の段階でヒュージ細胞を体内に埋め込むことによって、来夢や藍のように生まれながらの強化リリィとすることもできる――それは岸本教授も結梨も十分に認識していることだった。
しかし、それについて今ここで話を持ち出すことは、二人とも適当ではないと考えていた。
超越的な能力の代償としての負の影響が全く無い結梨に比べると、来夢や藍の能力はまだ不安定であり、強化リリィ特有の身体への負荷も無視できないレベルにあるからだ。
「それなら、人はこれからも今までのやり方で、ヒュージと戦い続けないといけないの?」
結梨の問いかけに岸本教授は視線を落として数十秒も黙り込んだ――その後で、何かを決意したかのように、結梨の顔を正面から見て答えた。
「それを回避する方法はある。
人類社会が君のようなリリィを新しい人類として認め、人類を人工的に進化させる道を選ぶことだ。
私はそれが人類をヒュージとの終わりなき戦いから決別させ、ヒュージの存在を脅威としない時代を創る最善の選択肢だと信じていた。
――だが、人類はそれほど理性的でも合理的でも理想主義的でもない存在だった」
岸本教授の理知的で聡明な相貌は、再び苦々しい悔恨と苦悩の感情で満たされた。