待合室での会話から数日が経った頃、日没前の放課後の廊下で、伊紀は前から歩いてくる亜羅椰に声をかけられた。
「ごきげんよう、伊紀さん」
「ごきげんよう、亜羅椰さん」
「伊紀さん、ちょっといいかしら。
あなたのシュッツエンゲルのことでお話ししたいことがあるの。
ここでは何だから、図書室まで御一緒願えるかしら?」
伊紀は亜羅椰の申し出を受け入れ、二つの人影が夕陽の差しこむ長い廊下を奥へと進んでいった。
亜羅椰は伊紀と一緒に校舎の端にある図書室に入ると、伊紀に気づかれないように後ろ手で静かにドアの鍵をかけた。
その時、わずかに亜羅椰の口元が緩み、妖しい微笑がその顔に浮かんだ。
「あの、碧乙様のことでお話って何でしょうか?」
「伊紀さん、ご存じ?
学校の図書室って、あなたが知っている以上にいろいろなことに使えるのよ。
たとえば、こんなふうに……」
亜羅椰は実に自然な動きで、伊紀の身体を音も立てず壁に押しつけた。
あまりの自然さに伊紀は何の抵抗もできないまま、自分のすぐ目前に迫った亜羅椰の顔を見つめた。
「あの、亜羅椰さん?何を……」
(これって、以前に碧乙様から気をつけるように言われた「絶対に亜羅椰さんと密室で二人きりにならないように」のシチュエーション?
確かに今はこの場に私と亜羅椰さんしかいないけど……)
「伊紀さん、あなたは本当に綺麗よ、上品で美しい。その心も身体も」
亜羅椰の目は伊紀をまっすぐに見つめて離さない。
「……亜羅椰さんは、どうしてこんなことをするんですか?」
伊紀もまた、亜羅椰の目を正面から見つめながら問いかけた。
「自分が好きなものは自分の手で抱きしめたい、それは自然なことだと思わない?
野に咲く可憐な花を手折って、自分のものにしてしまうことは誰にでもあるでしょう?
それと同じこと」
「いけないことをしているとは思わないんですか?」
「自分では、相手を傷つけるようなことはしていないつもりだけど。
もちろん、あなたのことも傷つけたりはしない」
亜羅椰に悪意や含む所が無いことは分かっている。
彼女は単純に自分の興味や欲望に忠実な行動をとっているだけなのだ。
そして彼女の場合、それが同性に対するものであるということ、ただそれだけのことだ。
「傷つけなければ、自分の好きなようにしてもいいと、そう言うんですか?」
緊張で全身をこわばらせながら、伊紀は亜羅椰になお問いかけを続ける。
「いいえ、そうではなく、お互いに楽しみましょう、ということよ」
伊紀の耳元でそう囁いて、亜羅椰は右手の指をゆっくりと伊紀の左手の指に絡めながら、みずからの左手で伊紀の顔を軽く上向かせた。
「大丈夫、優しくしてあげるから。
怖がらずに力を抜いて、目を閉じて」
伊紀は自分の身体に柔らかく触れてくる亜羅椰の細い指を、なぜか振り払えなかった。
心臓の鼓動だけが、頭の中で早鐘のように激しく響いている。
自分は今きっと間抜けな表情をしているに違いない、と伊紀は思った。
目の前の亜羅椰を拒もうと思えば拒めるはずだ。
そのはずなのに、それができない。
この雰囲気に流されてしまうことに逆らえなくさせる何かが、亜羅椰にはある。
この雰囲気をどこか心地良いと感じてしまう、もう一人の自分が心の中にいるのだ。
魅入られる、という言葉の本当の意味を、今はじめて伊紀は理解できた気がした。
(お姉様が言われていたのはこのことだったのかな……でも、頭もぼんやりして身体もうまく動かないし、どうすることもできなさそう。
もう……いいか)
すでに伊紀は半ば以上理性的に考えることができなくなり、自分の意思を投げ出して亜羅椰に委ねてしまおうとしていた。
が、互いの唇が触れ合う寸前で、亜羅椰は自身の動きを止めた。
「……なんてね。同じ一年生とはいえ、さすがに特務のリリィにちょっかいを出すほど私も命知らずじゃないわ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、亜羅椰は伊紀から顔をそっと離した。
「それは、どういう……」
急に現実に引き戻され、伊紀は茫然とした顔で亜羅椰の言葉を聞いていた。
問い返せたこと自体、別の自分が機械的に話しているように感じられた。
「言葉通りの意味よ。
昨日あなたのシュッツエンゲルから直々に警告も受けているし。
つまみ食いの代償に、食事や飲み物に一服盛られたりしては、たまったものではないわ。
あなたも、虫も殺さぬ可愛らしい顔をして、意外と冷酷非情な人なのかしら。
それはそれで、また違った魅力だけれど」
「そんなこと……」
どうも亜羅椰は特務レギオンの活動内容を、要人の暗殺か何かだと誤解しているようだった。
しかし伊紀が亜羅椰の発言を訂正する前に、亜羅椰はドアを開けて立ち去って行ってしまった。
去り際に亜羅椰はまだ茫然としている伊紀に向かって、
「あなたが特務のリリィでなければ、この世の天国を見せてあげられたのに、本当に残念だわ。
それは半分冗談としても、リリィである限り、お互い一年後は、いえ一ヶ月後だって生きているかどうかの保証なんて無いのだから、あなたも生きているうちに、したい事はしておくほうがいいわよ。
余計なお世話かもしれないけど」
と言い残したが、それが伊紀の耳に届いていたかどうかは誰にも分からない。
亜羅椰の勘違いに救われた伊紀は、自分の迂闊さと気恥ずかしさに耐えられなくなりそうな気持ちを必死に抑えて、足早に特別寮の自室へと戻って行きつつあった。
特別寮の出入口を通り過ぎ、うつむきながら慌ただしく廊下を進んでいると、十歩ほど先によく見慣れたシルエットが伊紀の視界に入った。
伊紀はその姿を見るなり、もう何も考えられなくなって反射的に走り寄り、そのまま強く抱きついた。
いきなり伊紀に抱きつかれたその人物、つまり碧乙は、伊紀の突然の行動に面食らって何もできずにいる。
「ごめんなさい、お姉様……私は……」
伊紀は消え入りそうな声で、かろうじてそれだけしか言葉にできず、乱れた息で身体を震わせて碧乙を抱きしめ続けている。
碧乙は伊紀のその様子から、おおよその事情を察したようだった。
「怖い思いをしたのね?言わんこっちゃない。
まったく、クギを刺した昨日の今日であのネコ耳ピンクは……油断も隙もありゃしない。
いや、あの子のことだから、わざとやったのかも。
しょうがない子ね。後でとっちめてやる」
やれやれという感じで碧乙は溜め息をついた。
そして、それから一呼吸置いて、碧乙は伊紀の背中を撫でながら、優しく諭すように話しかけた。
「だからシュッツエンゲルの言うことはよく聞いておかないとだめよ。
分かった?お人好しのシルトさん」
伊紀は碧乙の胸に顔をうずめて肩を震わせながら、無言のまま何度もうなずいた。
「さあ、もう部屋に入りましょう。
熱い紅茶を淹れるから、それを飲みながらゆっくり落ち着くといいわ」
碧乙はそう言うと、涙ぐむ伊紀の手をとり、部屋のドアへ向けておもむろに歩き始めた。
「……というわけで、あなたをとっちめに来てやったわ。未成年者強制わいせつ未遂の容疑で」
伊紀を慰めた後で特別寮を出て、カフェテリアの前で亜羅椰を見つけた碧乙は、すかさず彼女の前に回り込み、腕組みをして正面に立ちはだかった。
「心外ですわ、これじゃまるで私が悪者みたい」
そう言いつつも、亜羅椰の態度は碧乙の出現を予想していたかのように落ち着き払っている。
「問答無用で悪者に決まってるでしょ、この節操なしのネコ耳ピンク。
あなたの出来心で私の可愛いシルトがカリスマ持ちならぬトラウマ持ちになってしまったら、どうしてくれるのよ。
まあ、その節操なさのおかげで私の株が爆上げしたから、今日のところは見逃してあげてもいいわ。ありがたく感謝なさい」
「それはどうも恐縮いたしますわ。
そんなに怖がらせてしまったのなら、あの時やっぱり寸止めせずに最後まで続けて、天国を見せてあげたほうが良かったかしら」
「良くない!
もう今後あなたが伊紀の半径5メートル以内に近づくことを禁じるわ。
それ以上近づこうとしたらどうなるか、その体に嫌というほど思い知らせてやるからね」
この場にCHARMを持ってきておけば良かったと、碧乙は半分本気で考えた。
「望むところですわ。やれるものなら力づくで阻止していただいて一向に構いませんことよ、うふふ」
「ダメだこのネコ耳、全然反省してない……」
「……と言いたいところですが、伊紀さんについては手出しを控えさせていただきますので、以後のご心配は無用ですわ。
では、失礼いたします。ごきげんよう、碧乙様」
そう言うと、亜羅椰は碧乙の横を通り過ぎ、そのまま廊下の角を曲がって歩き去ってしまった。
「え、ああ……ごきげんよう、亜羅椰さん。
妙にあっさり引き下がったわね。何か怪しいけど、まあいいか。
早く伊紀のところへ戻って一緒にいてあげないと。
何か甘いものでも食べさせてあげたほうがいいのかな……」
誰に言うでもない独り言を切り上げ、碧乙は伊紀の待つ特別寮の部屋へと戻っていった。
後日譚として亜羅椰さん回を書いてみました。
一応R-15とガールズラブのタグを追加しました。
鬱展開にしたつもりはないのですが、もし不快に感じられたらすみません。