ヒュージとの戦闘から一夜明けた早朝。
眠りから目覚めた結梨の目に、朝の光を柔らかく反射する白い天井が見えた。
結梨は自分が今、見知らぬ部屋の見知らぬベッドに寝ていることに気づいた。
着ている服も御台場の制服ではなく、若干サイズが大きいパジャマを着ていた。
少し身体を動かすと、自分ではない誰かの身体に手が触れた。
掛けられた毛布をめくってみると、自分よりも幼く見える少女が隣りで眠っている。
その気配で目を覚ましたのか、少女はゆっくりと目を開けた。
そして目をこすりながら、いかにも眠そうな声で「おはよう」と結梨につぶやいた。
次に少女は上半身を起こし、部屋の奥の方へ顔を向けて、
「おはよう、千香瑠。いま起きたよ」
と、朝食の支度をしていたらしい女性に声をかけた。
千香瑠と呼ばれた女性は、少女に挨拶を返した後で、微笑を浮かべながら結梨の顔を見た。
「おはようございます、一柳結梨さん。ゆうべはよく眠れましたか?」
いきなり本名を呼ばれた結梨は、びくりと身体を震わせ、不安げな表情になった。
「……私のことを知ってるの?」
警戒感を隠せない結梨の質問に対して、千香瑠は少し考え込む素振りを見せた。
「知っている、と簡単に言えるほどには知りません。
あなたについて私が知っていることは、あなたを捕まえるよう命令が出た時の情報くらいしかありませんから。
でも、そんな情報は人としてのあなたについては、何も知らせてくれません。
だから私にとっては、あなたの昨日の行動と、今こうしてあなたと話していることでしか、あなたを知ることはできないの」
「千香瑠の言うことは難しくて、よく分からない」
結梨の隣りにいた少女が、不満げな顔で千香瑠に文句を言った。
「らんは、佐々木藍。あそこにいる人は芹沢千香瑠。あなたは結梨っていうの?」
「……うん、ここはどこ?」
「エレンスゲのガーデンの、千香瑠の部屋。結梨が気を失ってたのを、千香瑠が運んでくれたんだよ」
「そうだったんだ……」
結梨は頭の中で、エレンスゲについてロザリンデから教わったことを記憶から引き出そうとした。
エレンスゲ女学園。六本木に位置する親ゲヘナ主義のガーデン。
経営母体は同じく親ゲヘナ企業のアウニャメンディ・システマス社。
外征宣言無しで他地域への外征に出撃することで有名。
それはヒュージ討伐の実績を積み上げ、出資者からの支援をより多く引き出すためと考えられている。
そのために、百合ヶ丘ではエレンスゲを無法者として軽蔑するリリィも少なくない。
トップレギオンの名前はヘルヴォル。
そのレギオンを構成するリリィは、相澤一葉、飯島恋花、初鹿野瑶、佐々木藍、芹沢千香瑠の五人。
その中の二人が、いま自分の目の前にいる。
「私のことは誰にも話さないで」
「大丈夫。現場のマディックにも、御台場の制服を着たリリィの事は決して口外しないように念押ししておきました。
他にあなたのことを知っているのはヘルヴォルのリリィだけ。
エレンスゲのリリィがこんなことを言うのは変かもしれないけど、私たちはあなたを安全に百合ヶ丘まで帰す責任があると思っています」
「どうして?エレンスゲは親G.E.H.E.N.A.のガーデンなのに、私を捕まえようとしないの?」
「今のあなたは指名手配されていないし、指名手配されるような人じゃないこともよく分かったから。
それに、ここのガーデンにあなたのことを知らせたら、あなたが不幸になることは容易に想像がつきます。
私たちはあなたを不幸にしたくない。
だから、少なくとも私たちヘルヴォルのリリィは、あなたの敵じゃないって信じてほしいの」
千香瑠と藍が悪意や敵意を持っていないことは、結梨にはすぐに分かった。
もし彼女たちがG.E.H.E.N.A.の忠実な下僕なら、こうして柔らかいベッドで目覚めることなど到底できなかったに違いない。
おそらくは無機質な冷たい手術台の上か培養槽の中で、冷酷な科学者の視線を浴びていたことだろう。
結梨は自分を保護したリリィが彼女たちであったことに感謝した。
と、結梨の隣りにいた藍が、結梨の服の袖を軽く引いた。
結梨が藍の顔を見ると、邪気の欠片も無いまなざしで藍が結梨の目をのぞき込んだ。
「結梨は自分のガーデンに帰りたいんだよね。エレンスゲの制服を着て、ここのリリィのふりをすれば、たぶん簡単に出られるよ」
あっけなく言う藍の言葉に続けて、千香瑠が説明を加える。
「できるだけ人目につかない経路を選んで、結梨さんがガーデンの外に出られるようにします。
念のために出発前に私たちが先にルート上を見回って、他のリリィを遠ざけておくつもりです。
ガーデンの外に出てしまえば、後は結梨さんの力があれば、どうにでもできるはずです。
回収したアステリオンはかなり傷んでいましたが、私たちのできる範囲でメンテナンスしておきました。
通常の戦闘程度なら問題なく使用できると思います」
「ちょっと一葉たちを呼んでくる。待ってて」
藍はパジャマ姿のまま、三人のリリィを呼びに千香瑠の部屋を出て行った。
二人きりになった部屋の中で、結梨は千香瑠に、
「今、何時?」
と、時間を尋ねた。
「朝の六時。結梨さん、一晩中眠っていたのよ」
「帰らないと」
結梨はベッドから身体を起こそうとした。普通に身体を動かせる程度には回復していると感じた。
それを見た千香瑠は、気がはやる結梨を落ち着かせようと押しとどめた。
「待って、おなかが空いているでしょう。まず何か口に入れておく方がいいわ。
顔を洗ったら朝食にしましょう」
食卓には、スライスしたライ麦のパンにサワークリームと輪切りにしたトマトを乗せたオープンサンドが用意されていた。
「飲み物は紅茶とコーヒーのどちらにします?紅茶はアッサムとダージリンがあるけど、どっちが好みかしら。
デザートは昨日作っておいたフルーツタルトがあるから、後で冷蔵庫から出してきますね」
久しぶりにヘルヴォル以外のリリィに料理を振る舞うことになった千香瑠は、いそいそとキッチンの方へ戻って行った。
用意された朝食を結梨がほぼ食べ終えた頃、藍に呼ばれたヘルヴォルの三人のリリィが部屋に入ってきた。
一見して明朗で快活な雰囲気をまとった少女が、最初に結梨に言葉をかけた。
「おはようございます、一柳結梨さん。
私はヘルヴォルのリーダーを務めている一年生の相澤一葉といいます。
こちらの二人は二年生の飯島恋花様と初鹿野瑶様です。
昨日は、私たちのガーデンに所属するマディックを助けていただき、本当に――」
「堅い、堅いよ一葉。もっとフレンドリーに話さないとダメだって」
「しかし、恋花様。初対面の他ガーデンのリリィに対して、あまり砕けた口調で話しかけるのは失礼ではないかと思いますが……」
「だからって、堅けりゃいいってもんじゃないよ。
まあ、あたしも今から少しばかり、この子に堅いことを言うつもりなんだけど」
「それはどういうことですか……?」
恋花は一葉の問いには直接答えずに、結梨の傍にいた千香瑠に声をかける。
「ごめん、ちょっといいかな。あたしからこの子に聞いておきたいことがある」
「恋花さん?」
恋花は結梨に視線を移し、改まった口調で話し始めた。
「あんたが私たちのガーデンのマディックを助けるために戦ってくれたことには、本当に感謝してる。
あそこの防衛線が突破されてたら、その後の抑え込みが相当面倒なことになっていたのは間違いない。
死傷者も段違いに増えていたはず。それについては、あんたがしたことは文句なしの人助けだった」
恋花はそこで一旦言葉を切って、どこか苦しそうな表情になった。
「でも、あんたはラージ級を倒すためにフェイズトランセンデンスを使って、その結果、意識を失うレベルにまで消耗してしまった。
勇敢ではあるけど、無謀とも言える。
戦闘不能になれば、一体のスモール級にすら殺されてしまう。
あんたはあそこで死んでいたかもしれないんだよ」
しかし、結梨は恋花の指摘に対して、きっぱりと反論した。
「無謀……じゃないよ。ラージ級をやっつければ、残りのミドル級とスモール級はマディックの人たちがやっつけてくれる。
だから私はラージ級だけを全力でやっつけて、マディックの部隊が無傷で残るようにしたの。
それに、ラージ級をやっつけた時に爆発しないように、急所だけを攻撃したの」
「……そう、そこまで考えての行動なら、あたしはこれ以上あんたのやり方に口は挟まない。
てっきり目の前の人間を全部助けるために一か八かで突っ込んだのかと思って、一言お説教してやろうと思ってたんだ。
そこの熱血バカに普段してるみたいに」
そう言って恋花は一葉の方を一瞥した。
「そう言われると面目ありませんが、やはりすべての人を救うのが私たちヘルヴォルの目指すべきところであり、理想だと思います。
青臭いと言われても、私は簡単にその考えを変えるつもりはありません」
頑として自分の主張を譲らない一葉に、恋花は肩をすくめて苦笑した。
「……と、こういう感じで、まだレギオンとしては一つにまとまり切っていないのがヘルヴォルの現状。
そもそもそんな選択をせざるを得ない状況を、うちの司令部が作ってるのが根本的な問題だと、私は思ってるけど」
冷静な口調で瑶は司令部の作戦指揮を批判したが、それについては他の四人も異論は無いようだった。
「まあ引っかかってたことも解決したし、後はあんたを安全にこのガーデンから出してあげることが、本日の私たちの最重要課題ってわけ。
それじゃ、準備にかかるとしますか」
「ちょっと待って。結梨さんに持って帰ってもらうお土産を用意するから、恋花さんたちは先にルートの確認をお願いします」
「お土産ですか……」
それまでの神妙なやり取りから一転して、急に緊張感の無い話を始める千香瑠。
そのギャップに一葉は困惑したが、千香瑠は気にせず自作のお菓子をあれこれと紙袋に詰め始めたのだった。
一方、百合ヶ丘のガーデンでは、朝から生徒会長の三人とロザリンデが理事長室で今後の対応を協議していた。
もちろん理事長代行の高松咬月も同席している。
先に単独で百合ヶ丘に帰還した史房が、現在までの状況を説明する。
「一晩経っても結梨さんは帰って来ませんでした。
昨日の状況から判断すると、帰還の途中でヒュージとの戦闘に巻き込まれた可能性が最も高いと思われます。
事実、理事長代行のもとに出撃の許可を求める連絡が結梨さんから入り、代行が許可を出しています。
想定される会敵地点は地下鉄六本木駅の周辺。結梨さんとの通信は現在も途絶したままです。
なお、政府発表の死傷者リストには結梨さんの名前――この場合は北河原ゆり名義ですが――はありませんでした。
以上のことから、結梨さんは何らかの理由で行動を制限され、通信端末も使用不能になっているものと考えられます」
「それって、つまり最悪の事態ということ?」
余裕の無い表情でロザリンデが史房の状況認識を確認する。
「確定したわけじゃないわ。最悪の事態を想定しておくべき、と言っているの。
通信端末の信号が途絶した座標は、ラージ級と現地の部隊が交戦した地点とほぼ一致している。
結梨さんがヒュージと戦闘し、その際の衝撃で端末が故障または破損したと考えれば、整合性が取れるわ」
「それなら、その場にいた部隊が何らかの形で、結梨さんの身柄を確保したとしか考えられない。
そして防衛軍にその事実を連絡せず、秘密裏に結梨さんを確保し続けている」
眞悠理があくまでも冷静に、自分の思うところを口にする。
「迂闊に防衛軍に結梨さんの情報が伝わるのも危険だけど、だからと言って行方不明のままでは……」
祀は眞悠理とは対照的に心配を隠せず、表情を曇らせている。
「六本木にいた部隊が所属するガーデンは?」
咬月の問いにロザリンデが答える。
「現場から最も近くにあるガーデンは、エレンスゲ女学園です。おそらくはエレンスゲの可能性が最も高いかと」
「……もしそうなら、結梨さんの身柄を返してもらえる可能性は、限りなくゼロに近いわね。
問い合わせたところで、まともな返答が返ってくるとも思えない。
エレンスゲに潜入して、強制的に結梨さんを奪還するしか選択肢は無いかもしれません」
史房は目に見えない何かを振り払うように、自らの意見を発言した。
親G.E.H.E.N.A.主義ガーデンに侵入し、場合によってはガーデン内での戦闘が発生する。
その方針を選ぶことが、どのような結果をもたらすか――出席者の全員が重苦しい空気に包まれた。
誰にその決断ができるというのか、誰にその責任が取れるというのか。
沈黙が永遠に続くかと思われたその時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「入りなさい」
理事長代行の高松咬月が、絞り出すような声で入室を促した。
静かに扉を開いて入ってきたのは、ロスヴァイセ主将の北河原伊紀だった。
ここまで走って来たのか、一目で分かるほど息が乱れている。
「どうしたの、伊紀。緊急に伝えないといけない事があるの?」
ロザリンデが尋ねると、伊紀は乱れた呼吸のまま、途切れがちに答えを口にした。
「はい、たった今、結梨さんが帰還しました。
特別寮のロスヴァイセ用ミーティングルームで待機しています」
その瞬間、理事長室で席についていた全員が同時に立ち上がった。
一同は走り出したい気持ちを押し殺して、一刻も早く結梨の姿を自分の目で確かめるべく、無言のまま足早に特別寮へと向かった。
数分後、特別寮のミーティングルーム前まで辿り着いた理事長代行とリリィたちは、半ば震える手でゆっくりと部屋の扉を開いた。
そこにはエレンスゲの白い制服に身を包んだ結梨が、行儀よくソファーに座っていた。
結梨は室内に入って来たロザリンデたちの姿を見ると、おもむろに席を立って深く一礼した。
「遅くなってごめんなさい。いま戻りました」
自らが下した決断と、自らが持つ幸運によって、一柳結梨は百合ヶ丘への帰還を果たした。
このエピソードは、あと1回続きます。
ここで終わると余りにも余韻が無いので、エピローグ的にその後の状況を描写します。
また、次々回の投稿からはラスバレの時系列としてストーリー展開する予定です。
追記
本文中で「親G.E.H.E.N.A.主義ガーデン」と表記すべきところを「反G.E.H.E.N.A.主義ガーデン」と表記していたため、当該の箇所を訂正しました。
ご連絡下さいました方、本当にありがとうございました。
追記2
誤字報告がありましたため、藍ちゃんの一人称を「私」から「らん」に訂正しました。
ご連絡下さいました方、本当にありがとうございました。
いろいろと間違いだらけで申し訳ありません……