ヒートアップしている神琳と亜羅椰の横で、伊紀と雨嘉は何とかこの場を収めるための方便を考えていた。
「あの……お二人とも、あまり熱くなりすぎないように。人目についてしまいます」
「そうだよ、吉阪先生にでも見つかったら、たっぷりお説教されちゃうよ。私はそんなの嫌だよ」
しかしそんな二人の願いもむなしく、神琳の勢いは止まらない。
「亜羅椰さん、あなたはこのお二人と何のお話をするつもりだったのですか。
返答次第では私にも覚悟があります」
「口説き落とすつもりだったのよ」
意外にも、実にあっさりと亜羅椰は白状した。
「首尾よく口説き落とせたら、その後はもちろん――続きを聞きたい?」
「私が肯定の返事をするはずがないと分かっていて、そんなことを言っているのですか」
「ふふ、それはどうかしら。まあ伊紀さんには既にお断りの通牒を突き付けられているから、どちらかと言えば今日の本命は雨嘉さんの方ね」
亜羅椰の言葉を聞いた神琳は、伊紀が立っている方向を振り向いた。
「伊紀さんは亜羅椰さんに『そのような状況』で拒絶の意思を伝えたことがあるのですか?」
「私は……一度目は危うく難を逃れたというか、寸止めされたというか。
その後しばらくしてから、もう一度同じような状況になったので、その時はっきりと私の意思を亜羅椰さんに伝えました」
「そうだったのですか。やはり噂通りの問題児との認識で間違いなさそうですね」
神琳は伊紀から亜羅椰へと再び向き直り、
「雨嘉さんに降りかかる火の粉は、この私がすべて振り払います。
たとえその相手が誰であろうとも」
と、亜羅椰の目を見据えて決然と宣言した。
「ふふ、怖い怖い。でも雨嘉さんや伊紀さんのように控えめで上品な性格のリリィは百合ヶ丘では貴重な存在なのよ。
つい出来心で自分のものにしてしまいたくなる気持ちも分かっていただけるでしょう?」
「そう言えば、あなたは自分と同じアールヴヘイムの樟美さんにも粉をかけようとしていると聞いたことがあります。
樟美さんが自分になびかないから、その代わりに雨嘉さんに手を出そうとしているわけですか。
困ったものです。節操が無いにも程があるとは思わないのですか」
「あら、私が誰と仲良くしようと、それは個人の自由ですわ。
それほどまでに神琳さんが雨嘉さんのことを護りたいのであれば、私を力ずくで止めてみてはいかがかしら」
「いいでしょう、亜羅椰さん。ふしだら極まりないあなたのために、自制心というものをこの機会に教えてさしあげましょう」
神琳のその発言を聞いた亜羅椰は、整った形の唇を軽く歪めて笑った。
「『あなたのために』という言葉は、いついかなる時も美しくない。
この意味がお分かりになるかしら、神琳さん」
「禅問答などする趣味はありません。私を煙に巻くつもりですか」
「いいえ、それなら解説してあげる。
あなたは雨嘉さんを自分一人だけで独占したい本心を隠して、私に節度ある振る舞いを教えるという大義名分を、これ見よがしに掲げているってこと」
得意気に神琳を睨みつけながら、亜羅椰は神琳の心を見透かした。
「……あなたはもっと直情径行な人だと侮っていました。私はあなたに対する認識を改める必要があるようですね」
「ようやくお分かりいただけたようね。私のことを単に倒錯した色欲にまみれたケダモノだと思っているなら、とんだ勘違いよ」
自信満々で言い切る亜羅椰に、横から伊紀と雨嘉のつぶやきが聞こえてきた。
「亜羅椰さん、何も自分をそこまで卑下しなくても……」
「亜羅椰、すごい。私にはとてもそこまで言えない」
「何なの、あなたたち。妙な哀れみに満ちたまなざしで私を見つめないで」
生暖かい目で亜羅椰を見る伊紀と雨嘉に、亜羅椰は調子を崩しそうになった。
が、気を取り直して再び神琳の方を向いて口を開いた。
「私は私のしたい事をしたいようにする。
それがあなたのしたい事と相容れないなら、私と戦って自分の正しさを証明することね」
亜羅椰は神琳に事実上の宣戦布告をした。
「分かりました、私はあなたの土俵に上がった上で、あなたに勝ってみせましょう。
今からここで一戦交えるのもいいでしょう。ですが」
神琳はそこで一旦言葉を切り、周囲を見回した。
まだ教室に残っている生徒はわずかだったが、神琳と亜羅椰のただならぬ雰囲気を感じてちらちらと遠目にこちらを見ている。
「この教室では机や椅子で手狭な上に、人目につきます。場所を変えましょう」
「望むところよ。では一つ上階の廊下でどうかしら。あの階なら図書室や資料室ばかりで一般教室が無いから、見物客は来ないわ」
「それで構いません。ただし一度に連れ立って移動すると怪しまれるので、各自ばらばらに動きましょう」
「そうね、じゃあ私は先に行くから、せいぜい私を負かせるような作戦でも練っておくことね」
亜羅椰は意気揚々とした足取りで教室を出て行った。
「神琳、もうこのまま帰ってしまった方がいいんじゃない?戦っても何もいいことないよ」
雨嘉は敵前逃亡とも言える提案を神琳に持ち掛けたが、神琳はそれをすぐに否定する。
「いえ、それでは先延ばしにしかなりません。
彼女の行動原理は野生動物のそれと同じです。
一度正面から戦って、こちらが勝利すれば力関係を受け入れて、雨嘉さんのことを諦めるはずです」
「勝てるんですか、一対一で亜羅椰さんに」
伊紀が心配そうに神琳に問いかける。
それに対して神琳は余裕のある態度で伊紀に微笑みかけた。
「私は勝算の無い戦いはしませんよ。
それに、私たちリリィは戦うことと生きることが直結してしまっています。
だから戦わないことはイコール生きるのを放棄することです。
孫子の兵法では戦わずして勝つのが最上だと言いますが、ヒュージが相手ではそういうわけにもいきません。
戦って勝つ以外に選択肢は無いのです」
「あの、亜羅椰さんは人間で、ヒュージじゃないんですが……」
思わず伊紀が突っ込みを入れるが、神琳は意に介していないようだった。
「もちろん今の表現は言葉の綾です。
彼女とは言葉より拳で語り合わなければ分かり合えないでしょうから。
そういう理解の形もあるということです」
神琳はそう言うと、雨嘉の手を取って教室のドアへ向かおうとした。
「先ほど各自ばらばらにと言いましたが、私と雨嘉さんなら一緒に歩いていても不審には思われないでしょう。
すみませんが、伊紀さん、私と雨嘉さんは先に行かせていただきます」
「はい、私は教室の戸締りを終えてから上の階に上がらせてもらいます。どうぞ先に行っててください」
「伊紀、またね。上で待ってるから」
「はい、雨嘉さん。お気をつけて」
神琳と雨嘉が教室を出て行くのを見送って、伊紀は一人で李組の教室の戸締りを進めていった。
そして全ての箇所の戸締りを終えて廊下を歩き出したその時、誰かが後ろから突然に伊紀の右手を掴んだ。