また、江ノ島の地形などは、できるだけ現実のものに沿うように描写しています。
夜明けまであと一時間を切った頃、まだ夜の闇に包まれた相模湾の海上を、一隻の小型軍用ボートが速度を抑えて静かに航行していた。
空には月と星の光しか海上を照らす光源は無い。
以前なら、その月明かりと星明かりに照らされて、巨大な竜巻のようなヒュージネストが浮かび上がっていたはずだった。
しかし今その場所には、ただ遮るものの無い水平線が見えるばかりだ。
暗灰色に塗装されたボートの船上には、四つの人影が見えた。
ボートを操舵している一人を除いて、他の三人は海上に船影や人工の光源が見えないか、周囲を絶えず警戒している。
ボートは数十分前に由比ヶ浜の海岸を離れ、西へ向かって航行を続けていた。
やがて稲村ヶ崎の岬をボートが過ぎると、数キロメートル先の海上に江ノ島の島影が視界に入ってきた。
海面の波は比較的穏やかで、ボートの揺れは十分に会話ができる程度に収まっている。
船上の一人、石上碧乙は注意深く周囲に目を配りながら、操舵を担当しているロザリンデ・フリーデグンデ・フォン・オットーに話しかける。
「夜が明ける前に敵前上陸なんて、本来はロスヴァイセよりシグルドリーヴァの領分に属する作戦じゃないですか?
もっとも、今の江ノ島にG.E.H.E.N.A.の関係者が常駐してるとも思えませんけど」
後ろから碧乙に問いかけられたロザリンデは、視線を前方に向けたまま答える。
「今回の件については機密性が非常に高く、容易に情報開示対象者の範囲を広げられないと、史房さんからは言われているわ。もちろん結梨ちゃんのことも含めて。
この先、ガーデンと生徒会が情報開示の必要ありと判断すれば、その時はシグルドリーヴァと私たちが合同で作戦に参加することになるでしょう」
「じゃあ捺輝さんが私たちと一緒に行動することもありうるってわけですか?
あの人、優秀なんだけど、何か微妙にドジっ子属性あるんだよなあ……まあシグルドリーヴァの主将を務めてるくらいだから、実戦ではドジは踏まないんだろうけど」
同じ二年生の遠野捺輝について独りごちる碧乙の隣りで、一柳結梨は黙って由比ヶ浜ネストのあった方角を見ている。
今は海と空以外に何も存在しないその方向を、何も言わずに見つめている。
その様子を見た北河原伊紀が、結梨に声をかける。
「何か気になることがあるんですか?」
結梨は伊紀の方を振り向いて、遠くを見るような目で答えた。
「うん、どうしてヒュージはこの世界に生まれてきたのかな、って考えてた」
「それは難題ですね。人類だけがなぜ特異な進化をしたのか考えるのと同じくらい、答えの出しにくい疑問かもしれません」
「G.E.H.E.N.A.が最初のヒュージを作ったわけじゃないんだよね?」
「私の知る限りでは、ヒュージが約50年前に初めてその姿を確認された時点で、G.E.H.E.N.A.はまだ存在していませんでした。
少なくとも、最初に発見されたヒュージが人工的に作り出されたものであるという資料は存在しません。
だから、種としてのヒュージは自然の進化によって誕生したと考えていいと思います」
伊紀がそこまで話した時、碧乙が二人の会話に入ってきた。
「ヒュージを生物種と呼んでもいいかどうかは、少なからず問題があると思うけどね。
一般的には、既存の生物種が体細胞の変化によってヒュージ化すると考えられているわ。
そうした変化の原因としては、たとえば何らかのウィルスに感染して細胞が変異を起こしている可能性が挙げられる。
でも、現時点ではそんなウィルスは確認されていない。
それ以外の原因として考えられるのは、最有力候補としてはマギになるけど、マギとヒュージ化の因果関係は今のところ完全には証明されていない。
もちろん放射線のように、マギのエネルギーが生物の細胞を変異させている可能性は否定できない。
むしろその可能性が極めて高いと考えられているわ。
ただし、マギ自体が魔法エネルギーとしか表現できない未解明の部分がある以上、マギがヒュージ化の絶対的な原因だと断定するまではできないでしょうね」
「それに、もしマギが生物をヒュージ化させる原因になっているのなら、ある時点を境にしてマギが地球上に存在するようになったと考えられます。
あるいは地下資源のように、それまでは人の目に付かない場所に存在していたマギが、ある時点で地上に現れて生物の体に影響を及ぼすようになった。
おそらくはそのどちらかだと思われますが、これも決定的な証拠は存在しません」
「それなら、世界からマギが無くなれば、ヒュージもいなくなるの?」
「マギが生物をヒュージ化させる唯一の原因かどうかはともかく、マギが無ければヒュージは活動を続けることはできない。
だから自動的にいなくなると言ってもいいかもね。
ただし、同時にリリィもCHARMを使えないただの人に戻ってしまうけど」
「でも、マギは世界のどこにでもあるんだよね?」
「ええ、場所によってマギインテンシティの差はあっても、マギは空気と同じく世界中に遍在しています。
世界のどこにいてもマギの影響から逃れることはできません」
「そうなんだ。私はリリィじゃなくなっても構わないから、ヒュージがいなくなってほしいけど、マギを無くすことはできないんだね」
「残念ながら、現在の人類の技術では不可能だと思います。
地球上から空気や水を無くすことができないのと同じように」
伊紀の例えを聞いた結梨は、納得したように頷いて再び物思いにふけり始めた。
三人の議論が一段落ついたのを確認して、ロザリンデは結梨たちに、教師が生徒に向けるような口調で話しかける。
「なかなか興味深い内容の話をしているようね。
確かに、地球上のすべてのヒュージネストとアルトラ級を討滅すれば、それがヒュージとの戦いの実質的な終結を意味すると思っている人は多いでしょうね」
ロザリンデは操舵のために前を向いたまま、以下のように説明を続けた。
ラージ級以上のヒュージを絶滅させることができれば、ミドル級以下の個体は通常兵器で倒せるため、人類にとって決定的な脅威とはならない。
ただ、それはヒュージが通常の生物と同じく、生殖活動によって個体数を増やす生態であることが前提となる。
さきほど碧乙や伊紀が論じたように、マギの影響によって通常の生物がヒュージ化するのなら、理論上はアルトラ級やギガント級もそのように発生しうる可能性があると言える。
その場合はマギがある限り、文字通り人類はヒュージとの終わりなき戦いを強いられることになるだろう。
「自然災害や伝染病と同じように、ヒュージの脅威も完全に無くなる日は来ないと考えておく覚悟が必要かもしれないわね。
ヒュージがこの世界に現れる前だって、人間同士の戦争は常に起こっていたし、一時期は全面核戦争の危機さえ存在した。
今ヒュージがもたらしている人類絶滅の危機も、その原因が同じ人間の手によるものから異種生命体に取って代わっただけとも言えるわ」
「これまでのところ、その脅威の深刻さが少しばかり洒落にならないってのが、困ったものですけどね」
碧乙は冗談めかしながら苦笑して、右手に持ったアステリオンを握り直した。
「もうすぐ江ノ島の海岸に着きそうですね。上陸の準備を始めましょう」
伊紀の言葉に反応して結梨が前方を見ると、夜明け直前のわずかな薄明にうっすらと浮かび上がった島影が目の前に迫っていた。
G.E.H.E.N.A.の関係者が島にいる可能性を考慮して、ボートは白波を立てないように速度を落としつつ、慎重に南側の海岸に接近していく。
江ノ島の南側の海岸は、かつてヨットハーバーがあった東半分はコンクリートの護岸になっている。
一方、西半分の海岸は波に浸食された滑らかな岩場が広がっていて、その背後は切り立った断崖になっている。
万が一にも人目につかないように、ボートは西の入り組んだ海岸線の奥へ進んで行き、最も奥まった所に接岸した。
ボートが流されないようにロザリンデがロープを岩に結び付け、四人のリリィは江ノ島の海岸に上陸した。
「この崖を登るの?」
結梨は波が緩やかに打ち寄せる岩場から、鬱蒼と樹木が生い茂る断崖の上を見上げた。
高低差は二十メートルから三十メートルといったところか。
普通の人間であれば登攀はほとんど不可能な、ほぼ垂直に切り立った斜面だ。
「そうよ。この崖を越えて、なるべく歩きやすい所を選んで、以前に使われていた道路に出ましょう。私の後について来て」
アステリオンを手にしたロザリンデは何事も無いかのように簡単に跳び上がり、断崖の途中にあるわずかな凹凸を跳躍の足場にして、あっという間に崖の上に消えて行った。
ロザリンデに続いて結梨、伊紀、碧乙の順に、何度かのジャンプで軽々と断崖を登り終え、全員が崖上に出た。
結梨が後ろを振り返ると、茫漠と広がる太平洋の水平線から朝日が出ようとするところだった。
水平線の上にたなびく雲の下側が茜色に染まり、結梨たちの立っている場所も次第に明るさを増し始める。
その景色に見とれていた結梨の背中からロザリンデの声が聞こえた。
「太陽が完全に出たら、島内の探索を始めましょう。それまでは現在位置と地図情報の再確認をしておきます。
いま私たちのいる所から北側に100メートルほど進むと、かつて人が住んでいた当時の道路に出るわ。
道路の両側には住宅や店舗として使われていた建物があるけど、現在はすべて廃墟になっているはず。
G.E.H.E.N.A.がケイブ発生装置を設置するとすれば、倒壊の恐れがあるそれらの建物を避けて堅固な構造物を構築するか、もしくは地下ということも考えられるわ」
「森林の中に設備を作られていると、見つけるのは容易ではないですね」
碧乙が口にした仮定に対して、伊紀が薄明の空を見上げながら自分の意見を述べる。
「でも、設備構築のために周囲の木々を切り倒すと、上空から発見される可能性があるので、そのケースは考えにくいと思います。
出発前に目を通した航空写真でも、不自然に森林を切り開いたような場所は見当たりませんでした。
別の手段として、地下に隠して設置すれば発見される恐れはゼロに近くなります。
ですが、その場合は工事のために重機が必要になり、その搬入・搬出が人目につくリスクがあります」
「いずれにせよ、ケイブ発生装置およびそれを格納している構造物は、海上や上空から見えないような所に配置されていると考えるべきでしょうね」
四人の前にどこまでも広がっているかのような常緑樹の深い森林。
ロザリンデはその薄暗い奥の方を見据えた。
「ヒュージネストが無くなったとはいえ、島内にヒュージがいる可能性もある。
ここは見通しが利かなくて咄嗟の対応が難しい。
最短経路で道路跡まで出て、道沿いに何か手掛かりが無いか探してみましょう」
長期間に渡って人の手が入らなかった結果、原生林に近づいた状態の森林を抜けると、朽ち果てた住宅や商店が並ぶ細い道に出た。
かつては多くの観光客で賑わったであろう石畳の歩道は、今は大部分が植物に覆われて、遺跡のような状態を呈していた。
道の両側に立ち並ぶ木造の家々も、屋根は崩れ、柱は傾いて、倒壊寸前の廃屋としか形容できない有様だった。
それを見た碧乙が溜め息交じりにロザリンデに話しかける。
「やはり、いつ崩れるか分からないような建物の中に装置を設置するようなことはしてなさそうですね。
そうなると、これといって手掛かりになるものが見当たりませんが、どうしましょうか?」
「まず、この道に沿って一通り周辺の状況を確認しましょう。
地上から目視で分かる範囲を最初に潰していくしかないわね」
ロザリンデの判断に従って一行が道を進んで行くと、入り組んだ崖の近くを下る階段に出た。
海に向かって開けた地形になっているその場所には、両側の切り立った崖下の磯に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。
すると、海の方をしばらく黙って見ていた結梨が、何かに気づいたようにロザリンデに声をかけた。
「ロザリンデ、あそこの崖に穴が開いてる」
結梨が指さした方をロザリンデたちが見ると、海に面した断崖の途中に、高さ3メートルほどのアーチ状の空洞があった。
その周囲には、ほとんど崩れてはいるが、柱や床のような構造物が残骸のように残っている。
「伊紀、地図であそこに何があるか確認してくれる?」
「えっと……あれは昔、江ノ島岩屋と呼ばれていた観光用の洞窟みたいです。
かつては崖沿いに通路が設置されていたようですが、今は風化してほとんど使用不可能な状態になっていると思われます」
「もともと存在していたものなら、目に付いても誰も怪しむことはない……か」
「私たちのような者を除いて、ですか」
碧乙が興味津々で洞窟の入口を見ながらロザリンデに問いかけた。
「そういうこと。行ってみましょう」
四人のリリィは崖を登って来た時とは逆に、数十メートルの断崖を一気に飛び降りて海岸の岩場に降り立った。
彼女たちはそのまま跳躍を繰り返して、一分もかからずに洞窟の前のわずかなスペースに到達した。
幅2メートルほどの入口から中をのぞき込むと、光源は一切無く、内部は完全な暗闇に包まれている。
「最奥部の状況までは分かりませんが、ファンタズムで予知できる範囲では、この中に人やヒュージはいません。
何らかの警備システムが作動している様子もありません。
そもそも今は通電自体されていないようです」
碧乙が目を閉じて前方に意識を集中しながら、確信に満ちた口調で言葉を発した。
「それは重畳。このまま探索を続けましょう。
私が先頭で進むから、碧乙、結梨ちゃん、伊紀の順で後に続いて」
ロザリンデたちは各自ヘッドライトを装着し、漆黒の闇が支配する洞窟の中へ歩を進め始めた。