ほとんど岸本教授の独演会みたいになってしまってすみません……
岸本教授の話は次回の前半くらいまで続く予定です。
その後は一度百合ヶ丘に戻って方針を再確認、再び東京へ結梨ちゃんが出発します。
「ヒュージ幹細胞から抽出したヒトの遺伝子には、ヒュージのみに特有と考えられていたマギの代謝能力が含まれていた」
岸本教授の説明は結梨をただ一人の生徒として、なおも続いていた。
「考えてみれば当然のことだ。
ヒトとヒト以外の生物の間には、根本的な遺伝子の違いなどありはしない。
従って、全ての生物がマギの影響でヒュージ化する可能性があるのなら、その原因となる塩基配列も、あらゆる生物の遺伝子に存在していると考えられる。
その結果、ごく一般的な生物の、ごく普通の細胞がマギの影響でヒュージ化する。
そしてヒトはその発達した脳の機能によって、ヒュージ化を極めて部分的にしか発現しない。
ヒトはヒト以外の生物種とは異なり、細胞の形そのものは変わらず、代謝構造の変化による身体能力の劇的な向上と超物理的能力の覚醒のみが引き起こされる。
これがヒュージとリリィの違いであり、査問委員会において遺伝子情報のデータから一柳結梨がヒトであるとジャッジされた根拠だ」
岸本教授の説明を真剣な表情で聞いていた結梨は、しばらく考え込んだ後、極めて本質的な結論を口にした。
「ヒュージの細胞からリリィの部分だけを取り出したのが、私なの?」
「その通りだ。
君の遺伝子には、現在確認されている全てのレアスキル因子が含まれている。
つまり、潜在的には君はあらゆるレアスキルを使うことができると言える。
もっとも、レアスキル因子というものは『公式には』確認されていない。
私が自身の研究の中でその存在を指摘し、実証する機会を窺っていた概念だ」
岸本教授の話は、もしこの場に第三者の聞き手がいたならば、彼のことを誇大妄想狂と思うに違いないものだった。
だが、現に結梨はレアスキルの複数同時使用をはじめとして、他のどのリリィにも不可能な、幾つもの超常的な戦闘能力を発揮してきた。
彼の理論を体現したのが、目の前に座っている一人の少女であることは、疑いようのない事実だった。
「G.E.H.E.N.A.は私が潜伏していたグランギニョル社に、人造リリィ計画への技術提携を持ち掛けてきた――あれは私にとっては事実上の脅迫に等しいものであり、拒否することはできなかった。
グランギニョル社のトップも、『未成年の女性であるリリィの生命を守るため』という建前のお題目に乗せられた形で、計画への協力を決定した。
G.E.H.E.N.A.にしてみれば、人権に配慮せず好き勝手に人体実験を進められる絶好のプロジェクトだっただろう。
しかし、G.E.H.E.N.A.の目論見を私は逆手に取って、自らの理想を実現しようとした。
――使い捨ての消耗品としての人造リリィではなく、ヒュージ支配下の世界でも生存できる、新しい人類を作り出そうと」
そのプロトタイプとして生まれたのが一柳結梨であり、これまでのところ、結梨はその能力を存分に発揮している。
だが、そのような岸本教授の思惑など、彼以外には知る由もないことだった。
「海上でのハレボレボッツとの戦闘記録から、G.E.H.E.N.A.は君の能力に驚愕した。
そして、その余りの強大さに恐れをなし、人造リリィ計画を一時的に凍結する決定を下した。
単なるモルモットとしての実験体だったはずが、自分たちを滅ぼす破壊神となりかねないことに気づいたからだ」
「私はG.E.H.E.N.A.は嫌いだけど、G.E.H.E.N.A.にもいろんな考え方の人がいることは知ってる。
だから、G.E.H.E.N.A.を全部やっつけるなんて思わないよ」
自分はそんなに暴力的な人間ではないと、頬を膨らませて抗議する結梨。
そんな結梨をなだめるつもりがあったのかどうか、岸本教授は表情を変えずに説明を続けた。
「G.E.H.E.N.A.の中でも、いわゆる過激派の派閥に属している者は、いつ自分が襲撃されはしないかと、戦々恐々としているはずだ。
だから今は、表立って君に危害を加えるようなことはしていないのだろう。
ただし、今日のケイブ発生は、君がイルマ女子に向かっていることを知った過激派が、戦闘データを収集するために仕組んだものかもしれないが」
今の過激派にできるのはせいぜいこの程度で、強制的に身柄を拘束したり、刺客を差し向けることはできないのだろう、と岸本教授は述べた。
「自分たちより強いものが、自分たちを滅ぼすかもしれない。
これはヒュージと人類との関係だけではなく、有史以来――いや、それ以前から常に、種の繁栄と絶滅を巡って繰り返されてきた生存競争の原理だろう。
そして、先ほど私が話したように、一般的な人間も、人工的な人類の進化に対して理性的に向き合えないことが明らかになった」
人類はそれほど理性的でも合理的でも理想主義的でもない存在だった――岸本教授は確かにそう言った。
「私は対ヒュージ戦略に関する様々な研究会や会議の場で、ヒュージに対抗するための人工的な進化の必要性を説いた。
強化リリィに特徴的な、後天的な投薬や外科的施術では、被験者の心身への負担が極度に大きく、廃人となったり命を落とすことも珍しくない。
また、強化が成功したとしても、重篤な副作用のリスクが生涯に渡って継続し、被験者のQOLを著しく損なうことは看過できない問題だ。
被験者を募集する手段についても、その多くは人権を侵害するような、極めて問題のある方法で行われているのが実情だ。
新しく生まれてくる人間が万能の能力を持つリリィであれば、これらの問題は根本的に解決され、いずれ人類はヒュージを脅威としなくなる――これが私の持論だった」
「教授の言ってることは間違ってないと思うけど……」
「君がこの世界に生まれてから、まだ一年も経っていない。
君が所属しているガーデンも、いわば理想的な環境の、理想的な仲間たちの存在で成り立っている世界だ。
だが、G.E.H.E.N.A.をはじめとして、一歩ガーデンの外へ出れば、そこは様々な思惑が渦巻く、欲望と打算にまみれた人類社会が待ち受けている」
「そういえば、戦技競技会の時に、ガーデンの外からいろんな人が中を覗き見してたって、史房や祀が言ってた……そんな人がいっぱいいるってこと?」
「そうだ。各個人は自らの利益のために行動し、それが結果として社会全体の利益につながる――それが上手く循環しているのが良い社会というものだろう。
だが、ヒュージを脅威としない人類社会を創るために、現在の人類が新しい人類に取って代わられることを、人々は良しとしなかった。
かつてホモサピエンスに取って代わられて消えていったクロマニヨン人やネアンデルタール人のように、自分たちも新しい人類に置き換えられて消えていく――力無き存在として、劣等種として、不必要なものとして――その想像が、おそらくは人々の胸の内に生じたのだろう。
私が意見を発表した狭い研究会や会議の場でさえ、大半の出席者が疑念、不信、警戒心を露わにした。
また別のある者は、人が遺伝子を設計した人造人間を新しい人類とすることは、神の意志に背く行為であるとして、私の考えを否定した。
つまり、私の研究は一種の危険思想のようなものと見なされていた。
こうした状況に置かれていたため、私の研究は理論段階に留まり、大規模な予算と設備が必要な実証研究の段階に進むことができないでいた」
「その時にG.E.H.E.N.A.がグランギニョル社に近づいてきたんだね」
結梨が岸本教授の話の先を読んだ発言をすると、彼は幾つもの複雑な感情が混じり合った表情を浮かべて話を続けた。
「……正確には、私の所在を突き止めたG.E.H.E.N.A.が、と言うべきだろう。
私は、自分の研究結果を実現する機会は、これをおいて他には無いだろうと考えた。
そして、それが社会の承認を得ておらず、倫理的に解決されていないことも充分に認識した上で、プロジェクトへの協力を承諾した。
――どうしても自分の理想を実現したかったからだ」
ある意味、岸本教授はプロジェクトを秘密裏に私物化していたとも言える。
それは当時、彼が所属していたグランギニョル社に対する背任行為であるだけではなく、社会全体への反逆的行為とさえ見なされかねないものだった。
それでも、岸本教授は己の意志を貫徹して、彼の理論を完璧に実現したリリィを生み出すことに成功した。
岸本教授の話を聞いていて、結梨はある思いにとらわれていた。
(岸本教授も、美鈴や梨璃と同じなんだ。
美鈴は夢結の愛を自分のものにしておきたくて、自分が死ぬ前に咲朱のことを忘れさせた。
梨璃は私を助けるために、ガーデンの命令を無視して私を連れて逃げてくれた。
みんな、それがいけないことだって分かっていても、どうしてもそうしないといられなかったんだ)
第三者から見れば、それは周囲の者に迷惑をかけ、組織や社会のルールに反する行為であることは否定できない。
しかし、岸本教授は自らの理想を諦めることはできなかった。
川添美鈴はシルトの愛を手放すことはできなかった。
一柳梨璃はヒュージと見なされた少女を見捨てることはできなかった。
その結果、岸本教授は再びG.E.H.E.N.A.過激派に追われる身となり、白井夢結は心を病み、一柳梨璃は営倉入りの処分となった。
だが一方で、現在の夢結は精神の安定を取り戻し、梨璃は一柳隊の隊長として復帰し、結梨はG.E.H.E.N.A.に引き渡されることなく生きている。
では、岸本教授は――
「私がイルマ女子のラボにいることは、やがて過激派に露見するかもしれない。
そうなれば、また身を隠せる別の場所を探して逃亡することになるだろう。
だから、君が再び私に会える保証は無い」
「もう二度と教授には会えないかもしれないの?」
「どうしても私に会う必要が生じた時は、ルドビコ女学院の泉教導官を訪ねるといい。
彼女は私と同じくルドビコの体制に疑問を抱いたために、殺人事件の容疑者として濡れ衣を着せられ、一時は指名手配犯となったことがある。
私と泉教導官は、ともにG.E.H.E.N.A.から追われる逃亡者となり、互いに連絡を取り合って追跡の手を逃れた。
ルドビコが崩壊した現在も、過激派は私と泉教導官を危険人物としてマークしており、隙あらば口実を見つけて拘束しようとするだろう」
「泉先生に会って話をすればいいの?」
「泉教導官に会って私の名を出せば、私への取り次ぎはしてくれるだろう。
後で泉教導官には私から連絡を入れておく」
ルドビコの名前が持ち出されて、結梨は岸本教授の実子であるリリィのことを思い出した。
「教授は来夢には会ってるの?」
「……いや、会ってはいない。
来夢に会えば、ルドビコ崩壊の際に明らかになった事実について、何も話さずにいることは許されない。
だが、ルドビコ崩壊の真相については、まだ完全に解明されていない部分が残っている。
私はそれを明らかにするまで、来夢には会わないつもりだ」
「それなら、来夢に会っても教授のことは話さない方がいいんだね」
「そうしてもらえると助かる。
私を探そうと来夢が動き回れば、来夢自身の身に危険が及ぶ恐れがある。
泉教導官にも、来夢に私のことは極力話さないように頼んである」
「うん、わかった」
素直にこくりと頷く結梨に、岸本教授は自分に言い聞かせるかのように独白する。
「私は未来と来夢の父親でありながら、二人が強化リリィとなるのを防げなかった。
未来は強化の果てに命を落とし、来夢はこれからも強化リリィとして生きていかなければならない。
来夢を強化リリィの呪縛から解き放ち、一人の人間として自由に生きられる世界を創る――それが、私が未来と来夢にできる唯一の贖罪だ」
「自由に生きられる世界……」
そのような言葉を、かつて査問委員会で高松咬月が口にしたことを、結梨は出江史房から聞いていた。
岸本教授の理想も、道筋は違えど咬月と同じ方を向いているのだと、結梨ははっきりと理解した。
岸本教授はそんな結梨の心に気づいていたのかどうか、宣言するがごとく言葉を続けた。
「そうだ。そして私はそれを実現するきっかけ、手がかりを見つけることに成功した。
もう誰にも十字架を背負わせることなく、ヒュージとの戦いを終わらせる方法を」