神琳と雨嘉が階段を上がりきって上階の廊下に出た時、亜羅椰は廊下を半分ほど進んだ所の窓際に立って、外の景色を眺めていた。
神琳と雨嘉は不覚にも、夕日に映えるその横顔に見とれてしまった。
黙っていれば誰もが認める美貌の持ち主なのだが、彼女の問題は押しの強すぎる性格にあった。
神琳と雨嘉の到着に気づいた亜羅椰は、二人の方を振り向き、わずかに唇の端を吊り上げた。
妖艶で高慢な笑みだ。
「来たわね。二人でここまで来る間に出来のいい作戦は思いついたかしら?」
「ご心配なく。作戦は教室であなたと話をしていた間に出来上がっています」
「その発言がハッタリでないといいわね」
亜羅椰は一歩前に踏み出し、神琳を正面から見つめた。
両者ともCHARMはこの場に持ち込んでおらず、素手の状態だった。
「決闘を始める前に、少しだけ雨嘉さんとお話をしても構いませんか?」
「好きにすればいいわ。あまり私を待たせないようにね」
「ご配慮感謝します」
亜羅椰に背を向けて神琳は雨嘉の方を振り返り、至近といえる距離まで近づいた。
神琳を見つめる雨嘉の瞳は、隠しようも無く憂いを帯びているように見えた。
「雨嘉さん」
「う、うん」
神琳は両手を伸ばし、雨嘉の体を強く抱きしめた。
「神琳……」
神琳に抱きしめられた雨嘉はしばらく身動き一つしなかったが、やがておずおすと両手を神琳の背中にまわした。
「これから少しばかり立ち回りを演じてきます。必ず勝って戻ってきますので、心配せずにここで見ていてください」
「でも、私のために神琳が傷つくようなことはしてほしくない」
「いいえ、これは雨嘉さんを他の誰にも渡したくない、私の独占欲です。だから私がどうなっても雨嘉さんが気にすることはありません」
「そんなの、気にするに決まってる」
「……そうですね。私の言い方が良くありませんでした。
だから言い直します。私は亜羅椰さんに勝ってみせる自信があります。
しかし勝負には運の要素も少なからずあります。
運が味方しなければ、私が敗れる可能性もあります。
もし私が敗れたとしても、きっと雨嘉さんは私を選んでくれるでしょう。
でも、私は亜羅椰さんに勝って雨嘉さんの所に戻って来たいんです。
下らないこだわりだと思われるかもしれませんが、そんな私の身勝手を許して下さい、雨嘉さん」
「……神琳は格好つけすぎ。
私が好きなのは、私を好きでいてくれる神琳だから、格好いいか悪いかは関係ないよ。
神琳が頑固なのはよく分かってるから、もう止めたりしない。
神琳の望むように戦って」
「ありがとう、雨嘉さん。その言葉だけで充分です」
神琳はそっと雨嘉の体を離すと、亜羅椰に向き直った。
「お待たせしました。こちらの話は終わりましたので、本題である亜羅椰さんのお相手をさせていただきます」
「すごい。純愛ですね。感動しました」
いつの間にか亜羅椰の近くに来ていた伊紀が、若干目を潤ませて二人を見つめていた。
「いや、たかが素手での決闘程度で盛り上がりすぎでしょう……って、いつ来たの。遅かったじゃない。吉阪先生に告げ口でもしに行ったのかと思ってたわ」
「……いえ、少し戸締りに手間取ってしまって、ここまで上がってくるのが遅れてしまいました」
「そう、それならいいわ」
伊紀の返事にはわずかに不自然な響きがあったが、亜羅椰は特段、気には留めなかった。
「亜羅椰さん、今からでも遅くないから止めませんか」
「是非も無いことを今さら言わないで、伊紀さん。
あの二人の熱愛ぶりを見ていると、おなかいっぱいで胸焼けがしてきそうだから、もう結構よ……って言うとでも思った?残念だったわね。
愛とは奪い取るもの。それでこそ奪い甲斐があるというもの。俄然やる気が出てきたわ」
「本当に面倒な人ですね、あなたは」
神琳は本格的にうんざりした表情になった。
「それはこちらのセリフよ。あなたにだけは面倒な人だと言われたくないわ」
「亜羅椰は、ちょっとがっつき過ぎだよ。もう少し相手の気持ちを考えて行動するほうがいいと思う」
「そんな扇情的で際どい制服を着ている人がそれを言うの?雨嘉さん。
はっきり言って目の保養……もとい目の毒よ、あなたのその姿は」
「そうなの?神琳」
「感じ方は人それぞれですから、亜羅椰さんの目にはそのように映るのでしょう。
よこしまな目には、よこしまな姿が映るということです」
「ちょっと、あなただって制服姿の雨嘉さんにムラムラすることが絶対あるでしょう。
なに自分だけいい子ちゃんぶってるの」
「では、その『いい子ちゃん』として一つ忠告しておきます。
亜羅椰さん、あなたの恋愛観は根本的に間違っています。
愛の無いセ……んっ、んんっ」
「神琳、それ以上は言っちゃダメ」
雨嘉が素早く神琳の口を手で塞いだため、神琳は後に続ける言葉を発することができなくなった。
「危ないところでしたね、雨嘉さん」
伊紀は雨嘉の咄嗟の機転をほめた。
「うん、これ以上神琳の迷言や言行録が増えるのは良くないから」
「ということは、これまでにも似たような言動が雨嘉さんの前でなされてきたんですね」
「神琳は正しいと思ったことは何でも口に出しちゃうから」
口をふさがれた神琳が雨嘉に視線を送ってうなづいたので、雨嘉はようやく神琳の口から手を外した。
「ふう……雨嘉さん、止めなくてもよかったのに。
私が好奇の目で見られても、正しいことを言ったのなら気には留めません。
でも雨嘉さんには別の考えがあるのでしょうし、私はそれを尊重します」
話を中断された神琳は、仕切り直しをするかのように咳払いを一つした。
「私と戦って勝てば、あなたは自分の闘争本能を満足させられる。
その上、あわよくば雨嘉さんも自分のものにできると踏んでの挑発だったのでしょう。
一石二鳥を狙ったわけです。
でも残念ながら、あなたはそのどちらも手にすることはできません。
今から私がそれを証明してみせます」
神琳は亜羅椰に向かって一歩を踏み出した。
それが戦闘開始の予告であることを理解した伊紀は、亜羅椰から離れて距離を取った。
同じく雨嘉も後ろに下がって神琳から距離を取る。
「あなたは一柳隊でTZを務めるリリィ、レアスキルは支援系のテスタメント、CHARMは防御重視の媽祖聖札。
アールヴヘイムのAZでフェイズトランセンデンスS級の私にどうやって勝つつもり?
CHARM無しの格闘戦であっても、基本的な戦闘スタイルは変わらないはず。
防御しているだけでは勝つことなど出来ないわよ」
「もちろん、攻撃して勝つつもりですよ。
『どうやって』の部分は作戦内容に関わるので、見てのお楽しみですが」
「そう、なら見せてもらうわ。その作戦とやらを」
亜羅椰は勢いよく神琳の間合いに飛び込むと、くるりと体を回転させて中段への回し蹴りを繰り出した。
神琳は一歩後ろにステップを踏んで、最小限の動きで亜羅椰の攻撃を回避する。
亜羅椰の踵が神琳の制服をかすめ、風切り音が雨嘉の耳まで届いた。
攻撃は最大の防御と言わんばかりに、亜羅椰は途切れなく神琳の隙を狙って蹴りと突きを仕掛けていく。
神琳は亜羅椰の攻撃をすべて回避しているが、反撃は全くできない。
亜羅椰の攻撃は勢いだけで突っ込んでくるように見えて、その実、攻撃をかわされてもカウンターを食らわない計算されたモーションを描いていた。
一つの攻撃がそのまま次の攻撃につながり、攻撃を避けた神琳が反撃の機会をうかがうタイミングを与えない。
間断の無い亜羅椰の攻撃に、神琳は反撃の機会を与えられず、防戦一方に見えた。
離れた所から二人の戦いを見ていた雨嘉は、望んではいないが予想していた通りの展開に心を沈ませていた。
(やっぱり神琳と亜羅椰じゃ相性が悪い。一度でも神琳が亜羅椰の攻撃を見切れなくなったら、決定的な一撃を受けてしまう。その前に神琳から亜羅椰に攻撃を当てないと。でも、どうやって?)
「――くっ」
執拗な亜羅椰の攻撃を避け続ける神琳のステップがわずかに乱れ、体勢に一瞬の隙が生じた。
その致命的な神琳の隙を、亜羅椰が見逃すことは無かった。
決定的な一撃を叩き込むべく、大きく踏み込んで神琳の胸元に掌底を叩きこもうとする。
「もらったわ」
「いいえ、もらったのは私の方です」
神琳は全身を大きく後ろに倒れ込ませて、亜羅椰の攻撃を回避しようとした。
「後ろに倒れて攻撃を避けたとしても、その後はどうするの?どん詰まりじゃない」
「こうするんですよ」
神琳は攻撃のために突き出した亜羅椰の腕を取り、後ろに倒れ込みながら右足を亜羅椰の太ももの付け根に押し当てた。
そして、そのまま亜羅椰の攻撃の勢いを利用して、後ろ上方へ力強く投げ上げた。
巴投げだ。
亜羅椰は自分の体が宙に浮く感覚を認識した。同時に視界が上下逆に回転する。
(投げられた?私が?)
神琳は亜羅椰を投げ上げると、間髪を入れずに体を起こして廊下の床を蹴った。
一方、天井近くまで投げられた亜羅椰は空中で体勢を立て直そうとした。
しかしその間に神琳は亜羅椰に向かって跳躍し、飛び蹴りを叩き込まんとしていた。
(直撃する……やられる)
神琳の蹴りが届くまでに防御姿勢を取ることはできる。
だが、体を支えるものの無い空中では、蹴りそのものを防御できても、神琳の勢いまでは止められない。
その勢いを受け止めたまま、亜羅椰の体は天井あるいは壁面に激突するに違いない。
そうなれば後頭部か背中を強打し、脳震盪を起こすか呼吸困難に陥る。
そして動きの鈍った亜羅椰を神琳は見逃さず、とどめの一撃を打ち込んでくるだろう。
数秒後に訪れる自らの敗北を、亜羅椰は正確に予測した。
その上、今となっては、その敗北を逃れる術が無いことも理解していた。
(嘘でしょう、この私が敗けるの?)
つい先程までは勝利することを疑いもしなかった。
その慢心が、この敗北必至の状態を生み出したのだと悔いても遅い。
慢心の対価は肉体的苦痛と精神的屈辱によって支払われるだろう。
(私の実力も、その程度だったということか)
それでも亜羅椰の体は半ば無意識に防御姿勢を取り、神琳の攻撃を受け止めようとする。
ついに亜羅椰の体に神琳の蹴りが届かんとするその時、神琳の視界の端を人影が横切った。
「――っ!」
次の瞬間、亜羅椰の姿が神琳の視界から消失し、神琳の蹴りは空を切った。
決定的な一撃が空振りに終わった神琳は、廊下の床に膝をついて着地した。
そして落胆した様子でおもむろに顔を上げ、後ろを振り向いてつぶやいた。
「余計な事をしてくれましたね、壱さん」
「ごめんね、今日のところはこの辺で勘弁してあげて」
神琳の視線の先には、1年椿組の学級委員長である田中壱が、亜羅椰を抱えて立っていた。
「壱、どうしてここに」
雨嘉が突然現れた壱に問いかける。
「李組の教室から、やたらとやる気満々の亜羅椰が出てきて階段を上がって行くところを見たの。
その少し後に神琳さんと雨嘉さんが出てきて、同じく階段を上がって行ったから、これは何かあるなと。
で、最後に教室から出てきた伊紀さんを捕まえて、事情を聴いたっていうわけ。
そしたらこれから決闘するっていうから、見つからないように廊下の柱の陰に隠れて、止めに入る機会をうかがってた」
「すみません。本来なら李組の委員長である私が、お二人を止めるべきだったのですが」
「この二人を伊紀さんや雨嘉さんに止められるとは思えないから、まあ不可抗力ね」
そこまで壱が話した時、彼女の腕の中で亜羅椰が文句を言いだした。
「離して、まだ勝負はついてない。まだやれる。あれしきの蹴りなんて余裕で防げたのに」
「はいはい、往生際の悪い子猫ちゃんは私が預かって行くから。それじゃ皆さん、これにて失礼。うちのレギオンの問題児が迷惑かけてごめん」
そう言って壱は駄々をこねる亜羅椰の首根っこを引っ張るようにして、二人で廊下の向こうへと去って行った。
その場に残された三人は狐につままれたような表情で、壱と亜羅椰のいなくなった空間を眺めていた。
最初に口を開いたのは伊紀だった。
「これで良かったというべきでしょうか」
「良くないです。せっかく亜羅椰さんに雨嘉さんを諦めてもらう絶好の機会だったのに、振り出しに戻ってしまいました」
即座に神琳が否定の言葉を口にした。
「でも、誰も怪我せずに済んだから良かったよ。それは間違いないから」
「……雨嘉さんがそう言うなら、この場はそれで良しとしておきましょう。
もう日が暮れます。私たちも寮に帰りましょう」
既に太陽は水平線のすぐ上まで落ち、夕闇が廊下を侵食し始めていた。
「では、私はカフェテリアに寄って日報の内容確認をしておきますので、お二人は先にお帰り下さい」
「それなら、カフェテリアじゃなくて私たちの部屋に来て確認したらいいよ。ね、神琳」
カフェテリアに向かおうとする伊紀を雨嘉が引き留めて、神琳に同意を求める。
「そうですね。今日はただならぬ迷惑を伊紀さんに掛けてしまったので、お茶の一杯でもご馳走させて下さい」
「いいんですか、ではお言葉に甘えてお邪魔させていただきます」
日報を含めた数種類の書類の束を鞄に入れ、伊紀は雨嘉と神琳と一緒に黄昏時の廊下を後にした。
普段より少しばかり波乱に満ちた1年李組の一日は、こうして幕を閉じた。