翌朝、ロスヴァイセの9人のリリィと結梨は日の出と同時に起床し、ごく簡単にレーションを口にした後、出撃の準備に取りかかった。
ロザリンデは昨晩、校医の中原・メアリィ・倫夜がG.E.H.E.N.A.の関係者であることを、結梨も含めた全員に説明した。
そして、彼女が今回のエリアディフェンス崩壊事変に何らかの形で関わっていることと、新宿都庁での『実験』の第一目的が一柳梨璃のラプラス覚醒であることを明らかにした。
ロザリンデの話を聞いた一同は、各自が程度の差こそあれ、動揺を隠せなかった。
無理も無い。東京における反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンの筆頭である御台場女学校に、G.E.H.E.N.A.の人間が紛れ込んでいたのだから。
ロザリンデの指示で室内をくまなく捜索した結果、燈の発言どおり、盗聴器や隠しカメラの類は一切発見されなかった。
倫夜がそこまでの小細工をしなかったのは、盗聴の証拠を握られるリスクを警戒してのことか、それとも盗聴という手段が彼女の流儀にそぐわなかったのだろうか。
いずれにせよ、本人に理由を聞いても、まともな答えが返ってくるとはロザリンデには思えなかった。
特務レギオンであるロスヴァイセのリリィたちは、当然のことながら諜報に関する教育や訓練も充分に受けている。
それは彼女たちが諜報活動を行うためというよりも、対G.E.H.E.N.A.関連の特殊任務を遂行するに当たって、自分たちの身を守ることや、機密情報を漏洩しないことなどを主な目的とするものだった。
それゆえ、彼女たちは通常のレギオンに所属するリリィとは大きく異なり、スパイ・謀略・暗殺などの事柄には強い耐性があるはずだった。
その彼女たちでさえ、反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンの正規職員、それも校医という重要ポストにG.E.H.E.N.A.の人間が就いているという事実は衝撃的だった。
G.E.H.E.N.A.の手は既に自分たちの想像を超えた深い所にまで及んでいる。
もはや反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンの中ですら安全とは言えなくなっているのだ。
その事実を百合ヶ丘に戻って報告し、ガーデン全体として今後の対応を協議しなくてはならない。
しかし、その前にすべきことがある。
都庁で発生したエリアディフェンス設備の爆発現場を訪れ、それが事件か事故かの確認を、この目で行わなければならない。
倫夜の発言からも、都庁舎で発生した爆発がG.E.H.E.N.A.の手による爆破テロであることは明らかだったが、そうであっても実際に現場を自分の目で確かめることは不可欠だった。
敵対勢力である者の言うことを、何らの事実の裏付け無く信じるなどありえないのだから。
そのためには一刻も早く御台場から新宿へと向かう必要があったが、一夜明けた現在も、都庁にはエヴォルヴと命名された特型ヒュージが居座っている。
現地で戦闘を続けている一柳隊を始めとする3レギオンがエヴォルヴを排除するまで、都庁に近づくことは命令で禁止されている。
昨夜の時点では、市ヶ谷の防衛省に設置された臨時統合司令部からの命令は、「LGロスヴァイセは新たな指示があるまで御台場女学校にて待機を継続」だった。
それは司令部の裏で作戦行動に干渉するG.E.H.E.N.A.の妨害工作であろうと、ロザリンデたちは判断した。
夜が明けて、出撃の準備は既に整っている。
しかし、いまだ司令部からの連絡は無く、十人のリリィは室内に留まり続けていた。
あらためて司令部に確認を取るために、主将の伊紀が制服のポケットから通信端末を取り出そうとした時、部屋に備え付けの電話がコール音を鳴らし始めた。
伊紀は端末を一旦ポケットに戻し、電話の受話器に手を伸ばした。
「はい、LGロスヴァイセ主将の北河原伊紀です」
「おはようございます、校医の中原です。ゆうべはよく眠れたかしら?」
「――っ!」
電話口の向こうにいる相手の名を認識した瞬間、伊紀の全身は金縛りに遭ったかのように硬直し、受話器を持つ手が小刻みに震えだした。
電話とはいえ、G.E.H.E.N.A.の人間が自分と一対一で相対している。
G.E.H.E.N.A.の人間と一対一で会話することなど、特務レギオンのリリィであっても、そんな機会は滅多にあるものではない。
反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンに潜り込んだG.E.H.E.N.A.の人間が、ぬけぬけと別の反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンのリリィに連絡を取ってくる。
その大胆不敵さに閉口しながらも、伊紀の身体は蛇に睨まれた蛙の如く固まっていた。
過去の強化実験によって肉体と精神に刻み込まれた苦痛と恐怖の記憶が、呪いのように伊紀の身体を縛り上げ、一片の言葉を発することさえできない。
伊紀の沈黙の意味を悟ったのか、倫夜はあくまでも冷静かつ優しげな口調で伊紀に話しかける。
「……その様子だと、私のことはロザリンデさんから聞いているようね。
そんなに怖がらなくても大丈夫よ。私は見境無しに強化実験でリリィを使い潰すような真似はしないわ」
しかし、それは裏を返せば強化実験そのものは否定しておらず、実験対象を厳選して確実に成果を出そうとするタイプだと言えるではないかと、唇を動かせない伊紀は心の中で反論した。
「……何の……ご用ですか……」
伊紀は、かろうじてそれだけの言葉を喘ぐように発するのが精一杯だった。
ただならぬ伊紀の様子の変化にロスヴァイセのリリィたちが気づき、緊張した面持ちで伊紀を見つめている。
「現在、再出撃した一柳隊とヘルヴォル、グラン・エプレの3レギオンが都庁でエヴォルヴと交戦しているわ。
戦闘が終結するまで、もう少し時間がかかりそうだから、それまでは我慢してそこで大人しく待っていて。
戦闘が終わって『実験』の結果が判明したら、その時点であなたたちは自由に動けるようにしてあげるから」
「……私たちは都庁以外の戦場にも支援に行けないのですか?」
倫夜の現実的な内容の説明を耳にして、ようやく伊紀は理性的に言葉を発することができるようになった。
「今回の事変は新宿の都庁での『実験』が中核になっているわ。
一柳梨璃さんがラプラスに覚醒し、都庁に陣取っている特型ヒュージのエヴォルヴを倒せば、その時点で『実験』は無事終了。
都内各所に残存しているヒュージは統率を失い、ケイブへ撤退を始めるでしょう。
これまでのところギガント級は出現していないはずだから、外征レギオンクラスのリリィでなくとも戦力的にはそれなりに対抗できる。
だから、都庁以外の場所であっても、あなたたちが出撃する必要は無いわ。
『実験』が終わるまで御台場のガーデンからは出さない」
「私たちが隙をついて都庁に向かうことを防ぐために、念には念を入れておく、ですか。
でも、なぜあなたが司令部からの連絡に先んじて、今後予定されている命令の情報を得ているんですか。
この御台場と同じように、司令部にもG.E.H.E.N.A.の人間が入り込んでいるんですか」
「さあ、それはどうでしょうね。
私の言うことが信じられないなら、直接あなたから司令部に命令内容の確認をすればいいわ。
もっとも、単なる二度手間になるだけでしょうけど」
「G.E.H.E.N.A.関係者の発言を裏付け無く信用することはできません。
お言葉どおり、私自身の目と耳で確認させていただきます」
伊紀は半ば言い捨てるように電話を切り、呪縛から解放されたかのごとく、大きく肩で息をついた。
「伊紀、顔が真っ青だよ。大丈夫?」
結梨が心配そうに伊紀の顔をのぞき込むと、伊紀は無理に作り笑いをして、
「ごめんなさい、気を遣わせてしまって。ちょっとびっくりしただけだから、平気ですよ」
と、電話から離れて歩き出そうとした。
が、思わず足元がふらついて倒れそうになるところを結梨に支えられてしまう。
「伊紀、無理しない方がいいわ。ベッドで少し横になっていなさい」
「……不甲斐無いシルトで申し訳ありません、お姉様」
伊紀は碧乙に謝ると、ルームメイトの小野木瑳都と結梨の二人に支えられ、近くのベッドに腰を下ろした。
「さっきの電話は不意打ちだったから不可抗力よ。
それにしても、あの中原っていう校医も随分いい性格してるわよね。
自分の正体がバレた後で、わざわざ自分から連絡を入れてくるなんて、こっちを舐めているにも程があるわ」
「この御台場女学校で、彼女がG.E.H.E.N.A.の諜報員や工作員としての役割を果たしている以上、ガーデンの中で目立った動きはできないはず。
威嚇であっても物理的な攻撃は仕掛けられないでしょう。
だとすると、さっきのように言葉による揺さぶりをかけてくる。
それに対して私たちがどう反応するのか、その結果を観察したいのかもしれないわね」
ロザリンデは昨夜の対面で、倫夜がG.E.H.E.N.A.の研究者たるにふさわしい科学的精神の持ち主であることを理解していた――それは決して褒め言葉ではなかったが。
「それも彼女のささやかな『実験』みたいなものですか。
またしても私たちリリィは『実験』のモルモット扱いされるというわけですね」
昨夜、ロザリンデたちができる範囲で調べた限りでは、中原・メアリィ・倫夜は、傑出した多彩な才能を持つ天才と表現しても差し支えない人物だった。
真島百由やミリアム・ヒルデガルド・v・グロピウスと同じ「戦うアーセナル」出身にして、ヴァルキュリアスカート・マギ・リンカーネーションシステムを始めとする多くの開発プロジェクトに参画。
その実績として、既に彼女の手によって実現された幾つもの革新的システムが、御台場女学校にて導入済み。
同時に医師の資格を持ち、鷹の目S級のレアスキル保持者。
「よくもこれだけ目が眩みそうなキンキラキンの才能を取り揃えたものですね。
なんでこんな優秀な人が、G.E.H.E.N.A.のような下世話な組織に仲間入りしてしまったんでしょうか」
「天才的な科学者であっても、人命を軽視した危険な思想に傾倒することは、歴史上幾つもの実例があるわ。
倫理の枷を外すことができれば、人間を実験材料にして使い捨てても罪に問われず、多くの成果を手にすることができる。
それは悪魔と契約して、あらゆる望みを叶えることと同じことかもしれない。
でも、その代償を支払う時は必ず訪れる。
それが契約者自身の命なのか、他の何かなのかは分からないけれど」
「因果な連中ですね、G.E.H.E.N.A.の科学者という人間は」
その時は碧乙の苦笑めいた言葉で倫夜についての会話は終わったが、敵に回せば底の知れない能力の持ち主であることは重々承知しておく必要があった。
ようやくベッドから立ち上がった伊紀から電話での会話内容を聞き取ると、碧乙は胸ポケットから通信端末を取り出し、ロザリンデの方を見る。
「あの校医の言ったとおり、本当に命令に変更が無いのか、私が伊紀に代わって司令部に連絡を取ってみます」
碧乙が自分の通信端末で司令部に回線をつなごうとした時、再び部屋の電話が鳴り始めた。
「私が出るわ。碧乙はそのまま司令部に確認を――はい、LGロスヴァイセ、ロザリンデ・フリーデグンデ・フォン・オットーです」
ロザリンデが受話器を上げて電話に出ると、忘れようも無い声が耳に伝わってきた。
「昨夜は有意義な話し合いをありがとう、ロザリンデさん。北河原さんはどうしたのかしら?」
倫夜の声を聴くなり、ロザリンデは通話をスピーカーホンに切り替え、全員に倫夜の言葉が聞こえるようにした。
「ご心配なく。少し席を外しているだけです。それよりも、あなたがまた電話をかけてきたということは――」
「そう、たった今、LGロスヴァイセに対する待機命令は解除されたわ。
おめでとう。一柳梨璃さんはラプラスのレアスキルに覚醒し、一柳隊、ヘルヴォル、グラン・エプレは特型ヒュージ・エヴォルヴの排除に成功したそうよ」
「今回の事変は全てあなた方の掌の上だったわけですね。さぞかし気分のいいことでしょう」
ロザリンデの苦々しげな嫌味に、倫夜は正面から答えずに話を続ける。
「もうすぐ各地に外征していた主要ガーデンの旗艦レギオンが都内に戻ってくるでしょう。
あなたたちも新宿でも何処でも好きな所に行って、残ったヒュージと幾らでも戦ってくるといいわ」
「今回の実験は無事、成功裏に終了。後は野となれ山となれ、ということですか」
「解釈はお好きなように。あなたたちにも何かしら特別な任務があるのでしょう? 早くしないと機を逸してしまうわよ」
挑発の色をにじませた口調で、倫夜はロザリンデに畳みかけるように言葉を重ねる。
「――そう、言い忘れていたことが一つあったわ。
エヴォルヴを排除したといっても、一柳隊に死傷者が出ているかどうかは未確認。
心配なら一刻も早く現地に駆けつけて、自分の目で確かめることね」
倫夜はそう言い残して電話を切った。
自分たちの行動を誘導しようとしているのか、とロザリンデは勘ぐったが、都庁に行かないという選択肢は存在しない。
しかし、おそらく移動手段は相当に限られている。
ロザリンデは燈に連絡を取って、御台場女学校のガンシップが使用可能か問い合わせたが、外征レギオンを引き戻すために全機出払っているとの回答だった。
車両であれば使えるものが何台かあると言われたが、高速道路は崩落している箇所が確実にあるだろう。
一般道を車で移動するよりは、自分の足で建物の屋上を跳び移る方が速いか。
ロザリンデが逡巡していると、後ろから不意にロザリンデの手を結梨が握った。
ロザリンデが振り返ると、結梨のもう一方の手は伊紀が握っていた。
「私がロザリンデと伊紀と一緒に行く。ロザリンデ、アステリオンを持って私の手を離さないで」
既に結梨はエインヘリャルと素顔を隠すためのゴーグルを装備し終えている。
「結梨ちゃん、何をするつもり?」
「新宿の都庁まで行くの。私なら、みんなより速く移動できる」
「縮地で移動するつもり? そんな長距離を縮地で移動できるの? 身体への負担は大丈夫なの? それに、まず建物の外に出ないと――」
その時、突然ロザリンデの視界が砂嵐のように乱れ、何も視認できなくなった。
同時に、身体には重力が消失したかのような感覚が発生した。
ごく一瞬の後に、ロザリンデの視界は強い光にさらされ、そのまぶしさにロザリンデは思わず目を細めた。
明るさに目が慣れてくると、周囲の光景は一変していた。
それまでいた室内とは異なり、明らかに屋外だと分かる路上に三人は立っていた。
まぶしさの原因は直射日光がまともに目に入ったことだった。
(建物の外に、いえ、ガーデンの敷地外に出た? 縮地を使って?
でも縮地はあくまでも物理的な高速移動で、壁をすり抜けたりは――)
ゴーグルに隠された結梨の顔をロザリンデは思わず見つめてしまう。
「結梨ちゃん、あなた今、何を――」
結梨はロザリンデの手を固く握ったまま離さない。
「もう一回跳ぶよ。絶対に手を離さないで」
結梨が言い終わるや否や、再びロザリンデの視界は乱れ、また別の光景が目の前に出現する。
今度は高層ビルの屋上に三人の身体は移動していた。
周囲のビル群の形から、ロザリンデは自分たちが品川駅の近くにいることを理解した。
(御台場から品川まで一瞬で移動した。だとすると、移動距離は少なくとも2000メートル以上)
この移動自体は、縮地のレアスキルによるものには違いない。
それ以外には考えられない。
しかし、建物の壁を通り抜けたり、これほどの長距離を一度に移動することは明らかに尋常ではない。
新宿御苑での手合わせの際、琴陽は結梨の縮地がS級の一歩手前だと言っていた。
それならば、今まさに結梨がやってみせた瞬間移動が、ワームホールを利用したS級の縮地「異界の門」だというのか。
梨璃たちの身を案じる結梨の心が、縮地のレベルをS級にまで引き上げたのか。
一柳梨璃が仲間の命を守るためにラプラスに覚醒したのと同じように。
間を置かず、結梨は三度目の縮地を発動した。
またしても、何処かのビルの屋上に三人の姿が出現した。
ロザリンデの眼下には見覚えのある広いスクランブル交差点があった。
今は避難する人も既にいなくなった渋谷駅の近くに移動したのだ。
「結梨ちゃん、身体に異常はありませんか? 気分が悪くなったり、頭痛や吐き気がしていませんか?」
「大丈夫だよ、伊紀。何ともないから。もう少しで新宿に着けるね」
結梨を気遣う伊紀の問いかけに、結梨は何事も無いかのように答えた。
そしてロザリンデと伊紀の手をきつく握り直して、都庁のある北の方角を一心に見つめていた。
やはり予定より分量が多くなり、結梨ちゃんの出番までしか進めませんでした。
縮地S級の描写については、公式設定を踏まえたつもりですが、あくまでも想像で書いていることをご了承ください。
縮地に限らず、結梨ちゃんのレアスキルやエインヘリャルの能力は、今後段階的に拡大・向上していく予定です。